港も見える丘から

人生のゴールデンエイジにふと感じることを綴っていきます

NO.201 一遍上人⑨ 牛にひかれて善光寺

f:id:tw101:20200913113515j:image 善光寺本堂

 


一遍上人善光寺参りの後に、叔父通末の供養をするために、

佐久小田切の里に行きました。

今回、私は逆ルートで佐久から善光寺へ行くことにしました。

 


「今日は善光寺に行くわ。」と野辺山のホテルで、

同室の友人と話していたら、彼女がポツリと、

「牛にひかれて善光寺…」と言いました。

聞いたことあるフレーズですが、恥ずかしいことに、

私はその本来の意味を知りませんでした。

さっそく、Googleで調べてみましたら、

 


…「牛に引かれて善光寺参り」は牛に布を引かれて善光寺に行ったことがきっかけで、信心深くなり極楽往生を遂げられたというお話です。このことから、現代では「思わぬ他人の誘いで、物事が良い方に向かうこと」を表す言葉として使われています。

ポイントは「他人の誘い」であることと、「物事が良い方に向かうこと」です。意図せずにした行動では足りず、他人から誘いがあって、したいと思っていなかった行動をとった場合に使う言葉です。また、物事が悪い方に向かってしまった場合には使うことができません。…

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という意味であることがわかりました。

では、その基のお話は何かしらと調べてみました。

 


昔 信濃国小諸の在に、心根の悪い強欲なお婆さんが住んでおりました。

ある日(近くの布引観音の祭礼の日という)洗濯をして、軒先に布を乾していたところ、どこからともなく一頭の牛が現れて、その布を角にかけて逃げ出しました。お婆さんは怒って、その牛を追いかけて行きますと、牛はどこまでも逃げて行き、とうとう善光寺にまできてしまいました。

日が暮れて、牛は金堂の中に消えるように見えなくなりました。しかし、金堂に入ってみると、光明が昼のように輝いており、追いかけてきた牛の涎(よだれ)が、さながら文字のように光っています。読んでみると、

  『牛とのみ思いすごすな
        仏の道に
   汝を導く 己の心を(われ観世音)』

の御歌でありました。

さすがのお婆さんも、今まで心の奥に眠っていた仏心が忽ち眼を開き、六十六才にして初めて仏恩の偉大なことを知って、我欲を捨て信仰の道に入ることができました。その夜は御仏の前で称名を唱えてあかし、取られた布の行方を尋ねる心も捨てて家に帰りました。

後日、近くの観音堂に詣でたところ、布は,思いがけなく堂内に安置されている観音さまお身体に掛けられているではありませんか。それを見たお婆さんは、牛と思ったのは、実は観音さまの化身であったのではと,ますます善光寺如来への信仰を深めて、極楽往生を遂げたと言うことです。

この仏さまこそ、布引観音のご本尊であり、これが世に、「牛に引かれて善光寺まいり」と語り伝えられているお話であります。

『春風や 牛に引かれて 善光寺』 一茶

 

なるほど…と思いました。

 


思えば、私の人生「牛にひかれて善光寺」の連続だなあと思いました。

いつも目の前に、ひらひらと手招きがあって、

追いかけて、追いかけて、どんどん進んでいくうちに、

思ってもいない良いことが起きていきます。

不思議なことに、悪い方に行ったことがありません。

 


この夏、歓喜童子たちが私をいろいろなところに誘ってくれます。

一遍上人ゆかりの地を相模原、藤沢、片瀬海岸の近場から

長野に入って佐久、そして善光寺…と。

 


私は不思議な思いで佐久から新幹線に乗り、終点長野で降りました。

駅に立つと、思わぬ暑さにクラクラきました。

アポをとっていた信濃毎日新聞社文化部記者Uさんと30分ほど

一遍上人についての話をして、

抜け道を歩き、善光寺行きのバス停に案内していただく間も

思わぬ雑談に花が咲きました。

 


「一生に一度は善光寺参り」と言われている善光寺は一光三尊阿弥陀如来を本尊としています。この本尊は552年に百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれています。一度は廃仏派の物部氏に難波の堀江へと打ち捨てられたのですが、信濃国司の従者として都に上った本田善光が信濃の国へお連れし、最初は飯田でお祀りされて、後の642年、現在の場所に遷座され、644年に勅願により伽藍が造営され、善光寺と名付けられました。

 


鎌倉時代源頼朝、北条一族の手厚い保護を受け、信仰は広まり、親鸞聖人、一遍上人も参拝しました。

戦国時代は川中島武田信玄上杉謙信信濃の覇権をめぐり争いました。

1555年、信玄は善光寺を丸ごと甲府に移しましたが、武田滅亡後、本尊は織田、徳川の祀るところとなり、最後は豊臣秀吉が京都・方広寺の本尊としました。が、秀吉の死の直前、如来様が枕元に立たれ、信濃に戻りたい旨をお告げになり、1598年、四十数年ぶりに善光寺にお帰りになりました。

 


太平の世が続いた江戸時代は「一生に一度は善光寺詣り」と多くの人々が参詣しました。念仏を唱えて一心に祈る者を皆極楽浄土に導いて下さると、一貫して男女平等の救済を説く寺院として知られていたため、女性の参拝者が多いことが特徴です。

f:id:tw101:20200913113808j:image善光寺仁王門

f:id:tw101:20200913113842j:image善光寺山門

f:id:tw101:20200913114019j:image日本忠霊殿

f:id:tw101:20200913114206j:image鐘楼

 

 

 

 


午後の光が眩しい参道を上がり、善光寺の境内に入っていきます。

平日のせいか、コロナ禍のせいか、人気もまばらな境内は、

セミの声もなく、静寂に包まれていました。

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その時、鐘の音が響きました。

厳かで、心をあらわれる音が五臓六腑に響きます。

天を仰いで平和を祈りました。

 

 

 


記者のUさんおすすめのお蕎麦屋「元屋」は

残念ながらすでに閉店していましたので、

走るようにお蕎麦屋さんを探し、

「駆け蕎麦」をいただきました。

 

 

 


そして、走った「参道」の由来を知ったのは、

写真整理していた新幹線の中でした。

 


史跡 善光寺参道(敷石)

善光寺参道(敷石)は、宝永4年(1707年)、本堂が仲見世地蔵尊付近から現在地に移転竣工の後、

7年目にあたる正徳4年(1714年)に完成しました。

 本堂普請の後、参道の路面状態が悪く、参詣人に難儀をきたしていたため住職と篤志家によって寄進されました。

伝説によれば、現在日本橋3丁目で石屋を営んでいた大竹屋平兵衛は、伊勢出身で、江戸で財をなしましたが、放蕩息子の長男は家へ寄り付きませんでした。ある夜、盗賊が入ったので、突き殺すと、それが我が子でありました。平兵衛は世の無常を感じ、家を後継者に譲り、巡礼の旅の途中善光寺に来て、諸人の難儀を救うために敷石を寄付しました。後に平兵衛は出家し、1726年に没しました。

その後も平兵衛の子孫は敷石の修理をしていたそうです。

 

敷石は7777枚に及んでいて、一部補修をしているものの、大部分は当初のままで、

これほどの規模を持つ近世以前の敷石の参道は、全国的にも稀だそうです。

 

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f:id:tw101:20200913115222j:image 見事な敷石 堂々とした構えをした香のお店

 

 

 

 


善光寺は宗派という概念がない頃に創建されたため、

誰でも参拝できる無宗派のお寺です。

おごそかながら、庶民に開かれた、親しみ安さと明るさがありました。

 

 


一遍上人は二度善光寺参りをしています。

善光寺の持つ庶民的な明るさを時衆と一緒に楽しみ、

佐久へと旅を続けたのかなあと思うと、

佐久小田切の里への見方も少し変わったように感じました。

 


「いっぺんにこころひかれて善光寺…」壽實

 


今度は宿坊に泊まって、お戒壇めぐりもしたいと

後ろ髪を引かれるおもいで帰路につきました。

 

旅は続きます。

 

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NO.200 一遍上人⑧《踊り念仏発祥の地へ》

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満天の星を観たいと思い立ち、

急遽、お友達と八ヶ岳グレイスホテルに宿を取り、

★星空観測ツアー★を企画しました。

生憎、雨模様。

晴れ女パワー全開でも、小雨の降る一夜でした。

残念無念。

 


気を取り直して、

翌日、同行お友達と別れ、一人レンタカーを駆り、

一遍上人 踊り念仏発祥の地を訪れました。

 

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「佐久 踊り念仏」とGoogleで調べてると、

「西方寺」が佐久市ホームページにトップで出てきます。

跡部踊り念仏保存会」の手により、

現在、佐久市内で受け継がれている西方寺の踊り念仏は、

国の無形重要文化財指定されていて、

例年、4月第一日曜日に本堂内道場で踊り念仏が行われています。

西方寺の宗派は浄土宗。本尊は阿弥陀如来です

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「遊 捨て聖 一遍上人 踊り遊ぶ」を携えての表敬訪問。

朝9時半、幸運なことにお出かけ前の住職さんにお目にかかれました。

 


一遍上人と踊り念仏ことをお聞きしました。

お出かけ前の忙しい時に関わらず、お話して下さいました。

「きれいどころを連れて、善光寺帰りの一遍さんが、

このあたり、あちこちで踊り念仏を踊っていたけど、

だんだん忘れられてしまったとこもあったりしてね、

残っているのが、うちと金台寺さん。

あ、ちょっと待ってね。」

 


とおっしゃり、すぐにお持ちくださった本が「跡部の踊り念仏」でした。

「普通はお見せするだけだけど、あげます」と手渡ししてくださいました。

 

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「今度、ゆっくりきなさいよ。中も案内するから」と気さくな住職さん。

感動!感謝!

お礼を申し上げて、お暇しました。

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金台寺(こんだいじ)は伴野時直が創建した時宗のお寺です。

本尊は阿弥陀如来です。

静かなお庭を拝見して、写真を撮って、

西方寺住職さんに薦められた佐久市役所観光課を目指して車を出しました。

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諸説ありますが、踊り念仏は小田切の里が「初演」だったようです。

その場所がどこか…がミステリー。

近くに小学校と幼稚園がある辺りという栗原康先生の情報が頼りです。

 


ところが、佐久市役所観光課で聞いてもわからず、

佐久市教育委員会 文化財事務所を紹介されました。

車で5分ほどのあるようで、早速、行ってみました。

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最初に応対してくださった職員さんはわからず、奥から出ていらした方が、

「切原小学校入り口の信号脇にある農協さんに碑がありますよ」

と地図を見ながら、教えてくれました。

やったー! 野辺山から来た道を戻り、目指す農協に行きました。

そこには、お目当ての、それほど古くない碑がポツンと建っています。

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少し先にある小学校脇の空き地に車を停めて、

辺りを歩きました。

何ないところです。

そこで想像の翼を広げて行きました。

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踊り念仏の精神 〜壊してさわいで、燃やしてあばれろ 

それからおなじ佐久郡の小田切の里にむかった。

ある武士の屋敷をたずねていく。この武士がだれなのかはわかっていない。

じつはこの伴野というのは、おじさんの通末が承久の乱でつかまって流された場所である。『一遍聖絵』をみると、屋敷の庭に土饅頭型の塚があるので、これがおじさんの墓なんじゃないかと言われている。一遍はおじさんをていちょうにほうむってくれた恩人の家をたずねたのだ。でも、おじさんは、鎌倉幕府とっては重罪人なわけでおおっぴらにすることはできない。そういうこともあって、恩人にめいわくをかけないように、『一遍聖絵』では名をふせているのだ。

 一遍たちは、その屋敷にとめてもらって、おじさんさんの供養をやった。さいしょは屋敷のなかでだろう。みんなでナムナム念仏をとなえはじめた。たかく、たかく舞いあがっていくその声が、おのずとみんなを浄土にいざなっていく。体中にふるえがはしり、心と体が躍動していく。ああ、ああ、こりゃもうたえらんねえ。ちええっ!ちええっ!とつぜん、一遍が狂ったようにおどりはじめた。はげしく肩をゆすり、あたまをブンブンふって、手をひらひらと宙に舞わせている。そして、おもいきり地をけりとばし、全力でとびはねている。ピョンピョンピョンピョンとびはねて、ピョンピョンピョンピョン、またはねる。しかも、それでもまだものたりないと、クルッとまわってまたはねる、クルッとまわってまたはねる。なんだ、このうごきは、みたことがないぞ。もしかしたら、だれかが、おいおい一遍さん、あんただいじょうぶですかとやめさせようとしたかもしれない。でも、一遍にはもうきこえない。むちゃくちゃきもちよさそうに、満面の笑みをうかべて、ピョンピョンピョンピョンとびはねてる。

やばい、一遍が人間じゃなくなってしまったかのようだ。だけど、すごくたのしそうだ。おれもやってみようか。わたしもやってみようか。ひとりまたひとりと、一遍をマネしておどりはじめた。裸足のまんまで庭にとびだし、ナムナムナムナム、念仏の声にあわせながら、ピョンピョンピョンピョンとびはねて、ピョンピョンピョンピョンまたはねる。クルッとまわってまたはねる。やりはじめたら、おもしろくてとまらない。無我夢中だ。お坊さんも尼さんも、時衆みんなが庭にとびだして、輪になってグルグルとまわっている。自然と反時計回りにまわっていて、ナムナムナムナム、念仏にあわせてうごいていく。声のスピードをどんどんあげれば、体のうごきもどんどんはやまる。もっとはやく、もっとはやく。声のたかさをどんどんあげれば、どんどんどんどんはげしくはねる。しかもこれ、円をえがいてまわっているわけだからエンドレスだ。30分もすれば、汗がダラダラふきだしてとまらないし、1時間もすれば息がきれて窒息しそうになる。それでも一遍たちは、いつものように念仏を何時間も何時間もとなえつづけた。くるしい、くるしい、死ぬ、死ぬ、死ぬ。

 でも、人間というものはおそろしいもので、死ぬほどのくるしみをなんどもあじわっていると、それがだんだんきもちよくなってくる。

もう一回、もう一回。トランス状態だ。なにも考えない、なにも考えられない。あたまが空っぽになっていく。自分はなんのためにおどっているのか、もうどうでもよくなってしまう。ただくるしい、それが快感なのだ。悲鳴をあげながらも、それでもおどってしまうこの身体。自分はこんなにうごけたのか。すごい、すごい、オレすごい。というか、これまで自分の限界だとおもっていた身体のつかいかたは、いったいなんだったのだろうか。もっといける、もっといける。もっともっと。自分をこわせ。めいっぱい身体をいためつけて、自分の限界のそのさきへとつきすすんでいけ。くるしい、くるしい、くるしい。死ぬ、死ぬ、死ぬ。わたしたちの生きるよろこびは、地獄のくるしみのなかにある。(略)

 この日、一遍たちはとにかくおどり狂った。すさまじい熱気が天空へとまっていく。それにあおられて、というよりも、そのさわぎをききつけて、屋敷の住人や近所の人たちが群れあつまってくる。きっとさいしょは、こいつら狂っているんじゃないかとおもわれていたにちがいない。気づけば、みんなもあおられて、われもわれもと輪にはいってくる。

武士も庶民も女房も、ピョンピョンはねてクルッとまわる。『一遍聖絵』をmkると、みんな恍惚とした表情をうかべているから、よっぽどたのしかったんじゃないだろか。大成功。とまあ、これが一遍たちの踊り念仏のはじまりだ。自然発生的におこったといってもいいし、あるいは、もともと一遍は空也のことを尊敬していたわけで、いつかやろうとおもっていたことが、この小田切の里でやれたんだといってもいいだろう。とにかく、このときの踊り念仏がむちゃくちゃよかったようで、一遍たちは興奮のあまり、ボロボロとなみだをながしてよろこんだ。また周囲でも、なんかすげいのがあるぞ、いちどでいいからおがんでみたいと評判になった。

 

ここはやはり、「死してなお踊れ 一遍上人伝」を引用させていただきました。

栗原先生の文章から踊り念仏の躍動感が伝わってきます。

 

 

f:id:tw101:20200910115538j:image「信州佐久郡伴野市」『一遍聖絵
f:id:tw101:20200910115543j:image「信州小田切の里」

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叔父、通末への慰霊・鎮魂の思いがあったとしても、

きれいどころの尼僧たちの「南無阿弥陀仏、ありがたや〜!」

という呼びかけが大きな引声念仏となっていきました。

みんなが一緒にとびはねて、踊り、興奮と恍惚のエクスタシーの境地で

「踊躍歓喜」と呼ばれるような状態になったとき、

なやましい煩悩は消え去り、

頻発する飢饉や災害や蒙古再来襲の恐怖も薄らいでいったのではないでしょうか。

 


青々した田んぼや、神社の裏山で歓喜童子が踊っている姿がいっぱい見えました。

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コロナ禍で半年以上、ずっとステイホームをしていましたが、

「おんもにいきたい」という原始欲求は募るばかりでした。

今回、久しぶりに雄大八ヶ岳に抱かれて、

流れる雲が変化に富む空を見ながら、

ユーミンの曲を流して、

一人ドライブをしていたら感極まって涙目になってきました。

 


明日の不安を希望に変えるには、

まず、自分の心を変えることだと思いました。

“GO toトラベル”使いようです。

 


そして、次の目的地、善光寺に向かうため、レンタカーを佐久平で返却し、

あさま609号に乗り込みました。

 


初めての善光寺参りは次回へ続きます。

 

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NO.199 『美しい死』〜品位ある医療の、ひとつの結末〜

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お誕生日を迎えました。

 

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直後、尊敬してやまないゴスペルシンガー松谷麗王先生の訃報が届きました。

あまりに突然の急逝に驚き、言葉もありませんでした。

神さま、なぜ、なぜ、レオ先生を召されたのですか。

まだ51歳という若さなのに…と

何度も神様に問いました。

 

ふと見上げた空を見ていたら、レオ先生が天国で亀渕友香さんに迎えられ、

神様の御許で高らかに神様を賛美している姿が浮かんできました。

神様の平安がありますようにと祈りました。

 

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8月は終戦記念日があるがあるからでしょうか、

『生と死』に思いを寄せる時間が多いように思えます。

 

そういえば『美しい死』について書いたことがあった!

FBの過去のノートに書いた文章をもう一度読み返してみたいと捜して、

やっと見つけました。

2014年8月14日に書いたものです。

 


上智大学内の聖三木図書館の本棚で最初に私を呼んでいた本が

森亘先生の著書「美しい死」でした。

真っ白な美しい装丁の本を開くと、「寄贈」という朱印がありました。

森先生から贈られた大切な一冊。

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人間の「生と死」に関わる医療従事者や医学生たちへの講演で

お話しされた原稿をまとめられたものですが、

結びの章「美しい死」は何度読み返しても心を打つ文章です。

敬愛する恩師が亡くなられ、

生前恩師から望まれていた人体解剖が終わったときに感想を聞かれて、

森先生は「美しい死」という言葉で表現されました。

なぜ、そんな言葉が口をついたのか、

先生は自分の考えをこう書かれています。

 

 

このように節度ある治療を受けた遺体の内臓にはある種の美しさがあると気づきました。

たとえば、最先端の医療を受けた例でも、それが適度であれば遺体の残された変化はむしろ古典的ですらあり、美しいと呼びうる姿であります。

節度ある治療とは合理性一点張りの結果でなく暖かい「こころ」に裏打ちされた合理性であると考えます。

そして節度ある医療とは同時に品位ある医療であり、患者の人間としての尊厳が守られることにも通じます。

人間というものはしょせん、いつかは死を迎えなくてはならぬ運命にあることを考えれば、そして死が多くの場合、医療の最終手段として訪れるものであるならば、医療というものは、人間の人間らしい自然の死を助けることで、自分の身体の中に秘められている自然の力による治癒を側面から助けると共に、その人生の最終段階においては、自らに運命づけられた自然の死を助けるのも、医療のもつ役目でありましょう。

「必要にして十分な医療」「節度ある医療」あるいは「品位ある医療」をどう行うかの適切な判断は、「知識」「教養」「品位」の三者を併せ持つ医師によってのみ初めて下しうるものであり、今日の医師にはこうした高度の資質が求められています。医師というものは、その人生において、自らをある程度犠牲にしてでも、広く人々に奉仕せねばならない使命と運命を背負っていると自覚しなければなりません。そしてそれに見合うだけの物質的報酬は必ずしも期待できません。

得るものがあるとすれば、一方では自らの誇りであり、他方、社会の中での尊敬でありましょう。

みなさま、どうか若者に対し、医師とは正しく誇り高く、世の尊敬を集めるべき職業であることを説かれ、『知識』と共に『教養』ならびに『品位』を与えていただきたいと存ずる次第でございます。

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森亘(もり わたる、1926年1月10日〜2012年4月1日)

日本の病理学者、東京大学名誉教授・元学長。

国立大学協会会長。元日本医学会会長。医学博士(1957年)。

東京生まれ。

2012年4月1日、肺炎のために、東京大学附属病院で死去。

86歳没、叙従三位。(Wikipediaより)

 

 

 

平成11年 日本医師会創立50周年記念大会・特別講演でのお話しの大意です。

読んでいて、簡潔な文章に込められた深い意味に、何度も肯きました。

そして、この資質は医師のみならず、

政治家・法律家・会社経営者・教師・聖職者という特別な職業に就く人々のみならず、

必ず滅びゆく一人の人間として持ちたいものだと思います。

 

 


日本学士院会員、文化勲章受賞、多くの財団の顧問をされるなど、

輝かしい経歴に目も眩む思いですが、素晴らしいのは、

そんな経歴は微塵も見せない慎み深さです。

 


このノートを書いた6年前、

私は「ろうけん」のショートステイしていた父と向き合っていました。

過去の複雑な事情により、一度も一緒に生活をしたことのない父でした。

母の死後、まもなく再婚した相手にも先立たれた父。

「俺は好きなように生きる。お前の世話にはならない」と豪語していた父が、

肺気腫となり、夏の暑さで一人暮らしは無理となっての「ろうけん」入居でした。

「お前に世話になるとは思わなかったな。ありがとうよ」と言う父は

病院スタッフの手厚いケアを受け、最期の日々を穏やかに暮らし、

翌年の夏も、好物にうな重を二度、ペロリと平らげる食欲を見せ、

秋に天寿を全うしました。

 


祖母は54歳、母は44歳で亡くなったので、

私は34歳までしか生きることはできないと10代後半にして、

かなり本気で思っていました。

その思いが激変したのは、長男を出産したときです。

『死の恐怖』という暗闇が消え、

圧倒的な『生命』の息吹きを感じ、

『生と死』を均等なバランスで考えるようになりました。

 


1988年8月第三子を身篭っていましたが、

夏の暑さで体力が落ち、何かの感染症にかかってしまったのか、

熱が42度も出て、陣痛のような痛みが続き、

赤ちゃんは救急車の中で頭が出てしまいました。

8月22日、安定期に入っての死産でした。

母体も危険な状況だったので、自然分娩の形で胎児が出てしまったのは、

お母さんにとって一番良い形でしたと説明を受けても、涙が止まりませんでした。

我が子の生命を守れなかった母の嘆きと苦しみは深く、立ち上がれないと思いました。

 

でも、聖路加国際病院のドクター、ナース、チャプレンの

心のこもった行き届いたケアは、私の心を優しく包み、

退院する頃には悲しみは消えずとも、悲しみと共に生きる力を取り戻し、

二人の子どもが待つ家へ戻っていくことができました。

スタッフのみなさまには心から感謝をしました。

 


コロナ感染拡大で医療現場はどんなに困難な状況になっているのか、

ニュースやSNSで垣間見る程度しかわかりません。

きっと、想像以上のご苦労があり、

過大な犠牲を強いられているのではないかと思うと、感謝にたえません。

 


いかに生きるかを考えていた青春時代、

いかに生活するかを考えていた壮年時代、

そして今、いかに人生を終うかを考えるときが始まりました。

 


「美しい人生」を豊かに過ごして、「美しい死」を迎える準備をして、

次の世代にバトンを渡せていけたらと思います。

 

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NO.198 一遍上人⑦ 一遍上人と聖フランチェスコ

 

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一遍上人を追いかけているうちに、

一遍さんって、アッシジの聖フランチェスコに似てるなあと思いました。

そこで、調べてみますと、本がありました!

 

家田足穂先生著《『捨てる』という霊性ー聖フランチェスコ一遍上人》です。

さっそく、Amazonで手に入れました。

 

家田足穂先生は一遍上人の他にも良寛禅師と、

明恵上人との類似性についても論じていらっしゃいますが、

ここでは一遍上人との似ている点をあげていきたいと思います。

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昨年、第266代ローマ教皇フランシスコが来日された時に、

映画『ブラザーサン シスタームーン』についてブログで書きました。

その時も、太陽月を兄弟姉妹と呼ぶアッシジの聖フランチェスコ

どこか東洋的だなあと思いましたが、

今回、一遍上人との類似点があることで、

興味が深くなっていきました。

 


聖フランチェスコのことは下記のブログをお読みください。

「平和の祈り」もあります。


https://tw101.hatenablog.com/entry/2019/11/23/091722

 


さて、フランチェスコは謙虚に民が使う言葉で説教をしました。

身振り、手振りを交え、踊りや歌、音楽を用いて福音を伝えました。

都市、農村を問わず社会的に虐げられた人たちの中に出かけて、

「主の平和があなたと共にありますように!」と呼びかけました。

既存の教会制度の中では、これまでになかった福音宣教の新しいあり方でした。

彼の愛と慈しみは世間の常識を超えた

「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、

あなたがたも人にしなさい。

これこそ律法預言者である」(マタイによる福音書7章12節) 新共同訳聖書

というキリストの愛の教えの忠実な実行でした。

 


聖フランチェスコ一遍上人の、この世における願いは、

すべての被造物全体、森羅万象が神や仏を称え、差別なく救われる幸福を伝え、

また、「南無阿弥陀仏」の念仏勧進によって救われた歓びを確実にしようとしたのです。

 

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聖フランチェスコ一遍上人も、一切を「捨てること」で、

新しい世界を見出していきました。

 


余分なものを捨て去って、大いなるものを信頼し、信じ任せる境地こそ、

究極の幸福・喜び、

「永遠の命」と「無量寿」の道なのです。

 

 

 

ここで家田足穂先生の文章を引用します。

 


「真の平和を実現するために」

フランチェスコとその兄弟たちが、出会うすべての人々に「神の平和があなたたちの上にありますように」と伝えた挨拶の「平和」は、現代の世界で最も広く強く求められている。平和を実現するためには、人間の諸権利が認められる正義が必須の条件であるが、正義だけでは現実の諸問題は解決されない。いつの時代でもそうであるが、必ず存在する「政治的・社会的弱者」に対する配慮がないところに「平和」は実現されない。

 正義と平和が深くかかわるように、「平和」と「命」は深い結びつきを持っている。

生命の本来の在り方は幸福に生きることである。

 欠けたところのない状態の「平和」は、人間に与えられている諸権利が保障され、支配による不自由や抑圧、貧困や欠乏からの解放によって幸福に生きることである。そのためには、必要とされるものが最低限において満たされなければならない。

完全に満たされている状態が「平和」である。フランチェスコや一遍たちは、まずこのようなことに心を注いでいた。

 さらに「平和の挨拶」の深い意味は、この欠けたところのない状態をいう「完全に満たされた命」ー「神の平和」を人々に知らせることであった。すなわち、神の国おける「永遠の命」を完全な善である父なる神のうちに見いだすことであった。

「神と一つになる」神の愛の充満における至福こそ、「平和の挨拶」の究極の目標であった。「神の平和」とはこのような世界をいうのである。

 また、一遍たちが諸国遊行の旅で勧めた念仏「南無阿弥陀仏」は、欠けたところなき「完全円満」の阿弥陀仏と融合一体、つまり、極楽浄土での往生・成仏を確信させるものであった。念仏によって救われた「無量寿」の魂は、大いなる生命のうちにある「絶対のやすらぎ」(涅槃・寂静)の世界にあるのであった。

 フランチェスコにおいても一遍においても、一切のものを捨てた「回心」の中で究極に求めたものは、すべてのものに勝る価値のあるもの、神の国における「永遠の命」であり、極楽浄土における成仏、「無量寿」であった。

 フランチェスコの「平和の挨拶」を受けた人々は、彼が語り勧める福音の言葉を信じ、喜びにあふれながら「永遠の命」にあこがれを抱いた。また、一遍ら時衆の踊り念仏の中で救われた者の歓喜を体現し、念仏を唱えた人々は、阿弥陀仏と一つになる成仏を信じ、安心のうちに生きる歓びを実感した。生きることのさまざまな選択肢に恵まれず、欲求や欲望の選択肢の乏しかった時代の人々は、幸いにも最高の価値を求め易かったかもしれない。

 

 

二人が生きた時代は 

一遍上人が1239年〜1289年 

フランチェスコは1182 年〜1226年と、

フランチェスコの方が50年ほど先に生まれています。

一遍上人は捨て聖、

聖フランチェスコは清貧の聖と呼ばれています。

 

二人とも托鉢をし、ハンセン氏病患者や貧困者の救済をしました。

道場や、教会組織を持たず、山河草木、小鳥や野生動物、太陽月、波にも

阿弥陀仏の声、神の声を聞きました。

 

一遍の行動は聖戒、円伊によって描かれた絵巻物、

フランチェスコはジオットーで描かれた壁画で行動を知ることができます。

 

この二人がイタリアと日本という遠く離れた場所で

ほとんど同じようなことを考え、実践したことは不思議で、

すごいことだと思います。

 

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左が聖フランチェスコ、右は一遍上人襤褸もどことなく似てますね。

 

 


今日は75回目の終戦記念日です。

一年で一番「平和」を考える日であると思います。

 


「平和」は誰かが、どこからかひょい!と持ってきて、

ほい!とくれるものではないですね。

 


コロナウィルス感染拡大が原因で引き起こされている人災も含めての

コロナ禍で経験したことのない生活を強いられている今、

特別、平和に生きるということの意味を噛み締めたいと思います。

 

 

 

聖フランチェスコの賛歌です

 

 


            
          《 兄弟太陽の賛歌 》(被造物の賛歌)

 


 高くましまし、いつくしみ深い全能の主よ。
 あなたの賛美と栄光と名誉、そしてすべての祝福があります。
 あなたはそれにふさわしいからです。
 あなたのみ名を呼ぶにふさわしいものは、この世にひとりもおりません。

 


 賛美を受けてください、私の主よ。
 あなたがお造りになったすべてのもの賛美を受けてください。
 とくに私の兄弟、太陽の賛美を受けてください。
 太陽は昼を来させ、その昼の間、

 あなたは私たちのために光を注いでくださいます。
 太陽は美しい、大きな輝き。


 高くましますあなたのお姿は、太陽の中にうかがうことができます。

 


 賛美を受けてください、私の主よ。私の姉妹、月と星の賛美を。
 あなたは空の中に、月と星を明るく美しくお造りになりました。


 
 賛美を受けてください、私の主よ。私の兄弟、風の賛美を。
 大気と雲と晴れた空の賛美を。
 これらの兄弟もとに、あなたはすべての生者を養ってくださいます。

 


 賛美を受けてください、私の主よ。私の姉妹、水の賛美を。
 水は役立ち、つつましく清らかです。

 


 賛美を受けてください、私の主よ。私の兄弟、火の賛美を。
 火を使ってあなたは夜を照らしてくださいます。
 火は美しく楽しく、勢いよく力強いものです。

 


 賛美を受けてください、私の主よ。
 私の姉妹、母親だ大地の賛美を。
 大地は私たちを育て、支え、たくさんのだものを実らせ、
 きれいな花と草を萌え出させます。

 

 


 賛美を受けてください、私の主よ。
 あなたへの愛ゆえにゆるし、病と苦しみに耐え忍ぶ者のために。
 しずかに平和をまもる者はしあわせです。
 いと高くまします主よ、そのひとたちは、あなたから、栄冠を受けるからです。

 

 


 賛美を受けてください、私の主よ。
 私たちの姉妹、肉体の死 の賛美を。

 


 生きるものはすべてこの姉妹の手から逃れられない。
 大罪を背負って死ぬものは不幸ですが、
 あなたの聖なる御旨を行ないながら死ぬものは幸いです。
 第二の死 にそこなわれることはもうありません。


 
 賛美しよう、歌をささげよう。
 感謝の歌をささげ、深くへりくだって、主に仕えよう。


               
              [ 小川国夫訳 ] ゆるしと平和の節

 

 

 

 

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もう一つ、つけ加えたいお話です。

フランツ・リスト の作品に「巡礼の年第2年 イタリア 『二つの伝説』」

第1曲 「小鳥と語るアッシジの聖フランシス」があります。

ピアニストの久元祐子さんからお聞きしたのですが、

聖フランシスが語りかけていたのは、

愛らしい小鳥ではなく、

墓地で死体をついばむカラスやカササギ、ハゲタカの類だったようです。

人間たちはちっとも耳を傾けてくれない中で

嫌われものの鳥に語りかけていたのです。

想像すると、ちょっと怖い絵が浮かびます。

 

しかし、それが、福音宣教の本質、弱者の救済になるのだと思います。

話終わった聖フランチェスコが十字を切った後、

鳥たちが東西南北四方八方に飛び去る姿は

弟子たちの福音宣教に姿に重なります。

 

最後に、

僧籍に入ったリストの曲を聴いてください♫

 

https://youtu.be/ixRlje6TvQU

 

南無阿弥陀仏

 

主の平和があなたにありますように!

 

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NO.197 一遍上人⑥ 一遍さんの生涯

 

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「遊 捨て聖 一遍上人 踊り遊ぶ」がAmazon

浄土宗部門で売上ランキング2位に浮上

という嬉しい知らせが治海さんから届きました。

 


堂々1位は栗原康さん「死してなお踊れ」です。

すごいです。

 



 


嬉しいことがあると 俄然 元気がでてきますね。

さて、これまで一遍上人について書いてきましたが、

いよいよ、その生涯を紹介します。

 


様々な文献がありますが、その中で圧倒的な面白さ、

栗原康さんの一遍上人年譜を引用させていただきます。

 


Amazon Kindleの文章コピーには制限があり、

先日の浄土宗の文章も、この年譜もiPadで入力しました。

大変な作業でしたが、おかげさまでしっかり頭に入りました。

コピぺだけではダメなのだなあとつくづく思いました。

さて、一遍上人の生涯は…

 

 

 

1239年(1歳) 伊予の道後(愛媛県松山市)でうまれる。うぶ湯はとうぜん道後温泉だ。温泉うまれ、温泉そだち。父は河野通広。幼名は松寿丸。

 


1249年(10歳) 母の死をきっかけに出家。随縁と名づけられる。

 


1251年(13歳) 修行のため九州の太宰府へ。浄土宗西山派聖達に師事。とおもったら肥前佐賀県)、清水寺の華台にあずけられる。ありったけの経典と注釈書をよんでくるのじゃあ。華台から智真と名づけられる。わずか一年で教義をきわめる。華台もビックリ。ふたたび聖達のもとへ。師匠によろしく!

 


1263年(25歳) 5月24日、父の死をきっかけに還俗。病身の兄をたすけるために、故郷にもどる。あんちゃ~ん! 屋敷をかまえて結婚。煮ても焼いてもセックスだ。奥さんふたりに子どもふたり。アンアンノンノン観音さん。智真、世俗にまみれる。

 


1271年(33歳) 親類の恨みをかって、数人の郎党に襲撃される。闇討ちだ。刀をうばってかえりうち。殺、殺、殺、されど殺。血まみれじゃあ! またこのころ奥さんふたりの愛憎嫉妬、ドツボにはまってどっぴんしゃん。ある日、碁盤をまくらに寝ていた奥さんたちの髪がヘビになって喰いあっているさまを目撃。ギャア!!! からみあうヘビを碁盤ごと刀でぶった切った。出家だ、再出家しかねえ。この春、聖達を再訪。帰りに長野の善光寺によって二河白道図をみる。秋に帰郷。窪寺の閑室にこもって、十一不二の頌をつくる。

 


1273年(35歳) 7月、菅生の岩屋へ。半年ほど山岳修行。

 


1274年(36歳) 2月8日、いざ遊行へ。家も子も地位も財産もなげ捨てて、身ひとつで念仏をひろめにゆく。捨ててこそ。あ、あれ? 奥さんと娘も出家してついてきてしまった。チャチャチャ! まずは大阪、四天王寺へ。「南無阿弥陀仏」とかかれた念仏札をくばりはじめる。このころから一遍を名のる。夏、熊野本宮へ。信心のないお坊さんにも念仏札をくばる。その夜、熊野権現から啓示。信不信を問わず、浄不浄をきらわず。いいよ。その後、奥さんと子どもを伊予にかえし、一人北九州へ。10月、蒙古軍が筑前(福岡県)に侵攻。元寇(文久の役)だ。一遍は戦地をまわる。むし湯をつくってケガ人の治療。よっ、テルマエ・ロマエ!翌年の秋、伊予にもどる。

 


1276年(38歳) ふたたび九州へ。遊行してまわる。豊後(大分県)では、守護の大友頼泰の帰依をうける。鉄輪温泉はじめました。ここにしばらく滞在し、他阿弥陀仏・真教がなかまになる。好(ハオ)兄妹!こののち、遊行には複数人が同行する。

 


1278年(40歳)  備前(岡山県)の藤井へ。吉備津宮の神主の家をたずねる。息子さんの留守中にその奥さんを出家させる。おせっかい上等でございます。帰宅後、怒った息子さんは一遍をおいかけ、福岡市で刀をぬいてきりかかる。一遍、これを眼力で撃破。ハ、ハウ。息子さん出家し、あたまをまるめる。これをみていた町の衆、われもわれもと一遍に帰依。いっきに280に人だ。マジヤベエ!

 


1279年(41歳) 秋、信濃(長野県)佐久郡伴野へ。小田切の里で、ある武士に屋敷に滞在。ここで自然発生的に踊り念仏がはじまる。ちええっ!ちえええっ!この冬、おなじ佐久郡大井太郎と、その姉さんが帰依。うちで踊り念仏と屋敷にまねかれる。ぜひもなし。三日三晩、数百人でおどり狂う。あまりはげしさに屋敷の板敷をぬいてしまった。フオオオオ、フオオオオオオ!!!壊してさわいで、燃やして、あばれろ。

 


1280年(42歳) 夏ごろ、長野を出て東北へむかう。奥州江刺郡(岩手県北上市)へ。承久の乱流罪となったおじいちゃん、河野通信のお墓参り。あばよ、じいちゃん。反乱上等、念仏よし。仏のまえではみな平等。いまいばっているやつがなんだ。この腐りきった武士の世に、念仏の火の玉をブチこんでやれ。いくぜ、鎌倉!

 


1281年(43歳)  5月、ふたたび蒙古襲来(弘安の役)。7月、暴風で退却していく。一遍たちはとにかく鎌倉をめざした。戦争はキライ。だまされねえぞ。鎌倉幕府。したがわぬえぞ。戦争動員。国土じゃねえよ。浄土だよ。

 


1282年(44歳) 3月1日、鎌倉の小袋坂へ。視察にきていた北条時宗の一行に制止される。一遍かまわず突進。棍棒でボコボコにされる。いたいよ、チキショウ!翌日から片瀬の浜辺へ。踊り屋をたてて、踊り念仏を決行。貴賤あめのごとくに参詣し、道俗雲のごとくに群集す。7月16 日までおよそ120日間、ぶっとおしでおどり狂った。いま死ぬぞ!いま死ぬぞ!死してなお踊れ。

 


1283年(45歳)  尾張萱津(愛知県あま市)の甚目寺へ。町の有力者からやたらと食べ物がとどく。一遍はそれで大規模な炊きだしをやった。乞食も非人も上下の貴賤なく、みんなで同じ釜の飯を食らう。その後、貧民救済の炊きだしが慣例になった。うわさをききつけた近隣の悪党たち、一遍を支持。「この坊さんに手をだしたらブチ殺すぞ」との高札をだす。

 


1284年(46歳)  4月16日、京都四条京極釈迦堂(現、染殿地蔵院)にはいる。ここで踊り念仏。すさまじいひとの群れだ。テンションのあがった一遍は、肩車をしてもらって狂ったように念仏札をバラまいた。ホレ!ホレ!その後、空也上人ゆかりの市屋道場(金光寺)へ。ふたたび踊り念仏。熱気、熱気、熱気。大盛況だ。はねろ、はねろ、はねろ。散って狂って捨て身ではねろ。シャー!

 


1285年(47歳)  美作(岡山県)の一宮中山神社へ。差別をうける。一遍に同行していた乞食、ハンセン病者はケガレているからはいれないという。なんだこのやろう、ふざけやがって。

ヤッチマイナ。神社の中でさわぎまくった。コメだせ、コメだせ、コメをだせ。おそなえ用の御釜でコメをたかせて、みんなに平等にふるまわせた。ざまあみやがれ。

 


1287年(49歳)  播磨(兵庫県)の書写山円教寺へ。絶景、そして秘宝・如意輪観音像に大感動だ。生きててよかったさ〜♪気分上々。山をおりたあと松原八幡神社にはいり、そこで「別願和讃」かく。

 


1288年(50歳)  伊予へもどる。12月、大三島大山祇神社へ。翌年2月、神事に生贄はいらねえとムダな殺生をいさめる。

 


1289年(51歳)  7月初旬、淡路島へ。一遍は体調がわるい。もうこれ以上うごけない。でもたのまれれば、いつでも死ぬ気で踊り念仏だ。いけ、いけ、往け、往け。おまえの命はいきるためにながれている。7月中旬、死期をさっし、大輪田泊(兵庫県神戸市)の観音堂(現、真光寺)にはいる。8月10日、もっていた書籍をすべ燃やす。「一代聖教みなつきて、南無阿弥陀になりはてぬ」聖典はいらない、教団はつくるな、念仏でゆけ。8月23日、死去。遺言はこれだけだ。「わが屍を野に捨て、獣にほどこずべし」一遍、カッコイイ。死んでからが勝負。いくぜ極楽、なんどでも。

 


なんとまあ、ロックンロールの生き方…でしょうか。

 


最期を少し補足します。栗原さん、ごめんなさい!

8月10日、(奇しくも、私のお誕生日)所持していた書籍類を阿弥陀経を読みつつ焼却してしまいました。

8月9日から7日間紫雲がたなびき、17日酉刻、御臨終といって人々がさわぎだします。

が、最後の札を授ける力は残っていて、20日から22日の3日間は水垢離をしました。

そして、8月23日の辰の始、往生。時衆及び結縁衆7人、一遍上人を追って、

前に海に身を投げてしまいます。

遺言にしたがって一遍上人の御遺体は野に捨てる…ことはされず、

観音堂前の松の下で火葬。在家のものたちが墓所を荘厳しました。

神戸真光寺です。そして、その後、相模原無量光寺に分骨されました。

 


事細かな軌跡がいまもなお残っているのは、

12巻に及ぶ「一遍聖絵」のおかげです。

 

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神奈川県立博物館資料室で調べて、一遍遊行略図を発見したとき、

初めて、遊行先の地理が頭に入りました。

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遊行開始から12年で、本州、九州を徒歩で、

遊行したのはすごいなあと思います。

 


一遍上人をそこまで鼓舞させたものはなんだったのでしょうか。とふと思います。

高邁な思想の果てに辿りついた境地から、というよりも、

なんだかなあ…この人生と思いつつ、ある時、阿弥陀仏の慈悲の本質にはっと気づき、

よし!やってやるぞ!と思い始め、お友達に支えられ…

あっちこっちからのお声かけに呼ばれて遊行していく、

大変そう、辛そう、だけど、とっても楽しそう!という一遍上人の姿が思い浮かびます。

 


先日、お誕生日を迎えて、私も人生とは何かと、考えてみました。

人生100年といっても、誰もが元気で100歳を迎えるわけではありません。

いつ「自分のその時」が来るのか誰もわかりません。

 


さて、これからの「おまけ人生」をどう生きるか…

一遍上人の人生をなぞりながら、思いました。

 


私は16歳で母を失くしてから、

事情があり、父からも独立して、

4つ下の弟の面倒をみながら、なんとか生きてきました。

大変な時もありました。

でも、その都度、その都度、

たくさんの方に助けられてきました。

多くの方から恩をいただきました。

いただいた恩をお返ししたいけれど、

すでに天国に召された方もいらして、

直接お返しできないかたもいらっしゃいます。

いま、縁を結んだ方に

いただいたご恩を送る…

恩返しならぬ、恩送りをしてゆけたらと

思うようになりました。

 

 


できないことを嘆くより、

できることを丁寧にやって

恩を送っていけたら、それは

わたしの一番の幸せなのだと思います。

 

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コロナ感染拡大で大変な状況に置かれて、

困った、困ったと頭を抱えている方も多いでしょう。

こういうときは迷わず神頼み!

神さま、神様、助けて!

仏さま、仏さま、お助けください!

声に出してみるといいですね。

踊ってみるのもいいですね。


きっときっと、幸せになれるという希望をもって

明日を生きることができたらいいですね。

 

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YouTubeのブックバーという番組で

杏ちゃんが「死してなお踊れ」を取り上げていますので、

ご覧になってください!

ご覧になってください。

https://youtu.be/hToPb6OTt1E

 

 

 

 

 

 

 

 

NO.196 一遍上人⑤ 死してなお踊れ

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長い梅雨の後やってきた酷暑の夏、

夏生まれで夏が大好きの私も外出るのを怯んでしまうほどの、

眩しい太陽が照りつけています。

こんな日はじっくり部屋に篭るのもいい時ですね。

 


さて、「遊 捨て聖 一遍上人 踊り遊ぶ」がAmazonでも購入できるようになりました。

これで歓喜童子は日本中にぴょんぴょん遊びにいくでしょう。

 

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絵本のみならず、栗原康さんの栞「気分はなみあみだぶつ」がすごい評判になっています。

栗原康さんは日本の政治学者で専門はアナキズム研究。

著書に『大杉栄伝永遠のアナキズム』や『学生に賃金を』などがある。

東北芸術工科大学にて非常勤講師を務めている方です。

 

Wikipediaによれば、

1979年、埼玉県に生まれる。高校時代に満員電車で気分が悪くなって吐いてしまったところ、サラリーマンに背中をカバンで連打されたという経験がトラウマとなり、それからは満員電車を避け、途中駅の公園で読書をした。ある日公園で読んだ大杉栄の評論がきっかけでアナキズムを研究することになる。早稲田大学政治経済学部を卒業後、同大学院の政治学研究科の博士後期課程を満期退学。白井聡とは同じゼミであった。

2014年、『大杉栄伝 永遠のアナキズム』で第5回いける本大賞を受賞する。2016年、6冊目の著書『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』が岩波書店より刊行された。2017年、池田晶子記念「わたくし、つまりNobody賞」を受賞。

 


と書かれています。

でも、どんな方か…ということより先に、栞の文章に圧倒されて、興味深々。

そこで早速「死してなお踊れ 一遍上人伝」をKindleでダウンロードして読みました。

 


ひらがな80%、ノリの良い軽快な文章、リズミカルで驚くほど、

読みやすく、あっという間に読み終えました。

 


難しい内容を読みやすく書くのが一流。

簡単な内容を難しい文章で書くのが三流…と聞いたことがありますが、

栗原康さんはすごいと心から思いました。

一遍上人の資料を読み、浄土宗についても学んできましたが、

栗原さんの解釈ほどよくわかるものはありません。

 


企画の長屋のり子さんを通して

「引用文をブログに掲載しても良いですか」とお聞きしたところ、

快諾いただきました。

是非、是非、本を読んでいただきたいので、

ここでは「浄土宗」についての文章を

少し長くなりますが、紹介させていただきます。

 

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浄土にいくことは権力とたたかうということとおなじことだ。

 ここからもうすこしだけ、一遍がまなんだ浄土のおしえにちかづいておこう。日本では、平安末期からちょっとずつ浄土のおしえが紹介されてきたが、それがいっきにひろまったには、鎌倉時代にはいってからだ。きっかけをつくったには浄土宗の開祖、法然。じゃあ、この法然はなにをやったのかというと、さすがである。ただでさえわかりやすかった浄土のおしえを、さらにわかりやすくしたのだ。法然は、こういった。法蔵の四八願のなかで、だいじなのは一八願である。これだけでいい、ほかはかえりみなくてもいい、だいじなものはえらんでつかめ、一八願、というのである。

 さきほども一八願についてはすこしふれたが、じゃあ法然はこれをどう解釈していたのかというと、かれは仏の名をよぶというところ注目していた。

オレの名を10回もよんでくれているのに、そいつが救われないならば、オレは仏になんかならなくてもいい、と。これいいかたをかえると、ただの10回でも阿弥陀仏の名をよべば、だれでも極楽にいけるということだ。

南無阿弥陀仏。南無というのは帰依するということなので、わたしは阿弥陀仏に帰依しますよという意味だ。仏を唱えろ、念じましょう。なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。このことばをとなえれば、だれでもかならず救われる。だれでもできる。かんたんにできる。そりゃそうで、アミダはひとを選別しない、われひとりももらさじといっているのだから、そのすくいかたがだれでもできるものじゃなくちゃおかしいのである。なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。ととなえろ。念仏。極楽だ。

 これはとてもラジカルなことをいっているのって、わかるだろうか。ふつううだったら、お寺にはいって、何十年もかけてきびしい修行をして、それにたえたものだけが仏の道をきわめられるとか、そうじゃなくても、お寺にたくさん寄進をして、功徳をつんだふとだけが救われますとか、そんなふうにいわれているのに、法然は念仏をとなえるだけで、だれでも救われますよとかいってしまっているのだから。いいかたをかえると、お寺はいらない。教団もいらない。カネもいらない。権力もいらない。あらゆる権威はいらないんだということである。そりゃあ、いじめられる、迫害される。とりわけ、他宗教のお坊さんたちはカンカンだ。法然がいっていることをみとめてしまったら、たとえ教団のトップになったとしても、ちやほやしてもらえなくなってしまうわけだし、そこまでいかなくても、何年もがんばって修行してきたのに、そんなの意味ねえよといわれてしまうのだから。

 ということで、1204年、天台宗比叡山延暦寺が朝廷にたいして、念仏をやめさせろという上奏文をだした。それから翌年には、法相宗興福寺がおなじような上奏文をだしている。これだけだったら、なんとかもちきったかもしれないが、さらに翌年、法然の弟子二名がやらかしてしまう。後鳥羽上皇、お気に入りの女房たちを出家させてしまったのだ。おそらく、愛人かなんかだったのだろう。やっちまったなあ。

上皇はもう、大激怒だ。1207年、その弟子二名にくわえて、ほかの二名の弟子もまきぞえをくらって処刑されてしまった。法然は僧籍をはくだつされ、土佐に流罪となる。そのほか七名の弟子たちも流罪にされた。ひどいもんだ、これを承元の法難という。 

 でも、法然やその弟子たちはめげやしない。むしろ、いっていることを、どんどん先鋭化させていった。やいやい、そこの金持ちども。おまえら、ほんとうにカネをつんだだけで成仏できるとおもっているのか。ふざけんじゃねえ、仏はカネで買えやしない。やいやい、そこのえらそうにしている坊主ども。おまえら、ほんとうにこむずかしい修行でもつんでいれば、成仏できるとでもおもっているのか。これだけ努力したから、これだけ救われるとか、損得打算じゃないか。仏がそんなみみっちいことするわけがないと。

 だいたい、カネをもっているやつがえらい、仏教にくわしいやつがえらいとかいっていたら、カネ、カネ、カネ、学歴、地位、名誉、もっともっとと、みんなおのれの富をふやすことばかりに駆りたてられてしまうじゃないか。

自分の行為に見返りをもとめ、それでえられたものに執着する。自力我執だ、欲まみれ。仏の世界がそんなものであるはずがない。仏はひとを選別しない。だれでも無条件に救うのである。だいじなのはそれを信じることだ。ほんとうはそれがいちばんむずかしい。だって、なんにもしていないのに救われる実感をもちましょうといっているのだから。でも、やれる。まずは自力我執をうち捨てて、ほかなる力を、アミダの力を信じよう。なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。富も権力もクソくらえ。アミダにまかせろ、絶対他力。浄土にいくということは、権力とたたかうということとおなじことだ。

 


 「承元の法難」の際、流罪になった七名の中に親鸞がいました。

親鸞法然の思想を受け継ぎ、浄土真宗を開きます。

親鸞は「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。しかるを世の人つねにいわく、『悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。』この条、いったんそのいわれあるに似たれども、本願他力の意趣に背けり。」と言っています。

 


これは他力をたのむ心が欠けている作善の人でさえ浄土へ生まれることができるのだから、自力では救れないことを悟った穢悪汚染の人間が、他力をたのめば往生できるのは当然である」ということになります。

この思想の根底には親鸞の「他力本願」の教えがあります。他力本願とは、「南無阿弥陀仏」という念仏によってしか人は救われないとする、親鸞が一生をかけて広め続けた阿弥陀如来にすべてを任せきるという生き方の思想です。

 

 

 

一遍はさらにそのさきへとすすんでいる。経典によれば、法蔵ははるかむかしに阿弥陀仏になっている。ということは、われわれはが救われるということは、もうきまっているんじゃないのか、いやすでに救われているといってもいいんじゃないのか。そうだ、念仏はもうとなえられている、ひとは生きながらにして往生できているんだと。

 ここまできて、あらためて、なにいってんのというひともいるかもしれない。だって浄土にいく、往生するというのは、あの世にいくということじゃないか、死ぬということじゃないのか。なのに、すでに救われているとか、生きながらにして往生できるって、どういうことですか、あたまおかしいんじゃないですかと。一遍だったら、こうきりかえすだろう。うるせえよと。一遍は、おおまじめにこう考えている。現世と浄土のあいだに境界なんてありはしない、仏の世界はいつだって人間の世界にすべりこんでいるのだと。これ、阿弥陀仏は無量光明ともいわれていて、つきることなくはっせられている慈悲の光のことを意味していた、慈悲の力そのものなんだというのをおもいだしてもらえたら、わかりやすくなるんじゃないかとおもう。 

 じゃあ、その慈悲というのはなんなのかというと、それはわが身なんてかえりみずに、ひとになにかしてあげたい、してあげることだ。法蔵は宇宙がおわるんじゃないかというくらい、ながいあいだ修行をつんで、やっと仏になれるとかいわれていたのに、それをぜんぶほうりなげて、くるしんでいる衆生を救おうとした。あいつらが救われないなら、オレも救われなくいていい、オレはどうなってもいいから、まずあいつらを、みんな救ってほしいんだと。

法蔵は自分がやっていことに、見返りなんてもとめない。侠気だ、無償のこころ、慈悲である。そのいきごみがみとめられて、法蔵は阿弥陀仏という仏になっていて、つきることなく慈悲の光をはっしている。だとしたら、われわれの日常生活は、はじめからアミダの慈悲でみちあふれているんじゃないだろうか。

 で、一遍はおもったわけだ。いちどでもいい、ただのいちどでもいいから、阿弥陀仏の光を体にあびれば、だれだっていますぐに仏になれると。

人間がみずから光をはっするのだ。見返りなんてもとめない。ほどこし、ほどこし、そしてさらなるほどこしだ。仏になれる、成仏だ。ひとは生きながらにして、往生できる。なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。だから浄土にいくということは、死後の世界にいくことではなくて、いまここで無償の生をいきるということだ。生きるも死ぬも関係ないね。念仏となえて、宣言しよう。アミダ、最高。オレ、仏。

 


アミダの力はすでにある、いつでもつかえ、もっともっと。

 

 

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浄土宗の教えが心にどんと入ってきて、

元気になってくるような気がしてきます。

 


私はバプテスト派クリスチャンなのですが、

浄土宗の教えには共感できることがたくさんあります。

 

「私は無宗教です。」思っている方はたくさんいらっしゃると思います。

「宗教は怖い!」とさえ思ってる方も多いのではないでしょうか。

 


何もかもうまくいってる!という時代には宗教は必要ないかもしれません。

自分の努力があってもなくても、確実に実をむすぶことができます。

 

一遍上人が生きた時代はといえば、蒙古襲来、初めて外敵と戦う国難時です。

人々は飢えに苦しみ、病気に倒れ、希望などありません。

それなのに、偉い人たちは自分たちの益になるようなお寺にお金をかけまくっていました。

いつの時代もお偉いさんのやる事は同じです…

 



 



 


絶望感にひたっている人たちに「南無阿弥陀仏」と唱えれば

浄土にいけるといって回った一遍上人は、

一粒の種のような希望だったと思います。

 


一遍上人の業績には「念仏踊り」と「御賦算」があります。

 


御賦算とはわかりやすく言えば、「お札くばり」のことです。

賦は「くばる」、算は「念仏札」を意味します。

一遍上人は巡り歩かれるところで、必ず御賦算を行いました。

念仏札は、集まった人々1人ずつに遊行上人が手ずから配られます。

一遍上人は、南無阿弥陀仏の印板を作って刷ったお札を

生涯に約250万1千人(25万1千人とも)に配られたと言われています。

お念仏を称えれば、阿弥陀仏の本願の舟に乗じて極楽浄土に往生できるとの安心のお札であります。

それにしてもすごい数です。

何ひとつ自分の持ち物がない人々が、

「自分だけのお札」をもらって、どれだけ嬉しかったことでしょう。

 

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バブルを経験し、繁栄を極めた国にも、

「将来の希望などない時代」が再び巡ってきました。

コロナウイルス襲来!

この先の歴史家はこの時代をなんと呼ぶのかわかりません。

でも、私たちは生き延びて、後世に何かを残せると思うのです。

 


なぜか、教会学校の子どもたちと歌っていた讃美歌を思い出してしまいます。

♫わたしは ちいさいひ ひかりましょ

 わたしは ちいさいひ ひかりましょ 

 ひかれ ひかれ ひかれ♫

 


歓喜童子が遊んで、踊って、光っている…

 

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なんか楽しくなりそう…

 

ああ、なにかを残すことが大切なのでないですね。

 

あなたはどう思いますか…?

 

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NO.195 一遍上人④ 片瀬地蔵堂跡

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藤沢駅から江ノ島電鉄に乗り、石上、柳小路、鵠沼、を過ぎ、湘南海岸公園で下車。

地図を頼りに歩くこと8分。なかなか見つけることができません。

洗車をしている地元のおじさまや、郵便配達の方に聞いても、

首を傾げるだけでした。

それもそのはず、そこは片瀬海岸3丁目でした。

 

そこで、目指す片瀬3丁目に向かいましたが、そのあたりは住宅地。

お店もなく道を聞くことも出来ずに困っていると、

一軒の家からおばあちゃんと男の子が出てくるところに遭遇しました。

思わず、道を尋ねると、小学校3年生くらいの男の子は、

「わかります。」と言って

親切に、しっかりと道順を教えてくれました。

教えられた通りに進むと、そこに目指す地蔵堂跡がありました。

 

 

時は1282年(弘安5年)、3月のことでした。

一遍上人が滞在し、道場となっていた片瀬地蔵堂には貴賎道俗の人々が多く集まってきていました。

3月末のある日、紫の雲がたち、空から真っ白な花が降り始め、芳しい香りが漂ってきました。そのあとも、時にしたがって度々このような不思議な出来事が起こりましたので、ある人が不思議に思って、これは何か意味があるのでしょうかとお尋ね申し上げたところ、

 


「花の事ははなにとへ、紫雲の事は紫雲にとへ、一遍はしらず」とお答えになりました。

 

 

 

なんともあっさりとした、ある意味、突き放した返答のようにも感じなくもありません。

聖はこうも歌っています。

 


咲く時が来れば咲き、散る時が来れば自然に散る花と同様、自然の理法のままに我が身もなって行くのです。花には花の色があり、月には月の光があります。ただそれだけのことと、執着なく眺めていれば、心は格別のもの思いもありません。無心でいられるものです。

 


しみじみそうだなあと思います。

もっともらしい答えをしようと、こねくりまわしている私など、ハッとさせられます。

お前は花の何を知っているのか?お前は紫雲の何を知っているのか?と

一遍上人に頭を撫でられながら、笑って問われる気がいたします。

 

 

 

 


東京大学教授、松岡心平先生の興味深い一文を紹介します。

 


一遍聖絵】によると、一遍が踊り念仏を始めたのは、信州小田切の里である。(第四巻)

踊屋はまだない。武家屋敷の庭先での踊り念仏である。一遍は踊りの集団には加わらず、縁側に立って鉢を叩いて囃しており、庭では土墳のそばで、時衆の僧尼や武士たちが足を高くあげながら思い思いに踊っている。

 信州佐久の大井太郎の館でも踊り念仏は行われた。『聖絵』第五巻では、一遍たちが大井太郎の屋敷から立ち去る場面が描かれるだけだが、屋敷の縁側の板が踏み抜かれているのが印象的だ。詞書には「数百人をどりまはりけるほどに、板敷ふみおとしなどしたりける」とあり、屋敷内で数百人が踊り狂って板敷を踏み破ったようだ。

「数百人をどりまはり」とあるからには、踊ったのが一遍ら時衆の面々だけでないことは明らかだろう。

 弘安二年(1279年)冬、信州で自然発生的に始まった踊り念仏は、道俗ともに激しく踊り狂うアナーキーなものであった。

 ところが、不思議なことに、これ以降の二年半ほどの間、『聖絵』から、踊り念仏の描写・記述がぷっつり途絶えてしまう。再びそれが復活するのは、弘安五年(1282年)の春、鎌倉近くの片瀬浜の地蔵堂においてである。(第六巻)

しかも、踊り念仏は、全く新たな面貌をもって再登場する。

 ここで初めて、高床に屋根つきの仮設舞台「踊屋」が現れる。さらに、舞台上で踊るのは、時衆の僧尼に限られる。囃す楽器もありあわせの鉢から鉦鼓に変わっている。そして、一遍たちが鉦鼓に合わせて板を踏み鳴らして念仏を唱え、法悦に浸りながら右旋回するさまを、一般の人々は踊屋の下から眺め上げるだけであった。

 片瀬浜での念仏踊りは、明らかに組織的な「踊り念仏興行」というべきものへと変質しているのである。

 念仏が、劇場を生み出した瞬間である。

 


私は神奈川県立博物館資料室で、この文章を読んだとき、

まるでその場「念仏が、劇場を生み出した瞬間」にいたような衝撃を得ました。

物音一つしない部屋にいながら鉦鼓の音が聞こえる気がしました。

この感動を持って、片瀬地蔵堂に参りましたので、

その場に立ったときも、念仏踊りの音楽が聴こえてきました。

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そこには当時を忍ぶ建物はなにもありません。

なにもない、ただの野原です。

先ほどの男の子がここを知っているわけがわかりました。

大人にはなんの意味もないこの場所も、

子どもたちにとっては意味ある遊び場なのでしょう。

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一遍上人と時衆は鎌倉に入れず、この場所で4ヶ月を過ごしました。

遊行の旅で4ヶ月も同じ所に留まった例は他にはないようです。

春分の日から、夏至の時期、一番日が長くなるこの時期、

踊屋では毎夜、踊り念仏が繰り広げられ、

あちこちから多くの民が集まって、

観にきたのではないでしょうか…

食べるものを売る輩もいたかもしれません。

ミッドサマーフェスティバル!

 

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踊り念仏は各地に広まり、盆踊りに変化して、今につながります。

YouTubeで「踊り念仏」を検索すると、

流麗な、穏やかな動きの奉納される踊りとして多く出てきます。

 

 

 

でも私には違う光景が見えました。

1991年、バブル時代、ジュリアナ東京です。

「お立ち台」と呼ばれるステージで、

ワンレン・ボディコン女性がジュリ扇をヒラヒラさせて踊り、

ホールのみんなもトランス状態で踊る光景です。

子育て真っ最中の私には全く縁のない場所でしたが…

信州佐久で自然発生的に始まった、

道俗ともに踊り狂うアナーキーの踊り。

 

もしかして、いろいろ問題もあったのかもしれません。

 

そこで皆で知恵を絞って作り出したものが

片瀬地蔵堂の踊り念仏のショーだったのかもしれません。

とにもかくにも、娯楽の少ない当時の人々の

大きな楽しみだったに違いありません。

 

貴族や武士の高位のものだった宗教を、民間レベル、

しかも、男だけでなく、女子どもに伝える目的のための

最高の踊り念仏エンターテインメントは、

最上の布教コマーシャルだったと思います。

 


一遍上人の旅は続くように、

私の一遍上人への旅も続きます。

 

江ノ電石上駅柳小路駅の中間地点にある蓮池の花、

もう時期を過ぎていますが、

咲いている可憐な蓮の花、

「遊 捨て聖 一遍上人 踊り遊ぶ」の花です。

癒されます。

 

 

 

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