港も見える丘から

人生のゴールデンエイジにふと感じることを綴っていきます

NO.192 《捨て聖 一遍上人 踊り遊ぶ》 一遍上人 ①

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はねばはね 踊らばおどれ 春駒の

 のりの道をば しるひとぞしる 

 


今から8世紀も以前、踊り念仏をおこない、

捨て聖とも遊行上人とも称された一遍上人の生きた言葉は、

苦しみと、悲しみとは、そして歓びとはなにかを深々と見つめ、生きること、死ぬこと、

命とは何かを現在もわたしたちに問いかける。

捨て、祈り、踊った一遍上人の静謐さと躍動の姿が

治海の墨絵、増山誠の墨書により、新たな息吹をもって

本書にもたらされている。(監修 菊井崇史)

 


出来たてホヤホヤの絵の本が昨日届きました。

 

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さてさて、歓喜童子たちは命を与えられ、絵本の中で自由に踊ったり、歌ったり。

私がページをめくるたびに、さっと元の場所に戻っている気配を感じます。

 


ねえねえ、あそぼ!

さあさあ、おどろ!

 

そんな不機嫌な顔しないでさ!

そんな疲れた顔しないでさ!

 

ほらほら、あそぼ!

そうそう、おどろ!

Namunamunamunamu

Namunamunamunamu

 

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蓮の葉っぱ下で、蓮の花の上で

念仏唱えて 踊っている歓喜童子たち。

 

思わず笑みが浮かんでいます。

 


この本の紹介をすることができて

私は本当に嬉しくてたまりません。

 


治海さんとは多感な10代の頃、ある教会団体の全国キャンプで知り合いました。

関西のほとばしるパワーに圧倒されたあの日から、今に至るまで、

ずっとずっと、私の知らない世界を見せてくれ、

魅力ある方々に紹介してくれています。

 


満を期しての出版。

 


企画をされた長屋のり子さんは、

屋久島の詩人 故山尾三省さんの妹さんで、

小樽を本拠地に活躍されていらっしゃる詩人です。

2011年、10月、初めてお目にかかりました。

小樽の名所をご案内くださったときに

立ち寄った富岡カトリック教会。

たまたま司祭さまがいらして中に入れてくださり、

祭壇の前で2人で祈りました。

それからも私は数回しか会ったことはないのですが、

過ごした時間ではなく、その心を分かち合うその深さで、

心から尊敬し、お慕いしています。

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治海さんの独特な墨絵に添える墨書を書かれたのは、

増山誠さんです。

f:id:tw101:20200724115653j:image小林多喜二の小説「不在地主」のモデルとなった磯野商店を改装した歴史ある建築物です。

 

 

小樽に訪れた2011年、立ち寄った海猫屋で

増山さんにお目にかかりましたが、2016年10月末に40年の歴史に幕を閉じられ、

現在は新しいお店“otaru dining NO NAME”をやっていらっしゃいます。

 


治海さんは40年ほど前に、京都で着物の配色の仕事をしている時に、

墨絵に出会い、恩師に人物画を勧められ、日本書紀などを読み、

日本神話を学ぶうちにインスピレーションを得て、

大きな目をした顔の童を描き、「なんやねん」と名付けました。

 


その後、鉄眼寺の高僧に「歓喜童子」という名前を与えられた「なんやねん」は、

治海さんの家具、掛け軸など幅広く扱う遊亀堂の看板となっていきました。

 

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歓喜童子に魅せられた私はバッグや傘、クッションなどの小物を弊社で作れたらと、

商標登録を取った時期もありました。

なかなか実現せず、もどかしい思いしながら、

会社を定年退職しましたが、ずっと気になっている歓喜童子でした。

 


その子たちが、いよいよ、世に出る時がきたのです。

我が子のような可愛い歓喜童子達が絵の中から飛び出して、

踊り始める時がきたのです。

 

 

 

コロナ感染拡大は収まる気配もなく、

不安は広がり、加えて大雨災害や地震予兆に怯えるこの時は、

一遍上人が踊り念仏を行ったとき、

災害に飢饉に見舞われ、

政情不審もあり、混沌としていた時と

酷似しています。

 


こんな時に…いえ、こんな時だからこそ、

人は謙虚に念仏を唱えるのではないでしょうか…

神や仏にすがるのではないでしょうか…

 


監修された詩人で書籍編集もされる菊井崇史さんが

アナキズム研究のご専門、政治学者栗原康さんに歓喜童子の絵をお見せしたところ、

すっかり気に入って、何か書きたいと申し出てくださり、

なんとも、素晴らしい、栞となりました。

この文章も素晴らしいです。

全文は書けませんが、

最後のくだりを少し紹介します。

 


 さて、いまコロナの時代。ソーシャルディスタンスをたもつことが、あたかも道徳的なことであるようにいわれている。

いつどこでだれにうつすのかもわからない病気だから、マスクをしてオンラインでしゃべって距離をとるのが相手を思いやることだと。

しかし、なんどでも問いかけなければならない。そこに震えはあるのか。

そこに仏はいるのか。いるのは市民かウイルスか、友か敵か、ただそれだけだ。

そろそろ腐った目で人間をみるのはやめにしよう。

ナムナムナムナム。壊してさわいで、燃やしてあばれろ。

われわれは圧倒的にまちがえる。気分はなむあみだぶつ。神を騰せろ。(たましいをおどらせろ)

 

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パッとページを開いたら、そこにいるはずの童子がいない!

どこかに踊り念仏に行っちゃった?

そんな時が来るかもしれない…と密かに期待している私です。

 

歓喜童子」が現代の「アマビエ」となり、

私たちの心を勇気づけ、免疫力アップの手助けをしてくれるように思えてなりません。

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