真光寺観音堂
1289年7月中旬の頃、体調が悪化した一遍上人は死期を察して、
大和田泊(兵庫県神戸市)の観音堂(現在の真光寺)に入りました。
8月10日、「一代聖教みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」と、
持っていた書籍を全て燃やしてしまいました。
そして、8月23日、朝の念仏を唱えていた最中に51歳の生涯を閉じました。
一遍は遺戒で後追い自殺を禁じていたにもかかわらず、
7人が入水自殺をしてしまいました。
リーダー格の他阿も念仏を唱えて餓死をしようとしますが、
近くにいた領主が聞きつけ、自殺を思い留めさせました。
そこで、他阿は生きて、遊行を続けることになり、
時宗へと発展していくのでした。
栗原康先生の「死してなお踊れ」の最後の文を紹介します。
…わが屍をのに捨て、獣にほどこすべし。教信と同じように、究極の慈悲を実行したい。畜生に食われて、畜生になる。さいごのさいごまで、ひとでありながら、ひとをこえようとしたのである。でも、ざんねんながらそうはならなかった。在家の人たちが、一遍を供養させてくれといってきたのである。遺言どおり、まかせることにした。どんなかたちであれ、屍体のつかいかたに執着してはいけない。観音堂のまえの松のしたで、一遍上人を荼毘にふした。お墓は五輪塔で、石造りの玉垣に囲まれている。簡素なもんだ。そのとなりに、ちっちゃな御影堂をたてている。『一遍聖絵』をみるとおもしろくて、荼毘にふした松の木から、ふわっと煙がたちのぼって、それをおって目を左にむけると、お墓と御影堂がみえてくる。しかもすごいことに御影堂の中には、ドーンッと一遍上人がたっているのだ。もちろん御影堂の中に一遍上人像がおかれたということなのだろうが、絵をみるかぎり、どうみても本人にしかおもえない。わたしなどは『一遍聖絵』の実物をみにいったときに、友人といっしょに「うわあ、一遍上人が生きかえった‼︎」と歓声をあげてしまったほどだ。マジである。ぜひ、絵をみてもらいたい。
じゃあ、その絵にこめているおもいはなんなのか。そのへんは、さいごの聖戒のことばから察することができる。一遍を火葬して、たちのぼる煙をみあげながら、みんなこうおもったという。さびしい。もういちどでいい、もういちどだけでいいから、あのときのあのひとのあの声がききたい。これはなにかムリなことでもいっているのだろうか。そんなことを考えているうちに、ふとどこからともなく、なむあみだぶつという声がきこえてきた。ナムナムナムナム。気づけば、念仏の大合唱だ。セミのように無尽蔵にわきあがってくるその声が、だれの声なのかもわからない。そういえば、一遍の声もこんなかんじじゃなかったっけ?復活だ、うたえばいつもよみがえる。衆生をすくえ。われひとりももらさじと、どうせかなわぬはかない夢ならば、散って狂って捨て身で生きろ。死んだつもりで生きてみやがれ。フオオオオ、フオオオオオオ‼︎!
うたえ、おどれ、はねろ、ふるえろ。ところかまわず、泣きさけべ。仏だ、セミだ、チクショウ、チクショウ、チクショウ。いくぜ、極楽。虫けら上等。泣いて、泣いて、泣いて、虫けらになりてえ。チクショウ‼︎…
JR兵庫駅からタクシーで5分ほどで真光寺に着きました。
清められた境内を歩き、社務所に行き、
「こんにちは。」と声かけますと、中から御住職さんがお出ましになりました。
「一遍上人のことを調べています。」と簡単な自己紹介をしながら、
これまでのブログをお見せしました。
最初は戸惑いがちな表情をされていた住職さんも、
次第に打ち解け、一遍上人の話しをしてくださり、
一遍上人のお墓に案内してくださいました。
あ、あのあたりに松の木が…
では、あそこで荼毘にふされたのか…などと
一遍上人の最後の時を思いながら、お話を聞いていました。
すると、住職さんは
「阪神淡路大震災のときにね、あの塔が倒れてしまってね。
私はその時、東京にいたので、飛んきましたが、大阪から先へいけなくてね。
漁船でここまで来ました。
倒れた塔から一遍上人のご遺骨がこぼれ出ていて、
それを納めたのだけどね、まとめた時にご遺骨の一部がハンカチについてね、
どうしたものかと思ったけそ、後に学生連れてインドに行く際にお持ちして、お納めしたんですよ」と
おっしゃっいました。
松の木があったところです。
御廟所
無縁如来塔
ご住職さんの長島尚道さんは大正大学で教鞭をとられた、
時宗教学研究所長でいらして、一遍上人研究の第一人者の方です。
その上、大正大学で尚道先生と出会い、
長島夫人となられた和代さんは、明治学院大学院で福祉を学ばれました。
当時は福祉の大学院は明治学院にしかなかったそうで、
私が大学の福祉学科の後輩だと知って、
親しく書庫に連れていってくださり、
ご自身の卒論まで見せてくださいました。
思わず、私が「マリゴールドの魔法」というNPOを立ち上げたいという夢を語ると、
「大丈夫、できるわよ。私は12の保育園と社団を2つ立ち上げたのよ。
大丈夫、簡単。簡単。頑張って。」とエールを送ってくださり、
共著作の「子育て支援」〜子どもの最善の利益を護るために〜という専門書をくださいました。
なんという展開でしょう!と驚きつつ、
日本のソーシャルビジネスの草分けで、尊敬してます」と言ったところ、
なんと、なんと、
「あら、賀川豊彦先生はすぐそこで生まれたのよ!」と和代先生。
「ええええええ⁉️」と驚く私に、
長島住職は生誕の地を地図で描いてくださいました。
「一遍上人のことを書いてきましたが、
今日、終焉の地に来れたので、ピリオドとしたいと思います。」
と最後に挨拶すると、
「熊野に行きなさい。」と一言。
ああ、やっぱり熊野ね…と、
私の思いは一遍上人トランスフォーメーションの地、
熊野へ飛んで行きました。
旅はまだ続くというわけです。
この場所が海に近いということを実感する冷たい風が吹く中、
賀川豊彦先生生誕の地へ歩いて行きました。
賀川先生は1888年、
回漕業者・賀川純一と徳島で芸妓をしていた菅生かめの子として生まれました。
4歳の時に相次いで父母と死別し、
徳島で血の繋がらない父の本妻と祖母に育てられますが、
「妾の子」と周囲から陰口を言われるような孤独な幼年時代を過ごしました。
「大衆の生活に即した新しい政治運動、社会運動、組合運動、農民運動、協同組合運動など、およそ運動と名のつくものの大部分は、賀川豊彦に源を発していると云っても、決して云いすぎではない。近代日本を代表する人物として。自信を誇りをもって世界に推挙しうる者を一人あげようと云うことになれば、私は少しもためらうことなく、賀川豊彦の名をあげるだろう。かつて日本に出たことはないし、今後も再生産不可能を思われる人物ーー、それは賀川豊彦である。」
一遍上人終焉の地に近いこの場所で生を受けた豊彦君は、
真光寺の境内で遊んでいたのではないでしょうか…。
記憶もあいまいなほどの幼い心に
一遍上人の「大衆を愛する心の種」が撒かれていたのかもしれない…。
ソーシャルビジネスの草分けの賀川豊彦先生に、
一遍上人がつながっていたとは…
私の夢と希望は来年も、また再来年も、
そのまた次の年、次の年へと
ご縁をいただいた方々と
一緒に叶えていきたいと思います。
2020年 お付き合いくださり、ありがとうございました。
お一人おひとりが健康を支えられて、
素晴らしい年を歩むことができますようにお祈りします。
来年もよろしくお願いします。
ありがとう。