【子どもにとって親の期待とは何か】
『父母であること』
あなたは子どもたちに
愛を与えることはできるが
あなたの ものの考えを 与えることはできない
なぜなら
子どもたちは 子どもたち自身の
ものの考え方を持っているのだから
あなたは子どもたちのからだを
世話することはできるが
彼らの魂をそっくり飼いならすことはできない
なぜなら
彼らの魂は明日というすみかに息づいているのだから
あなたは子どもたちのようになろうと
努めてもてもよいが
子どもたちをあなたのように
しようなどとしてはならない
なぜなら
人生は後向きに進んでいくものでもないし
昨日のままで
止まっているものでもないのだから
〈ペルシャの古詩〉
断捨離お片付け中、手に取った卒業論文、
冒頭にこの詩が書いてありました。
提出時、教務主任がこの詩を読み、
「子育てするときに読み直しなさいね」と私に話しかけてきたことを
鮮明に覚えています。
幼い時から絶対の存在であった母の
大きな期待に応えるべく、
私はかなり奮闘してきました。
16歳で母をなくした時の喪失感は大きく、
その後、周囲から、
さあ、自由 に生きなさいと言われても、
私は自分の考えを持って行動することに苦労しました。
こらから先、何がしたいのか
どうやって、何を目的 にして生きていったらいいのか。
大学を卒業して、社会に出ることが不安でした。
私をがんじがらめにした母親の期待とは何だったのか、
突き詰めて考えてみようと卒論で論じました。
最終章の最後にはこう書いてあります。
「最後に両親の主体性を問うてみたいと思う。親が親なりの自己の判断を識別することができれば、いたずらにマスメディアに踊らされる事なく、他の子どもと我が子を比較することなく、子どもに冷静な期待をかけられるのではないかと思う。
社会概念にとらわれず、冷静に自分とは何か を改めて問い直してみる必要があるだろう。外部の力に身を委ねて、あたかも自分で考えたような錯覚に陥る ならば、それは自由の放棄であろう。
親は自由に主体性を持って子どもを育てるべきだ。」
二人の息子を育てるとき、私は何回か読み返しました。
偉そうなことばかり書いていた若い日の自分に
現実はそんなものではないわ。
冷静になんてなれないわと思いました。
子育てに「べき」という言葉はないのです。
いつかこの続きを書かなければと思ったこともありました。
昨日、2月1日、私立中学受験の日でした。
今から20年も前になってしまった息子の中学受験の事を思い出しました。
最初の受験日
この子はこれから人生で最初の選抜をくぐり抜けていくのだわと、
試験会場に大勢の受験生の流れの中に
吸い込まれていく後ろ姿を見ながら思いました。
第1志望校に合格すればよし、第2志望になっても、
不合格になっても、与えられた場所が一番だと思って、
希望を持って乗り越えて欲しいとふと思ったものです。
幸い、志望校へ入学をゆるされました。
幼顔の息子を寮に入れての帰り道、
この子は私の手元から巣立っていったのだと思いました。
(新入生父母歓迎会会場 この写真は1996年度のものです)
その子は、今、人生初、最大級の仕事を抱えて奮闘しています。
あなたなら大丈夫と見守れる母親となりました。
親は子どもに幸せになってほしいと思って育てているでしょう。
良い学校に入り、良い会社で仕事をして
良い伴侶とめぐり合い、子どもに恵まれる人生、
私が卒論を書いたときよりも、社会状況は良くなっているでしょうか?
否、ますます将来は不透明になっています。
私たち祖父母世代は、子どもたちに何を伝えられるでしょう…
4月に幼稚園に入園する孫娘の口癖は
「今、考えてるの!自分で考えるって大切なことよ…」です。
両親からいつも言われているのでしょう。
そう、自分で考えることの素晴らしさを教えたいと思います。
アウシュビッツを生き抜いた心理学者、
「夜と霧」の著者フランクルは
どんな人生にも意味があると考え、どんな状況においても
「それでも、私は人生にイエスと言おう」と書いています。
彼の希望の根源は幼いときの幸福な体験だったそうです。
その体験とは青空のもと、芝生の上で両親とピクニックをして
笑って過ごしたひと時でした。
親が子どもに望むことは生き延びることだと思います。
今年受験する子どもたちが、どんな結果になろうとも、
置かれた場所でベストを尽くし、
明日を生きて欲しいと思いました。