港も見える丘から

人生のゴールデンエイジにふと感じることを綴っていきます

NO.22 英文法と聖書(2) マルタのはなし

マルタとマリアのおはなしです。以下前日の続きです。

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フィレンツェ生まれの画家アレッサンドロ・アッローリ ( Alessandro Allori ) が描く「マルタとマリアの家のイエス」。

 マルタとマリアは、キリストの熱心な帰依者であった。ある日、キリストがこの二人の姉妹の家を訪れた。
妹のマリアはすぐにキリストのもとにゆき、彼の教を熱心に聞いた。
彼の教えることは、ときにはあまりに深すぎてつかめない場合がある。
きょうはいい折だ。思いっきり先生のお教えをうかがおう。
 こう考えて、一心に聞き、かつ問うていた。
姉のマルタはキリストを迎えるや否や、台所へかけこんだ。あれも差上げよう、これもつくりたい。
ああ、あれが足りない、取ってこなければと、もてなしのことに心を使って、くたくたに疲れてしまった。
 夕方が近づく。ゆうげの支度はまだ出来上がらない。ああ、忙しい、忙しい、忙しい。
マリアは何をしているのかと、向こうを見ると、あの魅せられたる魂は、ただひたすらに師の話に聞き入っている。
マルタはかっとなった。こんなに忙しって目を廻さんばかりにしている姉をよそに、あの涼しい顔は何ごとだろう?
 腹の立った勢いで、ツカツカと二人のところへ進みいった。
「先生、妹にいいつけて、私を手伝わせてください。私は忙しくて忙しくて、困り切っています」こう叫んだ。
キリストは、マルタを見て静かにおっしゃられた。
「マルタよ、マルタよ、あなたはあまりに多くのことに心を使いすぎる。
無くてはならないものは唯一で、それをマリアは選んだのである。
これを彼女から取るわけにはいかない」(ルカ福音書10・38-42)

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さて、このあとがどのようになったか、聖書は語っていないので、私たちには知るすべはないが、この挿話はそのとき以来、
いつの日までも語り伝えられ、読みつがれていくことであろう。
私はこの物語を女子大卒業生に語った。
それとオルコットの英文法と、何のかかわりがあるのかしら、
というような顔をして聞き入っている彼女に向って言葉を続けた。
「ねえ、この物語から起こった言葉なのよ。あの人はマルタ型だとか、マリア型だとかいうのはね。
日本語に訳せば、マルタ型でしょうが、英語だと、彼女はマルタの一人--- 一人のマルタ---となるのはね、
いいかえれば、マルタ族の一人、ということになるでしょうかね?
マルタという固有名詞を、普通名詞に使ったわけよ。
だから、ブレンディ大伯母さんも、マルタ型の一人だったということなのよ。
 まあ、聖書という本は、こんなふうに、ごく常識な言い方を理解するためにも、一応読んでおく必要があるのですね。
殊に英文学の研究には必要でしょうよ。
こんなことはまだまだ序の口で、これは英会話のひとふしとでもいっていいのでしょう。
もっと深いものに、どうしても聖書の知識がなければ理解できないところが、たくさんありますよ。
東洋の芸術を理解するのに、仏教が必要なようにね。
なんだかお説教みたいな話になりましたが、私の気持ちはお説教ではなく、常識の話ですわ」

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村岡花子先生ならではのお話しだと思いました。
たしかに聖書とマザー・グースはある程度読んでおいたほうが、
アガサ・クリスティの小説もずっと楽しくなること請け合いです。

”マルタとマリア”の「マリア」は 「ベタニアのマリア」と呼ばれ、イエスに甦らされたラザロの妹です。
このたとえ話を聴くたびに私は全く違う解釈を思うのですが、それはまた別の機会に....