自由学園父母会でご一緒だった尊敬する先輩のEさんが、
「昭和前期女性文学論」に論文を発表されました。
《ささきふさ「春浅く」と「ある対位」ーモダニズムとフェミニズムの視点から》
というものです。
この論文を書かれる経過を聴いていた私は、
謹呈の栞が挟まれた厚みのある一冊を手にした時、
我がことのように、いえ、それ以上に嬉しく思いました。
お祝いしたくて、横浜にお招きすることにいたしました。
そこで、田中屋さんの平日限定お昼膳を予約しました。
横浜ゆかりの女性列伝集に名前を見ることができるささきふささんと
何かどこか共通するものを感じます。
お昼はお席の指定ができないということでしたが、
なんと、月の間に通されました。
先日、七五三のお祝いをしたお部屋です。
とても優雅なお昼膳をゆっくりいただける極上の時間でした。
美しい器に盛られた美味しいお料理に舌鼓を打ちつつも、
話題は次から次へと飛び、尽きることはありません。
おりょうさんのお写真も見せていただき、開港当時の横浜に思いを馳せました。
そして、我が家にお招きし、喜久屋さんのラムボールでお茶をいたしました。
さて、ささきふささんってどんな方だったのでしょうか。
明治30年に東京市芝区で生まれました。
横浜に嫁いだ17才年上の姉繁が子宝に恵まれなかったため、
ふさは13才で繁の嫁ぎ先である大橋家の養女となり、
横浜市立本町小学校に転校しました。
大橋家は指路教会の熱心な後援者で、ふさは16才で受洗しました。
神奈川県立第一高等女学校(平沼高校)を卒業後、青山学院英文科に進学しました。
大学4年になる春先、デビュー作「男女貞操論」が矯風会の懸賞論文で一位入賞を果たし、
翌年、当時はまだ珍しい断髪にして、2年後には「断髪」という短編集を刊行しました。
男性の優位性と横暴性を生む男性中心社会に対して、
女性だけに要求される貞操観念に問題があると指摘し、
家、地位、財産、跡継ぎのための結婚は間違いで、
男女同等の価値観を持って、愛ある結婚をすべきだと述べています。
そして、そのために、女性には高等教育を与える一方、
男性には人として紳士としての人格的教養を与えるべきだと説いています。
《ささきふさ「春浅く」と「ある対位」ーモダニズムとフェミニズムの視点から》参照
当時、こう主張するのは勇気のいることで、
「男女貞操論」を書いたことがきっかけで、
大正12年、万国婦人参政権大会に出席するため単身ローマに渡り、
そのままヨーロッパで過ごし、関東大震災の知らせはパリで受け取りました。
エネルギッシュでハイカラなふさが結婚相手として選んだ男性は佐々木茂索、
新潮社に身をおく新進作家で、芥川龍之介が媒酌人という華やかさでした。
読書思索の生活と見事な主婦ぶりを発揮する場の均衡がよく取れて、
「佳人才子の新家庭は非の打ち所がなく、眩しいように輝いていた」と
友人の森田たまが語っています。
仲睦まじく暮らしながら、子宝に恵まれませんでした。
広津和郎は
「頭がヴィヴィドに働き、従って観察も鋭く早いが、ナマの感情をそのまま人には見せたくない。
云いかへればはしたなさなど凡そ人には見せたくない、と云うような意地で、自分を抑制しいゐるさういふしとやかさ。
ーそれには明治の東京の山の手の教養を身につけたひとの意地つ張りのやうな味もある。
そこがまた理知的に冴えた風貌の一面に、一種古風なものを何處かに感じさせる所以でもある」
と述べています。
《ささきふさ「春浅く」と「ある対位」ーモダニズムとフェミニズムの視点から》参照
多感な時期を横浜で過ごしたふさがリベラルな
都市文化を身につけたのは想像に難くなく、
ハマっ子の私にも共通する何かがあるかもしれないと、
嬉しい気持ちになりました。
ふさは終戦後の昭和24年10月、癌性腹膜炎で逝去しました。
まだ53才という若さです。
茂索は昭和21年に菊池寛のあとを継いで文藝春秋新社を作りましたが、
翌年、公職追放の指令を受け社長を辞任しました。
しかしまたその翌年、再び社長に復帰し、
本格的な活動を開始する矢先に愛妻の死に直面しました。
今回、ささきふさに巡りあったことで、
私自身もこれからの生き方を考えるきっかけになりました。
晩年にあたる昭和21年の作品「おばあさん」は青空文庫でも読む事ができます。
そのしっかりとした、美しい日本語は読んでいて心地よい気持ちになりました。
おすすめです。
早い時期から男女の不平等性に違和感を感じていたふさが、
今、私たちを見たら、どう思うかしら、ああ、日本も進歩したと思うのか、
まあ、何にも変わってないじゃないと思うのか、
と考えてしまいました。
私自身、何を変えたのかしらと、ふと、思いました。