港も見える丘から

人生のゴールデンエイジにふと感じることを綴っていきます

NO.211 『主われを愛す』日本で最初に歌われた讃美歌

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蒼穹の昴」シリーズを読み終わり、中国から帰ってきて、

虚脱感に浸る間もないまま、

私はclubhouseというワンダーランドに飛び込みました。

お友達、家族からは賛否両論。

好奇心の強い私はやっぱり入っていきました。

聞いているばかりではつまらないので、

自分のお部屋を持つことにしました。

そこで最初は「赤毛のアン」のお話をしました。

モデレーターは重要な役目で、

ただ話していれば良いというものでないことがわかりました。

場数を踏むしかありません。

 



弟の部屋でお茶していたところ、

「ヨコハマの女性宣教師」メアリー・P・プラインと「グランマの手紙」

背表紙が私を呼ぶので

早速、義妹から借りてきました。

 

 

 

そこには1871年から1875年に宣教師として横浜に滞在したメアリー女史が

故国アメリカにいる三人の孫に書き綴った愛ある手紙が収められています。

多く人に読んでもらうために1877年に出版された本を

安倍純子先生が訳された貴重な一冊です。

 


読み始めて、私は次第に明治時代にタイムスリップしていきました。

 


1871年ジュリア・N・クロスビー、ルイーズ・ピアソン、メアリー・プラインは

揃って来日し、やがて横浜山手48番地にバラの家屋を借りて、

アメリカン・ミッション・ホームを建設します。

 

そしてこの3人が横浜共立の前身・共立女学校と

共立女子聖書学院の前身・偕成伝道女学校を創設しました。

 

 

 

メアリーが1872年4月18日に孫娘のキティ–あてに書いた手紙の文中に

ノナという少女が登場します。

親に捨てられ、大怪我で歩行困難で、

ホームに引き取られた日本人の少女です。

もちろん英語は一言も理解できません。

最初は先生たち言うことも聞かず周りの人を手こずらせました。

当時の日本には歌はありませんでしたから、

誰も歌うこと知りませんでした。

宣教師がやってきて初めて歌を耳にしたのです。

 


宣教師たちが讃美歌を最初に聴いたとき、ノナは戸惑いますが、

次第に興味を示して、歌を覚えていきました。

 


そのうち、ノナは早起きをして食堂に一番のりして、

自分の小さな椅子に腰をかけ、讃美歌を歌うようになりました。

 

 

 

“Jesus loves me “

“Christ is born the Lord of glory “

“There is a happy land “

 


他にも部分的ですが、5、6曲を歌います。

 


という記述がありました。

 

 

 

♬“Jesus loves me “は「主われを愛す」超有名な讃美歌です。

 

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エスワレヲ愛シマス。

サウ聖書申シマス。

彼レニ子供中。

信スレハ属ス。

ハイエス愛ス。

ハイエス愛ス。

サウ聖書申ス。

エスワカタメニ。

天ノ御門ヒラキ。

ソノチニヨレリ。

ハイエス愛ス。

 


ジュリア・クロスビーが最初の翻訳した歌詞です。

 


♬“Christ is born the Lord of glory “はクリスマスの讃美歌です。

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調べてみましたが、ストーリーにたどりつけませんでした。

国会図書館で調べてみたいです。


♬“There is a happy land “

この讃美歌は「大草原小さな家」“LITTLE HOUSE ON THE PRAIRIE”

第17章 父さん 町にいく に出てくるのです。

父さんが町に出かけ、狼の遠吠えが近くで聴こえる不安な夜、父さんの身を案じるローラはなかなか寝付けません。

ゆり椅子に座って母さんが優しい声で歌うのがこの歌でした。

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どんなこもり歌なのかしらとずっと気になっていました。

そして、数年前「大草原の小さな家」を訪ねる旅に出かけて、

現地で買ったCDで初めてこの子守歌を聴きました。

あれ!とびっくりです。

 


讃美歌490番 あまつみくには いとたのし です。

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「永生 天国」という項目に分類され、

普通はあまり歌われない讃美歌でしたので、知らなかったのです。

「主われを愛す」と同じように「児童」に分類されていたなら、

教会学校でもっと歌われていたに違いありません。

 

ところで、ヘボン式ローマ字を作ったヘボン博士は

1953年日米修好通商条約締結で来日が可能になると知るや、

長男を知人に預けて、妻クララと共に

1859年にニューヨークから横浜へ宣教師としてやってきました。

ヘボン博士はニューヨークきっての病院を経営していて、

市内に3つの広大な住宅と別荘を持つ成功者でしたが、

相次いで3人の子どもを失い、

「自分のために選ばれた任地へ行きたい」と強い思いを持っていました。

遣わされる場所が日本だったのです。

 


神奈川宿に到着したヘボン博士は成仏寺本堂に居を構えました。

ニューヨークから選んできた荷物は3トンといわれ、

その中にフォルテピアノがあったという記録が残っています。

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シーボルトが持ってきたスクエアピアノが日本最初のピアノですが、

フォルテピアノの第1号はクララの持ってきたものです。

そのピアノがどうなったか、いろいろ調べても記述がなく、

今も横浜ミストリーとなっています。

 

私の家から徒歩10分圏内にある成仏寺に置かれたフォルテピアノ

その音色はどうハマっ子に響いたのでしょうか。

神奈川宿から山手の居住地に引っ越したヘボン博士の家で開かれていた

クララの教会学校フォルテピアノの演奏で数々の讃美歌が歌われていました。

その音が、子どもたちの声が聞きえてくるようです。

 

主われをあいす

主はつよければ

われよわくとも

おそれはあらじ

わが主エス わが主エス

わが主エス われをあいす

 

キーボードを弾きながらお話しできる!

私にとってclubhouseはおもしろいツールです!