緊急事態宣言も解除され、少しづつ日常生活が戻っていきますが、
もう元通りにはならないのではと、つい、ふと思ったりします。
そんな悲観的な思いを打ち消す勇気は、
時として小説や映画から与えられます。
その一つがこの『あの日のオルガン』です。
『あの日のオルガン 疎開保育園物語』は久保つぎこ氏によるノンフィクション『君たちは忘れない疎開保育園物語』(きみたちはわすれない そかいほいくえんものがたり)と題して1982年11月に草土文化より刊行されました。
太平洋戦争末期に空襲を避けて東京・品川の戸越保育所と東京・墨田の愛育隣保館の2つの保育所の保母11人、園児53人が埼玉県南埼玉郡平野村(現蓮田市)の無人寺・妙楽寺へ集団疎開したの「疎開保育園」の実録が、関係者への取材に基づいて克明に綴られています。
『君たちは忘れない疎開保育園物語』を『あの日のオルガン 疎開保育園物語』と改題して2018年7月に朝日新聞出版より再刊し、
『あの日のオルガン』と題して平松恵美子監督・脚本により映画化され2019年2月に公開されました。
あらすじです。
第二次世界大戦末期、警報が鳴っては防空壕に避難する生活が続く1944年、東京品川の戸越保育所では、保母たちが保育所の疎開を模索していました。まだ幼い子どもたちを手放す不安、迫りくる空襲から子どもたちだけでも助けたい、と意見の分かれる親たちを保母たちが必死に説得しました。
自分たちの食べ物にも事欠く時期に、子どもを受け入れてくれるところはなかなかありませんでした。
やっと埼玉に受け入れ先の寺がみつかりますが、そこは酷い状態の荒れ寺でした。
手を入れてなんとか疎開生活をスタートした若い保母たちと幼い園児たちを待っていたのは、毎日わき出てくる問題との戦いの日々でした。家が恋しい思いからのストレスで毎日のように夜尿をする子どもが続出します。
それでも若き保母たちは子供たちと向き合い、毎日ひたむきに励ましあいながら奮闘していた。そんな彼女たちにも空襲の影がせまってきます。
「子どもに文化的生活をさせたい」という思いで必死に守る楓主任先生、子どもからは慕われているけど、まるで子どもと同じように手間のかかる新米のみっちゃん先生。
そして、東京大空襲の夜、悲劇が襲いました。
家族が空襲で命を落とした子どもが何人もでき、一家全滅で一人だけ生き残った男の子もいました。
終戦を迎えて、それぞれお迎えが来る中、両親でなく親戚に引き取られていきます。
最後の子どもが家族の元に戻って、ようやく疎開保育園は閉園しました。
私は疎開保育園というものがあったことは知りませんでした。
戸越、墨田とどちらも馴染みのある地域の保育園ということで、
特別思い入れがありました。
3歳の孫を見ていると、この年齢のこんな小さな子どもを
手放さねばならない親の気持ちもよくわかりますし、
また、何としても子どもたちを守ろうとする先生の気持ちも理解できました。
映主任の楓先生を演じた戸田恵梨香さんにすっかり感情移入をしてしまった私でした。
テロップで53人の子どもたちは生き残り、
今でもなお、親交を深めているということを知りました。
生きていることは素晴らしいことだと思います。
あの戦後の焼野原から立ち上がり、明日を信じて一歩踏み出した祖父母から、
もっときちんと話を聞いておけばよかったと
今になって思います。
私の生まれる10余年前には、
まだ戦争をしていたという事実に愕然とします。
「もはや戦後ではない」と言われた時代に育った私。
辛い過去を忘れることは大切ですが、
忘れてはいけないことまで消し去ったしまったら、
また同じ過ちを犯してしまう危険があります。
コロナ禍で理由も何も分からず、
自粛させられいる子どもたちを見ていると、
いつでも、どこでも、一番弱いところにしわ寄せがいくなあと思います。
ちゃんと守ってあげることができる大人になっているかしら…
おばあちゃんの年になって、いえ、なったからこそ、わかることもあるんのですね。
終戦になれば、爆弾投下はなくなりましたが、
緊急事態宣言が解除されたといっても、
コロナウイルスが消えた訳ではありません。
まだまだ気を引き締めて生活していきたいと思います。
子どもたちの命を守り抜いた保母さんたち