港も見える丘から

人生のゴールデンエイジにふと感じることを綴っていきます

NO2. 桜の樹の下には

f:id:tw101:20160403143439j:plain冷たい雨降りの日曜日、コタツの中で本を読んでます。

この時期になるとどうしても読みたくなる《桜の樹の下には》(梶井基次郎著)。
高校2年生の現国で大好きだった先生の授業で取り上げられて以来、私は桜を見るたびに、冒頭の言葉が浮かぶようなっていました。


桜の樹の下には屍体が埋まっている!
 これは信じていいことなんだよ。何故なぜって、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。”

完璧な美しさへ不安は当時の私の感性にぴったり相まり、すっかり梶井基次郎ファンなってしまいました。
檸檬を持って有隣堂に行ったこともありましたが、おいてくる勇気はありませんでした(^_^;)

台所から見える景色の中がピンクに染まるのではないかと思うくらい、桜ばかりが目立ち始めると、私の心は不安になりました。
見事な桜の花と蛆虫のわく屍体、この取り合わせで、完全なものに対する緊張感を押しとどめる。という手法を学びました。

満開迎えたあとの散りゆく桜も苦手でした。半年前に母を亡くしたいじけた16歳の少女に、桜はあまりに美しく、儚く思えたのでしょう。
以来、私は桜を無視していました。
みんなが桜が綺麗ね〜と言うと、私は満開の桜は好きじゃないって言って、白けさせてしまったこともありました。

でも、いつ頃からでしょうか、多分、50才を過ぎた頃からでしょうか、満開の桜も散りゆく花びらも好きになってきました。

実家の庭に桜の樹があります。祖父が植えた木です。

先日、大木になっていた裏の木を数本伐採しましたが、桜の樹は残しました。

10代の頃、私に屍体を連想させていた桜の樹です。
今年もライトアップした桜を2才の孫と一緒に眺めます。

完全な美しさも怖くなくなりました。
きれいね〜と素直に言えるようになれました。

2011年1月23日に亡くなった継母は前の年、桜を見て「来年の桜を見れるかしら」とポツリと言いました。
父と亡き母と継母の関係を考えると、私は彼女どうしても赦せなかったのに、この言葉を聞いたとき、悲しみ優しさがこみ上げてきて、
私はもうとっくに彼女を赦していたのだとはっと気づきました。
奔放に生きた父も昨年亡くなりました。

今年の桜は昨年よずっと明るいピンク色に見えます。
そして、今年は近くの公園にお花見に出かけてみようと思います。
きれいね〜と目を細めて桜を見に…