旅から戻ってきてみたら、“clubhouse”という
見慣れない世界ができていて、
私は好奇心いっぱいのアリスの気分になっていました。
お友達のうさぎさんに招待されて入ってみたら、
ワンダーランドが広がっていました。
このお話しはまたいずれしたいと思います。
まずは旅の続きのお話しです。
●マンチュリアン・リポート
1928年(昭和3年)6月未明、張作霖を乗せた特別列車が爆破されました。
蒋介石率いる国民革命軍の北伐により、北京から撤退し、本拠地奉天に戻る途中、
満鉄線とのクロス地点で乗車車両を爆破され、同日中に自宅で死去しました。
のちの満州事変にもつながるこの爆破事件は
「皇姑屯事件」と呼ばれ、日本関東軍の仕業とされました。
若き軍人志津が聞き綴った「満州報告書《A Manchurian Report》と、
かつて西太后と光緒帝を載せて走った
誇り高きイギリス製の特別機関車のひとりごと《A Monologue of Iron》
で、次第に真相が明かされていきます。
今だにときあかされていない最大級の昭和史ミステリーです。
爆破事件場所 (Wikipedia より)
再見…つぁいちぇん…という音は悲しみでなく、希望なのだと思いました。
●天子蒙塵 (てんしもうじん)
1924年、クーデターにより、清朝のラストエンペラー溥儀は紫禁城を追われ、
正妃・婉容、側妃・文繡と共に生家に逃げ込みます。
さらなる危険が迫り、
溥儀は日本の庇護の下、密かに北京から天津日本大使館へ脱出しました。
溥儀は王朝再興の夢を見て、
極度のアヘン中毒に陥っている正妃・婉容はイギリス亡命を望み、
そして側妃・文繡は「自由」を望み、離婚をしました。
一方、父・張作霖を失った張学良は失意のままイタリアを経由してイギリスへと向かいます。
かくして、二人の天子は塵をかぶって逃げ惑うのでした。
史上最も高貴な離婚を成し遂げた文繡を語り部として第一巻は展開していきます。
溥儀と婉容
文繡 (Wikipedia より)
第二巻は
張作霖が爆殺されて3年、馬占山は「我に山河を返せ」と叫び、
馬占山 (Wikipedia より)
1931年、張作霖側近だった張景恵の説得を受け、
一度は日本にまつろおうとします。
深い孤独に沈んでいく溥儀の心模様と、
謀略渦巻く満州の底知れぬ闇が描かれています
第三巻には希望の地を目指し、海を渡った二人の日本男児の正太と修。
駆け落ちして大陸へ逃避行する美男美女。
吉田茂やココ・シャネルなど
歴史的著名人も登場し、それぞれの運命を切り開いていきます。
日中戦争前に何が起きていたのか、リアルな映像が目に浮かびます。
そして、かつての英雄が中原のかなたに探し求めた男がついに現れます。
そしていよいよ最終巻。
中華皇帝への返り咲きを夢みるラストエンペラー・溥儀、
一度は蒋介石に満州軍を禅譲し、渡欧しながらも、上海に戻ってきた張学良。
欧米列強との対決を模索し、東亜連盟を構想する石原莞爾。
日本と中国思惑が複雑絡み合う中、
二人の天子は再び歴史の表舞台へ登場してきます。
そして、最後は溥儀の即位と、全く想像していない場面で終わります。
ラストエンペラー 溥儀
張学良 (Wikipedia より)
西太后、溥儀、張作霖、張学良等の実在の人物が繰り広げる近代中国史を背景に、
李春雲、李春雷の兄弟 梁文秀の妻となった二人の妹玲玲、
架空の人物が、真の主人公として、
満州人の心、そして普遍的な人の生き様を見せてくれました。
ヨーロッパの歴史の学びを深くしていった私は、
すっかりおじいちゃんになった春雲の目を通して、
「溥儀の即位」がどういうものだったにか知り、
日本と中国との暗澹たる関係を知ることができました。
伝説の「龍玉」は誰の手に渡るのか…
正太と修のその後は?
溥儀、張学良のその後、
まだまだ先が読みたい!と「天子蒙塵6部」と調べてみたら、
2018年12月2日付の「好書好日」のインタビュー記事を見つけました。
「第5部まできましたが、シリーズは続きます」
シリーズ累計530万部超。第4部まで文庫本で10冊。第5部は単行本4冊、という破格の規模で、近代の中国と日本の分かちがたい関係を浮かび上がらせてゆく。中国には40回ほど渡ったという浅田さん。最初に取材目的で渡った20年ほど前は、いまほどの経済大国になるとは考えていなかった。
「中国そのものが変わっている。いろんな意味で、このシリーズは早く書けません」
「人も街も画一的でなく、なぞが多く、奥が深い」と中国を評する。中学の頃から漢文の美しい言葉にあこがれるようになり、10代の頃からこつこつと通史などを学んできた。中国出身の担当編集者は「偏らない見方で、日本と中国が描かれている。知らなかったことも多く、読みながら歴史を知る思いです」と言い添える。
『96年から刊行「シリーズ続く」「早くは書けない」』
シリーズで一貫して描かれているのは不屈の人々。波乱の人生を送った張学良は、100歳まで生きた。最新刊では「嘆く間があるのなら、どうにかするのですよ」と、溥儀を幼い頃から支えてきた人物が語る最終盤の場面が印象深い。
そんな精神の強さは「負けず嫌い、ということで生きてきたようなもの」という自身の歩みとも重なる。
例えば、出版不況ということも安易に信じない。「時代のせいにしたら、終わりです。本が売れなくなった背景に、刊行点数が多すぎ、内容もよくない本が目立つようになったことがある。もっと、いい本をつくっていかなくては」。そのうえで「子供が最初に出合う本がつまらなければ、もう読まなくなります」と将来を見据える。
「いい小説というものは、分かりやすく、美しく、おもしろく」と3カ条を示す。根っこにあるのは、小説の神様の存在を信じる思い。小説とは考えて書けるものではなく、素材そのものが落ちてくるものという。それも若いからいただけるのか、と考えていたが、「意外とジジイになっても降ってくることが分かりました」と明かす。
もうすぐ67歳。「贈りものを受け止められるよう、一定のテンションに張り詰めていく努力はしております」(木元健二)=朝日新聞2018年11月28日掲載
「没法子(メイファーヅ)と言わなければ、
人間は存外まともに生きてゆけるものです。
鳥や獣をごらんなさい。雨が降れば宿り、風のゆくえを読み、暑さ寒さをうまく凌いで生きていけるではありませんか。ならば万物の霊長たる人間が「どうしようもない」などと言うのは贅沢な話です。
嘆く間があるのなら、どうにかするのですよ。」
慈愛に満ちた母のように語る春児の言葉…
春児は隣人を愛し続けたイエス様のようでした。
何もかもうまくいかず、絶望感に苛まれても、
大丈夫、大丈夫、きっとうまくいく…
「どうしようもない」から
「どうにかなる」へ。
浅田次郎さんのメッセージが心に響きます。
「日本ペン倶楽部の始まり」を当時会長をされていた浅田次郎さんが
明治学院大学チャペルでの講演会でお話しくださったことがあります。
初代会長島崎藤村は
1936年にアルゼンチンブエノスアイレスで開かれた国際ペン倶楽部に
初参加の日本代表として参加しました。
1931年9月18日「満洲事変」が起き、翌 年の満洲国が成立し、
日本はこの愧偶国家の国際認知を望みましたが、
それは当然拒絶され,1933年、国際連盟を脱退して、
孤立への道を辿りはじめていたのです。
日本ペン倶楽部の創立も,この外交的孤立を挽回するために,
外務省主導で な さ れ た 文 化 政 策 の 一環 となっていました。
島崎藤村の会長在任期間は1935年から1943年という極めて難しい時期でした。
そのあたりの話を和服姿の浅田次郎さんからお聞きしたとき、
私はまだ「蒼穹の昴」を読んでいませんでしたし、
歴史認識もほとんどありませんでした。
今、もう一度、あの時に戻ってお話しを聴けたら、
いろいろな事がわかったかもしれないと残念に思います。
1900年(明治33年)生まれの亡き祖父、
1928年(昭和3年)生まれの亡き母が生きた時代も
戦争に明け暮れた混乱の時代でした。
その中にあっても、毅然として小さくても自分の使命を果たしてくれたおかげで、
今、私はここ横浜の地で幸せを感じて生活することができています。
安穏とした時代などないのです。
これからどんな状況になっても、どうしようもない…と言わず、
どうにかなると希望を持っていたいと、
蒼い空を見上げて思う午後です。
最後におまけ
人名など漢字で見るのと音で聴くのと大違いです。その一例です。
西太后(シータイホウ)
万歳爺(ワンソイイエ)
愛新覚羅溥儀(アイシンギヨロプーイー)
龍玉(ロンユイ)
梁文秀(リアンウエンシウ)
李春雲(リイチユンユン)
毛沢東(マオヅオドン)
王逸(ワンイー)
春児(チユンル)
玲玲(リンリン)