港も見える丘から

人生のゴールデンエイジにふと感じることを綴っていきます

NO.199 『美しい死』〜品位ある医療の、ひとつの結末〜

f:id:tw101:20200822091641j:image

 


お誕生日を迎えました。

 

f:id:tw101:20200822091753j:image

 

直後、尊敬してやまないゴスペルシンガー松谷麗王先生の訃報が届きました。

あまりに突然の急逝に驚き、言葉もありませんでした。

神さま、なぜ、なぜ、レオ先生を召されたのですか。

まだ51歳という若さなのに…と

何度も神様に問いました。

 

ふと見上げた空を見ていたら、レオ先生が天国で亀渕友香さんに迎えられ、

神様の御許で高らかに神様を賛美している姿が浮かんできました。

神様の平安がありますようにと祈りました。

 

f:id:tw101:20200822091125j:image

 


8月は終戦記念日があるがあるからでしょうか、

『生と死』に思いを寄せる時間が多いように思えます。

 

そういえば『美しい死』について書いたことがあった!

FBの過去のノートに書いた文章をもう一度読み返してみたいと捜して、

やっと見つけました。

2014年8月14日に書いたものです。

 


上智大学内の聖三木図書館の本棚で最初に私を呼んでいた本が

森亘先生の著書「美しい死」でした。

真っ白な美しい装丁の本を開くと、「寄贈」という朱印がありました。

森先生から贈られた大切な一冊。

f:id:tw101:20200822091230j:image


人間の「生と死」に関わる医療従事者や医学生たちへの講演で

お話しされた原稿をまとめられたものですが、

結びの章「美しい死」は何度読み返しても心を打つ文章です。

敬愛する恩師が亡くなられ、

生前恩師から望まれていた人体解剖が終わったときに感想を聞かれて、

森先生は「美しい死」という言葉で表現されました。

なぜ、そんな言葉が口をついたのか、

先生は自分の考えをこう書かれています。

 

 

このように節度ある治療を受けた遺体の内臓にはある種の美しさがあると気づきました。

たとえば、最先端の医療を受けた例でも、それが適度であれば遺体の残された変化はむしろ古典的ですらあり、美しいと呼びうる姿であります。

節度ある治療とは合理性一点張りの結果でなく暖かい「こころ」に裏打ちされた合理性であると考えます。

そして節度ある医療とは同時に品位ある医療であり、患者の人間としての尊厳が守られることにも通じます。

人間というものはしょせん、いつかは死を迎えなくてはならぬ運命にあることを考えれば、そして死が多くの場合、医療の最終手段として訪れるものであるならば、医療というものは、人間の人間らしい自然の死を助けることで、自分の身体の中に秘められている自然の力による治癒を側面から助けると共に、その人生の最終段階においては、自らに運命づけられた自然の死を助けるのも、医療のもつ役目でありましょう。

「必要にして十分な医療」「節度ある医療」あるいは「品位ある医療」をどう行うかの適切な判断は、「知識」「教養」「品位」の三者を併せ持つ医師によってのみ初めて下しうるものであり、今日の医師にはこうした高度の資質が求められています。医師というものは、その人生において、自らをある程度犠牲にしてでも、広く人々に奉仕せねばならない使命と運命を背負っていると自覚しなければなりません。そしてそれに見合うだけの物質的報酬は必ずしも期待できません。

得るものがあるとすれば、一方では自らの誇りであり、他方、社会の中での尊敬でありましょう。

みなさま、どうか若者に対し、医師とは正しく誇り高く、世の尊敬を集めるべき職業であることを説かれ、『知識』と共に『教養』ならびに『品位』を与えていただきたいと存ずる次第でございます。

f:id:tw101:20200822091245j:image

森亘(もり わたる、1926年1月10日〜2012年4月1日)

日本の病理学者、東京大学名誉教授・元学長。

国立大学協会会長。元日本医学会会長。医学博士(1957年)。

東京生まれ。

2012年4月1日、肺炎のために、東京大学附属病院で死去。

86歳没、叙従三位。(Wikipediaより)

 

 

 

平成11年 日本医師会創立50周年記念大会・特別講演でのお話しの大意です。

読んでいて、簡潔な文章に込められた深い意味に、何度も肯きました。

そして、この資質は医師のみならず、

政治家・法律家・会社経営者・教師・聖職者という特別な職業に就く人々のみならず、

必ず滅びゆく一人の人間として持ちたいものだと思います。

 

 


日本学士院会員、文化勲章受賞、多くの財団の顧問をされるなど、

輝かしい経歴に目も眩む思いですが、素晴らしいのは、

そんな経歴は微塵も見せない慎み深さです。

 


このノートを書いた6年前、

私は「ろうけん」のショートステイしていた父と向き合っていました。

過去の複雑な事情により、一度も一緒に生活をしたことのない父でした。

母の死後、まもなく再婚した相手にも先立たれた父。

「俺は好きなように生きる。お前の世話にはならない」と豪語していた父が、

肺気腫となり、夏の暑さで一人暮らしは無理となっての「ろうけん」入居でした。

「お前に世話になるとは思わなかったな。ありがとうよ」と言う父は

病院スタッフの手厚いケアを受け、最期の日々を穏やかに暮らし、

翌年の夏も、好物にうな重を二度、ペロリと平らげる食欲を見せ、

秋に天寿を全うしました。

 


祖母は54歳、母は44歳で亡くなったので、

私は34歳までしか生きることはできないと10代後半にして、

かなり本気で思っていました。

その思いが激変したのは、長男を出産したときです。

『死の恐怖』という暗闇が消え、

圧倒的な『生命』の息吹きを感じ、

『生と死』を均等なバランスで考えるようになりました。

 


1988年8月第三子を身篭っていましたが、

夏の暑さで体力が落ち、何かの感染症にかかってしまったのか、

熱が42度も出て、陣痛のような痛みが続き、

赤ちゃんは救急車の中で頭が出てしまいました。

8月22日、安定期に入っての死産でした。

母体も危険な状況だったので、自然分娩の形で胎児が出てしまったのは、

お母さんにとって一番良い形でしたと説明を受けても、涙が止まりませんでした。

我が子の生命を守れなかった母の嘆きと苦しみは深く、立ち上がれないと思いました。

 

でも、聖路加国際病院のドクター、ナース、チャプレンの

心のこもった行き届いたケアは、私の心を優しく包み、

退院する頃には悲しみは消えずとも、悲しみと共に生きる力を取り戻し、

二人の子どもが待つ家へ戻っていくことができました。

スタッフのみなさまには心から感謝をしました。

 


コロナ感染拡大で医療現場はどんなに困難な状況になっているのか、

ニュースやSNSで垣間見る程度しかわかりません。

きっと、想像以上のご苦労があり、

過大な犠牲を強いられているのではないかと思うと、感謝にたえません。

 


いかに生きるかを考えていた青春時代、

いかに生活するかを考えていた壮年時代、

そして今、いかに人生を終うかを考えるときが始まりました。

 


「美しい人生」を豊かに過ごして、「美しい死」を迎える準備をして、

次の世代にバトンを渡せていけたらと思います。

 

f:id:tw101:20200822091312j:image