港も見える丘から

人生のゴールデンエイジにふと感じることを綴っていきます

NO.207 読書はじめは『JR上野駅公園口』

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2021年横浜のお正月はとても穏やかに過ぎてゆきました。

恒例の横浜駅東口付近でも箱根駅伝観戦もせず、

ふらりとシーバスに乗船して山下公園まで束の間のクルーズを楽しみました。

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空と海の青さは、

日常に漂う澱を洗い流してきれるような気がして、

心地よい海風に吹かれていました。

 


美しく整備された横浜港ですが、

昔のような貿易港としての活気がなくなったかなあと、

読みかけの『JR上野駅公園口』のストーリーと重ねてしばし思い出の中に降りていきました。

 

終点の山下公園で下船し、氷川丸を見ながら

歩いていると、哀愁を帯びた汽笛が鳴りました。

汽笛は低く長く続きました。

ああ、私は横浜にいるのだなあと思いました。

 

 

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柳美里さんの『JR上野駅公園口』が

権威ある全米図書賞翻訳文学部門

(National Book Award for Translation Literature)の文学受賞したと聞いた時から、

ずっと気になっていましたが、

なかなか本を読む時間を取れず、

お正月に読もうとKindleにダウンロードしていました。

 


元旦、お節料理をいただいてから、ひだまりの中で読み始めました。

 


あらすじのあらすじは

1933年、(昭和)天皇と同じ日に福島県相馬郡に生まれた主人公カズは、

東京オリンピックの前年、出稼ぎをするために上京、上野駅に降り立ちます。

高度成長期にこの国の発展を底辺で支えたカズでしたが、

皇太子を同じ日に生まれた長男を早くに亡くし、

妻にも死に別れ、上野公園でホームレスとなって日々の生活を送っていました。

ある時、上野で国立科学博物館へいらした天皇

センチュリーの後部座席の窓から手を振っている姿を辛うじて見ることができ、

同時代を生き抜いた自分の人生を一瞬邂逅していくのです。

 


2014年に柳美里さんはこの小説を書いた経緯をあとがきで述べています。

まとめてみました。

 


2006年、ホームレスの方々の間で「山狩り」と呼ばれる、行幸啓直前に行われる「特別清掃」の取材を行いました。

取材は3回行われました。

彼らと話をして歩き、集団就職や出稼ぎで上京してきた東北出身者が多いということを知りました。

この取材のことを気にかけながら、精力的に執筆活動をしていうちに2011年2月11日 東日本大地震が起き、続いて、原発事故が起きました。

 


柳美里さんは南相馬郡市役所にある臨時災害放送局南相馬ひばりエフエム」でパーソナリティをつとめ、たくさんの人から「生の声」を聞いていきます。

この地に原発を誘致する前は、一家の父親や息子たちが出稼ぎに行かなければ生計が成り立たない貧しい家庭が多かったことを知ります。

 

家を津波で流されたり、「警戒区域」内に家があるために避難生活を余儀なくされている方々の苦悩と、出稼ぎで郷里を離れているうちに帰るべき家をなくしてしまったホームレスの方々の痛苦がわたしの中で相対し、二者の痛苦を繋げる蝶番のような小説を書きたいと思うようになりました…

 


2020年オリンピック関連の土木工事には震災と原発事故で家や職を失った一家の父親や息子が従事し、東北沿岸部の復旧、復興が遅れるのではという懸念もありました。

 


多くの人々が希望のレンズを通して6年後のオリンピックを見ているからこそ、わたしはそのレンズではピントの合わないものを見てしまいます。

「感動」や「熱狂」の後先を…

 

 

 

さて、この6年後、新型コロナ感染パンデミックのため、

東京五輪が延期されことになると誰が思っていたでしょうか。

 

 

 

私はこの小説を読んで、1982年から1999年に住んだ浅草のことを思い出しました。

ちょうど、バブル全盛期と終焉期でした。

 


自社ビルの目の前にある花川戸公園にもいくつもの立派なブルーハウスがたっていました。

そのひとつ、うちから一番近くのブルーハウスの住民は毎日、

ハウス周辺から始め、公園内の掃き掃除をし、

籠でカラスも飼い始め、時折、キーボードで演奏もしていました。

地元の人間とのトラブルを好まず、温厚な方で、そのうち顔馴染みになって、

挨拶も交わすようになりました。

私はおじさんの事を知りたくなりました。

商家のヨメである私が「取材」をするわけもいかず、

会社の事務室からよく見えるブルーハウスのおじさんを毎日見ながら、

私はただ想像するだけでした。

 


そして、親しげに声をかけるおじさんに、

具体的にどう接するよう、幼い息子たちに教えたら良いのかも、

わかりませんでした。

 

 

 

 

 

 

さて、その頃、上野公園内のテント部落を「パークヒルズ」、

隅田公園内を「リバーサイド」と呼んでいました。

そこには、かつて建築現場で働いていたプロが作る

見事な出来栄えのブルーハウスがたくさん並んでいました。

縄張りがあって、住み分けはきちんとされていて、

たまに新参者が間違えて場所を荒らして、

騒ぎになっているのが見て取れました。

 


皇室の方々が日光へ東武電車でお出かけになるとき、

本所吾妻橋下のブルーハウスは台東区側も墨田区側も一掃されます。

「特別清掃」の日だったわけです。

 


隅田公園は子どもたち良い遊び場でしたが、

ホームレスの方々の生活の場でもありました。

トイレや水飲み場で洗濯や水浴びもしていました。

こんな光景は日常です。

 


ある時、公園で遊んでいた3才くらいだった長男がバナナを一本持って、

次男をベビーバギーで寝かしつけていた私のところへ帰ってきました。

 


「あら、どうしたの?バナナ…」

お船のおじさんにもらった」

お船のおじさん…以前、実際に使っていて、

今は遊び場となっている屋形船に住むおじさんです。

「知らない人にものをもらってはダメよ…」と、

バナナを息子の手から取りながら、

ふと、おじさんは故郷にいる孫のことを思い出して、

この子にバナナをくれたのかなあと思ったりもしました。

 


また、地元浅草小学校PTAクラス役員を6年間引き受け、

私は72回、廃品回収しました。二天門の回収場所では、

たまに誰かが集めたダンボールや、空き缶の山を

持っていってしまうこともありましたが、

縄張りのホームレスの方は私たちが集めたものを

他の誰かが持っていかないように見張ってくれて、

段ボールのまとめ方も教えてくれました。

 


花やしき前で食堂をしているお友達は、

ホームレスの女の子と一緒に遊ぶ娘をどうしたら良いものかと、

考えこんでいました。

その子は出生届もないので、学校にも行っていませんが、

ホームレス同士でよく面倒を見ているようで、

情緒的に落ち着いたとても優しい女の子で、

いつの間にか仲良くなったようでした。

学校にも行ってない子がいることを、

自然に理解する下町の子の強さがありました。

 


浅草の老舗の飲食店は、ホームレスの方々が食べることができるように、

残飯を綺麗に店裏に置いていました。

そう、不思議に共存してました。

 

 

 

 

 

 

あの頃から比べると、ブルーハウスは減ったのかしら…?

あの頃とは違う形の「ホームレス」になっているのかしら…?

 

社会情勢はより過酷になって、

そう上に新型コロナ感染拡大。

 

 

 

いつまた緊急事態宣言が出るか、

わからなくなってきました。

自粛生活はいつまで続くのかしら。

 

いざという時には誰も助けてくれない…?

希望の光も見えない…?

 

こんな時…だから…?

いえ、こんな時だから…こそ…‼︎

 

どうしたら良いのでしょう…
答えはいくつもあるはず。

それを考えないと…と

 

 

 

そして、私はAmazonから届いたばかり本を手にしました。

桐野夏生さん『日没』

 

そして、あっという間に読み終えてしまいました。

続けてブログを書きます。