港も見える丘から

人生のゴールデンエイジにふと感じることを綴っていきます

NO.203 小栗判官照手姫物語

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昨日は「敬老の日

朝晩に涼しい風も吹き、

待ちわびたお出かけをしたくなる思いは誰も同じ…

久しぶりに行楽地も賑わった一日でした。

渋滞する横浜新道を抜けて、藤沢遊行寺に行ってきました。

 

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時宗総本山である遊行寺境内の北東に長生院という小さなお寺があります。

古くは閻魔堂と呼ばれていましたが、

照手姫に中興され、「長生院」と改称したと伝えられています。

 

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江戸時代には、『小栗判官伝説』が流布されて、

歌舞伎にもなっているほど有名な話となっていました。

安寿と厨子王物語」と並び称されるお話ですが、

私はほとんど知らなくて、

今回、改めてストーリーを読みました。

 

 

 

いくつかのバリエーションがありますが、これは長生院に伝わるお話です。

 


 昔、常陸の国、真壁郡小栗(現真壁郡協和村)に、

小栗満重という大名がおりました。

応永(1394〜1427)の頃、当時関東管領として関東を治めていた足利持氏に謀反の疑いをかけられて、攻め落とされてしまいました。

満重は、わずか10人の家来を連れて三河の国(現愛知県)に落ち延びていきました。

その途中、相模の国郷土横山大膳の家人に誘われて、しばらく大膳の館に留まっていました。

 


両親と早くに死に別れ、訳あって大膳の館で妓女をしている照手姫と恋に落ち、

夫婦になる約束をしました。

 


横山は、実は旅人を殺して金品を奪う盗賊で、何も知らずに立ち寄った満重を格好の獲物と殺害する様子を見計っていましたが、

10人の屈強の家来を相手にするには、勝ち目もなく、手をこまねいていました。

やっと、策を練り、人食い馬と言われる荒海「鬼鹿毛」にのせて、殺そうと企てます。

 

ところが、馬術の達人である満重は難なく荒馬を乗りこなしてしまい、計画は失敗しました。

 


次は酒盛りを開き、毒入の酒で毒殺を企みました。

知らずに酒を飲んだ満重主従は命を落とし、11人の屍は上野原に捨てられてしまいました。

 


その夜、藤沢遊行寺で、大空上人の夢枕に閻魔大王が現れ、「上野原に11人の屍が捨てられている。満重一人を蘇生させられるので、熊野の湯に入れて、もとの身体に治すように力を貸せ」と告げました。

すぐに上人は上野原に行ってみると、11人の屍があり、お告げのとおり、10人の家来は事切れていましたが、満重だけはかすかに息がありました。上人は家来たちを葬り、満重を寺に連れて帰りました。

 


上人は閻魔大王のお告げにしたがい、「この者は、熊野の湯に送る病人である。一歩でも車を引いてやるものは、千僧供養に勝る功徳を得よう」と書いた札を満重の首にかけ、引車にのせ、熊野へ送り出しました。

藤沢から紀州の熊野まで、大勢の人々が車を引いて送ってくれたおかげで、満重は熊野に着き、熊野権現の霊験と温泉の効き目で元の身体に戻りました。

 


一方、照手姫は、満重が毒を盛られた後、密かに横山の館を抜け出しましたが、追手につかまり、川に投げ込まれてしまいました。

しかし、日頃信心している観音菩薩のご利益で、海に流れ、金沢六浦の漁師に救われ一命をとりとめました。

ところが、美しい照手姫に嫉妬した漁師の女房は、姫を松の木に縛りつけ折檻し、松葉でいぶしたりしていじめ抜き、挙句に人買いに売り飛ばしてしまいます。それでも照手姫は満重を思いながら健気に生き抜いていきます。

 


さて、身体の癒えた満重は一族の住む三河に行き、力を借りて京都の幕府に訴えます。生死の境から蘇ったことは稀有の仏徳であるとして、満重は常陸の領地を与えられ判官の位を授かりました。

常陸に戻った満重は、兵を率いて横山大膳を討つと、遊行寺に詣り、上人にお礼をするろともに、亡くなった家来10人の菩提を弔いました。

 


そして、満重は美濃の青墓(現岐阜大垣市)で下女として働いていた照手姫を救いだし、晴れて二人は夫婦になり、常陸の国で幸せ暮らします。

時を経て、満重亡き後、弟の助重が領地を継ぎ、鎌倉に来た折に、遊行寺に参り、満重と家来の墓をたてました。

そして、照手姫も仏門にはいり、遊行寺内に草庵を営みましたが、永享元年(1429)長生院を建て、余生を静かに過ごしました。

 


この話は芸能取り上げられ、近松門左衛門『当流小栗判官』、

小栗判官車街道』等数多くかかれるようになりました。

 

例えば、

漁師の女房入り飛ばされた照手姫は美濃青墓の万屋の主人に買われ

常陸小萩」という名前を与えられ、下女づとめのきつい労働をさせられていましたが、

ある日、車に乗った餓鬼のような男を哀れ思い、5日の暇をとって車を引いていきました。

その男が愛する満重とも知らずに…

満重は自分の車ひいてくれた人々にお礼言って周る中で小萩を訪ね、

二人は再会するというストーリーとなります。さすが…

 

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説教浄瑠璃として語られるだけでなく、

歌舞伎・人形芝居として盛んだった「小栗もの」も

明治維新以降衰退の一途をたどり、人々から忘れたれていましたが、

現代になって見直されて、1991年初演のスーパー歌舞伎『オグリ』で一躍有名になりました。

遊行寺では遊行かぶき『小栗判官と照手姫ー愛の奇跡」が上演されるようになりました。

 

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一遍上人に魅せられて、

遊行寺に出かけたのは8月初旬のギラギラと太陽の照りつける日でした。

小栗判官照手姫のお墓があることは知っていましたが、

このお話がぐっと身近に思えたのは、

一遍上人にそっくりと思った舞踏家大野慶人先生のお嬢さんとランチをした時でした。

なんと、おじい様大野一雄先生が遊行寺で『小栗判官照手姫』を

上演されていた!と知ったとき、ブルっと身体が震えました。

 

YouTubeで探すと大野一雄先生の『小栗判官照手姫』がすぐに見つかりました。

https://m.youtube.com/watch?v=hBYc3CIwE64

 

https://youtu.be/93cPgMAM9e0

 

一つのことに集中すると、どんどん、どんどん繋がり、

興味はますます膨らんんでいくのです。

 

 

ベールに覆われた向こう側にあるものを、

ベールを取って知り得ることが面白くてなりません。

 


小栗判官と照手姫が生涯を過ごした常陸の国でなく、

ここ遊行寺菩提寺を建てた意味を噛みしめながら、

枝垂れ桜のしたにある照手姫のお墓に参りました。

f:id:tw101:20200922120024j:image照手姫のお墓


f:id:tw101:20200922120100j:image 小栗判官と家来のお墓
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神奈川県下には他にも照手姫ゆかりの場所があります。

相模湖町 美女谷 照手姫誕生の地

城山町 小栗公園 小栗判官屋敷跡

相模原市 上溝  照手姫産湯の湧き水、榎神社

金沢区六浦 専光寺 照手姫守本尊がまつられています。

⑤戸塚区俣野町 荒馬鬼鹿毛が飼われていたところ

 


興味をそそられます。

これからの季節、お散歩に良いかもしれません。

 

百日紅の花びらがハラハラと舞い、

季節は夏から秋へと確実に変わっていきます。

 

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