港も見える丘から

人生のゴールデンエイジにふと感じることを綴っていきます

NO.3 風景 いちめんのなのはな 山室暮鳥

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風 景

いちめんのなのはな 
いちめんのなのはな  
いちめんのなのはな 
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな  
いちめんのなのはな 
かすかなるむぎぶえ

いちめんのなのはな 
いちめんのなのはな  
いちめんのなのはな 
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな  
いちめんのなのはな 
いちめんのなのはな  
いちめんのなのはな
ひばりのおしゃべり 

いちめんのなのはな 
いちめんのなのはな  
いちめんのなのはな 
いちめんのなのはな  
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな  
いちめんのなのはな 
やめるはひるのつき  
いちめんのなのはな。

白い雲の浮かぶ空色、桜のピンクとなのはなの黄色、こどもの頃から好きな色です。
山室暮鳥の「いちめんのなのはな」は大好きな詩です。

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さて、作者の山室暮鳥 本名 土田八九十は1884年群馬県西群馬郡総社村の農家に生まれますが、
家庭的に恵まれず、苦学して小学校の代用教員になりました。

同時に前橋聖マッテア教会の英語夜学校に通い始めます。

暮鳥はこの教会でイエス・キリストに出会い、人間的自我に目ざめます。

1902年受洗し、聖マッテア教会の婦人宣教師ウオールの通訳兼秘書として青森に転任しました。

1903年立教大学の前身東京築地東京三位神学校に入学します。

在学中に文学に傾倒し、卒業後、伝道師となり、日本聖公会の伝道師として

秋田、仙台、水戸、平で宣教活動をしました。

1909年に人見東明から「静かな山村の夕暮れの空に飛んでいく鳥」という意味を込めて

山村暮鳥」の筆名がつけられました。

1913年7月、萩原朔太郎室生犀星と、詩、宗教、音楽の研究を目的とする

「にんぎょ詩社」を設立し、1914年3月、同社の機関誌「卓上噴水」創刊。

1913年12月、教会の信者や知人達を中心に「新詩研究会」を結成。

機関誌「風景」には萩原朔太郎室生犀星の他、三木露風らが参加しました。

この「風景」の中に「いちめんのなのはな」が収められています。

1919年結核のため、伝道師を休職しますが、その頃に詩集『雲』が刊行されています。

私が高校生のあのころ諳んじた「雲」は病の中で苦しみながら、空を眺め、流れる雲を見ながら、

思い出ある遙か遠い磐城平にいる弟子を想った詩だったのです。

おうい雲よ  ゆうゆうと  馬鹿にのんきそうじゃないか

どこまでゆくんだ  ずっと磐城平(いわきたいら)の方までゆくんか

1924年12月8日、茨城県大洗町で40歳の若さで亡くなりました。

彼は生き物、自然の詩をたくさん書いています。

自然のあらゆるものに神を見出す彼独特の神学だったのでしょうが、

当時は宗教界から異端視され、ボロボロになっていったとも言われています

萩原朔太郎は「彼自身の見たる如き、ちがつた意味での基督教を信じてゐたにちがひない」と、

追悼文『山村暮鳥のこと』で述べています。

教会はともすると組織を維持するために労力を使い、純粋に信じる心を持つ人を追いつめてしまうこともあります。

暮鳥は「空の鳥をみるがよい」とやさしい目で語るイエスを信じ、イエスのように生き、そしてイエスのように死んだのだと

思います。

とても身近に感じます。

水戸に暮鳥のお墓があります。行ってみようと思います。

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