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港も見える丘から

人生のゴールデンエイジにふと感じることを綴っていきます

NO.130 沈黙 Silence の衝撃

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スコセッシ監督「沈黙」を観てきました。

私の想像より、ドライな映画という第一印象を持ちました。
また、日本では描けない視座だと思いました。

折しも本日 、大阪城ホール高山右近列福式が行われます。

時の移り変わりを感じます。


映画内容でなく、私の感想を書きたいと思います。

 

 遠藤周作先生の「沈黙」を初めて読んだときの衝撃は
あまりに大きいものでした。
ちょうどバプテスマ(洗礼)を受けたばかりの14歳…
全知全能のオールマイティーの神を信じた私には
到底受け入れられない神の解釈でした。
続いて「死海のほとり」「イエスの生涯」では、
奇跡も行えず、無力で、悲しみに満ちたイエスが描かれていて、
私は「こんなの絶対間違っている」と思いました。

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 私は幼稚園から大学までプロテスタントの教育を受け、
いわゆるクリスチャンホームで育ち、
何も迷うことなくバプテスマを受けました。
高校時代の教会キャンプで、「神」の存在を語り合い、
神は沈黙する無能な存在、あるいは神の存在そのものさえを否定され、
理論的な反論もできず、「でもでも、神様はいるもん」と
半泣きしそうになった記憶もあります。

今までに 「沈黙」を何度も読み返し、頭の中で映像化してしまい、
あまりに残酷な場面の連続に、私は映画を観ることを躊躇していました。

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穴つりという拷問

 

 

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原作を読んだことのない次男が先週観てきて、
キチジローに興味を持ったのか、珍しく私に観るように勧めてきました。
あまりに熱く語るので、勧めに従い、昨日、行ったわけです。

 

 

このところ、身の回りで不本意なことが多く、
思いっきり泣きたい気分になっていたので、
ハンカチを2枚持って行きました。

ところが、そのハンカチを使ったのはたった一箇所でした。
食い入るように観てしまい、泣けないのです。

 

踏み絵の中から語りかけてくるイエスの言葉を聞いたとき、
心に柔らかい温かな力が流れてきました。
自然に涙が出てきました。

 

ここからです。
棄教したロドリゴの生き方に共感を覚えました。
裏切り者のキチジローに「一緒にいてくれてありがとう」と言ったロドリゴ
この一言が心にしみました。

世の中の全ての人から見捨てられた時、
絶望の中で、たった一人で取り残されてしまう時、
傍にそっと寄り添って、一緒にいてくれる人、
イエスはそういう人だと、
それでいいのだという事を、
60歳を超えて思いました。

 

 

さて、キリスト教弾圧は開国まで200年以上続きました。
司祭もないまま、信仰の火を消さず、隠れキリシタンとして生き延びました。

 

1854年、アメリカによって開国した日本は、
キリスト教を外した西洋文化を取り込みました。

この国に根をはれないとポルトガルの宣教師が判断したのは

正解だったかもしれません。

アメリカのプロテスタントの宣教師は
まず、聖書の翻訳をして、聖書のみ言葉が直接伝わるようにしました。
そして、西洋技術、医学、教育に 力を注ぎました。

あっというまにキリスト教信者は増えていきます。
教会に人が溢れます。
カソリックは農民に広まっていきましが、
プロテスタントは知識階級に支持されました。
海外からの援助によって多くのミッションスクールが建てられました。

 キリスト教は根付くと思われたのもつかの間
世界大戦が起こり、再び敵国の宗教になり、
弾圧され、苦難が続きました。

 

太平洋戦争が終わった時、
アメリカはコーラとプレイボーイで
アメリカ文化をもたらしました。
多くの若者はアメリカに恋をし、
日本は本当に開国しました。

この国に必要なものかどうかは、時の利権者が決めるものです。
でも、もしかすると、
キリスト教はこの国には必要でないと大衆によって
判断され続けてきたのかもしれません。

信仰の自由の現代、

信仰は最も必要のないものになってしまったのでしょうか。

 

 

 

幼少期はただ主イエスの子どもとなれるよう頑張り、
中年期・壮年期は教会活動奉仕に頑張ってきました。
老年期に入る今、私は何を求めて教会の戸を叩くのでしょう。
このところずっと考えている課題です。
その一つの答えを見いだしました。

 

一度 神を棄てた上に
なんども棄教したという証明書を書いたロドリゴ
棄教した司祭として批判されました。

ロドリゴのモデルとなった司祭、岡田三右衛門は

1658年 84歳で江戸でなくなり、小石川のお寺に葬られました。

実際、どんな余生を送ったのでしょうか。


映画では最後の場面が象徴していますが、
彼の本心は誰も知りません。
ただ、神はご存知です。

映画が終わり、一瞬、静寂に包まれたとき、
突然、ハッと気付きました。

神が沈黙しているのではなく、
私が聴いていないのだと…

聴く耳のあるものは聴くが良い…イエスは言われました。

沈黙の衝撃は静まるところか、
今日もさわさわと広がっています。

感想、こっそりお聞かせください。