港も見える丘から

人生のゴールデンエイジにふと感じることを綴っていきます

NO.156 久布白落実の生涯 (1) 幼い落実

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「クボシロオチミって知ってる?」

叔父がそう尋ねてた時、私は漢字すら思いつかず、「知りません」と答えました。

「ちょっと調べてごらん、ひさしい、ぬの、しろって書いて久布白、

おちるみで落実」

すぐに調べてみると「久布白落実」さんのWikipediaが出てきました。

矯風会会頭、売春禁止法制定の立役者となった方とわかりました。


「僕はね、久布白さんの鞄持ちをして旅したことがあるんだよ」

33歳でアメリカに渡り、数年に一度帰国するだけの、

今年78歳の叔父は

日本ではプロテスタント牧師をしていました。

20代でいわき市の教会の副牧師をしていた時、

その教会の女性牧師と共に矯風会の大会に鞄持ちとして旅をしていたようです。


「朝ね、先生のお部屋に鞄を受け取りに行った時、

ドアが少し開いているから、ノックしてみると、

小さな背中が見えたんで、声をかけると、

振り向いて

『わたしね、毎朝、日本語の他に4ヵ国語で聖書を読むのが

日課なのよ』

っておっしゃった。テーブルの上には7冊の聖書が置いてあったさ。

落実さんって実が落ちて結ぶようにっていう名前なのさ」


帰り際の短い時間になぜこの話題になったのか、

よく覚えていませんが、台風19号上陸の10月12日アメリカに帰国予定だったはずが

14日に延期されて、「嵐を呼ぶ男」が去ったあと、

久布白落実さんのことが頭から離れず、女子学院卒業生のお友達に訊ね、

著作「廃娼ひとすじ」をAmazonに頼みました。

その本が手元に届いた日 10月23日は先生の47回目の命日でした。


前置きが長くなってしまいましたが、

どうして久布白落実さんを知り得たのかは

どうして書いておかないといけないと思いました。


【生い立ち】


落実さんは明治15年(1882年)熊本県生まれで、

父大久保真次郎、母音羽の長女として生まれました。


父の真次郎は熊本バンドの一員として医学を学び、東京帝大の前身、

東京医学専門学校へ送られた4人の一人でしたが、

この中で業を上げたのは、北里柴三郎一人でした。

f:id:tw101:20191112174759j:image徳富蘇峰

 

f:id:tw101:20191112174814j:image徳富蘆花

 


母 音羽は殖産興業の要とする養蚕、製紙の道に進む、時代の先端を生きる女性でした。

徳富蘇峰徳富蘆花音羽の弟で、蘇峰は姉を真次郎に紹介して、二人は結婚に至ります。

音羽の写真はありませんが、イケメンの蘇峰、蘆花の姉なので、

美人だったのではと推測できます。


真次郎は経済的に行き詰まり、医者になることを諦め、

同志社新島襄を頼りながら、あっちへふらふら、こっちへふらふらと、

放浪生活を続け、なかなか足が地につかないのですが、

しっかり者の音羽は真次郎の家の盛り立てに全力を尽くし、

家事はもとより、養蚕、機織り、糸より、畑仕事にいたるまで

まっしぐらに働き出し、雨が降れば裁縫、

子どもたちの勉強の下見までこなすスーパーお嫁さんとなりました。

 

そして二人は女の子を授かり、「落実」と名付けます。

私が名前の由来を「落ちて実が結ぶ…」と聞いていたのは間違いでした。

自分が落ち目のときに生まれたので、娘に「落実」と名付けられたのです。

のちに新島先生に「子どもにそんなことをしてはいけない」と

怒られたのを落実さん本人が覚えています。


生来働き者の音羽も子育ては手こずったようで、

川に捨ててしまおうかと思ったというのです。

家を出て丸三年になる夫の真次郎をなんとか引き戻さねばと決意し

落実共々洗礼を受け、説得しようと真次郎の住む尾道へと両親も連れて出立したのです。

さすが徳富家の娘、やると決めたらまっしぐらです。


尾道での生活は老いた両親には過酷で、加えてコレラが流行りだしたこともあり、

老いた二人は故郷に帰ります。

ここで初めて、真剣な夫婦生活、親子生活が始まり、

お互いが向き合い、根本的な生活の立て直しが必要となりました。

しかし、酒に溺れ、海運業の仕事もままならない夫に

さすがの音羽も望みも尽き果て、娘を連れて海辺を彷徨い、

身投げしようとしたときに、「祈り」を思い出し、

一心に祈ることで自殺を思い留まりました。

妻と娘が「お父さんがお酒をやめますように」と

暗がりで祈る姿を見た真次郎は思うところがあったのでしょうか。

年の改まった1886年正月、三日酒びたりに過ごしたあと、4日目に

「もうおれは酒は飲まぬ。お前の聖書を貸せ。昼飯は要らぬ」と言って、

三階に上がったきり、三日三晩聖書を読み続け、

そして「おれが悪かった。断然あらためる」と音羽に謝り、

キッパリと酒もタバコもやめてしまい、すぐに京都の新島襄に手紙を書きました。

「お父さんはあれっきり酒もタバコも手になさらん。

あんなに立派にやめた人も見たことがない」と後になって母は娘に言ったそうです。

新島襄は放蕩息子を受けいるかのように真次郎を迎え、

すぐに伝道を始められるようにと、金品を送ってくれました。

 

音羽と3歳の落実の祈りが聞き届けられ、父真次郎が酒から立ち直ったという体験が、

のちに禁酒を目指す矯風会の会頭となっていく基になったのかもしれません。

真次郎は起死回生の年に生まれた娘を「起実」と名付けました。

一家は希望もって尾道での伝道を始めました。

6歳の頃の落実を叔父の徳富蘆花

「おかっぱ頭で赤ん坊(妹)をおぶり、父によくにた腕白に光る小さな眼をしていた」

と作品の中で描いています。


同志社を卒業した父の最初の赴任先は埼玉秩父大宮でした。

この地で落実は母から人生の基礎の大切なことを学びました。

1、告げ口をしない

2、しかけたことは必ず続ける

3、自分で自分を奮起させる

ということでした。

伝道者として大きな試練に出会っている両親の苦しみ、悲しみをつぶさに見て、

落実は試練に強い信仰を学び収めていきます。

母の病気、5歳になった起実の死、新島襄の死と不幸が襲います。

しかし、一連の試練が終わりを告げたころ、待望男の子真太郎が与えられ、

1893年に藤岡教会に招聘されますが、なかなか思うようにならず、

2年余りで、高崎教会に転任しました。

落実は前橋にある共愛女子校に入りましたが、

西洋人宣教師ミス・バーミリーともおりが合わず、

「この娘はここでは少しはみ出すようだ。も少し大きいところへやった方がよい」と忠告され、

母方の祖母徳富久子の妹である矢嶋揖子が校長をつとめる東京の女子学院へ行くことになったのです。

ここで落実は人生の大きな岐路を越えていきました。

お話は次回へ続きます。