港も見える丘から

人生のゴールデンエイジにふと感じることを綴っていきます

NO.36 自由が丘学園とトモエ学園

「自由が丘」の名前の由来となった自由が丘学園は

1930年 昭和3年、手塚岸衛先生が自由主義教育を掲げ、創立しました。
当初は幼稚園、小学校(旧制)、中学校(旧制)がありましたが、
手塚先生が亡くなった後、経営難になり、
昭和11年に中学高部門は藤田喜作先生に引き取られ、再出発しました。
 
幼稚園と小学校は小林宗作先生がトモエ学園として引き継ぎ、
日本で最初にリトミックを取り入れた教育を展開しました。
そこで学んだ黒柳徹子さんは「窓際のトットちゃん」で、
トモエ学園のことを書き、大ベストセラーになりました。
こんな学校があったらと多くの人が思ったことでしょう。
 
1945年 東京大空襲により校舎が焼失してしまい、
翌年小学校の部が廃止され、1963年小林先生の死去に伴い、
以後休校となり、1978年にトモエ幼稚園の廃園届けが認可され、
トモエ学園の歴史が終わりました。
 
 
自由が丘学園は今は全日制高校として存続しています。
自由が丘という町はこうして新しい教育を目指した人たちの心が
今なお生きているところだと思います。
 
同じ自由という名前を掲げた「自由学園」は
1921年羽仁吉一・もと子夫妻が創立しました。
キリスト教精神に基づいた理想教育を実践します。
多くのキリスト教教育をした学校は海外の
宣教師によって作られたミッションスクールですが、
自由学園は最初から外資に頼ることがない、自立した学校でした。
羽仁夫妻は 「婦人之友」を通して、
日本の女性達への家庭教育を広めました。
 
同じ年、西村伊作先生が文化学院を創立しました。
「国の学校令によらない自由で独創的な学校」
という新しい教育目標を掲げていました。
与謝野鉄幹・晶子夫妻や名だたる文化人が協力し、
職業的な教師に頼らない高踏的な人間教育がされていました。
芸術に秀でた学校でしたが、残念なことに、
お茶の水の美しい校舎は今はなく、
両国に移転してしまいました。
 
この時代はリベラルな空気に包まれ、
教育を変えよういう取り組みが進みました。
しかし、日本はこの後、軍国主義の道を歩んでしまいました。
 
羽仁家へ婿入りした政治学者 羽仁五郎氏は
「大予言」いかにして21世紀を生き残るか(1979年)  の中で
文部省を廃止せよ!と訴えています。
そして権力が教育を破壊するとも言っています。
彼は国会図書館を設立に尽力し、
「真理がわれらを自由にする」という言葉を
国立国会図書館法の前文に掲げました。
 
真の自由は勝手気ままに生きることではなく、
自ら考え、行動し、自律できることです。
 
自由が丘に芽吹いた素晴らしい教育を覚えていたいものです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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かつてトモエ学園があった場所には大丸ピーコックがあります。
そこには有志の皆さまが1988年に建てた碑があり、こう書かれています。
「自由が丘 Notre Havre de Liberte Creation  自由と創造の我らが母校。 私たちこの地に学び育まれし者は、ここに行われた教育が、時をこえて生き続けることを願い、恩師への敬愛と感謝の思いを込めて、この碑を建てる。 自由が丘学園/トモエ学園 同窓生並びに関係者一同 」 
 
 
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          自由学園
 
 
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