港も見える丘から

人生のゴールデンエイジにふと感じることを綴っていきます

NO45 中将姫物語 バスクリンの姫はこの方でした



青丹よし奈良の都”に行くのなら、絶対に行きたいと思っていた場所が二上山
何度読んでも難解だった折口信夫死者の書」の世界を少しでも感じることができれば願っていました。
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念願かなってその二上山に行く機会があり、いろいろ調べていると、
當麻寺にいきあたりました。


二上山のふもと、葛城市當麻にある 當麻寺(たいまでら)本堂には當麻曼荼羅が奉安されています。
この曼荼羅は縦・横それぞれ一丈五尺(約4.5メートル)の大きさがあります。
仏を深く信仰した中将姫がその感得によって蓮の糸で織りあげたという尊い物語を伝えています。

この姫こそツムラ バスクリンで有名な
中将湯の姫、その人だということもわかり、驚きました。

中将法如の浄土往生の様子は現在も、毎年5月14日に錬供養として行われています。
この法要は二十五菩薩錬供養とも聖衆来迎供養式とも呼ばれ、
夕陽が二上山の中空に傾きかける午後4時に始まる荘厳な法要です。


中将姫物語(編集発行者 川中光教)を元にして
物語を紡いでいきたいと思います。



《中将姫物語》
都が平城京にあったころのお話しでございます。
平城京は平和な美しい都で「花さき匂ふ、奈良の都」と讃美され、
時の帝は仏の教を信仰された聖武天皇、皇后も多くの人々を救われる社会事業に尽くされた光明皇后でした。

さて、そのころ、藤原鎌足卿のひ孫にあたる豊成卿と紫の前という家柄もよく、
すべてに秀でた夫婦がおりました。
不自由ない生活ではありましたが、久しく子宝に恵まれず、
観音菩薩に熱心に祈願したところ、夢の中に観音菩薩が現われて
「おまえたち夫婦の殊勝な願望を黙ってみすごすことができず、
天眼を持って探したが、おまえたちの子どもになるものは一人もいない。
もし今一子を与えようとするなら、おまえたち夫婦のうちいずれかの寿命がなくなるが、どうであろう」
と告げられました。

夫婦はたとえ二人のうちのどちらかの命を縮めても悔やみませんので
どうかお与えくださいと謹んで答えました。
二人の願いはかなえられ、天平19年8月18日に姫が生まれたのでございます。
夢に現れたお告げにより天皇はこの姫に「中将内侍」という官命を勅許され、
人々は中将姫とお呼びすることになりました。
幼いころより身辺には吉兆が起こり、5歳の誕生日を迎える日に大きなお祝いの祝宴が開かれました。
喜びに満たされ、心がゆるんでしまったのでございましょうか、
母君は口にしてはいけない観音菩薩のお告げを話しておしまいになりました。

「この子は5歳になったけれど、私たち夫婦はこうしてつつがなく生きております。
神仏も時にはうそをつくものなのですね」とおっしゃいました。
一転俄かに掻き曇り、風が吹きあれ、雷鳴がとどろき、稲妻がはしり、
天地がさけんばかりとなりました。
いずともなく
「汝はどうして仏の言葉に偽りがあると思うのか。
仏の加護により、姫を養育させているのに、仏を誹謗した罪を許すわけにはいかぬ」
という声がいたしまして、紫の前はばたりと倒れておしまいになりました。

姫はたいそう驚き、母の回復を祈られました。
すると、母君は息を吹き返されましたが全快の様子はなく、
時が過ぎ、春から初夏になり、暑さに次第に弱っていかれました。

そんな頃、八葉の蓮華が天より降ってきて、その中に声がいたしました。
「仏を誹る者は重罪で、心と口によって招いた業であるので医薬のよっても治らず、
近く命終わって地獄に落ちるであろう。
母に勧めて念仏を申させよ。そうすれば西方浄土に生まれることができよう。
それが汝の母への孝行となる。」

姫君はすぐさま母の元にまいられ、
南無阿弥陀仏」と唱えるようにお奨めになりました。
さて、いよいよ臨終になるとき、紫の前は姫を呼び、
目に涙をうかべておっしゃいました。

「あなたは幼いけれど母の最期のことばをよくお聞きなさい。
世の中には年をとっても親と暮らせる幸せな者もたくさんいるというのに、
わずか5歳で母と死に別れるとは、なんと不憫なことでしょう。
わたしもいとしいあなたを残し冥土に赴くとは悲しい因縁です。
成長した父上に孝行をつくし、慈悲の心で人と接しなさい。
後になり父がのち添えを迎えたなら、その母を実の母と思って大切にしなさい」
そして「南無阿弥陀仏」と何度も唱えられ、眠るように息を引き取られたのでございます。