港も見える丘から

人生のゴールデンエイジにふと感じることを綴っていきます

NO.158 「作家が自作を語る」〜作家の本音 

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日本ペンクラブ女性作家委員会主催の文学イベント
第6回「作家が自作を語る」が
神田神保町東京堂ホールで開催されました。
今回は篠田節子さんと諸田玲子さんがゲストで、
司会進行は女性作家委員会長の松本侑子さんです。

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篠田節子さんは東京生まれの64歳。
東京学芸大学卒で八王子市役所に勤める傍ら、小説家を目指して、
1990年『絹の変容』で第3回小説すばる新人賞を受賞したのを皮切りに、

次々と文学賞を獲得し、ホラー、SFから宗教、

社会派まで幅広い分野の主題に取り組まれていらっしゃる実力派小説家です。
今回は最新刊『肖像彫刻家』を取り上げられました。

f:id:tw101:20191118120650j:image 集英社ウェブより

 

 

 

 


『肖像彫刻家』というタイトルでは絶対に売れない!
中身がわかるようなタイトルに変えるようにと出版間近まで揉めたという

エピソードからお話しは始まりました。
このやりとりは作家対文芸担当でなく、販売サイドからの強い要望だったそうです。
なぜかというと、「『肖像彫刻家』では字が読めない!漢字だけでは固すぎ、

内容が伝わらないと売れない!」というわけでした。
しかしながら、作家として妥協をしたくないという固い信念で、

本題で決定し、出版されましたが、案の定、さっぱり売れないそうです。
さて、内容は…

ローマで本格的に肖像彫刻を学んだが、

今は売れないしがないアーティストの主人公が、

ヒョンなことから頼まれて作った肖像に魂が宿り、動きだし、人間愛憎を繰り広げ、
そのことで大評判になっていく、奇想天外な物語だというのです。

なぜこの小説を書いたのかといえば、

学芸大の生徒だった時にたまたま彫刻の学生から頼まれてモデルをしていた時期があり、

そのときの写真を雑誌に掲載したところ、

今はローマで法王の肖像も手がける立派な肖像彫刻家になっている奥村さんから連絡が入り、

彼が三越個展をした際に対談しました。
ローマンワックス型の肖像はまるで生きているようで、

生命が宿りそう…と思い、小説の題材にしました。
主人公は華々しい経歴を持った成功者ではつまらないので、

中途半端な実力とそこそこの才能を持つバツイチの中年男になりました。
芸術を描くファンタジーの舞台はどこにする?
ところが、認知症のお母様の介護をしている篠田さん、どこにも取材行くこともできません。
そこで、舞台は自分の住む八王子近く、山梨の農村となりました。


親戚、地元の町会などの付き合いを濃密にするようになり、

目眩がするほど保守的で、昭和の人間関係が色濃く残る農村に

ドップリ浸かって生活した時期に創作エネルギーは奪われてましたが、
全く違う要素が加わり、ファンタジーをマッチングさせた小説が出来上がったのです。


マイナスをプラスにしてしまう、しなやかな感性と強靭な精神はさすがです。
まだ1000部しか売れていないということで、ぜひ読んでくださいと篠田さん。

はい、ぜひ読ませていただきます。

 

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諸田玲子さんは『今ひとたびの、和泉式部』を語ってくださいました。

諸田さんは静岡生まれ、かの清水の次郎長の養女がお婆様のお婆様だったそうで、

歴史に対する視点が違うのは、そういう環境もあるのかと思いました。
上智大学卒。2003年『其の一日』で第21回吉川英治文学新人賞受賞。

今ひとたびの、和泉式部』で第10回親鸞賞を受賞され、

平安朝から昭和までを舞台とした歴史小説の著者多数です。

f:id:tw101:20191118120724j:imageHPより


お父上が古典の先生で幼い頃から、歴史小説をみて育った諸田さんは、

沢田研二さん演じる光源氏のテレビ番組のノベライズをお父様の代わりに書いたのが始まりで、

橋田寿賀子さんや向田邦子さんのドラマのノベライズをされていました。


杉本苑子さんの「源氏物語」を読み、共感し、

自分も現代の感覚で平安朝を描きたいと思うようになりました。
当時は身分制度が明確なピラミッド社会、今と同じく忖度もあり、

金持ちは馬を使って地位を買う不埒な輩も多く、
人々はバタバタとは死んでいき、不安な将来を案じ、

占いや似非宗教にすがる暗い時代でした。
人の世はちっとも変わっていないようです。


和泉式部はそんな時代に生きました。

橘道貞の妻となり、和泉国に入り、和泉式部と名乗るようになりました。

この結婚は破綻し、間もなく冷泉天皇の第三皇子為尊親王と熱愛し、

親から勘当されますが、愛しい親王は亡くなってしまいます。
親王の死後、今度は同母弟の敦道親王が式部を愛してしまい、

彼女を邸に迎えようとし、正妃は家出してしまいます。
親王の召人として一子・永覚を生みますが、敦道親王も早世してしまい、

一条天皇中宮藤原彰子に女房として出仕します。
その後、藤原保昌と再婚し、丹後に降ります。

ところが、最初の夫との間にもうけた娘古式部内儀も死去する悲劇に見舞われます。
晩年の動静は不明とされています。


同じ中宮に仕えた同僚の紫式部から

「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と批評された和泉式部

不埒な女とも呼ばれた和泉式部
この既成概念を潰したいと諸田さんは考えます。
誰かが誰かから聞いたことを一行書いたものが、

まことしやかに流布され、あたかも真実のように評価されてしまう!
そんなことないんじゃないの?
和泉式部は誰を一番愛していたのか…
女は愛にしか動かない!
男にだらしないと言われた和泉式部は、

ただ恋を歌っていたのではなく、愛する者が皆死んでしまう中で、

生と死を描きつづけたのではないかと諸田さんは思いを深めます。
いつ自分を焼く煙を見るのだろうか…


諸田さんは、離婚を経験し、父を亡くし、母を看取り、

自分にはもう何もないと思った時に、和泉式部を書けると思ったそうです。


和泉式部の死後、式部を偲ぶ女性の視点を通して
式部の謎の部分を解き明かす流れ、
式部が生身の人間として生きる生活を描く流れ、
この二つの流れが時折交差しながら物語は進みます。
そして後半はミステリー仕立て…


読まねば!と思います。
ものの哀れがわかる年頃になってきた私、
俄然、和泉式部に興味を持ちました。


くらきより くらき道にぞ入りぬべき
 はるかに照らせ 山の端の月(和泉式部)

 

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最後に松本侑子さん「赤毛のアン」翻訳物語をお話しくださいました。

村岡花子訳で何ども繰り返して読んだというお二人も

初めて聞く事実に興味深々の様子です。

赤毛のアン」については以前も書きましたので、

今回は触れませんが、興味深いお話しでした。

小説家ってすごいなあとつくづく感心した時間でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

NO.157 久布白落実の生涯(2) 落実の青春

f:id:tw101:20191114100923j:image1920 年頃の女子学院

共愛女子校でミス・バーリーに「英語は好きですか」と聞かれ即座に

「嫌いです。義務だから習います。」と答え、

後のガントレット恒子女史に「笑わない可愛くない女学生」と呼ばれた落実は、

明治29年開けて早々、母に女子学院に連れてこられました。

数え15歳、12月生まれなので満13歳の時でした。

応接間で待っている落実の前に現れたのは被布を着て眼鏡をかけ、

靴をはいた婦人でした。母の大叔母、矢嶋揖子との最初の出会いです。

矢島女史は落実を眼鏡越しにじっくり見て、

「この人はあまり気量がよくないからつづくでしょう」と独り言のように言いました。

矢嶋揖子も笑わない、無愛想なおばあさんだったようで、

もしかすると、この時、落実を気に入ったかもしれません。

落実は式用、教会用、普段着の3枚の着物しか持たされず、

柳ごうりにシーツをかぶせて机にしました。

当時、良家のお嬢様が多い女子学院の中で、

脇目もふらず勉強し、信仰に目覚め、自ら信仰告白をして、

教会に通うようになり、聖書を本気で読み、

生涯献身の生活を送りたいという願いを持つようになりました。

女子学院で英語を日本語と同じ時間をかけて仕上げ、

なんとか女性でも独り立ちして生きる事ができるようにと、

校長矢嶋揖子は様々な批判にびくともせず、学び舎を守りました。

そして、自治教育を徹底しました。

「あなた方は聖書を持っていられる。何も規則で縛る必要はありますまい」

そして何も不都合は起こらず、生徒を信用する堅い教育方針の中で落実も学び、

生涯、矢嶋揖子を人生の目標としました。

休みの日は東京に暮らす叔父の家へ遊びに行ったり、充実した学校生活を送りました。

f:id:tw101:20191114100008j:image矢嶋揖子女史


教会は自らの足で立たないといけないと考えていた真次郎に再び試練が訪れます。

可愛い盛りの長男真太郎が腸カタルで呆気なく逝ってしまったのです。

その悲しみを越えて、音羽と二人、独立教会樹立のために心血を注ぎました。

誰に相談するでもなく、日本人移民の精神的な指導をするため、

ハワイに渡ることを決め、簡単ではない海外伝道の道を切り拓いていきました。


1903年(明治36年)日露戦争前に落実は女子学院高等全科を卒業しました。

矢嶋揖子からは女子学院に残り、矯風会の仕事を手伝ってほしいと勧められますが、

落実は両親のいるホノルルに行く決意をしました。

 

f:id:tw101:20191114101307j:image明治32年頃 ホノルルについた日本人移民


明治元年からポツポツ渡航が始まり、

この頃には日本人はすでに10数万に上っていました。

多くはサトウキビ畑で働いていました。

真次郎はホノルルの日本人教会に迎えられ協力牧師となっていました。

当時は人々教会に対し、

「英語を教えてもらい、ただでお茶を飲ませてもらい、

就職口を世話してもらうところ」とう認識しか持ってなかったようで、

真次郎は「この教会は乞食製造所だ。

キリストの教会は犠牲献身の実践場であるはずだ」という考えを持ち、

1年もたたないうちに辞表を出して、全会員の意見を問いました。

教会は沸き立ち、独立教会を支持することになり、

はじめて、キリスト者としての誇りに目覚めた信徒たちによって、

教会は変わっていきました。

ハワイでの1年の間、落実はハワイの幼稚園に勤め、

日本語の家庭教師をするなど、アルバイトもして、過ごしましたが、

体を張って神に頼り、宣教にあたった両親の姿から、

キリスト教の真剣さを肌で学ぶという経験をしました。


ようやくここからという時に、

今度はオークランドに教会を作る招きに応じたと発表した真次郎に誰もが驚きました。

牧師は私たちを見捨てるのかという信者の声もありましたが、

連日、懇談をして、最後は一同納得し、本土行きを承諾しました。


21歳の落実はバークレー進学校に入学し、夜は父の英語夜学校で教え、

英語が得意でない父母の通訳や買い物と忙しい日を送ります。

このオークランド時代に、落実はその後の人生を決定するような出来事に出会いました。


1906年4月、サンフランシスコ大地震が起き、

対岸オークランドへも避難民が押し寄せてきました。

さすがアメリカ、救済の手はすぐに届きはじめ、

それぞれ落ち着いてきたころのことです。

ある朝、オークランドの著名なブラウン牧師が落実に通訳をして欲しいと頼みました。

その頃、オークランドにはサンフランシスコから流れてきた博打小屋や売春宿ができていました。

落実はブラウン牧師と警察署長のピーターソンと3人で視察に出かけて行きました。

日本人町の粗末なバラック建の家には、たくさんの日本人女性がいました。

ブラウン牧師はなんとか彼女たちを劣悪な環境から救いたいと、本人の意思を確かめにきたのです。

自由意思でなければ、米国の法律で保護して解放することができたのです。

ブラウン牧師は聞きました。

「米国では一切の奴隷を禁止している。

あなたが自由意思で働いているなら仕方ないが、もし、この家にいたくないなら、

私が面倒みてあげるが、どうか?」

「私は自分が好きでしています。ご心配はいりません」

どの娘も同じ答えをして、救いの手を拒んでしまいました。

業者の手がまわっていて、脅かされた娘たちはそう答える他はなかったと思いますが、

現場で通訳していた落実は日本の女性として恥ずかしい思いをしました。

落実の気持ちもわからない訳ではありません。

同じくらいの年の娘が白人相手に好きで売春をしている事実に大きな衝撃を受けます。

「身を切るような苦しさ」が落実に一つの使命感を生み、

このことが60年あまりの売春婦解放運動の原動力となりました。


そして、この年、もう一つ大きな出来事がありました。

74歳になる矢嶋揖子女史が単身渡米してきました。

オークランドの大久保家に二カ月滞在し、全米旅行に出ました。

目的はボストンで開かれる第7回矯風会世界大会に出席することと、

ルーズベルト大統領に会って、日露戦争講和のため感謝を伝えることでした。


23歳の落実は矢島女史の通訳者として、

ボストン目抜き通りの大ホールで繰り広げられる世界大会に参加しました。

矢島女史はトレードマーケットの長い被布に頭巾姿で壇中央に、

落実は一張羅の茶のスーツで側にたちました。並んで挨拶をした後、

女史は「長い間、皆さまのお世話になってありがとう」と言ってお辞儀をし、

「話はこの娘が申し上げます」と言ってすわってしまったのです。

仕方なく、落実は声を張り上げ過去20年に渡る礼を述べ、

先生の要請として、二人の人を送ってほしい、

一人は若い人、一人は年配の人、どうぞお頼みします!と言って席につきました。


大会後にオークランドに戻り、女史は矯風会を立ち上げる段取りをして帰国していき、

落実はあとを引き受けて、母音羽と協力して、矯風会を設立、婦人の指導にあたりました。

この時代に早くも性教育の必要に目覚め、

日本の公娼制度廃止のために戦わなければならないと心の奥深く、

情熱の火が灯されました。

この火は生涯、消えることはありませんでした。

 

「落実の結婚と生涯の仕事」に続きます。


〜落実を支え続けた聖書の箇所〜

   フィリピの信徒への手紙 4章4節〜7節

 

 《主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。

 あなたがたの広い心がすべての人に知られるようにしなさい。

 主はすぐ近くにおられます。

 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。

 何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、

 求めているものを神に打ち明けなさい。

 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、

 あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。》

NO.156 久布白落実の生涯 (1) 幼い落実

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「クボシロオチミって知ってる?」

叔父がそう尋ねてた時、私は漢字すら思いつかず、「知りません」と答えました。

「ちょっと調べてごらん、ひさしい、ぬの、しろって書いて久布白、

おちるみで落実」

すぐに調べてみると「久布白落実」さんのWikipediaが出てきました。

矯風会会頭、売春禁止法制定の立役者となった方とわかりました。


「僕はね、久布白さんの鞄持ちをして旅したことがあるんだよ」

33歳でアメリカに渡り、数年に一度帰国するだけの、

今年78歳の叔父は

日本ではプロテスタント牧師をしていました。

20代でいわき市の教会の副牧師をしていた時、

その教会の女性牧師と共に矯風会の大会に鞄持ちとして旅をしていたようです。


「朝ね、先生のお部屋に鞄を受け取りに行った時、

ドアが少し開いているから、ノックしてみると、

小さな背中が見えたんで、声をかけると、

振り向いて

『わたしね、毎朝、日本語の他に4ヵ国語で聖書を読むのが

日課なのよ』

っておっしゃった。テーブルの上には7冊の聖書が置いてあったさ。

落実さんって実が落ちて結ぶようにっていう名前なのさ」


帰り際の短い時間になぜこの話題になったのか、

よく覚えていませんが、台風19号上陸の10月12日アメリカに帰国予定だったはずが

14日に延期されて、「嵐を呼ぶ男」が去ったあと、

久布白落実さんのことが頭から離れず、女子学院卒業生のお友達に訊ね、

著作「廃娼ひとすじ」をAmazonに頼みました。

その本が手元に届いた日 10月23日は先生の47回目の命日でした。


前置きが長くなってしまいましたが、

どうして久布白落実さんを知り得たのかは

どうして書いておかないといけないと思いました。


【生い立ち】


落実さんは明治15年(1882年)熊本県生まれで、

父大久保真次郎、母音羽の長女として生まれました。


父の真次郎は熊本バンドの一員として医学を学び、東京帝大の前身、

東京医学専門学校へ送られた4人の一人でしたが、

この中で業を上げたのは、北里柴三郎一人でした。

f:id:tw101:20191112174759j:image徳富蘇峰

 

f:id:tw101:20191112174814j:image徳富蘆花

 


母 音羽は殖産興業の要とする養蚕、製紙の道に進む、時代の先端を生きる女性でした。

徳富蘇峰徳富蘆花音羽の弟で、蘇峰は姉を真次郎に紹介して、二人は結婚に至ります。

音羽の写真はありませんが、イケメンの蘇峰、蘆花の姉なので、

美人だったのではと推測できます。


真次郎は経済的に行き詰まり、医者になることを諦め、

同志社新島襄を頼りながら、あっちへふらふら、こっちへふらふらと、

放浪生活を続け、なかなか足が地につかないのですが、

しっかり者の音羽は真次郎の家の盛り立てに全力を尽くし、

家事はもとより、養蚕、機織り、糸より、畑仕事にいたるまで

まっしぐらに働き出し、雨が降れば裁縫、

子どもたちの勉強の下見までこなすスーパーお嫁さんとなりました。

 

そして二人は女の子を授かり、「落実」と名付けます。

私が名前の由来を「落ちて実が結ぶ…」と聞いていたのは間違いでした。

自分が落ち目のときに生まれたので、娘に「落実」と名付けられたのです。

のちに新島先生に「子どもにそんなことをしてはいけない」と

怒られたのを落実さん本人が覚えています。


生来働き者の音羽も子育ては手こずったようで、

川に捨ててしまおうかと思ったというのです。

家を出て丸三年になる夫の真次郎をなんとか引き戻さねばと決意し

落実共々洗礼を受け、説得しようと真次郎の住む尾道へと両親も連れて出立したのです。

さすが徳富家の娘、やると決めたらまっしぐらです。


尾道での生活は老いた両親には過酷で、加えてコレラが流行りだしたこともあり、

老いた二人は故郷に帰ります。

ここで初めて、真剣な夫婦生活、親子生活が始まり、

お互いが向き合い、根本的な生活の立て直しが必要となりました。

しかし、酒に溺れ、海運業の仕事もままならない夫に

さすがの音羽も望みも尽き果て、娘を連れて海辺を彷徨い、

身投げしようとしたときに、「祈り」を思い出し、

一心に祈ることで自殺を思い留まりました。

妻と娘が「お父さんがお酒をやめますように」と

暗がりで祈る姿を見た真次郎は思うところがあったのでしょうか。

年の改まった1886年正月、三日酒びたりに過ごしたあと、4日目に

「もうおれは酒は飲まぬ。お前の聖書を貸せ。昼飯は要らぬ」と言って、

三階に上がったきり、三日三晩聖書を読み続け、

そして「おれが悪かった。断然あらためる」と音羽に謝り、

キッパリと酒もタバコもやめてしまい、すぐに京都の新島襄に手紙を書きました。

「お父さんはあれっきり酒もタバコも手になさらん。

あんなに立派にやめた人も見たことがない」と後になって母は娘に言ったそうです。

新島襄は放蕩息子を受けいるかのように真次郎を迎え、

すぐに伝道を始められるようにと、金品を送ってくれました。

 

音羽と3歳の落実の祈りが聞き届けられ、父真次郎が酒から立ち直ったという体験が、

のちに禁酒を目指す矯風会の会頭となっていく基になったのかもしれません。

真次郎は起死回生の年に生まれた娘を「起実」と名付けました。

一家は希望もって尾道での伝道を始めました。

6歳の頃の落実を叔父の徳富蘆花

「おかっぱ頭で赤ん坊(妹)をおぶり、父によくにた腕白に光る小さな眼をしていた」

と作品の中で描いています。


同志社を卒業した父の最初の赴任先は埼玉秩父大宮でした。

この地で落実は母から人生の基礎の大切なことを学びました。

1、告げ口をしない

2、しかけたことは必ず続ける

3、自分で自分を奮起させる

ということでした。

伝道者として大きな試練に出会っている両親の苦しみ、悲しみをつぶさに見て、

落実は試練に強い信仰を学び収めていきます。

母の病気、5歳になった起実の死、新島襄の死と不幸が襲います。

しかし、一連の試練が終わりを告げたころ、待望男の子真太郎が与えられ、

1893年に藤岡教会に招聘されますが、なかなか思うようにならず、

2年余りで、高崎教会に転任しました。

落実は前橋にある共愛女子校に入りましたが、

西洋人宣教師ミス・バーミリーともおりが合わず、

「この娘はここでは少しはみ出すようだ。も少し大きいところへやった方がよい」と忠告され、

母方の祖母徳富久子の妹である矢嶋揖子が校長をつとめる東京の女子学院へ行くことになったのです。

ここで落実は人生の大きな岐路を越えていきました。

お話は次回へ続きます。

 

 

NO.155 『第三夫人と髪飾り』 〜籠の鳥は飛び立たったのでしょうか〜

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『第三夫人の髪飾り』を渋谷Bunkamura ル・シネマで鑑賞しました。

終演後、上野千鶴子先生のトークショーがあると知り、2列目の真ん中の席を予約し、映画の予習もして、意気揚々と出かけてゆきました。

上野先生とは何度か視線が合う近さでトークを聞くことでき、すっかり“ウエノマジック”に魅せられ、「感想を書きたい方いらしゃる?」という問いかけに、すぐに「ハイ!」と手を挙げました!

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まず最初に特筆すべきは映像の美しさです。

太陽は優しく、月は妖しく、光を放ち、秘密めいた人々を優しく包んでいました。

雨も風も、花も虫も、髪飾りや装飾品、実用品にいたる小物も

きめ細かく用いられ、

どこの一片を切り取っても絵になる描写です。

なぜ、邦題に「髪飾り」という言葉が付けられたか…

映画を観るとわかります。

 


先月、ベトナムハノイに旅し、ハロン湾の自然美に心奪われてしまった私は、映像を観ているうちに、あの湿った風の匂いを感じ始め、まるで、ベトナムに戻ったような気がしてきました。

 


「あの器はバッチャン焼きだわ」

真珠の首飾りはハロン湾で作られたに違いないわ」

 


小物も見逃せません。すべてが一つひとつ選ばれたものだから…

 


また、女性たちの衣装もハレ(晴)とけ(褻)が鮮やかに描かれています。

〈ハレ〉の日に纏うシルクのアオザイと日常の木綿の普段着の使い分けは見事です。

この家は養蚕で富を得ていると思われますが、

それでもシルクのアオザイは滅多に手に入れることはできません。

アオザイを纏った日の女たちの「ハレ」の笑顔が素敵でした。

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さて、物語のヒロインは「第三夫人」です。

第一夫人 ハ は成人となった長男の母です。

次男、三男と立て続けに男の子を産めば安泰でしたでしょうが、

流産を繰り返し、男の子を産めませんでした。

そこで第二夫人を迎えるこなりました。

ハは全ての家事を取り仕切り、

夫人たちの面倒も見る賢夫人となり、

立派に「妻の座」を守っています。

 


第二夫人スアンは3人の娘の母です。

一番下の女の子はもしかすると、

第一夫人の長男の子かもしれません。

二人は道ならぬ恋をしていました。

女の子ばかりなので、第三夫人が迎えられることになったの

そしてヒロインのメイ14歳。

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「男の子」を生む道具として、第三夫人に迎えられたのです。

無垢なメイを主人は愛おしみ、嫁いですぐに懐妊しました。

 


さて、第二夫人、第三夫人は「愛人」ではありません。

あくまでも「夫人」です。

女は世継ぎを産むための存在で、

世継はたくさんいるに越したことはないので、

夫人も何人も必要です。

 


父の第二夫人を愛してしまった長男は

取り決められた妻を受け入れられず、破断を申し込みますが、

嫁の父は娘を「女のツトメを果たせない者」と切り捨てます。

父からも夫からも捨てられた娘は死を選ぶほかありませんでした。

白装束の娘は哀れながら、限りなく美しく、

やっと天上で平安を得られたように見えます。

 

 

 

ベトナムから帰国してすぐに映画「インドシナ」を観ました。

カトリーヌ・ドヌーブ主演、ベトナム独立戦争下の物語です。

ハロン湾が美しく描かれていました。

 

 

 

 


その映画を見たすぐ後に、私の目に飛び込んできた映画予告が

『第三夫人の髪飾り』で、途端に心を鷲掴みにされました。

観たい!思いはつのります。

 


時を違わず、もう一つ小さな石が投げられました。

投げたのはアメリカ在住で牧師の叔父でした。

「僕はね、クブシロオチミ先生の鞄持ちをして旅したことがあるんだよ」

と唐突に言いました。

「クブシロオチミ先生、知ってる?」

急いで調べてみると

《久布白落実 徳富蘇峰・蘆花の姉音羽を母として生まれ、大叔母矢島揖子の女子学院で学び、やがて、日本基督婦人矯風会を中心に活動し、明治から戦後まで、廃娼運動に身を捧げ、売春禁止法制定に尽力した》

日本のフェミニストの草分けの方だと知りました。

この小石から広がる波及効果は少しずつ大きくなりました。

自伝「廃娼ひとすじ」が届いた日は折しも先生のご命日10月23日でした。

 


そして、その日、『第三夫人と髪飾り』で上野千鶴子先生がトークショーをするこを知り、

即座に申し込んだのです。

 


ベトナムの女性監督アッシュ・メイフェアが、

曽祖母の体験に基づいたこの作品は、

決して過去の物語ではないのです。

この映画はベトナムの上映を監督自ら取りやめました。

13歳の主演女優の母へのバッシングを考慮しての判断です。

メイフェア監督は私の息子と同じ年なので、

彼女のお母さんは私と同世代で、

「籠の鳥」を嫌い、アメリカへ飛び去ったのではないでしょうか。

 


「籠の鳥」の私いつか、飛びたいと空を見上げていました。

 


もはや籠などないのに、

飼い馴らせて

飛ぶことを忘れていたら…

ましてや、自ら籠を作ってしまったら…

 


いつのまにか、籠は壊れてしまっていたのに

私が飛び立つことを忘れてしまっていた!

 


少女が長い長い黒髪を自ら裁ち鋏で

バッサ、バッサと切っていく最後のシーン。

彼女の未来への希望と決意が伝わりました。

 

自分の人生は自分切り開く…

その決意に遅すぎるということはないのです。きっと…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

NO.154 宮沢賢治とタッピング宣教師夫妻

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台風19 号は甚大な被害をもたらしました。

亡くなられた方の御霊が安かれと祈ります。

今なお不便な生活を強いられていらっしゃる方々が

1日も早く平常に戻れますようにと祈ります。

台風の翌日、澄み切った青空に浮かぶ

富士山の姿は雄大でした。

 

自然は豊かな恵を与えてくれる一方、

恐ろしい脅威になる事を改めて思いました。

大いなるものを敬う心を忘れてはいけないと思いました。

そんなとき、再び、宮沢賢治に思いを馳せました。

 

 

宮沢賢治は生涯、熱心な法華経は信者でした。

しかし、彼の作品の中には聖書や讃美歌の言葉が出てきます。

特に『銀河鉄道の夜』は「キリストの香り」が漂う作品です。

 

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私は小学生の頃は『雨ニモ マケズ』に書かれている人はイエス様のことで、

賢治はイエス様のようになりたいのだなあと思っていました。

 


中高生となり、宮沢賢治の人となり、また文学史を学び、

彼が熱心な法華経信者であったことを知り、

そうだったの?とびっくりした記憶があります。

 


そして、彼がいつ、どこで聖書を学んだのかという事を知って、

私はまた驚きました。

 


彼に影響を与えた人物の一人に

アメリカンバプテストから派遣された

宣教師 ヘンリー・タッピングがいる事を知りました。

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ヘンリー・タッピングは1895年、

アメリカ・バプテスト派教会の宣教師として夫妻で来日しました。

ヘンリーは、のちに関東学院となる東京学院の英語教師となり、

妻のグネビアは翌年、東京築地居留地の自宅を開放して築地幼稚園を開設し、

1897年には保母の養成を開始します。

この養成所は、日本の保育の礎となり、

後に東京保姆伝習所今の彰栄保育福祉専門学校に発展します。

 

 


1907年、夫妻は盛岡バプテスト教会へ赴任します。

ヘンリーは教会で牧会をする傍ら、盛岡中学で英語を教えます。

その中に宮沢賢治がいました。

賢治は盛岡農林高等学校1年のとき、

友人を誘ってタッピング宣教師の聖書講座を受講しました。

 


ライプチヒで本格的に音楽を学んだ経歴を持つ妻グネビアは、

岩手県最初の幼稚園である盛岡幼稚園を設立しました。

ニューヨークからピアノを取寄せ、

今でいう「リトミック」でしょうか、

自ら曲を弾いて園児に自由なリズム表現を指導するなど、

個性を尊重した進歩的な保育を実践しました。

当時の園児に大女優の故長岡輝子がいました。

二人は東北の地に新しい風を吹かせ、

多くの人たちに福音を伝えました。


その後、夫妻は1922年に横浜に赴任となり、

1927 年の宣教師を引退するまで、日本キリスト教保育に貢献しました。

晩年は一家をあげて賀川豊彦の宣教と福祉事業を支援し、

米国に向け広く紹介しました。

そして、帰国することなく、日本で没しました。

 


二人息子のウィラードは幼い頃より、聖書を学び、長じて、

瀬戸内海の伝道船、「福音丸」のビッケル船長の娘エバリンと結婚し、

ビッケル船長亡き後も、意志を継いで福音丸の伝道を続けました。

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私が小学生のとき、福音丸は小林船長さんが伝道を継承していました。

島々を巡って子どもたちに紙芝居を通して 聖書の話をしていました。

私は毎年、紙芝居を作って送りました。

ああ、こうして、私へ繋がっていたのだと感動しました。

 


子どもの時には、わからなかったことが、

大きくなると意味や繋がりがわかるようになるものだと知りました。

 


数年前、タッピング一族が葬られている多磨霊園

外国人宣教師墓地の草刈りに行きました。

日本のために尽くして、

祖国に帰ることできなかった宣教師と家族の事を思いながら、

夏草を刈り込みました。

 


さて、宮沢賢治は死期迫る1ヶ月前の8月に

タッピング一家を詩に書いています。

 

 

 

 

            岩手公園

      「かなた」と老いしタピングは

       杖をはるかにゆびさせど

       東はるかに散乱の

       さびしき銀は聲もなし

 


         なみなす丘はぼうぼうと

         青きりんごの色に暮れ

         大學生のタピングは

         口笛軽く 吹きにけり

 


       老いたるミセスタッピング

      「去年(こぞ)なが姉はこゝにして

       中學生の一組に

       花のことばを教へしか」

 


        孤光燈(アークライト)にめくるめき

        羽虫の群のあつまりつ

        川と銀行木のみどり

        まちはしづかにたそがるゝ

 

今でも、岩手公園の詩碑があります。

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散策中のタッピング一家に遭って、感銘を受けたのでしょうか。

元気だった昔の自分を思い出したのでしょうか。

美しい情景が浮かんでくる詩です。

 

 

 

 

 

 

 

NO.153. 『中島敦展』〜魅せられた旅人の短い生涯

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2019年10月12日 

未曾有の大型台風 第19号 ハギビスが接近しています。

前回の台風15号ではここでも木が折れるなどの被害が出ました。

人間の手に負えない大きな自然の力を見せつけてられる思いです。

 


台風の前の静けさの中で、一人の天才作家に思いを寄せます。

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横浜山手にある神奈川近代文学館は私のお気に入りの場所です。

先日、心惹かれる作家の一人である中島敦展に行ってきました。

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高校2年生、『山月記』を現国教科書で読んで以来、

中島敦にすっかり魅せられていましたが、

今回、これまで、知らなかった事を多く学びました。

 


学芸員の方が作成された「ワークシート」があり、

それを携え、

第1部「彷徨する魂」

第2部「実りのとき」

第3部「生きている中島敦

という順路で周りました。

ワークシートの出題に答える形なので、

いつもはざっと目を通すだけのところを倍の時間をかけて周りました。

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中島敦は1909年5月5日、東京四谷の生まれです。

漢文の教員をしていた父 中島田人、旗本の家柄の出で、

小学校教員もしたこともあるチヨの長男として生まれました。

翌月、6月19日に太宰治が生まれました。

二人は同時代を生きたのですね。

 


両親が離婚した後、父は離婚再婚をし、二人継母と暮らします。

中学はソウルの京城中学校、高校は第一高等学校に入学します。

成績は常にトップ。漢学の素養もある敦でしたが、

肋膜炎のため1年休学。

喘息の発作に悩まされながら小説を書き始めました。

 


1933年、東京帝国大学大学院生の身分で、

横浜山手にある私立横浜高等女学校(現 横浜学園高等学校)で、

生徒に大人気の若い教師となり、英語と国語を教えます。

そして橋本タカと結婚し、

長男たけし君うまれ、家庭的にも充実し、

多くの作品を執筆しました。

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同時期には私の女学校の大先輩、

渡辺はま子さんも音楽の教員として奉職していました。

絶大な人気を誇ったはま子先生と敦先生、

どんな会話をしたのか、想像の余地が多いにあります。

 

 

 

 


喘息が思わしくない中島は、

思い切った天地療養を試み、教職を辞し、

1941年、パラオ南洋庁に赴任し、

現地の子どもたちに教えるための、

日本語教科書の改訂と編集に取り組みました。

現地に赴く際、深田久弥に自身の原稿をまとめて託しました。

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最初は観るもの、聴くもの、珍しく、

植物や人々の生活を描いては

息子に楽しい葉書を送っています。

子煩悩な父親の姿が重い浮かびます。

 


1942年2月、深田久弥が『文学界』に推薦した

山月記』『文字禍』で文壇デビューを飾ります。

 


当時、パラオは日本が統治して、陽気に生きている島の人達に

帝国主義を押し付けてるための日本語教育をすることへの疑問と、

喘息がよくならなこと、また太平洋戦争の激化で帰国します。

 


『文学界』に発表した『光と風と夢』は芥川賞候補にもなり、

こののち、専業作家生活に入ります。

 


しかし、持病の気管支喘息はますます悪化、肺炎も起こし、

師走に入ってすぐ、12月4日、世田谷の病院で息を引き取りました。

33歳の若さでした。

作家活動期間は1年という極めて短い時でした。

 


『李陵』他の作品は没後公表されますが、

格調高い漢文調の文体とユーモラスな文体と巧みに書き分けた作品は

多くの読者を得ていきます。

特に国語教科書に掲載された『山月記』は広く中島敦の名前を広めました。

 


私は母を亡くした翌年に『山月記』を読みました。

母のいない寂しさと悲しさで本ばかり読んでいました。

作家の言葉に傾倒していました。

 

 

 

……「我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」

「人生は何事をも為さぬには余りに長いが、

 何かを為すには余りに短い」……

 


山月記』にある言葉を好んでいました。

 


ちなみに高等学校で採用されてきた作品 

ベスト5は以下の通りです。

1、夏目漱石 『こころ』

2、芥川龍之介羅生門

3、森鴎外  『舞姫

4、志賀直哉 『城の崎にて』

5、中島敦  『山月記

 


今の高校生は中島敦を知らないのだなぁと思ったら、

大きな間違い!

彼は漫画「文豪ストレイドッグス」の中で

「月下獣」という異能力を操る探偵として実名で登場してます。

また、細田守監督によるアニメ映画「バケモノの子」には

悟浄出世』が参考文献として挙げられています。

すごいですね。

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ワークシートを完成した記念にファイルをいただきました!

 

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太宰治宮沢賢治しかり、

この時代の多くに作家は結核になっています。

生まれつき、丈夫な身体でないから、子どもの時から本を読み

思索に耽るのかもしれません。

 


喘息だった私も「お外で遊べない子ども」だったので、

本ばかり読んでいました。

 


こうしているうちに、次第に強くなる雨風…

人間の力ではなす術もないことを噛みしめます。

どうぞ、お守りください…と祈ります。

 

 

 

 

 

 

NO.152 直木賞受賞作『銀河鉄道の父』

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風も涼しくなって、読書の秋、

勧められた門井慶喜著『銀河鉄道父』を読み終えました。

 


宮沢賢治の誕生から死に至るまでの短いけれど、

父、政次郎に深く愛された生涯を描いた感動作です。

 


宮沢賢治は1896年8月27日、岩手県花巻市

父宮澤政次郎、母イチの長男として生まれ、

祖父が創業した質屋を営む裕福な家で育ちました。

長男の賢治は後継としての家族の期待を

一身に受けて成長します。

 

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6歳の時に赤痢で2週間入院した際も

寝ずの看病をしたのは父政次郎でした。

看護していて自分も感染してしまった政次郎は

大腸カタルを起こし、生涯、胃腸が弱くなってしまいます。

「仕事第一の父親」でなく「子ども第一の父親」でした。

 

 


賢治は幼い時から、学力優秀で、

教師からはさらに上の学校進学を勧められます。

しかし、「質屋に学問はいらない」という祖父の一言で

一度は進学を諦めます。

実家の手伝いをして日々悶々と過ごす賢治。

自らも進学を諦め、親の後継ぎとなった政次郎は

賢治を進学させる決意をします。

そして、子どもの頃から石集めが大好きだった賢治は

盛岡高等農林学校へ進学します。

仲の良い妹のトシは上京して日本女子大学校へ進学します。

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「質屋に学問はいらない」

「女子に学問はいらない」

と言われた時代に、

後継者を自分の望む道に進ませ、

長女を東京の女子大に行かせるとは

政次郎は相当に教育熱心な父親であったと思います。

 


地元の名士の政次郎は、

子どもたちのそれぞれの個性を充分に生かした

ユニークな教育をしました。

 


やがて結核で身体を壊したトシは

岩手花巻に戻り、最後の日を迎えます。

 


“あめゆじゅ とてちて けんじゃ”

あの有名な詩『永訣の朝』で賢治は妹の臨終の

その瞬間さえも「詩」にしました。

政次郎はそんな賢治に驚きます。

それが詩人なのでしょう。

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賢治は優れた教師でしたが、やはり満足せず、

教師を辞して、

物語を紡ぐ道を選んでいきます。

 


妹や弟、教え子たちに話して聞かせた

物語を童話にしていきます。

法華教への信仰,

ひたむきな農民の心情を基に、

架空の理想郷、イーハトーブを作り、

創作活動を続けますが、

その道は決して平坦ではありました。

自費出版した「心象スケッチ 春と修羅」も

思うように売れませんでした。

 


結核の病魔は賢治を離さず、

最後は最愛の妹トシと同じように、

故郷で母に看取られて息を引き取りました。

享年37歳。

両親の思いは如何ばかりだったことでしょう。

 


やがて、生前には知られなかった賢治の作品は

弟清六や草野心平らの尽力で

世間に広まって行きます。

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最愛の息子 賢治の最後の願いは

〈日本語訳の妙法蓮華経を一千部つくって、

みんなに差し上げてください。〉というものでした。

政次郎は確かに約束を果たしました。

 

 


息子がかわいくて、かわいくて仕方ない

スーパー親バカ とも言える宮澤政次郎…

 


愛されて、大切にされて育った賢治は

文学者としては、もしかして、珍しく、幸せな

人生だったと思います。

 


こうして小説は終わります。

 


賢治は日蓮の法華教信仰を持っていましたが、

彼の描く小説には、聖書の言葉や

キリスト教の思想が垣間見られます。

 


実は花巻で宣教師との出会いがありました。

このお話はいずれ、また、書きたいと思います。