港も見える丘から

人生のゴールデンエイジにふと感じることを綴っていきます

NO.194 一遍上人③ 藤沢遊行寺

 

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長かった梅雨が明け、待ち望んだ夏空が広がる朝、

私は晴れ晴れとした気持ちでJR藤沢駅に降り立ちました。

藤沢在住のお友達と久しぶりに会えるのも大きな楽しみでした。

 


改札口で待ち合わせをして、お互いの近況報告をしながら、

駅からまっすぐ10分ほど歩くと、境川のたもとに出ました。

そこには資料館があり、中へ入ってみます。

 

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f:id:tw101:20200802075621j:image 品川、川崎、神奈川、保土ヶ谷、戸塚、藤沢 東海道6つ目の宿場町です。

 

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江戸時代も大賑わいの門前町だった様子が伝わってきます。

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そして、現在、箱根駅伝の際には「遊行坂」が大きな通過ポイントとなる重要な場所です。

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山の方に目を向けると、遊行寺の立派な山門が見えています。

 

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一遍上人が初めて藤沢の地を踏まれたの1282年(弘安5年)、御年43歳の時でした。

35歳で遊行の旅に出られて、すでに8年。北は奥州平泉から南は太宰府まで、遊行されていました。

1282年の春、常陸・武蔵を経て、こぶくろ坂から鎌倉入りを目指されました。

鎌倉は幕府の所在地、時の将軍は惟安親王、執権は北条時宗でした。

当時、鎌倉では北条氏の保護を受けて禅宗の寺院が盛んになってきていましたので、

各宗の高僧たちは鎌倉での布教をこころみようとしていました。

また、浮浪の人々も仕事と食料を求めて、あちこちから集まってきました。

ありとあらゆる階層の人々が、せまい鎌倉市中にひしめいていたのです。

 


一遍上人も多くの民衆への念仏勧進を願い、鎌倉に入ろうとされました。

ところが、こぶくろ坂で警護の武士が行く手を遮ります。

浮浪者の取り締まりを厳しくしていた鎌倉に、

乞食のような恰好をした一遍上人の一団を入れる訳にはいかなかったのです。

武士に棒で叩かれながらも一遍上人は、「人々に念仏を勧めて歩くことが私の命である。

このように制止されれば、どこへ行けばいいというのか。いっそこの場で命を終えよう。」とおっしゃいました。

一遍上人衆生化益への強い意志と気迫に圧倒されたのか、

武士は鎌倉の外では布教が禁止さてていないと告げます。

そこで、一遍上人は片瀬へ向かい、別時念仏会、踊り念仏を修されたのでした。

この時、一遍上人がはじめて藤沢の地に足跡を印したのです。

ただ、のちに遊行四代呑海上人がこの藤沢に遊行寺を開き、

それが総本山になろうとは一遍上人とて、思いもよらぬものでした。

 


また、遊行寺Wikipediaで調べてみますと、

俣野(現在の藤沢市西俣野、横浜市戸塚区俣野町、東俣野町)の領主だった俣野氏の一族である俣野五郎景平が開基。景平の弟である遊行上人第四代呑海は、三代智得の死後にその跡を継いで時宗総本山であった当麻道場(無量光寺)に入山しようとするが、呑海が遊行を続けている間に北条高時の命令により当麻にいた真光が止住するようになっていたため、正中2年(1325年)に俣野領内の藤沢にあったという廃寺極楽寺を清浄光院として再興したのが開山と言われる。

 


清浄光寺(しょうじょうこうじ)は、神奈川県藤沢市にある時宗総本山の寺院。藤沢山無量光院清浄光寺と号す。近世になって遊行寺(ゆぎょうじ)と通称され、明治時代より法主(ほっす)・藤沢上人と遊行上人が同一上人であるために通称の遊行寺の方が知られている。藤沢道場ともいう。

次第に当麻道場をしのぐ影響力を持つようになり、藤沢は門前町として発展するようになった。

 


http://www.jishu.or.jp/

 

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境内は広く開放感があります。

奥に進むと本堂に上がる脇の一遍上人像が立ち、お迎えしてくれます。

 

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「こんにちは、一遍さん。」と思わず声をかけてしまいました。

このところ、寝ても覚めて一遍さん!なので、とても身近に感じています。

 

 

 

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本堂にお参りすると、そこにはご本尊阿弥陀如来が鎮座されていました。

中からはすーと涼しい風が吹いてきます。

 


コロナ禍で大変な思いをされている方々の上に

仏様の慈悲がありますようにと

自然に祈りの言葉が出てきます。

 


本堂から宗務所に行きました。

今日の目的は「遊 捨て聖 一遍上人 踊り遊ぶ」の寄贈です。

ところが社務所は鍵がかかっていて開きません。

どうしましょう…と思いながら、あたりを歩いていると、

扉の空いた勝手口から法衣を纏った住職さんの姿が見え、思わず声をおかけしました。

そして、本を渡しながら、お話しさせていただ、受け取っていただきました。

僅か5分のことでしたが、緊張して、汗が流れていきます。

f:id:tw101:20200802082201j:image 歓喜童子はいたって元気で飛び跳ねていきました。

 


目的を果たして、ほっとして、宝物館に入り、エアコンの効いた中で展示品を鑑賞しました。

 


写真を撮ることができませんが、

ここには

空也上人立像」「一遍聖絵」「後醍醐天皇御像」など貴重な展示品があって

興味を惹かれます。

 


http://yugyoji-museum.world.coocan.jp/tenran.htm

 

 

 


一遍上人は鎌倉に入ることはできませんでした。

しかし、それが結果的にかえってよかったのではないかと思いました。

 


もし、鎌倉に入れず、片瀬にきたことで、一遍上人の思いは踊り念仏と相まって、

民間に広まっていったような気がしてなりません。

まさか、こんな立派なお寺が総本山となり、

多くの信者たちの魂の故郷になるとは…思ってもみなかったことでしょう。

その人生は遊行の連続。安住の地を持つこともなく、

己のものは全て捨てさり、

ただ人々に「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えなさいと布教した、

捨て聖 一遍上人

 

 

 

 

 

 


遊行寺を後にして、藤沢でランチをしてから、

踊り念仏で有名になる片瀬に向かいましたが、

そのお話しは次回に!

 

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