港も見える丘から

人生のゴールデンエイジにふと感じることを綴っていきます

NO.136 にっぽんよ にっぽん ドドンガドン

 

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…………テレビのせいである。
と、唐突に書く。
すべてがテレビのせいでないにしても、99パーセントは、テレビのせいなのだ。
テレビが人間を“思うままにもてあそん”でいる。
そうするために、私は三十年近くテレビの仕事をした。
日本と日本人を手玉にとるために、視聴者であるあなた方をなぶりものにするために、もてあそぶために、仕事に精を出したのである。
内部告発だ。だから信用してくださっていい。…………

 

       

 

林秀彦著 「ココロをなくした日本人」
第4章 とりとめのない不安はどこからくるのか 「わかりやすさ」が「決然さ」を阻む
からの抜粋です。

断捨離で本の整理をしているので、今は本は買わないことにしました。
そこで横浜市立図書館で本を借りてきての読書三昧。
中央図書館でないので、豊富な品揃え!というわけにはいきません。
それでも、背表紙が私に読んでと声をかけてきます。
今回、私を誘ってきた魅惑の方が林秀彦さんです。
面白いので、ちょっと長くなりますが、引用を続けます。

 

 

…………「わかりやすく!」
が、いつ頃からかの至上命令、というか、絶対条件になった。
テレビドラマのシナリオを書く際のである。
「むずかしすぎる!視聴者はバカだ。もっとやさしく!」
誰がそんな命令を発しているのか、結局は藪の中のままだった。
ディレクターはプロデューサーだと言い、プロデューサーは制作部長だと言い、
制作部長は局長だと言い、局長はスポンサーだと言う。
私はその段階を実地に何度も上って行き、突きとめようとした。
「そんなこと言ってないよ。たぶん電通さんだろ」
とスポンサーの担当者は言った。
広告代理店で、その階段は行き止まりだった。

例えば主役の女優さんが泣いているシーンを書く。
「良子の頰に一筋の涙が光る」
とか、作者は“ト書き”に書く。
なぜ泣くかなどは、その役者さんが前後のストーリーの展開でわかっていればいい。

その心を表現するのが役者の腕の見せどころである。
セリフとしては、せいぜい「………」と書いておく。
考えながら見ている視聴者ならそれだけで理解し、同感、感動する。
ところがこれではバカな視聴者にはわからない、という。
もっとわかりやすく!
そこで、必要もないのに相手役の男優を登場させて、次のようなセリフをつけたす。
「どうしたんだ、泣いたりして」
「いいの、ほっといて…」
ところが、これでもわかりにくいという。そこでつけ足す。
「どうしたんだよ、言ってごらん」
「悲しいの…」
当たり前だ。悲しいから泣いているのである。
でも、これでもバカな視聴者は見過ごし、聞きすごすかもしれない。
もっとわかりやすく!
仕方がない、後はナレーションをかぶせるしかない。そこで書く。
「良子は、悲しさのあまり涙がこみ上げ、そっと頰を拭うのであった…」
見ていればちゃんとそのとおりの演技を役者がしているのだが、
バカな視聴者は見逃しているかもしれないのだ。
これでもまだわからない人がいるに違いない。
何しろ視聴者はオオバカの代表者なのである。
そこでディレクターが、作家に内緒でセリフを現場で書き足す。
「悲しいかい?」
「そう、悲しいの」
「そうだったのか、そうならそう言えばよかったんだ」
「ええ、悲しくて、悲しくて…」
これでやっと、どんなバカで、考えることを一切放棄している視聴者でも、
理解できるかもしれないと、ディレクターは胸をなでおろす。
みんなが理解するドラマでないと、視聴率が取れないのである。
理解する、と同時に、その一人一人の日本人から考える能力を殺す。
オーバーに書いていることではない。
日常茶飯にテレビ局の中で起きている事実である。
(略)
ドラマの登場人物には個人の考えなど一切なく、曖昧な人物ばかりになるというに等しい。

となれば、見ている人間も、全員曖昧になる。
自分のしっかりした意見や、決然とした考え方や、指針など持てなくなる。

決然さのあるドラマはだめ、漫然としたドラマがいい、これが絶対方針なのである。

そのころはまだ誰も、漫然さが不安の母体などと気づいていなかったのだ。
……………

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林秀彦さんは1934年生まれで、学習院高等科を出て、19歳で横浜から船に乗り、
ヨーロッパに行き、ドイツ、フランスの大学で哲学を学び、帰国後、松山善三に師事し、

脚本家として活躍されました。
「ただいま11人」「若者たち」「七人の刑事」「鳩子の海」など多数の作品があります。
お父さんの林賢一氏も文筆家で、「おはなはん」のモデル林ハナさんはお祖母様にあたり、

離婚した奥様は冨士眞奈美さんという、日本のテレビ放送の生き証人という方でしたが、

1988年、オーストラリアに移住してしまい、2010年に亡くなりました。

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この著者は2000年発行となっています。
今、林さんがバラエティー番組ばかりになったテレビを見たら、
なんとおっしゃるかしら…と思います。

林さんのお母さまは俳句を嗜む方で、
豊富な語彙を持って子育てされたのでしょう。
小さい頃から慈しみを持って接してもらえる子ども、
否定的なことばを投げつけられている子ども、
テレビに育てられている子ども、
どのように育つか推測はつきます。

言葉がない子育ては思考を育てません。
それがわかっているのに、テレビだけでなく、
ネットゲームや教育アプリで刺激を受け続ける子どもたち…

なんとかしないとと思います。

 

鳩子の海 」 の斉藤こずえちゃんの歌を思い出します。

 

♪ にっぽんよ にっぽん わしらが お国
   まだ 守れるぞ 時間は あるぞ
       ドドンガドン ♪

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1974年4月から1975年3月まで放送されたNHK連続テレビ小説鳩子の海
最高視聴率は53.3パーセントのこのドラマは、
広島原爆投下など、戦争のショックで記憶を失い、
瀬戸内の港町で育てられた少女の放浪の軌跡を描いたものでした。

私は高校を卒業するときでした。
日本を守る…そんな意識はなく、
ただ自分の将来ばかりに気を取られていた時です。

今、私は 孫たちの世代のためにも

日本を守りたいと思います。

まだ守れるぞ、時間はあるぞ!

この言葉が私を駆り立てている春の日です。

 

 

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NO.135 冬来たりなば春遠からじ

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3月 弥生に入りました。

 

来月、グランドオープンを迎えるしぇあひるずヨコハマですが、
二つの建物を同時にリノベーションするというのは
想像以上に困難なことが多く、
気の休まることはありません。

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工事が始まってから、のべ700人の方々が
作業をしてくださっていると聞きました。
関係者の方々に毎日感謝して過ごしています。

 

 

前橋の養蚕家の三男に生まれた祖父は22歳で
希望を持って上京し、東京で仕事を得ようとしましたが、
海が見たくて、そのまま横浜に来てしまい、
ご縁をいただき、神奈川県警で働くことになりました。
お酒は飲めず、冗談一つ言わない真面目な祖父の趣味は
詩吟と書道でした。

 

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〈ひ孫誕生 聖路加病院にて 87歳の祖父〉

 

終戦後、神奈川区軽井沢にあった三菱重工社員寮の舎監を務めていた頃、
祖父はご縁をいただき、神奈川本覚寺の僧正さんと親しくなりました。
お寺といえども戦禍を逃れるわけにもいかなかった時代、
本覚寺は水も出ない有様で、様々な不自由を強いられていました。
そのことを知り、祖父はなんとか力になろうと、
三菱重工のツテを頼りに尽力し、諸問題は解決していきました。

 

僧正さんは祖父に恩義を感じ、ずっと頼りにしていたそうです。
そして、高島台の土地、好きなところを使っていいから、家を建てませんかと
申し出てくださいました。
祖父は港が見える丘をたいそう気にいり、住むことにしましたが、
全てを借りることはしませんでした。

昭和28年、私が生まれる3年前のことでした。

 

 

そこには、大邸宅が建っていましたが、横浜大空襲で消失してしまい、
見事な石の灯篭が3つ、日本庭園の池と、洋館の後を忍ばせる鉄筋が
残っていただけだったと当時の記憶を
叔母が話してくれました。

母は祖父母と力を合わせ、父の財力の助けを借りて、
10年の間に叔母、叔父の家を含む
家3軒 アパートを2軒建てました。

そして、44年の生涯を走り抜けていきました。

 

 

再婚し、別居した父は頼りにならず、
私は4つ年下の弟の面倒を見ながら、青春期を過ごしました。
12歳で母を亡くした弟を、周囲の大人は不憫に思い、
甘やかし、なんでも好きな物を買い与えました

弟は大学の時、鬱状態の少ない躁鬱病を発病しました。
人付き合いも良く、面倒見も良い性格で、
友達もたくさんいました。
鬱がないなら、それほど深刻でもないと思われがちですが、
躁状態時は気が大きくなり、
借金をしてまで、大金を使い、私は後始末に駆けずり回り、
他人に言えない苦しみを何度も味わいました。

欲しいものは、なんでも手に入るという経験しか持っていないのですから、
愛情の表現は好きな物をあげることと思い込むのも無理はありません。
好きな女の子には、要求されるままに買い与えました。
本当にほしいものは、物でなく、優しい愛情だったのに
その愛情を誰も与えることができなかったのかもしれません。

 

私が結婚した時、子どもを出産したとき、
息子が小学校に行く時、孫が生まれた時、
そういう私の一番大変な時に限って
彼は調子を崩してしまいました。
私の注意を引くためだったのかもしれません。

浅草の商家で、朝から晩までくたくたになって働きながら、
子どもを育てるだけで精一杯の私に
さらに重い足枷となった弟でした。

その弟は2年前に初めて、家賃収入のある実家を出て、
家賃を払って住むという当たり前の暮らしを生活を始め、
遅いけれど、独り立ちをしました。

 

たった二人しかいない兄弟、仲良くして、助け合いなさいと

何度も母から言い聞かされて来ましたら、

見放すことができませんでした。

 

記憶も品物もいっぱい詰まった家の内部の一切がなくなったとき、

私は寂寞感と解放感を同時にもった自分に驚きました。

 

 

そして先日、2月27日、静岡に転居して行きました。
生まれ育った懐かしい土地を離れた時、
初めて感じる郷愁の念、彼は今、何を思っているか…
ただ、幸せになってほしいと思います。

 

f:id:tw101:20170302120948j:image〈昭和43年頃 弟と〉

 

このように弟の病について書くのは、これが初めてです。
心や精神から活力を奪い取られてしまうこの時代、

病を持っている人だけでなく、

ケアする立場の人も、逃げ場が少なくなっているように思えます。

 

私が経験したことが、もしかしたら、
一つの手がかりになるかもしれないと思い、
これからの時間、
私ができることを、
できる範囲で、
実践して行けたらと思うようになりました。

 

f:id:tw101:20170302121021j:image    f:id:tw101:20170302121124j:image 〈昭和35年 奥に見えるには日水社宅〉

 

 

 

その場として、祖父、母が愛した高島台。

ボロボロになって終焉を迎えるだけだったこの場所に

イースターの頃に、再び、新しい命が与えられます。

 

息子がリニューアルした、この場を用いて行けたらと思います。

 

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〈見晴らし最高の屋上〉

 

冬来りなば春遠からじ…

If Winter comes, can Spring be far behind ?

もし、冬という厳しい季節がなかったなら、
春の喜びをどうやって感じられるのだろうか?
春の訪れは寒くてつらい冬を越した人ほど、
喜びに満ちたものとなるはず…

シェリーの詩を何度も口ずさみます。

 

 

今、真冬で、絶対、春なんてこないと思う方にも
必ず春は訪れます。
この希望はどこから来るのか…
また、いつか、書いてみたいと思います。

 

 

4月になったら、やることがいっぱい。
そのために、今静かに本を読みたい…
曇り空を見上げて、ーふと思いました。

 

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昭和41年当時 

 

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同じ場所の今日。

50年のうちに松は大木になりました。

 

 

 

 

 

 

 

NO.134 横浜育ちの閨秀作家 ささきふさ

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自由学園父母会でご一緒だった尊敬する先輩のEさんが、

「昭和前期女性文学論」に論文を発表されました。

《ささきふさ「春浅く」と「ある対位」ーモダニズムフェミニズムの視点から》

というものです。

 

この論文を書かれる経過を聴いていた私は、

謹呈の栞が挟まれた厚みのある一冊を手にした時、

我がことのように、いえ、それ以上に嬉しく思いました。

お祝いしたくて、横浜にお招きすることにいたしました。

 

そこで、田中屋さんの平日限定お昼膳を予約しました。

横浜ゆかりの女性列伝集に名前を見ることができるささきふささんと

坂本龍馬の妻だったおりょうさん。

何かどこか共通するものを感じます。

 

お昼はお席の指定ができないということでしたが、

なんと、月の間に通されました。

先日、七五三のお祝いをしたお部屋です。

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とても優雅なお昼膳をゆっくりいただける極上の時間でした。

美しい器に盛られた美味しいお料理に舌鼓を打ちつつも、

話題は次から次へと飛び、尽きることはありません。

おりょうさんのお写真も見せていただき、開港当時の横浜に思いを馳せました。

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 そして、我が家にお招きし、喜久屋さんのラムボールでお茶をいたしました。

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さて、ささきふささんってどんな方だったのでしょうか。 

明治30年に東京市芝区で生まれました。

横浜に嫁いだ17才年上の姉繁が子宝に恵まれなかったため、

ふさは13才で繁の嫁ぎ先である大橋家の養女となり、

横浜市立本町小学校に転校しました。

大橋家は指路教会の熱心な後援者で、ふさは16才で受洗しました。

 

神奈川県立第一高等女学校(平沼高校)を卒業後、青山学院英文科に進学しました。

大学4年になる春先、デビュー作「男女貞操論」が矯風会の懸賞論文で一位入賞を果たし、

翌年、当時はまだ珍しい断髪にして、2年後には「断髪」という短編集を刊行しました。

男性の優位性と横暴性を生む男性中心社会に対して、

女性だけに要求される貞操観念に問題があると指摘し、

家、地位、財産、跡継ぎのための結婚は間違いで、

男女同等の価値観を持って、愛ある結婚をすべきだと述べています。

そして、そのために、女性には高等教育を与える一方、

男性には人として紳士としての人格的教養を与えるべきだと説いています。

《ささきふさ「春浅く」と「ある対位」ーモダニズムフェミニズムの視点から》参照

 

当時、こう主張するのは勇気のいることで、

「男女貞操論」を書いたことがきっかけで、

矯風会ガントレット恒子の秘書となりました。

 

大正12年、万国婦人参政権大会に出席するため単身ローマに渡り、

そのままヨーロッパで過ごし、関東大震災の知らせはパリで受け取りました。

エネルギッシュでハイカラなふさが結婚相手として選んだ男性は佐々木茂索、

新潮社に身をおく新進作家で、芥川龍之介が媒酌人という華やかさでした。

読書思索の生活と見事な主婦ぶりを発揮する場の均衡がよく取れて、

「佳人才子の新家庭は非の打ち所がなく、眩しいように輝いていた」と

友人の森田たまが語っています。

仲睦まじく暮らしながら、子宝に恵まれませんでした。

 

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広津和郎

「頭がヴィヴィドに働き、従って観察も鋭く早いが、ナマの感情をそのまま人には見せたくない。

云いかへればはしたなさなど凡そ人には見せたくない、と云うような意地で、自分を抑制しいゐるさういふしとやかさ。

ーそれには明治の東京の山の手の教養を身につけたひとの意地つ張りのやうな味もある。

そこがまた理知的に冴えた風貌の一面に、一種古風なものを何處かに感じさせる所以でもある」

と述べています。

《ささきふさ「春浅く」と「ある対位」ーモダニズムフェミニズムの視点から》参照

 

 

多感な時期を横浜で過ごしたふさがリベラルな

都市文化を身につけたのは想像に難くなく、

ハマっ子の私にも共通する何かがあるかもしれないと、

嬉しい気持ちになりました。

 

ふさは終戦後の昭和24年10月、癌性腹膜炎で逝去しました。

まだ53才という若さです。

茂索は昭和21年に菊池寛のあとを継いで文藝春秋新社を作りましたが、

翌年、公職追放の指令を受け社長を辞任しました。

しかしまたその翌年、再び社長に復帰し、

本格的な活動を開始する矢先に愛妻の死に直面しました。

 

今回、ささきふさに巡りあったことで、

私自身もこれからの生き方を考えるきっかけになりました。

 

晩年にあたる昭和21年の作品「おばあさん」は青空文庫でも読む事ができます。

そのしっかりとした、美しい日本語は読んでいて心地よい気持ちになりました。

おすすめです。

 

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早い時期から男女の不平等性に違和感を感じていたふさが、

今、私たちを見たら、どう思うかしら、ああ、日本も進歩したと思うのか、

まあ、何にも変わってないじゃないと思うのか、

と考えてしまいました。

 

私自身、何を変えたのかしらと、ふと、思いました。

 

 

NO.133 和をもって尊しとなす

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今年度から確定申告にマイナンバーが義務付‼︎

いつの間に⁉︎ と驚きました。

 

 

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私はマイナンバーカードを持っていないし、
通知書さえ手元にありません。

あの頃、父の看取りで家にいることがなく、
通知書さえ受け取れず、そのままに…

国民全員にナンバーを振る事は大変なことだと思います。
父にも、亡くなった後に通知書が届きました。
2015/10/5   ナンバーが配布された日に亡くなったレアなケースでした。

 

私が気になったのは、世帯主に家族全員の通知書が届いたことです。
サザエさん宅のように世帯で仲良く暮らしているという
大前提があるのでしょうか?

特殊な理由で住民票があるところに住んでない人
家族が険悪な状況にあったりして、
勝手に家族に通知書を取られ、渡してもらえない人など、
いくらでも通知書さえ手元にないことが考えられます。
こういう想像が得意な私は、世帯主にまとめて通知書を送っても大丈夫という
神経を持つ「お上」のすることがよくわかりません。
どうして、大事なマイナンバーが(成人には)個人宛に直接届くようにできなかったのかしら。

素朴な疑問は世帯主制度。

こういう行政制度海外にもありますか?興味あります。

 

通知書があろうとなかろうと、
マイナンバーなんていらないと徹底抗戦しようがしまいが、無駄なこと。
私はすでにナンバリングされています。
マイナンバーが記載された住民票を取ればわかります。

まだまだよくわからない制度です。


よくわからないけど、制度があり、義務付けられたのだから、
それを守ることは当然と、考えるのが当たり前なのでしょう。
でも、当たり前でしょ、と言われると、なんか、ちょっと嫌だなと思います。

そして、最近の風潮を見ていると、
ちょっと嫌だなということが多いような気がします。

ちょっとくらい嫌だなと思っても文句を言わずに
みんなと一緒にするものなの でしょうが…

 

 

「和をもって尊しとなす」
ほら、角をたてないで、みんな仲良くしましょうよ。

そういう風に使ってしまいがちなこの言葉。

 

ところが、憲法十七条の第一条で言っている意味は違うみたいです。

---人はともすれば、派閥や党派などを作りたがる。
さすれば、偏見に満ちたり、対立を深める結果となる。
そうではなく、お互いに心を和らげ、 睦まじく話し合いをし、
みなで合意を持つならば、道理にかなった行動をなすことができよう。----
というものです。

さらに 第十七条は
--- 重大な事柄は一人で決定してはならず、必ず、多くの人と
議論し、是非を検討してゆくならば、その結果は道理に
かなうものになるであろう----
という内容になっているらしいです。

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議論をうやむやにして、表面上の一致のみを求める
「空気の支配」や同調圧力に対して、批判しているのです。
聖徳太子は道理にかなった結論を得るためには
公正な議論が不可欠と考えていました。

 

 

この時代はヤマト王権が日本を統一国家にしていく過程の時で、
遣隋使を派遣し、外交的な政策をとりつつ、内部政策を充実させ、
仏教を取り入れて日本という国を作ろうとしました。
でも、新興宗教の仏教より神道を信奉し、仏教に敵対する勢力もあり、
なかなか一筋縄ではいかない時代でした。
そこで、お互いの考えを尊重して、話し合いをして道理に従って
決めていこうと取り決めをし、憲法を作ったのでしょう。

民主主義の根幹がすでにこの時代に謳われているのはすごいなあと
感心してしまいます。

このままいってたら日本は世界のリーダーになれたかもしれません。

 

それなのに、なんで今、間違った解釈をして
「ちょっとくらい嫌だなと思っても、長いものには巻かれて、
みんなで仲良く暮らしましょう」みたいな風潮になっているのでしょうか。

 

 

「和をもって尊しとなす」
英語ではなんて表現するのか調べてみました。

Cherish the harmony among people.


Putting Utmost Priority On Harmony !
Harmony is of [our] top priority.
Harmony is of utmost importance.
Harmony is of the highest preference.
Harmonizing Ourselves Comes First !

Harmony is to be valued.

和 はharmony …
ちょっとニュアンスが 違うのでは…と思い、
尊敬する英語の先生に伺いました。

結論は harmony and peace…

 

和  はずばり  WA 
日本人ならではの美しい思いが含まれています。

いい言葉です。

 

さてさて、このマイナンバー(日本語では個人番号 )

住基ネットみたいに消滅してしまうかしら。
それとも生まれたらすぐに体内にチップを埋め込まれてしまうとか…?
そうなったら「ちょっと嫌だなあ」ではすまないなあ〜と思ってしまいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

NO.132 チャリティーコンサート In 建長寺

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北鎌倉から鎌倉へ向かう道に鎌倉五山第一位臨済宗建長派大本山建長寺があります。

1253年に宋から来日していた高僧・蘭渓道隆を招いて建立した最初の禅寺です。
けんちん汁の始まりの禅寺と言ったら親しみがわくでしょうか。

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先日、建長寺本堂でチャリティーコンサートがあり、
私は初めてお寺のコンサートを経験しました。

 

コンサートが始まる前に半僧坊から展望台に登りました。
鎌倉アルプスを尾根伝いで歩いた10代の頃を思い出しました。
展望台からは富士山も見ることができました。
梅の花咲く、美しい昼下がりです。

 

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コンサートは鎌倉のお母さんたちが福島の子どもたちを
毎年、鎌倉に招待している未来・連福プロジェクトさん主催で、
シンガーソングライターの佐々木祐滋さんと
バンデューラ奏者 ナターシャ・グジーさんが出演されました。

本堂には300人ほどの聴衆で満杯でした。

 

f:id:tw101:20170213200630j:image佐々木祐滋さんの歌う「INORI」

 

f:id:tw101:20170213201933j:image休憩時間にはホーリーバジル 茶がふるまわれました。

 

 

 

 

 

《 未来のこども達を守り、育て、幸福の輪を広げよう》という主旨は

私の思いと同じです。

親子で野山を歩いたり、茶道で礼儀を学んだり、華道で心豊かさを学んだりと

体験を重視した取組をしたり、

被災地みなさんを無料で鎌倉に招くこともされている未来・連福プロジェクトを

初めて知りました。

 

また、佐々木さんとナターシャさんは、お二人でピースオンウイングという
平和交流プロジェクトを主催されています。

佐々木祐滋さんは広島平和記念公園にある原爆の子のモデルである
佐々木禎子さんの甥御さんです。
NPO法人SADAKO LEGACY 副理事長として禎子ストーリーを通じて
相手を「思いやる」ことや相手と「分かち合う」心を共有できるように
禎子さんの遺品の折鶴を世界各国に寄贈し、
歌を交えた講演活動をしています。

叔母の禎子さんは2歳の時に広島で被爆しました。
足の速い元気な少女でしたが、10年後に白血病を発病し、
病に倒れました。
亡くなるまで、折鶴を降り続けました。
小さな指で折られた鶴は、時を超えて、世界に届けられ、
ニューヨークやホノルルにも送られています。

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1986年4月26日深夜チェルノブイリ原発で爆発事故が発生しました。
最初は重大事故とは知らされておらず、
翌日は普段と変わらない生活をしていた住民たち。
子どもたちは学校に行き、外で遊んでいました。

ところがその翌日になって、
大したことではないけれど、念のため、3日間避難してください。
必要なものしか持っていかないで
3日後に戻ってきます。

そう言われて街をでたナターシャさん一家は
2度と家に戻ることはなく、
あれから30年の時が流れました。

最初は大したことはないと思います。
放射能は目に見えませんから。

ナターシャさんは民族楽器 バンデューラ弾き手になり
2000年から日本で音楽活動をはじめました。
そして、禎子さんのお兄さんから、一羽の「禎子の折鶴」が贈られました。
平和への思いと、核の悲劇を繰り返さない願いが込められた一羽の折鶴。

チェルノブイリ原発事故から30年を迎えた昨年 4月26日、
日本から平和と友好の印として、
この折鶴が、ウクライナのマリーナ・ポロシェンコ大統領夫人に手渡され、
現在は国立チェルノブイリ博物館に展示されています。

翼に平和をのせて ピースオンウィング という平和交流プロジェクトでは、

ナターシャさんは希望する学校があれば
どこへでもウクライナから届けられた折鶴を届け、
チェルノブイリ原発事故についての学びが
できるような取組をされています。

 

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佐々木さんとナターシャさんから
私は「使命」というものを感じました。
「天命」と言うべきでしょうか。
人には、その人にしかできない使命があると思います。

五十にして天命を知り、
六十にして耳順う、

孔子の言葉を思いだします。

 

二度と帰ることができない生まれ故郷を思う

ナターシャさん歌に合わせて

全員で「ふるさと」を歌いました。

心が締め付けられるような思いになりました。

忘れてはいけない悲劇。

繰り返してはいけない悲劇。

 


コンサートの前には春の日差しに溢れていたのに
コンサートが終わる頃には小雪が舞っていました。

人生、何があるかわかりませんが、
天命を知って生きて生きたいと思いました。

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NO.131 「母」いよいよ上映です

 

プロレタリア文学の旗手と呼ばれた小林多喜二の母小林セキの
一生をプロテスタント作家三浦綾子が描いた小説「母」
その映画を観てきました。

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監督は御年85歳の最高齢女性監督 山田火砂子さんです。
山田さんは知的障害をもったお子さんを育てられました。
社会の弱者への温かい眼差しの映画を作られてきましたが、
最近の風潮に危機意識を持ち、
なんとしてでも伝えなければいけないという熱いパッションをもって、
「母」のメガホンを取られました。

 

 

「私の人生」 というメッセージでこう書かれています。

前略…
その頃の日本は貧しい国なのに軍備だけは一等国なみに
作っていたので国民の生活は、酷いものであった。
一部の金持ちだけが優雅な暮らしをしていただけ。
多喜二はこんな時代に青春を生きていた。
小樽の裏町を歩き、酷い暮らしをしているタコと言われる労働者を見たり、
この世の不条理を嫌というほど見せたれ、
この国は狂っている、人民に良い暮らしをと
社会主義になる。
この頃の多喜二は銀行に就職していて
当時の学校の教師の給料の倍ももらっていたのに、
そのまま生きていたなら、
日本が戦争に負けてから軍国主義でなく消費国になったので
多喜二はどんな高給をもらい豪邸に住んでいたでしょう。
でも、彼は人民大衆にもっと豊かな生活をと望み、
官権によって虐殺されてしまいました。
生きていたらもっともっと本が書けたのに、
日本という国は芸術家を大事にしない国。
私は本当に悔しいかぎりです。(終)

  

 

山田監督の叫びは映画のあちこちに聞かれます。

多喜二の死後の、太平洋戦争時、セキは共産主義とみなだれ、
非国民扱いされていました。

お隣さんのおばさんは、セキに優しく接していますが、
ある日、こっそりセキに言います。
靖国の母なんかならなくていい。
無事に息子に帰ってきてほしい」って言って人がいるわよ。

ここだけの話よ。

 

 

この台詞は最初はなかったそうです。
撮影の前日、台詞が変わったことをFAXで受けた
神田さち子さんはびっくりしましたが、
この台詞を噛み締めて演じられました。

母の思いはみな同じです。
誰が好き好んで大切な息子を戦場に送るでしょうか。
与謝野晶子は弟に『君死にたもうことなかれ』とよみ、

『お国のためとして笑顔で送り出しはするものの
母親や妻にとっては戦争ほど呪わしいものはない』
市川房枝さんは言いました。

 

 

今、私たちはとりあえず、言いたいことが言えています。
いろいろなところで見張られていても、
一般市民レベルではまだ言論の自由は確保されています。


でも、これから先、大丈夫でしょうか。
共謀罪なんてものを作りたい方たちの熱い思いが通ったら、
大変なことになります。
思考停止している場合ではないでしょう。

 

この映画を制作した現代ぷろだくしょんは
昭和26年山田典吾、山村聰森雅之、夏川静江らの人々を
中心にした俳優集団を母体としています。
昭和28年 「村八分」の撮影開始からずっと社会派映画を取り続けています。
山田典吾監督は亡くなってしまいますが、夫人の火砂子さんが
志を継ぎ、映画を取り続けています。

映画は制作費がかかります。
娯楽映画でないので、台所は火の車でしょう。
去年、音楽プロデューサーという立場になり、大変な思いをしたので、
私は制作側に回って見てしまうようになりました。

 

小山まで出かけて撮ったエキストラ場面は
残念ながら時間の都合でカットされていました。
映画デビューできませんでしたが、
宣伝費がないというお話し聞いて、何かお手伝いをと思いました。

写真撮影大丈夫ですか?とお聞きしたら、

どうぞ、宣伝してくださいとおっしゃっていただきました。
多くの方に見ていただきたいです。

寺島しのぶさんの演技は

愛情あふれる控えめながら心の熱いセキそのものでした。

 

 

 

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昨日、東京江戸博物館で上映会では
山田監督を始め
小林多喜二塩谷瞬
小林三吾役 水石亜飛夢
宮本百合子役 露のききょう
山本夫人役 神田さち子
セキ子役 上野神楽

みな様の舞台挨拶がありました。

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極道役の進藤龍也牧師にもお目にかかれて嬉しかったです。

 

f:id:tw101:20170211082118j:image小林多喜二塩谷瞬さん

 

f:id:tw101:20170211082147j:image 宮本百合子役 露のききょうさん

 

f:id:tw101:20170211082216j:image 棒頭役 進藤龍也牧師

 

週刊金曜日にも特集が掲載されています。

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カソリック作家 遠藤周作原作 沈黙
プロテスタント作家 三浦綾子原作 母

私に大きな影響を与えた二人の作家の作品の映画を
同じ週に観ることができ、思考全開。

信仰と言論の自由を守るために、
できる限り努力しようと思います。

母 に上映劇場は以下の通りです。
ぜひ、お出かけください。

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NO.130 沈黙 Silence の衝撃

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スコセッシ監督「沈黙」を観てきました。

私の想像より、ドライな映画という第一印象を持ちました。
また、日本では描けない視座だと思いました。

折しも本日 、大阪城ホール高山右近列福式が行われます。

時の移り変わりを感じます。


映画内容でなく、私の感想を書きたいと思います。

 

 遠藤周作先生の「沈黙」を初めて読んだときの衝撃は
あまりに大きいものでした。
ちょうどバプテスマ(洗礼)を受けたばかりの14歳…
全知全能のオールマイティーの神を信じた私には
到底受け入れられない神の解釈でした。
続いて「死海のほとり」「イエスの生涯」では、
奇跡も行えず、無力で、悲しみに満ちたイエスが描かれていて、
私は「こんなの絶対間違っている」と思いました。

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 私は幼稚園から大学までプロテスタントの教育を受け、
いわゆるクリスチャンホームで育ち、
何も迷うことなくバプテスマを受けました。
高校時代の教会キャンプで、「神」の存在を語り合い、
神は沈黙する無能な存在、あるいは神の存在そのものさえを否定され、
理論的な反論もできず、「でもでも、神様はいるもん」と
半泣きしそうになった記憶もあります。

今までに 「沈黙」を何度も読み返し、頭の中で映像化してしまい、
あまりに残酷な場面の連続に、私は映画を観ることを躊躇していました。

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穴つりという拷問

 

 

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原作を読んだことのない次男が先週観てきて、
キチジローに興味を持ったのか、珍しく私に観るように勧めてきました。
あまりに熱く語るので、勧めに従い、昨日、行ったわけです。

 

 

このところ、身の回りで不本意なことが多く、
思いっきり泣きたい気分になっていたので、
ハンカチを2枚持って行きました。

ところが、そのハンカチを使ったのはたった一箇所でした。
食い入るように観てしまい、泣けないのです。

 

踏み絵の中から語りかけてくるイエスの言葉を聞いたとき、
心に柔らかい温かな力が流れてきました。
自然に涙が出てきました。

 

ここからです。
棄教したロドリゴの生き方に共感を覚えました。
裏切り者のキチジローに「一緒にいてくれてありがとう」と言ったロドリゴ
この一言が心にしみました。

世の中の全ての人から見捨てられた時、
絶望の中で、たった一人で取り残されてしまう時、
傍にそっと寄り添って、一緒にいてくれる人、
イエスはそういう人だと、
それでいいのだという事を、
60歳を超えて思いました。

 

 

さて、キリスト教弾圧は開国まで200年以上続きました。
司祭もないまま、信仰の火を消さず、隠れキリシタンとして生き延びました。

 

1854年、アメリカによって開国した日本は、
キリスト教を外した西洋文化を取り込みました。

この国に根をはれないとポルトガルの宣教師が判断したのは

正解だったかもしれません。

アメリカのプロテスタントの宣教師は
まず、聖書の翻訳をして、聖書のみ言葉が直接伝わるようにしました。
そして、西洋技術、医学、教育に 力を注ぎました。

あっというまにキリスト教信者は増えていきます。
教会に人が溢れます。
カソリックは農民に広まっていきましが、
プロテスタントは知識階級に支持されました。
海外からの援助によって多くのミッションスクールが建てられました。

 キリスト教は根付くと思われたのもつかの間
世界大戦が起こり、再び敵国の宗教になり、
弾圧され、苦難が続きました。

 

太平洋戦争が終わった時、
アメリカはコーラとプレイボーイで
アメリカ文化をもたらしました。
多くの若者はアメリカに恋をし、
日本は本当に開国しました。

この国に必要なものかどうかは、時の利権者が決めるものです。
でも、もしかすると、
キリスト教はこの国には必要でないと大衆によって
判断され続けてきたのかもしれません。

信仰の自由の現代、

信仰は最も必要のないものになってしまったのでしょうか。

 

 

 

幼少期はただ主イエスの子どもとなれるよう頑張り、
中年期・壮年期は教会活動奉仕に頑張ってきました。
老年期に入る今、私は何を求めて教会の戸を叩くのでしょう。
このところずっと考えている課題です。
その一つの答えを見いだしました。

 

一度 神を棄てた上に
なんども棄教したという証明書を書いたロドリゴ
棄教した司祭として批判されました。

ロドリゴのモデルとなった司祭、岡田三右衛門は

1658年 84歳で江戸でなくなり、小石川のお寺に葬られました。

実際、どんな余生を送ったのでしょうか。


映画では最後の場面が象徴していますが、
彼の本心は誰も知りません。
ただ、神はご存知です。

映画が終わり、一瞬、静寂に包まれたとき、
突然、ハッと気付きました。

神が沈黙しているのではなく、
私が聴いていないのだと…

聴く耳のあるものは聴くが良い…イエスは言われました。

沈黙の衝撃は静まるところか、
今日もさわさわと広がっています。

感想、こっそりお聞かせください。