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港も見える丘から

人生のゴールデンエイジにふと感じることを綴っていきます

NO.32 素敵な町 自由が丘

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“Jiyugaoka Sweets Festa 2016 ”に行ってきました。

おしゃれな自由が丘は大好きな町で、高校生の頃から良く出かけて行きました。
お目当は自由が丘駅前ロータリーで歌う自由が丘ゴスペルコワイアの応援です。
世界のスイーツもあって、見ているだけでも楽しいです。
 
町中賑やかで、時間までお散歩していたら、熊野神社の前に出ました。
以前なら通り過ぎてしまうのですが、最近は神社仏閣にも興味があるので、
鳥居をくぐって中に入って行きました。
参道には手づくりの可愛い小物を売っていました。
さすがに自由が丘、おしゃれです。
 
ここは熊野詣が盛んだった頃、
地元の住民が本宮から御分霊を拝受して創建したそうです。
境内には栗山久次郎さんの銅像がひっそりと建っていました。
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駅名ロータリーに戻ると、
スパボと呼ばれるスーパーボウルの二人が歌っていました。
 
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そして次が御目当の自由が丘ゴスペルコワイアです。
私が歌っているゴスペルコワイアの憧れのコワイアです。
福音を伝え、神を賛美する歌声が自由が丘の町に響きわたり、
足を止めて聞き入る人垣が大きくなって行きました。
東横線ホームの人たちも聞き入っています。
素晴らしい歌声でした。
 
        “ Your latter will be greater "
          これまでに人生より、これからの人生はもっと良くなる 
 
 なんて力強いメッセージでしょう。
言葉をかみしめました。
 
 
 
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さて、家に帰ってから、栗山久次郎さんがどういう方かと調べてみると、
「自由が丘」という地名を命名した方でした。
 
ペリーの黒船が来航した1853年生まれで、
1889年に碑衾村村長となりました。
明治新時代の村政、教育文化の向上を目指し、
耕地整理事業展開しました。
横浜と渋谷を結ぶ東横線の建設にあたっては、
後藤慶太に直談判して、当初予定されていた九品仏前駅を
自由が丘駅として誘致を行いました。
 
(自由が丘本店の「黒船」さんはもしかしたら栗山翁にルーツがあるのかしらと
ふと、思いました。)
 
そして、旧来の「碑衾町(ひぶすま)大字衾」という地名を、
地域の発展願う住民の皆さんの思いを元に、
「碑衾町大字自由が丘」と改名したのです。
この「自由が丘」命名が現在の「自由が丘」という町の基盤となりました。
 
もし、栗山翁がそのままの名前を使っていたら、
おしゃれな自由が丘にははならなかったかもしれません。
 
 
 
では、なぜ、「自由が丘」という名前を思いついたのでしょか。
昭和の初めの頃、この地は農家が60軒ほどあるばかりの木立の多いところで、
熊野神社辺りに面影が残っているようです。
 
栗山家と岡田家という名家がリーダーシップをとっていました。
栗山久次郎がパリへ行く船中であった人物が、
自由教育の理想を掲げる手塚岸衛でした。
あまりに斬新な考えをする手塚は日本社会では異端児でしたが、
その彼を受け入れ、土地を貸しました。
そこに創立された学校が自由を冠した「自由が丘学園」だったのです。
 
1921年には羽仁もと子が「自由学園」、西村伊作が「文化学院」をそれぞれ創立し、
国の援助もらわずに新しい教育を始めました。
面白い時代です。
 
明日は、自由が丘学園について、もう少し調べてみたいと思います。