港も見える丘から

人生のゴールデンエイジにふと感じることを綴っていきます

NO.204 《うるわしの白百合 制作秘話》

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NHK朝ドラ「エール」が佳境に入ってきました。

衝撃的な恩師藤堂先生の戦死が描かれた戦時下篇は

豊橋空襲で何もかもが瓦礫と化した焼け跡を彷徨いながら、

讃美歌「うるわしの白百合」を歌う薬師丸ひろ子さんのシーンが

ハイライトとなりました。

 

モンペ姿の薬師丸ひろ子さんが

大好きだった祖母の姿と重なり、

ウルウルしながら見ていました。

 


この場面は素晴らしいと多く賞賛の記事が掲載されていましたが、

「エール」で描かれるキリスト教を監修されている

立教大学 西原先生がご自身のFBで、このシーンにまつわる秘話を書かれました。

とても素晴らしい文で、感動し、

ブログに引用掲載することをお願いしたところ

快く応じてくだいました。

長いので、抜粋を…とも思いましたが、

それでは意味がないので

全文掲載させていただきます。

 


【長文です】

 


本日(2020年10月16日)放映された、NHK連続テレビ小説『エール』で、薬師丸ひろ子さんが絶唱された賛美歌「うるわしの白百合」は、心が震えるくらいに素晴らしかった。視聴されたみなさんも、感動されたのではないだろうか。私もキリスト教考証者として、この場面の提案時から、実際のNHK渋谷スタジオでの収録まで、演技指導も含めて関わることができたことを、本当に幸いであったと思う。

 


6月28日に、NHKのディレクターから、「薬師丸ひろ子さんから、チーフプロデューサー宛てに、第18週の90回(金曜回)豊橋の空襲後のシーンについて、焼け野原の自宅前で昔を回想しながら歌う歌として「うるわしの白百合」を歌うのが適当であるか、西原先生にご確認いただきたいというご質問がありました。マネージャーさんからのお尋ねと90回の台本を添付いたしますので、ご確認いただき、ご回答いただけると幸いです」という連絡を受けた。すでに各種メディアで、脚本も執筆したチーフ演出の吉田照幸監督が語られているように、当初の台本では、薬師丸ひろ子さん演じる光子が、「戦争の、こんちくしょう!こんちくしょう!」と唸りながら地面を叩くシーンであった。薬師丸さんは、ここは地面を叩くのではなく、何か歌を歌えないか、過去を回想するのに「菜の花」を口ずさむのはどうかと思ったが、賛美歌の「うるわしの白百合」がその場面に適当であるか、百合はキリスト教では復活を意味するらしいが、そのあたりを含めてキリスト教考証の西原に検証頂きたいのと、その様なことでも良いのかチーフプロデューサーに聞きたい、とのことであった。

 


私は早速、以下のように応答させていただいた。「ご連絡ありがとうございました。薬師丸ひろ子さんからのお尋ねですが、大変素晴らしいアイデアだと存じます。「うるわしの白百合」ですが、今回の「敗戦」の知らせを聞いた光子のさまざまな思い、ことに「復活」「新たな<いのち>の再生」を願って、また、自身のクリスチャンとしてのアイデンティティを、何にも規制されることなく<謳う>ことができるその思いを表現するという意味でも、ぜひ、薬師丸ひろ子さんのご提案が実現できることを私も期待しております。このようなご提案をされる薬師丸ひろ子さんに、正直、あらためて感激いたしました。関内家は聖公会という設定でしたが、「うるわしの白百合」は聖公会の『聖歌集』にはなく、日本基督教団の『讃美歌集』に収録されたものです。しかしながら、ミッションスクールをはじめ、広くキリスト教関係者の間で親しまれた歌ですので、光子が愛唱していたとしても不思議ではありません。「うるわしの白百合」は現在の『讃美歌』496番(1954年発行)で、その譜の下にある〔509〕という記載は、1931年(昭和6年)版『讃美歌』の「該当讃美歌番号」です。『讃美歌略解(後編・曲の部)』によれば、「この曲の出典は不詳。音楽的に価値の高い曲ではないが、わが国で広く愛唱されているので、この版に残された。原曲は前半の16小節に記譜法上了解し難い点が多かったので、原作曲者の意図をできるだけ尊重しつつ、小泉功が全般的に譜を書き改めた」(290頁)とありますので、おそらく1931年版に、原曲に近い形で同曲が収載されていたのではないかと予想できます。ですので、敗戦時に「うるわしの白百合」が歌われたとしても問題はないと存じます。取り急ぎまして、以上、どうぞよろしくお願いいたします。西原廉太」

 


その後、さらに調べた上で、以下の補足をお送りした。「1931年版『讃美歌』にもしっかりと「うるわしの白百合」が収録され(第509番)、歌詞もほぼそのままであることが確認できました。大正から昭和初期に、とりわけ女子学生の間で愛唱されたようです。しかし、19世紀にアメリカで創られたこの曲は、宗教的内容が乏しい、音楽的にも価値が高くないとの評価で、早くからアメリカの歌集からは姿を消してしまいました。多く愛唱されているという理由などで、日本だけに生き残ったもので、1954年版『讃美歌』集でも「雑」という項目に分類されていました。1997年に『讃美歌21』が発行された時に、そのような理由から残念ながら消えてしまった賛美歌のひとつです。おそらく高齢の方々には懐かしく思われる方も多いと思います」

 


このような経緯で、急遽、この場面は、台本通りではなく、薬師丸ひろ子さんが「うるわしの白百合」を歌われることとなった。NHKの段取りでは、光子が関内家の焼け跡を茫然と彷徨い、歩いている時に、焼け果てた柱や床の下から、焼け焦げた、『竹取物語』の本や、子どもたちの懐かしい書物を拾い上げるのだが、その中に、聖歌集を見つけ、光子がそれを開いた時に、そこに「うるわしの白百合」の歌があり、剥き出しになった基礎の上に座って、歌い始める、というものであった。

 


ここで私が悩んだのは、先述した通り、関内家は聖公会という設定であり、歴史的には、「うるわしの白百合」は聖公会の『聖歌集』にはなかった、という点である。そこで、私は、以下のような設定をNHKに提案した。<光子は、名古屋にある1889年創立の金城女学校の卒業であり、学校で良く「うるわしの白百合」を歌い、親しんでいた。光子が焼け跡で拾い上げたのは、日本聖公会『古今聖歌集』ではなく、金城女学校時代に彼女が大切にしていた『讃美歌集』だった>。

 


日本聖公会中部教区司祭の聖公会信徒の祖母は、金城女学校卒であり、「うるわしの白百合」は実質的に「第2校歌」として愛唱していたという。また、日本聖公会の信徒の中にも、「うるわしの白百合」を故人愛唱聖歌と指定される方は少なくない。したがって、光子が、「うるわしの白百合」に親しんでいたことは、何の不思議もない。ただ、1945年当時にミッションスクールで用いられていた学校讃美歌集を見つけるには至らなかったため、当時、実際に使用されていた、「日本日曜學校協會」編纂の『日曜學校 讃美歌』を参照して、私が、現在、理事長を担っている、日本のすべてのプロテスタント系ミッションスクールが加盟している「キリスト教学校教育同盟」の前身である、「基督教教育同盟會」が編纂した『基督教學校 讃美歌』が存在したこととし、NHKの美術スタッフに急遽、製作を依頼した。NHK美術スタッフは、僅か2日で、添付の写真のような見事な『基督教學校 讃美歌』を作ってくださった。しかも、絶妙な範囲を焼け焦げた状態にしてくださった。薬師丸ひろ子さんが、歌いながら手にされているのが、この『基督教學校 讃美歌』である。実際の放映では、このクローズアップ映像は使用されなかったが、テレビ画面に映り込まないアイテムであっても、これほどの細かな設定と準備が為されていることを、理解していただけるとありがたい。

 

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さて、薬師丸ひろ子さんの「うるわしの白百合」のシーンは、7月3日、NHK渋谷スタジオで収録された。当日、私は、薬師丸さんの演技指導ということで、収録に立ち会った。前室で、私が、薬師丸さんに、どうして、この賛美歌をご存知なのかと尋ねたところ、ご出身の玉川大学の礼拝で良く歌われ、とても親しまれていたとのことであった。事前に、私は、「うるわしの白百合」の2節部分のみを歌われることを提案していた。15分という放映時間の中で、常識的に考えても、薬師丸さんの歌唱部分の尺は相当短いはずだと認識していたからである。もし一部(一節)ということであれば、台本のイメージを踏まえても、2節が相応しいと考えた。「かぎりなき/いのちに/さきいずる/すがたよ」という詩は、前日までに繰り広げられるインパール作戦豊橋空襲という「絶望的な死」を悲しみながら、しかし、未来への限りない「いのち」を願うという意味でも、感動的ではないかということ、また、これは私のある意味、偏見でもあったのだが、1節の「イエスきみの/はかより/いでましし/むかしを」という、ダイレクトにキリスト教の中心的教理を表現する詩を、公共放送としてのNHKが放映するのには躊躇があるのではとも想定したからである。ところが、薬師丸ひろ子さんは、1節と2節すべてを完璧に暗唱されて来られてきた。また、この「うるわしの白百合」という賛美歌は、アカペラで歌うのはかなり難しい曲である。しかし、歌唱指導の小菅けいこ先生と共に、修正の指導をさせていただいたのは、僅か1音、1文字であった。小菅先生とは収録後、さすがにプロフェッショナルですね、と感嘆し合った次第である。

 


いよいよ薬師丸ひろ子さんの撮影が始まり、薬師丸さんは、最初は静かに「うるわしの」と歌い出され、そして2節に入ると、歌は高揚し、最後はまさしく「絶唱」であった。監督の「カット」がかかっても、広いスタジオは深い沈黙に包まれたままであった。私の隣でモニターを見つめていた、若いスタッフたちが、目を真っ赤にしながら泣いていた。私も、胸が締めつけられながら、涙が溢れて止まらなかった。吉田監督が、「薬師丸さんが体現する悲しみと、そこから立ち向かわなくてはいけないという力強さを歌から感じたので、もうドラマじゃなくなっているなって思いました。みんなそれぞれが何かを感じ振り返る時間になっていて、それを(朝ドラの尺の)15分の中でやることに勇気と迷いはありましたけど、さすが薬師丸さんだなって」と証言されている通り、その現場は、もはやドラマではなかった。

 


新型コロナウイルス感染症蔓延と、それに伴う収録中止、放映中止、10話分カットという、『エール』収録開始時には想定もしていない異常事態に直面し、収録再開後も、極限の感染対策で神経を擦り減らす中で、それでも、良質のドラマを創り上げたいという、『エール』制作陣、一人ひとりの中に、薬師丸ひろ子さんの「うるわしの白百合」の歌は、深い深いところで響いたのだろうと思う。私は、収録直後の前室で、薬師丸ひろ子さんに心からの感謝の思いを伝えると同時に、土屋勝裕チーフプロデューサーに、「この場面は間違いなくNHK朝ドラ史上の名場面になるのではないか」と声をかけたが、本日の放映で、ただの1秒もカットされることなく、1節、2節、すべてが歌われた薬師丸ひろ子さんの「うるわしの白百合」は、確かに、歴史的な「名場面」となった。

 


薬師丸ひろ子さんの「うるわしの白百合」が持つ意味は、観た者それぞれにとって違うだろう。そもそも、「うるわしの白百合」という賛美歌は、イースター、復活を謳う歌である。戦争・死・暴力という「死」と「絶望」。それを悲しみながら、しかし、ただそこに留まるのではなく、未来の平和・生・人間の尊厳という「いのち」と「希望」を願い、告げることの大切さ。そこには「死」から「復活」へという、神学的なメッセージが通奏低音のように流れている。自分が作曲した歌に鼓舞され、予科練兵として戦地に赴き戦死した弘哉君の壊れたハーモニカを前にして、「音楽で人を戦争に駆り立てることが、ぼくの役目なのか」「若い人の命を奪うことがぼくの役目なのか」と自問しつつ、ついには「ぼくは、音楽が憎い」と呟く古山裕一。その絶望的な呟きに対する、見事な応答こそが、光子の「うるわしの白百合」なのではないか。本当の『エール』とは何かを、音楽の本当の力を、光子は、裕一や音、そして華、残された、これからの世代の未来を覚えて歌ったのではないか。否、「祈った」のではないだろうか。

 


また、光子はキリスト者として、戦中、特高からも監視される中、礼拝をすることも、地下のような場で、ひっそりとせざるを得なかった。戦争が終わり、今、光子はようやく、声高らかに、自分の大好きな愛する聖歌を歌うことができる。また、十字架も堂々と、身につけることができる。そのことの喜びは間違いなく大きなものであった。しかし、豊橋空襲で、愛した教会もまた焼け落ちたに違いない。事実、日本聖公会中部教区「豊橋昇天教会」は、関内家が焼失した同じ日の、1945年6月19日の空襲で全焼した。現在の「豊橋昇天教会」は、 1949年11月3日に再建されたものである。

 


その光子が首から下げていた十字架であるが、一目して「ロザリオ」だと分かる。「ロザリオ」は、カトリック教会信徒が大切にするものであり、聖公会も含めて、プロテスタントの信徒が持つことは基本的にはないし、カトリックの方々は祈りに用いるが、首にかけることはない。実は、この光子のロザリオは、『エール』収録開始時からNHKが準備されていたもので、関内家の仏壇前に特設された安隆の遺影横に置かれていた。当初から私も、聖公会家庭には馴染まないので、気にはなっていたのであるが、それほどクローズアップされないということもあり、光子が、かつて親交のあったカトリックの友人から譲り受けたもので、光子はそれを、「ロザリオ」としてではなく、首にかける「十字架」として愛用していた、という設定にしていただいた。昨日放映された、火災現場に梅を救いに行こうとする光子のシーンの撮影本番直前に、薬師丸ひろ子さんが、私のもとに来られて、首にかけて良いでしょうかという質問をされた。確かに、手にロザリオを持ちながら梅を探すのは無理であること、また、光子は聖公会でありカトリックではないので、むしろこれを「ロザリオ」として用いるのではない方が良いとの咄嗟の判断で、「そのようにしていただいて結構です」とお答えした次第である。今後の『エール』の中でもこのロザリオは登場するが、決して「ロザリオ」という名称では表現されない予定である。

 


「うるわしの白百合」を歌い終わった薬師丸ひろ子さんが、ゆっくりと、しかし、優しく十字架をその手に包む美しい場面があったが、それは事前に、私と薬師丸さんとで相談させていただいた姿である。それは、世を去ったすべての人の魂と、いま生きるすべての<いのち>を優しく包む「祈り」に他ならない。このような「祈り」を見事に表現された薬師丸ひろ子さんと、また、制限のある中にあって、その「祈り」を静かに、そのままに届けてくださった『エール』の制作陣のお一人ひとりに、あらためて、心からの感謝を伝えたい。

 

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祖母は、リベラルな考えを持っていた人でした。

母は父の経営する料亭の女将をしていたので、

夕方から居なくなってしまい、私は祖母に面倒を見てもらっていました。

寝る前にしてくれた話の中で戦争中の話がありました。

 

「戦争、怖かった?」

「そりゃ、怖かったさ、横浜の空襲で、うちにも爆弾が落ちて、みんな燃えたんだよ」

「戦争、嫌いだなあ」

「そうだね。おばあちゃんも戦争は嫌だったよ。

爆弾も怖いけど、人の心がもっと怖かったよ」

 

私はまだ小さかったのに、

祖母の、この言葉はなぜか、記憶に残っています。

「みんな同じでないといけない」という考えに違和感があるのは、

「おばあちゃんの教え」だったのかもしれません。

 


祖母は「うるわしの白百合」と「山路越えて」が好きで、

よく子守歌代わりに歌ってくれました。

 

 

 

戦時中の監視社会…爆弾より怖かった人の心。

祖母の言った、その意味が、今よくわかります。

「二度と戦争をしない国」憲法9条を学んだ時、

私は心底、日本に生まれてよかったと思いました。

 


モンペ姿で働く祖母の姿が薬師丸ひろ子さんの姿に重なった時、

私は孫たちの世代に何を残していけば良いのかと考えずにはいられませんでした。

 

隣組のあった監視社会なんて、絶対にいやですよね。

 

感謝をもって生きる感謝社会を作りたいと思った朝でした。

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NO.203 小栗判官照手姫物語

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昨日は「敬老の日

朝晩に涼しい風も吹き、

待ちわびたお出かけをしたくなる思いは誰も同じ…

久しぶりに行楽地も賑わった一日でした。

渋滞する横浜新道を抜けて、藤沢遊行寺に行ってきました。

 

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時宗総本山である遊行寺境内の北東に長生院という小さなお寺があります。

古くは閻魔堂と呼ばれていましたが、

照手姫に中興され、「長生院」と改称したと伝えられています。

 

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江戸時代には、『小栗判官伝説』が流布されて、

歌舞伎にもなっているほど有名な話となっていました。

安寿と厨子王物語」と並び称されるお話ですが、

私はほとんど知らなくて、

今回、改めてストーリーを読みました。

 

 

 

いくつかのバリエーションがありますが、これは長生院に伝わるお話です。

 


 昔、常陸の国、真壁郡小栗(現真壁郡協和村)に、

小栗満重という大名がおりました。

応永(1394〜1427)の頃、当時関東管領として関東を治めていた足利持氏に謀反の疑いをかけられて、攻め落とされてしまいました。

満重は、わずか10人の家来を連れて三河の国(現愛知県)に落ち延びていきました。

その途中、相模の国郷土横山大膳の家人に誘われて、しばらく大膳の館に留まっていました。

 


両親と早くに死に別れ、訳あって大膳の館で妓女をしている照手姫と恋に落ち、

夫婦になる約束をしました。

 


横山は、実は旅人を殺して金品を奪う盗賊で、何も知らずに立ち寄った満重を格好の獲物と殺害する様子を見計っていましたが、

10人の屈強の家来を相手にするには、勝ち目もなく、手をこまねいていました。

やっと、策を練り、人食い馬と言われる荒海「鬼鹿毛」にのせて、殺そうと企てます。

 

ところが、馬術の達人である満重は難なく荒馬を乗りこなしてしまい、計画は失敗しました。

 


次は酒盛りを開き、毒入の酒で毒殺を企みました。

知らずに酒を飲んだ満重主従は命を落とし、11人の屍は上野原に捨てられてしまいました。

 


その夜、藤沢遊行寺で、大空上人の夢枕に閻魔大王が現れ、「上野原に11人の屍が捨てられている。満重一人を蘇生させられるので、熊野の湯に入れて、もとの身体に治すように力を貸せ」と告げました。

すぐに上人は上野原に行ってみると、11人の屍があり、お告げのとおり、10人の家来は事切れていましたが、満重だけはかすかに息がありました。上人は家来たちを葬り、満重を寺に連れて帰りました。

 


上人は閻魔大王のお告げにしたがい、「この者は、熊野の湯に送る病人である。一歩でも車を引いてやるものは、千僧供養に勝る功徳を得よう」と書いた札を満重の首にかけ、引車にのせ、熊野へ送り出しました。

藤沢から紀州の熊野まで、大勢の人々が車を引いて送ってくれたおかげで、満重は熊野に着き、熊野権現の霊験と温泉の効き目で元の身体に戻りました。

 


一方、照手姫は、満重が毒を盛られた後、密かに横山の館を抜け出しましたが、追手につかまり、川に投げ込まれてしまいました。

しかし、日頃信心している観音菩薩のご利益で、海に流れ、金沢六浦の漁師に救われ一命をとりとめました。

ところが、美しい照手姫に嫉妬した漁師の女房は、姫を松の木に縛りつけ折檻し、松葉でいぶしたりしていじめ抜き、挙句に人買いに売り飛ばしてしまいます。それでも照手姫は満重を思いながら健気に生き抜いていきます。

 


さて、身体の癒えた満重は一族の住む三河に行き、力を借りて京都の幕府に訴えます。生死の境から蘇ったことは稀有の仏徳であるとして、満重は常陸の領地を与えられ判官の位を授かりました。

常陸に戻った満重は、兵を率いて横山大膳を討つと、遊行寺に詣り、上人にお礼をするろともに、亡くなった家来10人の菩提を弔いました。

 


そして、満重は美濃の青墓(現岐阜大垣市)で下女として働いていた照手姫を救いだし、晴れて二人は夫婦になり、常陸の国で幸せ暮らします。

時を経て、満重亡き後、弟の助重が領地を継ぎ、鎌倉に来た折に、遊行寺に参り、満重と家来の墓をたてました。

そして、照手姫も仏門にはいり、遊行寺内に草庵を営みましたが、永享元年(1429)長生院を建て、余生を静かに過ごしました。

 


この話は芸能取り上げられ、近松門左衛門『当流小栗判官』、

小栗判官車街道』等数多くかかれるようになりました。

 

例えば、

漁師の女房入り飛ばされた照手姫は美濃青墓の万屋の主人に買われ

常陸小萩」という名前を与えられ、下女づとめのきつい労働をさせられていましたが、

ある日、車に乗った餓鬼のような男を哀れ思い、5日の暇をとって車を引いていきました。

その男が愛する満重とも知らずに…

満重は自分の車ひいてくれた人々にお礼言って周る中で小萩を訪ね、

二人は再会するというストーリーとなります。さすが…

 

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説教浄瑠璃として語られるだけでなく、

歌舞伎・人形芝居として盛んだった「小栗もの」も

明治維新以降衰退の一途をたどり、人々から忘れたれていましたが、

現代になって見直されて、1991年初演のスーパー歌舞伎『オグリ』で一躍有名になりました。

遊行寺では遊行かぶき『小栗判官と照手姫ー愛の奇跡」が上演されるようになりました。

 

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一遍上人に魅せられて、

遊行寺に出かけたのは8月初旬のギラギラと太陽の照りつける日でした。

小栗判官照手姫のお墓があることは知っていましたが、

このお話がぐっと身近に思えたのは、

一遍上人にそっくりと思った舞踏家大野慶人先生のお嬢さんとランチをした時でした。

なんと、おじい様大野一雄先生が遊行寺で『小栗判官照手姫』を

上演されていた!と知ったとき、ブルっと身体が震えました。

 

YouTubeで探すと大野一雄先生の『小栗判官照手姫』がすぐに見つかりました。

https://m.youtube.com/watch?v=hBYc3CIwE64

 

https://youtu.be/93cPgMAM9e0

 

一つのことに集中すると、どんどん、どんどん繋がり、

興味はますます膨らんんでいくのです。

 

 

ベールに覆われた向こう側にあるものを、

ベールを取って知り得ることが面白くてなりません。

 


小栗判官と照手姫が生涯を過ごした常陸の国でなく、

ここ遊行寺菩提寺を建てた意味を噛みしめながら、

枝垂れ桜のしたにある照手姫のお墓に参りました。

f:id:tw101:20200922120024j:image照手姫のお墓


f:id:tw101:20200922120100j:image 小栗判官と家来のお墓
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神奈川県下には他にも照手姫ゆかりの場所があります。

相模湖町 美女谷 照手姫誕生の地

城山町 小栗公園 小栗判官屋敷跡

相模原市 上溝  照手姫産湯の湧き水、榎神社

金沢区六浦 専光寺 照手姫守本尊がまつられています。

⑤戸塚区俣野町 荒馬鬼鹿毛が飼われていたところ

 


興味をそそられます。

これからの季節、お散歩に良いかもしれません。

 

百日紅の花びらがハラハラと舞い、

季節は夏から秋へと確実に変わっていきます。

 

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NO.202 《ヴァイオレット・エヴァーガーデン》

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2度の公開延期となっていた

京都アニメーションの新作映画『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』が、

昨日18日、全国の劇場で公開初日を迎えました。

 

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コロナ自粛期間、私はTSUTAYAディスカスでDVDをジャンルを問わず借りまくり、

毎日何時間も映画見ていました。

その中の一本が「ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝」

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映像の美しさ、ストーリーの展開、作品の持つ世界観にすっかり心を奪われ、

テレビの再放送で本伝を観ました。

 

 

 

 


封切られた映画は期待通りの素晴らしい作品でした。

入場する際、数量限定での三種ランダム配布中の、

書き下ろし短編小説冊子『ベネディクト・ブルーの菫」をいただきました。

感激!

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ここで、内容を少し紹介します。

戦闘武器として拾われ、殺戮の道具扱いされていた名もなき少女が、

若き少佐にヴァイオレットという名前を与えられ、

庇護を受け、道具から人間へと育てられていきます。

ヴァイオレットは主人であるギルベルト少佐の命令を忠実にこなし、

戦争末期の戦闘で両腕を失くしながらも、

手負いの少佐を助けようと奮闘しますが、

病院で気づいたときには、少佐の生死もわからず、

自分も義手をつける身体になっていました。

 

 

 


退院後、ギルベルトの親友でもあった上官のホッジンズの経営する郵便社で

手紙を代筆する自動手記人形〜ドールとして働くことになりました。

タイピストとしては極めて優秀なヴァイオレットですが、

人の心が分からず、報告書のような味気ない文章しか書けませんでした。

依頼人との関わり中で、次第に、言葉にならない思いを知り、

感情が豊かになっていき、一人前のドールと成長していきます。

 


ヴァイオレットはギルベルト少佐が最後に言った「心から愛している」

という言葉の意味を知りたいと強く願っていきます。

 


依頼人たちの、肉親思う愛情の深さを知るうちに、

「愛」の意味を理解するようになり、

ヴァイオレットは国一番のドールとなります。

そして、今回の新作へとストーリーは展開していきます。

 

何度も、涙を拭いました。

 

 


「自動手記人形」という職業、憧れてしまいます。

お気に入りの便箋に手紙…を書くことが大好きでした。

 

全国各地のお友達へ、せっせと手紙書いていた高校時代…

万年筆でペンだこができるくらい毎日書いていました。

 

最近、手紙を書いたのはいつかしら…

 

 

いつしか、手紙はメールに変わっていきました。

 


この映画を見ていると、

思いを綴った手紙を、

封蝋印のある封筒に入れて送りたくなります。

 

 

 

人は愛されて初めて、愛を知り初めて、

誰かを愛することができるようになる…と

切ないくらい無垢なヴァイオレットの姿を見ていて思います

 

あいしている…

愛…それは…心から大切に思うこと…

はかなく、すぐに壊れてしまいそうな心を

優しく包むひだまりのよう…

 

 

登る朝日の輝きが

今日という日に希望を与えてくれます。

 

 


夢と希望を持って京都アニメーションに入社し、

大好きなアニメの仕事をしていて、

放火事件の犠牲になった36名の尊い命の悼み、

クレジットの名前を見て、涙が止まりませんでした。

 

こんなに素敵な映画を作ってくれて

ありがとう

ありがとう 

ありがとう

 

駅直結のT・ジョイ横浜のレイトショーの帰り道、

駅周辺にはコロナ禍を忘れるようなたくさんの人影がありました。

 

元の日常には戻れないけれど、

少しずつ、少しずつ、前に進んでいく時がきたようです。

 

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NO.201 一遍上人⑨ 牛にひかれて善光寺

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一遍上人善光寺参りの後に、叔父通末の供養をするために、

佐久小田切の里に行きました。

今回、私は逆ルートで佐久から善光寺へ行くことにしました。

 


「今日は善光寺に行くわ。」と野辺山のホテルで、

同室の友人と話していたら、彼女がポツリと、

「牛にひかれて善光寺…」と言いました。

聞いたことあるフレーズですが、恥ずかしいことに、

私はその本来の意味を知りませんでした。

さっそく、Googleで調べてみましたら、

 


…「牛に引かれて善光寺参り」は牛に布を引かれて善光寺に行ったことがきっかけで、信心深くなり極楽往生を遂げられたというお話です。このことから、現代では「思わぬ他人の誘いで、物事が良い方に向かうこと」を表す言葉として使われています。

ポイントは「他人の誘い」であることと、「物事が良い方に向かうこと」です。意図せずにした行動では足りず、他人から誘いがあって、したいと思っていなかった行動をとった場合に使う言葉です。また、物事が悪い方に向かってしまった場合には使うことができません。…

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という意味であることがわかりました。

では、その基のお話は何かしらと調べてみました。

 


昔 信濃国小諸の在に、心根の悪い強欲なお婆さんが住んでおりました。

ある日(近くの布引観音の祭礼の日という)洗濯をして、軒先に布を乾していたところ、どこからともなく一頭の牛が現れて、その布を角にかけて逃げ出しました。お婆さんは怒って、その牛を追いかけて行きますと、牛はどこまでも逃げて行き、とうとう善光寺にまできてしまいました。

日が暮れて、牛は金堂の中に消えるように見えなくなりました。しかし、金堂に入ってみると、光明が昼のように輝いており、追いかけてきた牛の涎(よだれ)が、さながら文字のように光っています。読んでみると、

  『牛とのみ思いすごすな
        仏の道に
   汝を導く 己の心を(われ観世音)』

の御歌でありました。

さすがのお婆さんも、今まで心の奥に眠っていた仏心が忽ち眼を開き、六十六才にして初めて仏恩の偉大なことを知って、我欲を捨て信仰の道に入ることができました。その夜は御仏の前で称名を唱えてあかし、取られた布の行方を尋ねる心も捨てて家に帰りました。

後日、近くの観音堂に詣でたところ、布は,思いがけなく堂内に安置されている観音さまお身体に掛けられているではありませんか。それを見たお婆さんは、牛と思ったのは、実は観音さまの化身であったのではと,ますます善光寺如来への信仰を深めて、極楽往生を遂げたと言うことです。

この仏さまこそ、布引観音のご本尊であり、これが世に、「牛に引かれて善光寺まいり」と語り伝えられているお話であります。

『春風や 牛に引かれて 善光寺』 一茶

 

なるほど…と思いました。

 


思えば、私の人生「牛にひかれて善光寺」の連続だなあと思いました。

いつも目の前に、ひらひらと手招きがあって、

追いかけて、追いかけて、どんどん進んでいくうちに、

思ってもいない良いことが起きていきます。

不思議なことに、悪い方に行ったことがありません。

 


この夏、歓喜童子たちが私をいろいろなところに誘ってくれます。

一遍上人ゆかりの地を相模原、藤沢、片瀬海岸の近場から

長野に入って佐久、そして善光寺…と。

 


私は不思議な思いで佐久から新幹線に乗り、終点長野で降りました。

駅に立つと、思わぬ暑さにクラクラきました。

アポをとっていた信濃毎日新聞社文化部記者Uさんと30分ほど

一遍上人についての話をして、

抜け道を歩き、善光寺行きのバス停に案内していただく間も

思わぬ雑談に花が咲きました。

 


「一生に一度は善光寺参り」と言われている善光寺は一光三尊阿弥陀如来を本尊としています。この本尊は552年に百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれています。一度は廃仏派の物部氏に難波の堀江へと打ち捨てられたのですが、信濃国司の従者として都に上った本田善光が信濃の国へお連れし、最初は飯田でお祀りされて、後の642年、現在の場所に遷座され、644年に勅願により伽藍が造営され、善光寺と名付けられました。

 


鎌倉時代源頼朝、北条一族の手厚い保護を受け、信仰は広まり、親鸞聖人、一遍上人も参拝しました。

戦国時代は川中島武田信玄上杉謙信信濃の覇権をめぐり争いました。

1555年、信玄は善光寺を丸ごと甲府に移しましたが、武田滅亡後、本尊は織田、徳川の祀るところとなり、最後は豊臣秀吉が京都・方広寺の本尊としました。が、秀吉の死の直前、如来様が枕元に立たれ、信濃に戻りたい旨をお告げになり、1598年、四十数年ぶりに善光寺にお帰りになりました。

 


太平の世が続いた江戸時代は「一生に一度は善光寺詣り」と多くの人々が参詣しました。念仏を唱えて一心に祈る者を皆極楽浄土に導いて下さると、一貫して男女平等の救済を説く寺院として知られていたため、女性の参拝者が多いことが特徴です。

f:id:tw101:20200913113808j:image善光寺仁王門

f:id:tw101:20200913113842j:image善光寺山門

f:id:tw101:20200913114019j:image日本忠霊殿

f:id:tw101:20200913114206j:image鐘楼

 

 

 

 


午後の光が眩しい参道を上がり、善光寺の境内に入っていきます。

平日のせいか、コロナ禍のせいか、人気もまばらな境内は、

セミの声もなく、静寂に包まれていました。

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その時、鐘の音が響きました。

厳かで、心をあらわれる音が五臓六腑に響きます。

天を仰いで平和を祈りました。

 

 

 


記者のUさんおすすめのお蕎麦屋「元屋」は

残念ながらすでに閉店していましたので、

走るようにお蕎麦屋さんを探し、

「駆け蕎麦」をいただきました。

 

 

 


そして、走った「参道」の由来を知ったのは、

写真整理していた新幹線の中でした。

 


史跡 善光寺参道(敷石)

善光寺参道(敷石)は、宝永4年(1707年)、本堂が仲見世地蔵尊付近から現在地に移転竣工の後、

7年目にあたる正徳4年(1714年)に完成しました。

 本堂普請の後、参道の路面状態が悪く、参詣人に難儀をきたしていたため住職と篤志家によって寄進されました。

伝説によれば、現在日本橋3丁目で石屋を営んでいた大竹屋平兵衛は、伊勢出身で、江戸で財をなしましたが、放蕩息子の長男は家へ寄り付きませんでした。ある夜、盗賊が入ったので、突き殺すと、それが我が子でありました。平兵衛は世の無常を感じ、家を後継者に譲り、巡礼の旅の途中善光寺に来て、諸人の難儀を救うために敷石を寄付しました。後に平兵衛は出家し、1726年に没しました。

その後も平兵衛の子孫は敷石の修理をしていたそうです。

 

敷石は7777枚に及んでいて、一部補修をしているものの、大部分は当初のままで、

これほどの規模を持つ近世以前の敷石の参道は、全国的にも稀だそうです。

 

f:id:tw101:20200913114423j:imagef:id:tw101:20200913114449j:imagef:id:tw101:20200913114510j:image 宿坊

 

f:id:tw101:20200913115222j:image 見事な敷石 堂々とした構えをした香のお店

 

 

 

 


善光寺は宗派という概念がない頃に創建されたため、

誰でも参拝できる無宗派のお寺です。

おごそかながら、庶民に開かれた、親しみ安さと明るさがありました。

 

 


一遍上人は二度善光寺参りをしています。

善光寺の持つ庶民的な明るさを時衆と一緒に楽しみ、

佐久へと旅を続けたのかなあと思うと、

佐久小田切の里への見方も少し変わったように感じました。

 


「いっぺんにこころひかれて善光寺…」壽實

 


今度は宿坊に泊まって、お戒壇めぐりもしたいと

後ろ髪を引かれるおもいで帰路につきました。

 

旅は続きます。

 

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NO.200 一遍上人⑧《踊り念仏発祥の地へ》

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満天の星を観たいと思い立ち、

急遽、お友達と八ヶ岳グレイスホテルに宿を取り、

★星空観測ツアー★を企画しました。

生憎、雨模様。

晴れ女パワー全開でも、小雨の降る一夜でした。

残念無念。

 


気を取り直して、

翌日、同行お友達と別れ、一人レンタカーを駆り、

一遍上人 踊り念仏発祥の地を訪れました。

 

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「佐久 踊り念仏」とGoogleで調べてると、

「西方寺」が佐久市ホームページにトップで出てきます。

跡部踊り念仏保存会」の手により、

現在、佐久市内で受け継がれている西方寺の踊り念仏は、

国の無形重要文化財指定されていて、

例年、4月第一日曜日に本堂内道場で踊り念仏が行われています。

西方寺の宗派は浄土宗。本尊は阿弥陀如来です

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「遊 捨て聖 一遍上人 踊り遊ぶ」を携えての表敬訪問。

朝9時半、幸運なことにお出かけ前の住職さんにお目にかかれました。

 


一遍上人と踊り念仏ことをお聞きしました。

お出かけ前の忙しい時に関わらず、お話して下さいました。

「きれいどころを連れて、善光寺帰りの一遍さんが、

このあたり、あちこちで踊り念仏を踊っていたけど、

だんだん忘れられてしまったとこもあったりしてね、

残っているのが、うちと金台寺さん。

あ、ちょっと待ってね。」

 


とおっしゃり、すぐにお持ちくださった本が「跡部の踊り念仏」でした。

「普通はお見せするだけだけど、あげます」と手渡ししてくださいました。

 

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「今度、ゆっくりきなさいよ。中も案内するから」と気さくな住職さん。

感動!感謝!

お礼を申し上げて、お暇しました。

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金台寺(こんだいじ)は伴野時直が創建した時宗のお寺です。

本尊は阿弥陀如来です。

静かなお庭を拝見して、写真を撮って、

西方寺住職さんに薦められた佐久市役所観光課を目指して車を出しました。

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諸説ありますが、踊り念仏は小田切の里が「初演」だったようです。

その場所がどこか…がミステリー。

近くに小学校と幼稚園がある辺りという栗原康先生の情報が頼りです。

 


ところが、佐久市役所観光課で聞いてもわからず、

佐久市教育委員会 文化財事務所を紹介されました。

車で5分ほどのあるようで、早速、行ってみました。

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最初に応対してくださった職員さんはわからず、奥から出ていらした方が、

「切原小学校入り口の信号脇にある農協さんに碑がありますよ」

と地図を見ながら、教えてくれました。

やったー! 野辺山から来た道を戻り、目指す農協に行きました。

そこには、お目当ての、それほど古くない碑がポツンと建っています。

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少し先にある小学校脇の空き地に車を停めて、

辺りを歩きました。

何ないところです。

そこで想像の翼を広げて行きました。

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踊り念仏の精神 〜壊してさわいで、燃やしてあばれろ 

それからおなじ佐久郡の小田切の里にむかった。

ある武士の屋敷をたずねていく。この武士がだれなのかはわかっていない。

じつはこの伴野というのは、おじさんの通末が承久の乱でつかまって流された場所である。『一遍聖絵』をみると、屋敷の庭に土饅頭型の塚があるので、これがおじさんの墓なんじゃないかと言われている。一遍はおじさんをていちょうにほうむってくれた恩人の家をたずねたのだ。でも、おじさんは、鎌倉幕府とっては重罪人なわけでおおっぴらにすることはできない。そういうこともあって、恩人にめいわくをかけないように、『一遍聖絵』では名をふせているのだ。

 一遍たちは、その屋敷にとめてもらって、おじさんさんの供養をやった。さいしょは屋敷のなかでだろう。みんなでナムナム念仏をとなえはじめた。たかく、たかく舞いあがっていくその声が、おのずとみんなを浄土にいざなっていく。体中にふるえがはしり、心と体が躍動していく。ああ、ああ、こりゃもうたえらんねえ。ちええっ!ちええっ!とつぜん、一遍が狂ったようにおどりはじめた。はげしく肩をゆすり、あたまをブンブンふって、手をひらひらと宙に舞わせている。そして、おもいきり地をけりとばし、全力でとびはねている。ピョンピョンピョンピョンとびはねて、ピョンピョンピョンピョン、またはねる。しかも、それでもまだものたりないと、クルッとまわってまたはねる、クルッとまわってまたはねる。なんだ、このうごきは、みたことがないぞ。もしかしたら、だれかが、おいおい一遍さん、あんただいじょうぶですかとやめさせようとしたかもしれない。でも、一遍にはもうきこえない。むちゃくちゃきもちよさそうに、満面の笑みをうかべて、ピョンピョンピョンピョンとびはねてる。

やばい、一遍が人間じゃなくなってしまったかのようだ。だけど、すごくたのしそうだ。おれもやってみようか。わたしもやってみようか。ひとりまたひとりと、一遍をマネしておどりはじめた。裸足のまんまで庭にとびだし、ナムナムナムナム、念仏の声にあわせながら、ピョンピョンピョンピョンとびはねて、ピョンピョンピョンピョンまたはねる。クルッとまわってまたはねる。やりはじめたら、おもしろくてとまらない。無我夢中だ。お坊さんも尼さんも、時衆みんなが庭にとびだして、輪になってグルグルとまわっている。自然と反時計回りにまわっていて、ナムナムナムナム、念仏にあわせてうごいていく。声のスピードをどんどんあげれば、体のうごきもどんどんはやまる。もっとはやく、もっとはやく。声のたかさをどんどんあげれば、どんどんどんどんはげしくはねる。しかもこれ、円をえがいてまわっているわけだからエンドレスだ。30分もすれば、汗がダラダラふきだしてとまらないし、1時間もすれば息がきれて窒息しそうになる。それでも一遍たちは、いつものように念仏を何時間も何時間もとなえつづけた。くるしい、くるしい、死ぬ、死ぬ、死ぬ。

 でも、人間というものはおそろしいもので、死ぬほどのくるしみをなんどもあじわっていると、それがだんだんきもちよくなってくる。

もう一回、もう一回。トランス状態だ。なにも考えない、なにも考えられない。あたまが空っぽになっていく。自分はなんのためにおどっているのか、もうどうでもよくなってしまう。ただくるしい、それが快感なのだ。悲鳴をあげながらも、それでもおどってしまうこの身体。自分はこんなにうごけたのか。すごい、すごい、オレすごい。というか、これまで自分の限界だとおもっていた身体のつかいかたは、いったいなんだったのだろうか。もっといける、もっといける。もっともっと。自分をこわせ。めいっぱい身体をいためつけて、自分の限界のそのさきへとつきすすんでいけ。くるしい、くるしい、くるしい。死ぬ、死ぬ、死ぬ。わたしたちの生きるよろこびは、地獄のくるしみのなかにある。(略)

 この日、一遍たちはとにかくおどり狂った。すさまじい熱気が天空へとまっていく。それにあおられて、というよりも、そのさわぎをききつけて、屋敷の住人や近所の人たちが群れあつまってくる。きっとさいしょは、こいつら狂っているんじゃないかとおもわれていたにちがいない。気づけば、みんなもあおられて、われもわれもと輪にはいってくる。

武士も庶民も女房も、ピョンピョンはねてクルッとまわる。『一遍聖絵』をmkると、みんな恍惚とした表情をうかべているから、よっぽどたのしかったんじゃないだろか。大成功。とまあ、これが一遍たちの踊り念仏のはじまりだ。自然発生的におこったといってもいいし、あるいは、もともと一遍は空也のことを尊敬していたわけで、いつかやろうとおもっていたことが、この小田切の里でやれたんだといってもいいだろう。とにかく、このときの踊り念仏がむちゃくちゃよかったようで、一遍たちは興奮のあまり、ボロボロとなみだをながしてよろこんだ。また周囲でも、なんかすげいのがあるぞ、いちどでいいからおがんでみたいと評判になった。

 

ここはやはり、「死してなお踊れ 一遍上人伝」を引用させていただきました。

栗原先生の文章から踊り念仏の躍動感が伝わってきます。

 

 

f:id:tw101:20200910115538j:image「信州佐久郡伴野市」『一遍聖絵
f:id:tw101:20200910115543j:image「信州小田切の里」

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叔父、通末への慰霊・鎮魂の思いがあったとしても、

きれいどころの尼僧たちの「南無阿弥陀仏、ありがたや〜!」

という呼びかけが大きな引声念仏となっていきました。

みんなが一緒にとびはねて、踊り、興奮と恍惚のエクスタシーの境地で

「踊躍歓喜」と呼ばれるような状態になったとき、

なやましい煩悩は消え去り、

頻発する飢饉や災害や蒙古再来襲の恐怖も薄らいでいったのではないでしょうか。

 


青々した田んぼや、神社の裏山で歓喜童子が踊っている姿がいっぱい見えました。

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コロナ禍で半年以上、ずっとステイホームをしていましたが、

「おんもにいきたい」という原始欲求は募るばかりでした。

今回、久しぶりに雄大八ヶ岳に抱かれて、

流れる雲が変化に富む空を見ながら、

ユーミンの曲を流して、

一人ドライブをしていたら感極まって涙目になってきました。

 


明日の不安を希望に変えるには、

まず、自分の心を変えることだと思いました。

“GO toトラベル”使いようです。

 


そして、次の目的地、善光寺に向かうため、レンタカーを佐久平で返却し、

あさま609号に乗り込みました。

 


初めての善光寺参りは次回へ続きます。

 

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NO.199 『美しい死』〜品位ある医療の、ひとつの結末〜

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お誕生日を迎えました。

 

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直後、尊敬してやまないゴスペルシンガー松谷麗王先生の訃報が届きました。

あまりに突然の急逝に驚き、言葉もありませんでした。

神さま、なぜ、なぜ、レオ先生を召されたのですか。

まだ51歳という若さなのに…と

何度も神様に問いました。

 

ふと見上げた空を見ていたら、レオ先生が天国で亀渕友香さんに迎えられ、

神様の御許で高らかに神様を賛美している姿が浮かんできました。

神様の平安がありますようにと祈りました。

 

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8月は終戦記念日があるがあるからでしょうか、

『生と死』に思いを寄せる時間が多いように思えます。

 

そういえば『美しい死』について書いたことがあった!

FBの過去のノートに書いた文章をもう一度読み返してみたいと捜して、

やっと見つけました。

2014年8月14日に書いたものです。

 


上智大学内の聖三木図書館の本棚で最初に私を呼んでいた本が

森亘先生の著書「美しい死」でした。

真っ白な美しい装丁の本を開くと、「寄贈」という朱印がありました。

森先生から贈られた大切な一冊。

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人間の「生と死」に関わる医療従事者や医学生たちへの講演で

お話しされた原稿をまとめられたものですが、

結びの章「美しい死」は何度読み返しても心を打つ文章です。

敬愛する恩師が亡くなられ、

生前恩師から望まれていた人体解剖が終わったときに感想を聞かれて、

森先生は「美しい死」という言葉で表現されました。

なぜ、そんな言葉が口をついたのか、

先生は自分の考えをこう書かれています。

 

 

このように節度ある治療を受けた遺体の内臓にはある種の美しさがあると気づきました。

たとえば、最先端の医療を受けた例でも、それが適度であれば遺体の残された変化はむしろ古典的ですらあり、美しいと呼びうる姿であります。

節度ある治療とは合理性一点張りの結果でなく暖かい「こころ」に裏打ちされた合理性であると考えます。

そして節度ある医療とは同時に品位ある医療であり、患者の人間としての尊厳が守られることにも通じます。

人間というものはしょせん、いつかは死を迎えなくてはならぬ運命にあることを考えれば、そして死が多くの場合、医療の最終手段として訪れるものであるならば、医療というものは、人間の人間らしい自然の死を助けることで、自分の身体の中に秘められている自然の力による治癒を側面から助けると共に、その人生の最終段階においては、自らに運命づけられた自然の死を助けるのも、医療のもつ役目でありましょう。

「必要にして十分な医療」「節度ある医療」あるいは「品位ある医療」をどう行うかの適切な判断は、「知識」「教養」「品位」の三者を併せ持つ医師によってのみ初めて下しうるものであり、今日の医師にはこうした高度の資質が求められています。医師というものは、その人生において、自らをある程度犠牲にしてでも、広く人々に奉仕せねばならない使命と運命を背負っていると自覚しなければなりません。そしてそれに見合うだけの物質的報酬は必ずしも期待できません。

得るものがあるとすれば、一方では自らの誇りであり、他方、社会の中での尊敬でありましょう。

みなさま、どうか若者に対し、医師とは正しく誇り高く、世の尊敬を集めるべき職業であることを説かれ、『知識』と共に『教養』ならびに『品位』を与えていただきたいと存ずる次第でございます。

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森亘(もり わたる、1926年1月10日〜2012年4月1日)

日本の病理学者、東京大学名誉教授・元学長。

国立大学協会会長。元日本医学会会長。医学博士(1957年)。

東京生まれ。

2012年4月1日、肺炎のために、東京大学附属病院で死去。

86歳没、叙従三位。(Wikipediaより)

 

 

 

平成11年 日本医師会創立50周年記念大会・特別講演でのお話しの大意です。

読んでいて、簡潔な文章に込められた深い意味に、何度も肯きました。

そして、この資質は医師のみならず、

政治家・法律家・会社経営者・教師・聖職者という特別な職業に就く人々のみならず、

必ず滅びゆく一人の人間として持ちたいものだと思います。

 

 


日本学士院会員、文化勲章受賞、多くの財団の顧問をされるなど、

輝かしい経歴に目も眩む思いですが、素晴らしいのは、

そんな経歴は微塵も見せない慎み深さです。

 


このノートを書いた6年前、

私は「ろうけん」のショートステイしていた父と向き合っていました。

過去の複雑な事情により、一度も一緒に生活をしたことのない父でした。

母の死後、まもなく再婚した相手にも先立たれた父。

「俺は好きなように生きる。お前の世話にはならない」と豪語していた父が、

肺気腫となり、夏の暑さで一人暮らしは無理となっての「ろうけん」入居でした。

「お前に世話になるとは思わなかったな。ありがとうよ」と言う父は

病院スタッフの手厚いケアを受け、最期の日々を穏やかに暮らし、

翌年の夏も、好物にうな重を二度、ペロリと平らげる食欲を見せ、

秋に天寿を全うしました。

 


祖母は54歳、母は44歳で亡くなったので、

私は34歳までしか生きることはできないと10代後半にして、

かなり本気で思っていました。

その思いが激変したのは、長男を出産したときです。

『死の恐怖』という暗闇が消え、

圧倒的な『生命』の息吹きを感じ、

『生と死』を均等なバランスで考えるようになりました。

 


1988年8月第三子を身篭っていましたが、

夏の暑さで体力が落ち、何かの感染症にかかってしまったのか、

熱が42度も出て、陣痛のような痛みが続き、

赤ちゃんは救急車の中で頭が出てしまいました。

8月22日、安定期に入っての死産でした。

母体も危険な状況だったので、自然分娩の形で胎児が出てしまったのは、

お母さんにとって一番良い形でしたと説明を受けても、涙が止まりませんでした。

我が子の生命を守れなかった母の嘆きと苦しみは深く、立ち上がれないと思いました。

 

でも、聖路加国際病院のドクター、ナース、チャプレンの

心のこもった行き届いたケアは、私の心を優しく包み、

退院する頃には悲しみは消えずとも、悲しみと共に生きる力を取り戻し、

二人の子どもが待つ家へ戻っていくことができました。

スタッフのみなさまには心から感謝をしました。

 


コロナ感染拡大で医療現場はどんなに困難な状況になっているのか、

ニュースやSNSで垣間見る程度しかわかりません。

きっと、想像以上のご苦労があり、

過大な犠牲を強いられているのではないかと思うと、感謝にたえません。

 


いかに生きるかを考えていた青春時代、

いかに生活するかを考えていた壮年時代、

そして今、いかに人生を終うかを考えるときが始まりました。

 


「美しい人生」を豊かに過ごして、「美しい死」を迎える準備をして、

次の世代にバトンを渡せていけたらと思います。

 

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NO.198 一遍上人⑦ 一遍上人と聖フランチェスコ

 

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一遍上人を追いかけているうちに、

一遍さんって、アッシジの聖フランチェスコに似てるなあと思いました。

そこで、調べてみますと、本がありました!

 

家田足穂先生著《『捨てる』という霊性ー聖フランチェスコ一遍上人》です。

さっそく、Amazonで手に入れました。

 

家田足穂先生は一遍上人の他にも良寛禅師と、

明恵上人との類似性についても論じていらっしゃいますが、

ここでは一遍上人との似ている点をあげていきたいと思います。

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昨年、第266代ローマ教皇フランシスコが来日された時に、

映画『ブラザーサン シスタームーン』についてブログで書きました。

その時も、太陽月を兄弟姉妹と呼ぶアッシジの聖フランチェスコ

どこか東洋的だなあと思いましたが、

今回、一遍上人との類似点があることで、

興味が深くなっていきました。

 


聖フランチェスコのことは下記のブログをお読みください。

「平和の祈り」もあります。


https://tw101.hatenablog.com/entry/2019/11/23/091722

 


さて、フランチェスコは謙虚に民が使う言葉で説教をしました。

身振り、手振りを交え、踊りや歌、音楽を用いて福音を伝えました。

都市、農村を問わず社会的に虐げられた人たちの中に出かけて、

「主の平和があなたと共にありますように!」と呼びかけました。

既存の教会制度の中では、これまでになかった福音宣教の新しいあり方でした。

彼の愛と慈しみは世間の常識を超えた

「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、

あなたがたも人にしなさい。

これこそ律法預言者である」(マタイによる福音書7章12節) 新共同訳聖書

というキリストの愛の教えの忠実な実行でした。

 


聖フランチェスコ一遍上人の、この世における願いは、

すべての被造物全体、森羅万象が神や仏を称え、差別なく救われる幸福を伝え、

また、「南無阿弥陀仏」の念仏勧進によって救われた歓びを確実にしようとしたのです。

 

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聖フランチェスコ一遍上人も、一切を「捨てること」で、

新しい世界を見出していきました。

 


余分なものを捨て去って、大いなるものを信頼し、信じ任せる境地こそ、

究極の幸福・喜び、

「永遠の命」と「無量寿」の道なのです。

 

 

 

ここで家田足穂先生の文章を引用します。

 


「真の平和を実現するために」

フランチェスコとその兄弟たちが、出会うすべての人々に「神の平和があなたたちの上にありますように」と伝えた挨拶の「平和」は、現代の世界で最も広く強く求められている。平和を実現するためには、人間の諸権利が認められる正義が必須の条件であるが、正義だけでは現実の諸問題は解決されない。いつの時代でもそうであるが、必ず存在する「政治的・社会的弱者」に対する配慮がないところに「平和」は実現されない。

 正義と平和が深くかかわるように、「平和」と「命」は深い結びつきを持っている。

生命の本来の在り方は幸福に生きることである。

 欠けたところのない状態の「平和」は、人間に与えられている諸権利が保障され、支配による不自由や抑圧、貧困や欠乏からの解放によって幸福に生きることである。そのためには、必要とされるものが最低限において満たされなければならない。

完全に満たされている状態が「平和」である。フランチェスコや一遍たちは、まずこのようなことに心を注いでいた。

 さらに「平和の挨拶」の深い意味は、この欠けたところのない状態をいう「完全に満たされた命」ー「神の平和」を人々に知らせることであった。すなわち、神の国おける「永遠の命」を完全な善である父なる神のうちに見いだすことであった。

「神と一つになる」神の愛の充満における至福こそ、「平和の挨拶」の究極の目標であった。「神の平和」とはこのような世界をいうのである。

 また、一遍たちが諸国遊行の旅で勧めた念仏「南無阿弥陀仏」は、欠けたところなき「完全円満」の阿弥陀仏と融合一体、つまり、極楽浄土での往生・成仏を確信させるものであった。念仏によって救われた「無量寿」の魂は、大いなる生命のうちにある「絶対のやすらぎ」(涅槃・寂静)の世界にあるのであった。

 フランチェスコにおいても一遍においても、一切のものを捨てた「回心」の中で究極に求めたものは、すべてのものに勝る価値のあるもの、神の国における「永遠の命」であり、極楽浄土における成仏、「無量寿」であった。

 フランチェスコの「平和の挨拶」を受けた人々は、彼が語り勧める福音の言葉を信じ、喜びにあふれながら「永遠の命」にあこがれを抱いた。また、一遍ら時衆の踊り念仏の中で救われた者の歓喜を体現し、念仏を唱えた人々は、阿弥陀仏と一つになる成仏を信じ、安心のうちに生きる歓びを実感した。生きることのさまざまな選択肢に恵まれず、欲求や欲望の選択肢の乏しかった時代の人々は、幸いにも最高の価値を求め易かったかもしれない。

 

 

二人が生きた時代は 

一遍上人が1239年〜1289年 

フランチェスコは1182 年〜1226年と、

フランチェスコの方が50年ほど先に生まれています。

一遍上人は捨て聖、

聖フランチェスコは清貧の聖と呼ばれています。

 

二人とも托鉢をし、ハンセン氏病患者や貧困者の救済をしました。

道場や、教会組織を持たず、山河草木、小鳥や野生動物、太陽月、波にも

阿弥陀仏の声、神の声を聞きました。

 

一遍の行動は聖戒、円伊によって描かれた絵巻物、

フランチェスコはジオットーで描かれた壁画で行動を知ることができます。

 

この二人がイタリアと日本という遠く離れた場所で

ほとんど同じようなことを考え、実践したことは不思議で、

すごいことだと思います。

 

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左が聖フランチェスコ、右は一遍上人襤褸もどことなく似てますね。

 

 


今日は75回目の終戦記念日です。

一年で一番「平和」を考える日であると思います。

 


「平和」は誰かが、どこからかひょい!と持ってきて、

ほい!とくれるものではないですね。

 


コロナウィルス感染拡大が原因で引き起こされている人災も含めての

コロナ禍で経験したことのない生活を強いられている今、

特別、平和に生きるということの意味を噛み締めたいと思います。

 

 

 

聖フランチェスコの賛歌です

 

 


            
          《 兄弟太陽の賛歌 》(被造物の賛歌)

 


 高くましまし、いつくしみ深い全能の主よ。
 あなたの賛美と栄光と名誉、そしてすべての祝福があります。
 あなたはそれにふさわしいからです。
 あなたのみ名を呼ぶにふさわしいものは、この世にひとりもおりません。

 


 賛美を受けてください、私の主よ。
 あなたがお造りになったすべてのもの賛美を受けてください。
 とくに私の兄弟、太陽の賛美を受けてください。
 太陽は昼を来させ、その昼の間、

 あなたは私たちのために光を注いでくださいます。
 太陽は美しい、大きな輝き。


 高くましますあなたのお姿は、太陽の中にうかがうことができます。

 


 賛美を受けてください、私の主よ。私の姉妹、月と星の賛美を。
 あなたは空の中に、月と星を明るく美しくお造りになりました。


 
 賛美を受けてください、私の主よ。私の兄弟、風の賛美を。
 大気と雲と晴れた空の賛美を。
 これらの兄弟もとに、あなたはすべての生者を養ってくださいます。

 


 賛美を受けてください、私の主よ。私の姉妹、水の賛美を。
 水は役立ち、つつましく清らかです。

 


 賛美を受けてください、私の主よ。私の兄弟、火の賛美を。
 火を使ってあなたは夜を照らしてくださいます。
 火は美しく楽しく、勢いよく力強いものです。

 


 賛美を受けてください、私の主よ。
 私の姉妹、母親だ大地の賛美を。
 大地は私たちを育て、支え、たくさんのだものを実らせ、
 きれいな花と草を萌え出させます。

 

 


 賛美を受けてください、私の主よ。
 あなたへの愛ゆえにゆるし、病と苦しみに耐え忍ぶ者のために。
 しずかに平和をまもる者はしあわせです。
 いと高くまします主よ、そのひとたちは、あなたから、栄冠を受けるからです。

 

 


 賛美を受けてください、私の主よ。
 私たちの姉妹、肉体の死 の賛美を。

 


 生きるものはすべてこの姉妹の手から逃れられない。
 大罪を背負って死ぬものは不幸ですが、
 あなたの聖なる御旨を行ないながら死ぬものは幸いです。
 第二の死 にそこなわれることはもうありません。


 
 賛美しよう、歌をささげよう。
 感謝の歌をささげ、深くへりくだって、主に仕えよう。


               
              [ 小川国夫訳 ] ゆるしと平和の節

 

 

 

 

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もう一つ、つけ加えたいお話です。

フランツ・リスト の作品に「巡礼の年第2年 イタリア 『二つの伝説』」

第1曲 「小鳥と語るアッシジの聖フランシス」があります。

ピアニストの久元祐子さんからお聞きしたのですが、

聖フランシスが語りかけていたのは、

愛らしい小鳥ではなく、

墓地で死体をついばむカラスやカササギ、ハゲタカの類だったようです。

人間たちはちっとも耳を傾けてくれない中で

嫌われものの鳥に語りかけていたのです。

想像すると、ちょっと怖い絵が浮かびます。

 

しかし、それが、福音宣教の本質、弱者の救済になるのだと思います。

話終わった聖フランチェスコが十字を切った後、

鳥たちが東西南北四方八方に飛び去る姿は

弟子たちの福音宣教に姿に重なります。

 

最後に、

僧籍に入ったリストの曲を聴いてください♫

 

https://youtu.be/ixRlje6TvQU

 

南無阿弥陀仏

 

主の平和があなたにありますように!

 

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