藤沢駅から江ノ島電鉄に乗り、石上、柳小路、鵠沼、を過ぎ、湘南海岸公園で下車。
地図を頼りに歩くこと8分。なかなか見つけることができません。
洗車をしている地元のおじさまや、郵便配達の方に聞いても、
首を傾げるだけでした。
それもそのはず、そこは片瀬海岸3丁目でした。
そこで、目指す片瀬3丁目に向かいましたが、そのあたりは住宅地。
お店もなく道を聞くことも出来ずに困っていると、
一軒の家からおばあちゃんと男の子が出てくるところに遭遇しました。
思わず、道を尋ねると、小学校3年生くらいの男の子は、
「わかります。」と言って
親切に、しっかりと道順を教えてくれました。
教えられた通りに進むと、そこに目指す地蔵堂跡がありました。
時は1282年(弘安5年)、3月のことでした。
一遍上人が滞在し、道場となっていた片瀬地蔵堂には貴賎道俗の人々が多く集まってきていました。
3月末のある日、紫の雲がたち、空から真っ白な花が降り始め、芳しい香りが漂ってきました。そのあとも、時にしたがって度々このような不思議な出来事が起こりましたので、ある人が不思議に思って、これは何か意味があるのでしょうかとお尋ね申し上げたところ、
「花の事ははなにとへ、紫雲の事は紫雲にとへ、一遍はしらず」とお答えになりました。
なんともあっさりとした、ある意味、突き放した返答のようにも感じなくもありません。
聖はこうも歌っています。
咲く時が来れば咲き、散る時が来れば自然に散る花と同様、自然の理法のままに我が身もなって行くのです。花には花の色があり、月には月の光があります。ただそれだけのことと、執着なく眺めていれば、心は格別のもの思いもありません。無心でいられるものです。
しみじみそうだなあと思います。
もっともらしい答えをしようと、こねくりまわしている私など、ハッとさせられます。
お前は花の何を知っているのか?お前は紫雲の何を知っているのか?と
一遍上人に頭を撫でられながら、笑って問われる気がいたします。
東京大学教授、松岡心平先生の興味深い一文を紹介します。
【一遍聖絵】によると、一遍が踊り念仏を始めたのは、信州小田切の里である。(第四巻)
踊屋はまだない。武家屋敷の庭先での踊り念仏である。一遍は踊りの集団には加わらず、縁側に立って鉢を叩いて囃しており、庭では土墳のそばで、時衆の僧尼や武士たちが足を高くあげながら思い思いに踊っている。
信州佐久の大井太郎の館でも踊り念仏は行われた。『聖絵』第五巻では、一遍たちが大井太郎の屋敷から立ち去る場面が描かれるだけだが、屋敷の縁側の板が踏み抜かれているのが印象的だ。詞書には「数百人をどりまはりけるほどに、板敷ふみおとしなどしたりける」とあり、屋敷内で数百人が踊り狂って板敷を踏み破ったようだ。
「数百人をどりまはり」とあるからには、踊ったのが一遍ら時衆の面々だけでないことは明らかだろう。
弘安二年(1279年)冬、信州で自然発生的に始まった踊り念仏は、道俗ともに激しく踊り狂うアナーキーなものであった。
ところが、不思議なことに、これ以降の二年半ほどの間、『聖絵』から、踊り念仏の描写・記述がぷっつり途絶えてしまう。再びそれが復活するのは、弘安五年(1282年)の春、鎌倉近くの片瀬浜の地蔵堂においてである。(第六巻)
しかも、踊り念仏は、全く新たな面貌をもって再登場する。
ここで初めて、高床に屋根つきの仮設舞台「踊屋」が現れる。さらに、舞台上で踊るのは、時衆の僧尼に限られる。囃す楽器もありあわせの鉢から鉦鼓に変わっている。そして、一遍たちが鉦鼓に合わせて板を踏み鳴らして念仏を唱え、法悦に浸りながら右旋回するさまを、一般の人々は踊屋の下から眺め上げるだけであった。
片瀬浜での念仏踊りは、明らかに組織的な「踊り念仏興行」というべきものへと変質しているのである。
念仏が、劇場を生み出した瞬間である。
私は神奈川県立博物館資料室で、この文章を読んだとき、
まるでその場「念仏が、劇場を生み出した瞬間」にいたような衝撃を得ました。
物音一つしない部屋にいながら鉦鼓の音が聞こえる気がしました。
この感動を持って、片瀬地蔵堂に参りましたので、
その場に立ったときも、念仏踊りの音楽が聴こえてきました。
そこには当時を忍ぶ建物はなにもありません。
なにもない、ただの野原です。
先ほどの男の子がここを知っているわけがわかりました。
大人にはなんの意味もないこの場所も、
子どもたちにとっては意味ある遊び場なのでしょう。
一遍上人と時衆は鎌倉に入れず、この場所で4ヶ月を過ごしました。
遊行の旅で4ヶ月も同じ所に留まった例は他にはないようです。
踊屋では毎夜、踊り念仏が繰り広げられ、
あちこちから多くの民が集まって、
観にきたのではないでしょうか…
食べるものを売る輩もいたかもしれません。
ミッドサマーフェスティバル!
踊り念仏は各地に広まり、盆踊りに変化して、今につながります。
YouTubeで「踊り念仏」を検索すると、
流麗な、穏やかな動きの奉納される踊りとして多く出てきます。
でも私には違う光景が見えました。
1991年、バブル時代、ジュリアナ東京です。
「お立ち台」と呼ばれるステージで、
ワンレン・ボディコン女性がジュリ扇をヒラヒラさせて踊り、
ホールのみんなもトランス状態で踊る光景です。
子育て真っ最中の私には全く縁のない場所でしたが…
信州佐久で自然発生的に始まった、
道俗ともに踊り狂うアナーキーの踊り。
もしかして、いろいろ問題もあったのかもしれません。
そこで皆で知恵を絞って作り出したものが
片瀬地蔵堂の踊り念仏のショーだったのかもしれません。
とにもかくにも、娯楽の少ない当時の人々の
大きな楽しみだったに違いありません。
貴族や武士の高位のものだった宗教を、民間レベル、
しかも、男だけでなく、女子どもに伝える目的のための
最高の踊り念仏エンターテインメントは、
最上の布教コマーシャルだったと思います。
一遍上人の旅は続くように、
私の一遍上人への旅も続きます。
もう時期を過ぎていますが、
咲いている可憐な蓮の花、
「遊 捨て聖 一遍上人 踊り遊ぶ」の花です。
癒されます。