港も見える丘から

人生のゴールデンエイジにふと感じることを綴っていきます

NO.157 久布白落実の生涯(2) 落実の青春

f:id:tw101:20191114100923j:image1920 年頃の女子学院

共愛女子校でミス・バーリーに「英語は好きですか」と聞かれ即座に

「嫌いです。義務だから習います。」と答え、

後のガントレット恒子女史に「笑わない可愛くない女学生」と呼ばれた落実は、

明治29年開けて早々、母に女子学院に連れてこられました。

数え15歳、12月生まれなので満13歳の時でした。

応接間で待っている落実の前に現れたのは被布を着て眼鏡をかけ、

靴をはいた婦人でした。母の大叔母、矢嶋揖子との最初の出会いです。

矢島女史は落実を眼鏡越しにじっくり見て、

「この人はあまり気量がよくないからつづくでしょう」と独り言のように言いました。

矢嶋揖子も笑わない、無愛想なおばあさんだったようで、

もしかすると、この時、落実を気に入ったかもしれません。

落実は式用、教会用、普段着の3枚の着物しか持たされず、

柳ごうりにシーツをかぶせて机にしました。

当時、良家のお嬢様が多い女子学院の中で、

脇目もふらず勉強し、信仰に目覚め、自ら信仰告白をして、

教会に通うようになり、聖書を本気で読み、

生涯献身の生活を送りたいという願いを持つようになりました。

女子学院で英語を日本語と同じ時間をかけて仕上げ、

なんとか女性でも独り立ちして生きる事ができるようにと、

校長矢嶋揖子は様々な批判にびくともせず、学び舎を守りました。

そして、自治教育を徹底しました。

「あなた方は聖書を持っていられる。何も規則で縛る必要はありますまい」

そして何も不都合は起こらず、生徒を信用する堅い教育方針の中で落実も学び、

生涯、矢嶋揖子を人生の目標としました。

休みの日は東京に暮らす叔父の家へ遊びに行ったり、充実した学校生活を送りました。

f:id:tw101:20191114100008j:image矢嶋揖子女史


教会は自らの足で立たないといけないと考えていた真次郎に再び試練が訪れます。

可愛い盛りの長男真太郎が腸カタルで呆気なく逝ってしまったのです。

その悲しみを越えて、音羽と二人、独立教会樹立のために心血を注ぎました。

誰に相談するでもなく、日本人移民の精神的な指導をするため、

ハワイに渡ることを決め、簡単ではない海外伝道の道を切り拓いていきました。


1903年(明治36年)日露戦争前に落実は女子学院高等全科を卒業しました。

矢嶋揖子からは女子学院に残り、矯風会の仕事を手伝ってほしいと勧められますが、

落実は両親のいるホノルルに行く決意をしました。

 

f:id:tw101:20191114101307j:image明治32年頃 ホノルルについた日本人移民


明治元年からポツポツ渡航が始まり、

この頃には日本人はすでに10数万に上っていました。

多くはサトウキビ畑で働いていました。

真次郎はホノルルの日本人教会に迎えられ協力牧師となっていました。

当時は人々教会に対し、

「英語を教えてもらい、ただでお茶を飲ませてもらい、

就職口を世話してもらうところ」とう認識しか持ってなかったようで、

真次郎は「この教会は乞食製造所だ。

キリストの教会は犠牲献身の実践場であるはずだ」という考えを持ち、

1年もたたないうちに辞表を出して、全会員の意見を問いました。

教会は沸き立ち、独立教会を支持することになり、

はじめて、キリスト者としての誇りに目覚めた信徒たちによって、

教会は変わっていきました。

ハワイでの1年の間、落実はハワイの幼稚園に勤め、

日本語の家庭教師をするなど、アルバイトもして、過ごしましたが、

体を張って神に頼り、宣教にあたった両親の姿から、

キリスト教の真剣さを肌で学ぶという経験をしました。


ようやくここからという時に、

今度はオークランドに教会を作る招きに応じたと発表した真次郎に誰もが驚きました。

牧師は私たちを見捨てるのかという信者の声もありましたが、

連日、懇談をして、最後は一同納得し、本土行きを承諾しました。


21歳の落実はバークレー進学校に入学し、夜は父の英語夜学校で教え、

英語が得意でない父母の通訳や買い物と忙しい日を送ります。

このオークランド時代に、落実はその後の人生を決定するような出来事に出会いました。


1906年4月、サンフランシスコ大地震が起き、

対岸オークランドへも避難民が押し寄せてきました。

さすがアメリカ、救済の手はすぐに届きはじめ、

それぞれ落ち着いてきたころのことです。

ある朝、オークランドの著名なブラウン牧師が落実に通訳をして欲しいと頼みました。

その頃、オークランドにはサンフランシスコから流れてきた博打小屋や売春宿ができていました。

落実はブラウン牧師と警察署長のピーターソンと3人で視察に出かけて行きました。

日本人町の粗末なバラック建の家には、たくさんの日本人女性がいました。

ブラウン牧師はなんとか彼女たちを劣悪な環境から救いたいと、本人の意思を確かめにきたのです。

自由意思でなければ、米国の法律で保護して解放することができたのです。

ブラウン牧師は聞きました。

「米国では一切の奴隷を禁止している。

あなたが自由意思で働いているなら仕方ないが、もし、この家にいたくないなら、

私が面倒みてあげるが、どうか?」

「私は自分が好きでしています。ご心配はいりません」

どの娘も同じ答えをして、救いの手を拒んでしまいました。

業者の手がまわっていて、脅かされた娘たちはそう答える他はなかったと思いますが、

現場で通訳していた落実は日本の女性として恥ずかしい思いをしました。

落実の気持ちもわからない訳ではありません。

同じくらいの年の娘が白人相手に好きで売春をしている事実に大きな衝撃を受けます。

「身を切るような苦しさ」が落実に一つの使命感を生み、

このことが60年あまりの売春婦解放運動の原動力となりました。


そして、この年、もう一つ大きな出来事がありました。

74歳になる矢嶋揖子女史が単身渡米してきました。

オークランドの大久保家に二カ月滞在し、全米旅行に出ました。

目的はボストンで開かれる第7回矯風会世界大会に出席することと、

ルーズベルト大統領に会って、日露戦争講和のため感謝を伝えることでした。


23歳の落実は矢島女史の通訳者として、

ボストン目抜き通りの大ホールで繰り広げられる世界大会に参加しました。

矢島女史はトレードマーケットの長い被布に頭巾姿で壇中央に、

落実は一張羅の茶のスーツで側にたちました。並んで挨拶をした後、

女史は「長い間、皆さまのお世話になってありがとう」と言ってお辞儀をし、

「話はこの娘が申し上げます」と言ってすわってしまったのです。

仕方なく、落実は声を張り上げ過去20年に渡る礼を述べ、

先生の要請として、二人の人を送ってほしい、

一人は若い人、一人は年配の人、どうぞお頼みします!と言って席につきました。


大会後にオークランドに戻り、女史は矯風会を立ち上げる段取りをして帰国していき、

落実はあとを引き受けて、母音羽と協力して、矯風会を設立、婦人の指導にあたりました。

この時代に早くも性教育の必要に目覚め、

日本の公娼制度廃止のために戦わなければならないと心の奥深く、

情熱の火が灯されました。

この火は生涯、消えることはありませんでした。

 

「落実の結婚と生涯の仕事」に続きます。


〜落実を支え続けた聖書の箇所〜

   フィリピの信徒への手紙 4章4節〜7節

 

 《主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。

 あなたがたの広い心がすべての人に知られるようにしなさい。

 主はすぐ近くにおられます。

 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。

 何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、

 求めているものを神に打ち明けなさい。

 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、

 あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。》