港も見える丘から

人生のゴールデンエイジにふと感じることを綴っていきます

NO.135 冬来たりなば春遠からじ

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3月 弥生に入りました。

 

来月、グランドオープンを迎えるしぇあひるずヨコハマですが、
二つの建物を同時にリノベーションするというのは
想像以上に困難なことが多く、
気の休まることはありません。

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工事が始まってから、のべ700人の方々が
作業をしてくださっていると聞きました。
関係者の方々に毎日感謝して過ごしています。

 

 

前橋の養蚕家の三男に生まれた祖父は22歳で
希望を持って上京し、東京で仕事を得ようとしましたが、
海が見たくて、そのまま横浜に来てしまい、
ご縁をいただき、神奈川県警で働くことになりました。
お酒は飲めず、冗談一つ言わない真面目な祖父の趣味は
詩吟と書道でした。

 

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〈ひ孫誕生 聖路加病院にて 87歳の祖父〉

 

終戦後、神奈川区軽井沢にあった三菱重工社員寮の舎監を務めていた頃、
祖父はご縁をいただき、神奈川本覚寺の僧正さんと親しくなりました。
お寺といえども戦禍を逃れるわけにもいかなかった時代、
本覚寺は水も出ない有様で、様々な不自由を強いられていました。
そのことを知り、祖父はなんとか力になろうと、
三菱重工のツテを頼りに尽力し、諸問題は解決していきました。

 

僧正さんは祖父に恩義を感じ、ずっと頼りにしていたそうです。
そして、高島台の土地、好きなところを使っていいから、家を建てませんかと
申し出てくださいました。
祖父は港が見える丘をたいそう気にいり、住むことにしましたが、
全てを借りることはしませんでした。

昭和28年、私が生まれる3年前のことでした。

 

 

そこには、大邸宅が建っていましたが、横浜大空襲で消失してしまい、
見事な石の灯篭が3つ、日本庭園の池と、洋館の後を忍ばせる鉄筋が
残っていただけだったと当時の記憶を
叔母が話してくれました。

母は祖父母と力を合わせ、父の財力の助けを借りて、
10年の間に叔母、叔父の家を含む
家3軒 アパートを2軒建てました。

そして、44年の生涯を走り抜けていきました。

 

 

再婚し、別居した父は頼りにならず、
私は4つ年下の弟の面倒を見ながら、青春期を過ごしました。
12歳で母を亡くした弟を、周囲の大人は不憫に思い、
甘やかし、なんでも好きな物を買い与えました

弟は大学の時、鬱状態の少ない躁鬱病を発病しました。
人付き合いも良く、面倒見も良い性格で、
友達もたくさんいました。
鬱がないなら、それほど深刻でもないと思われがちですが、
躁状態時は気が大きくなり、
借金をしてまで、大金を使い、私は後始末に駆けずり回り、
他人に言えない苦しみを何度も味わいました。

欲しいものは、なんでも手に入るという経験しか持っていないのですから、
愛情の表現は好きな物をあげることと思い込むのも無理はありません。
好きな女の子には、要求されるままに買い与えました。
本当にほしいものは、物でなく、優しい愛情だったのに
その愛情を誰も与えることができなかったのかもしれません。

 

私が結婚した時、子どもを出産したとき、
息子が小学校に行く時、孫が生まれた時、
そういう私の一番大変な時に限って
彼は調子を崩してしまいました。
私の注意を引くためだったのかもしれません。

浅草の商家で、朝から晩までくたくたになって働きながら、
子どもを育てるだけで精一杯の私に
さらに重い足枷となった弟でした。

その弟は2年前に初めて、家賃収入のある実家を出て、
家賃を払って住むという当たり前の暮らしを生活を始め、
遅いけれど、独り立ちをしました。

 

たった二人しかいない兄弟、仲良くして、助け合いなさいと

何度も母から言い聞かされて来ましたら、

見放すことができませんでした。

 

記憶も品物もいっぱい詰まった家の内部の一切がなくなったとき、

私は寂寞感と解放感を同時にもった自分に驚きました。

 

 

そして先日、2月27日、静岡に転居して行きました。
生まれ育った懐かしい土地を離れた時、
初めて感じる郷愁の念、彼は今、何を思っているか…
ただ、幸せになってほしいと思います。

 

f:id:tw101:20170302120948j:image〈昭和43年頃 弟と〉

 

このように弟の病について書くのは、これが初めてです。
心や精神から活力を奪い取られてしまうこの時代、

病を持っている人だけでなく、

ケアする立場の人も、逃げ場が少なくなっているように思えます。

 

私が経験したことが、もしかしたら、
一つの手がかりになるかもしれないと思い、
これからの時間、
私ができることを、
できる範囲で、
実践して行けたらと思うようになりました。

 

f:id:tw101:20170302121021j:image    f:id:tw101:20170302121124j:image 〈昭和35年 奥に見えるには日水社宅〉

 

 

 

その場として、祖父、母が愛した高島台。

ボロボロになって終焉を迎えるだけだったこの場所に

イースターの頃に、再び、新しい命が与えられます。

 

息子がリニューアルした、この場を用いて行けたらと思います。

 

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〈見晴らし最高の屋上〉

 

冬来りなば春遠からじ…

If Winter comes, can Spring be far behind ?

もし、冬という厳しい季節がなかったなら、
春の喜びをどうやって感じられるのだろうか?
春の訪れは寒くてつらい冬を越した人ほど、
喜びに満ちたものとなるはず…

シェリーの詩を何度も口ずさみます。

 

 

今、真冬で、絶対、春なんてこないと思う方にも
必ず春は訪れます。
この希望はどこから来るのか…
また、いつか、書いてみたいと思います。

 

 

4月になったら、やることがいっぱい。
そのために、今静かに本を読みたい…
曇り空を見上げて、ーふと思いました。

 

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昭和41年当時 

 

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同じ場所の今日。

50年のうちに松は大木になりました。