港も見える丘から

人生のゴールデンエイジにふと感じることを綴っていきます

NO.208 読書はじめ②『日没』

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緊急事態宣言発令について語る総理大臣の言葉があまりに貧相で悲しい…

ということをポロリと漏らせる今はまだましなのか。

と思わずにはいられない衝撃的な小説を読み終わりました。

桐野夏生さんの『日没』です。

 


松本侑子さんの書評や、関連記事を読み、

ずっと気になっていた『日没』

2日、みなとみらいのウォーキング帰り、

立ち寄ったTSUTAYAには在庫がなく、

帰宅してすぐにAmazonで注文したら、速攻で翌日に届き、

怖い、怖い、と思いながらも、一気に読んでしまいました。

 


…私は基本的に世の中の動きには興味がない。というのも、絶望しているからだ。いつの間にか、市民ではなく国民と呼ばれるようになり、すべてがお国優先で、人はどんどん自由を明け渡している。ニュースはネットで見ていたが、時の政権におもねる書きっぷりにうんざりして、読むのをやめてしまった。もちろん、テレビは捨てたし、新聞も取っていない…

 


読み始めて最初のページに書かれたこの文章で引き込まれました。

わかる、わかる、この気持ちと…

 

 

 

さて、ざっとあらすじです。

 


エンタメ作家のマッツ夢井の元に、ある日、総務省「文化文芸倫理向上委員会」という聞いたこともない機関からの「召喚状」が届くところから、始まります。飼い猫がいなくなってしまったり、有名な作家が病んだり、亡くなったりというなんとなく不審なこともありましたが、自分に問題があるなどとつゆにも思っていないマッツは、しぶしぶながらも召喚に応じます。

指定された駅に行き、迎えの車に乗せられ、茨城の外れの海辺の断崖絶壁にある建物に着いてから、あれよあれよという間に、「収監」されたような扱いを受けていきます。

外部との連絡禁止。ネット環境なし。反論しようものなら、「反抗」とみなされ減点され、収容期間が延びていきます。

そこに収容されている人々は「よくない小説を書いた小説家たち」のようですが、お互いの接触、会話禁止。マッツは“B98番”と呼ばれ、貧相な食事しか与えられず、尊厳を奪われていきます。

彼女が収容された原因は「犯罪や暴力を肯定しているようだ」という一般読者の根拠もない密告でした。

本など読んだこともない所長は、「政治なんかには口を出さずに、心洗われる物語とか、傑作をものにしていただきいたいのですよ」とマッツを「正しい小説家」にするために作文を書かせます。マッツは所長の意に沿うようなくだらない作文を書き、早く家へ帰ろうとします。

しかし、一旦収容されたら解放される望みはないということを知り、愕然とします。

かろうじてコミュニケーションを持てる人間さえも、敵か味方か、分からなくなり、なんとか自分の精神を正常に維持していくため、最大の努力をしますが、次第に洗脳され「自死」が頭をよぎるようになっていくのです。


果たしてマッツはここから出ることができるのでしょうか。

映画「パピヨン」のラストシーンが浮かんできます。

ところが、最後の15行は「えええ⁉️」

衝撃的な結末をむかえます。

 


桐野夏生さんはこう言っています。

 


経済構造が貧困を生んでいるのに自己責任論ばかりで、ネットの発達で誰もが管理・監視から逃れられない。正義を振りかざして他者を攻撃する人が増えた。そんな絶望的な現状を考えたらこうなりました。いま、日本の社会全体が冷笑的になっていると思うんです。誰かが真面目なことを言っても、ちょっと高みに立って『なに本気になってるの?』ってスルーする。日本に蔓延しているディスコミュニケーションの空気も含めて、きちんと描けたらいいなと。(2020年12月20日 東京新聞 Web版 )

 

 


新型コロナの流行は予想外でしたけれど、現実が小説に追いついたというか、むしろより過激になっていますよね。里帰りする人を監視したり、自粛警察みたいなことをやってみたり。

 小説に書いたようなことがいま実際に起きても驚きません。もし、私がどこかに連れていかれて、『あの人、最近、見ないね』——なんて、笑い事じゃないですよ(笑)」2020年10月30日 オール讀物 編集部 〜現実の日本と地続きのリアリズム小説――『日没』(桐野 夏生)

 

 

 

テレビも新聞も、SNSも メディアというメディアが本当の事を伝えていない…

という事は薄々感じていると思いますが、

どこに真実があるかはわかりません。

 


「真理はあなたを自由にする」(ヨハネによる福音書8章21節)と

エスは十字架の死を前に弟子たちに言っています。

今の私たちは常に空気を読むことを求められいて、

「その場の空気」に支配されています。

同調圧力の中で主体性を奪われている状態は最初は苦しいですが、

慣れてしまい、何も考えなくなって流されていく方が楽でしょう。

 


「真理」というものは、どの時代でも誰かの手で上手に、

どこかに隠されてしまってるのかもしれません。

だから人はいつの時代でも、自分勝手に生きてはいるけど、

真の自由人にはなかなかなれません。

 

 


真理を探究する人は国家にとっては好ましくなく、

いつのまにか消されてしまいます。

2000年前、十字架に磔にされたイエス・キリストのように。

 


でも、イエス・キリストは3日目に復活しました。

死にうち勝つ大いなる希望があります。

「夜明け」の喜びです。

 

 

 

一方、「日没」というタイトルは

夜になる前の最後の輝きを表しているように思えます。

ここには、もはや希望はないのでしょうか。

 


この小説で怖いのは「絶望と孤独」です。

人と分断され、他者への猜疑心から

他人も自分も何もかも信じられなくなるとき、

心が壊れて、精神は崩壊します。

 


コロナパンデミックで怖いのはウイルス感染だけでなく、

人生を前向きに生きようする希望が断ち切られることのような気がします。

ワクチンができて、ウイルス感染から勝ち残ったら、

人の心はコロナ以前に戻れるでしょうか。

 


主体性を失い、

心をなくしてしまった人で溢れる社会…

 


ここでふと考えます。

敵…と敢えて呼びます。

敵が望まないことは何か。ということを。

それは「愛を持って信頼と協力する」

 


信じ合う人たちが同じ気持ちを持っていくとき、

分断でなく協力があるとき、

きっと希望が生まれてきます。

 


精神科医ビクトール・フランクル

アウシュビッツの絶望の中で生き抜けたのは、

希望があったからで、

その希望の基は

幼いころ「両親と過ごした楽しかった思い出」だったと後に書いています。

 

 


『日没』の結末を読んで、なんで?

と思った読者が、

自ら、考え、行動することで、

その結末を変える力を持てるのではないかと思いました。

 

難しいテーマでした。

最後まで読んでくださってありがとうございました。

2021年、希望を持って生きることができますように。

 

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NO.207 読書はじめは『JR上野駅公園口』

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2021年横浜のお正月はとても穏やかに過ぎてゆきました。

恒例の横浜駅東口付近でも箱根駅伝観戦もせず、

ふらりとシーバスに乗船して山下公園まで束の間のクルーズを楽しみました。

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空と海の青さは、

日常に漂う澱を洗い流してきれるような気がして、

心地よい海風に吹かれていました。

 


美しく整備された横浜港ですが、

昔のような貿易港としての活気がなくなったかなあと、

読みかけの『JR上野駅公園口』のストーリーと重ねてしばし思い出の中に降りていきました。

 

終点の山下公園で下船し、氷川丸を見ながら

歩いていると、哀愁を帯びた汽笛が鳴りました。

汽笛は低く長く続きました。

ああ、私は横浜にいるのだなあと思いました。

 

 

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柳美里さんの『JR上野駅公園口』が

権威ある全米図書賞翻訳文学部門

(National Book Award for Translation Literature)の文学受賞したと聞いた時から、

ずっと気になっていましたが、

なかなか本を読む時間を取れず、

お正月に読もうとKindleにダウンロードしていました。

 


元旦、お節料理をいただいてから、ひだまりの中で読み始めました。

 


あらすじのあらすじは

1933年、(昭和)天皇と同じ日に福島県相馬郡に生まれた主人公カズは、

東京オリンピックの前年、出稼ぎをするために上京、上野駅に降り立ちます。

高度成長期にこの国の発展を底辺で支えたカズでしたが、

皇太子を同じ日に生まれた長男を早くに亡くし、

妻にも死に別れ、上野公園でホームレスとなって日々の生活を送っていました。

ある時、上野で国立科学博物館へいらした天皇

センチュリーの後部座席の窓から手を振っている姿を辛うじて見ることができ、

同時代を生き抜いた自分の人生を一瞬邂逅していくのです。

 


2014年に柳美里さんはこの小説を書いた経緯をあとがきで述べています。

まとめてみました。

 


2006年、ホームレスの方々の間で「山狩り」と呼ばれる、行幸啓直前に行われる「特別清掃」の取材を行いました。

取材は3回行われました。

彼らと話をして歩き、集団就職や出稼ぎで上京してきた東北出身者が多いということを知りました。

この取材のことを気にかけながら、精力的に執筆活動をしていうちに2011年2月11日 東日本大地震が起き、続いて、原発事故が起きました。

 


柳美里さんは南相馬郡市役所にある臨時災害放送局南相馬ひばりエフエム」でパーソナリティをつとめ、たくさんの人から「生の声」を聞いていきます。

この地に原発を誘致する前は、一家の父親や息子たちが出稼ぎに行かなければ生計が成り立たない貧しい家庭が多かったことを知ります。

 

家を津波で流されたり、「警戒区域」内に家があるために避難生活を余儀なくされている方々の苦悩と、出稼ぎで郷里を離れているうちに帰るべき家をなくしてしまったホームレスの方々の痛苦がわたしの中で相対し、二者の痛苦を繋げる蝶番のような小説を書きたいと思うようになりました…

 


2020年オリンピック関連の土木工事には震災と原発事故で家や職を失った一家の父親や息子が従事し、東北沿岸部の復旧、復興が遅れるのではという懸念もありました。

 


多くの人々が希望のレンズを通して6年後のオリンピックを見ているからこそ、わたしはそのレンズではピントの合わないものを見てしまいます。

「感動」や「熱狂」の後先を…

 

 

 

さて、この6年後、新型コロナ感染パンデミックのため、

東京五輪が延期されことになると誰が思っていたでしょうか。

 

 

 

私はこの小説を読んで、1982年から1999年に住んだ浅草のことを思い出しました。

ちょうど、バブル全盛期と終焉期でした。

 


自社ビルの目の前にある花川戸公園にもいくつもの立派なブルーハウスがたっていました。

そのひとつ、うちから一番近くのブルーハウスの住民は毎日、

ハウス周辺から始め、公園内の掃き掃除をし、

籠でカラスも飼い始め、時折、キーボードで演奏もしていました。

地元の人間とのトラブルを好まず、温厚な方で、そのうち顔馴染みになって、

挨拶も交わすようになりました。

私はおじさんの事を知りたくなりました。

商家のヨメである私が「取材」をするわけもいかず、

会社の事務室からよく見えるブルーハウスのおじさんを毎日見ながら、

私はただ想像するだけでした。

 


そして、親しげに声をかけるおじさんに、

具体的にどう接するよう、幼い息子たちに教えたら良いのかも、

わかりませんでした。

 

 

 

 

 

 

さて、その頃、上野公園内のテント部落を「パークヒルズ」、

隅田公園内を「リバーサイド」と呼んでいました。

そこには、かつて建築現場で働いていたプロが作る

見事な出来栄えのブルーハウスがたくさん並んでいました。

縄張りがあって、住み分けはきちんとされていて、

たまに新参者が間違えて場所を荒らして、

騒ぎになっているのが見て取れました。

 


皇室の方々が日光へ東武電車でお出かけになるとき、

本所吾妻橋下のブルーハウスは台東区側も墨田区側も一掃されます。

「特別清掃」の日だったわけです。

 


隅田公園は子どもたち良い遊び場でしたが、

ホームレスの方々の生活の場でもありました。

トイレや水飲み場で洗濯や水浴びもしていました。

こんな光景は日常です。

 


ある時、公園で遊んでいた3才くらいだった長男がバナナを一本持って、

次男をベビーバギーで寝かしつけていた私のところへ帰ってきました。

 


「あら、どうしたの?バナナ…」

お船のおじさんにもらった」

お船のおじさん…以前、実際に使っていて、

今は遊び場となっている屋形船に住むおじさんです。

「知らない人にものをもらってはダメよ…」と、

バナナを息子の手から取りながら、

ふと、おじさんは故郷にいる孫のことを思い出して、

この子にバナナをくれたのかなあと思ったりもしました。

 


また、地元浅草小学校PTAクラス役員を6年間引き受け、

私は72回、廃品回収しました。二天門の回収場所では、

たまに誰かが集めたダンボールや、空き缶の山を

持っていってしまうこともありましたが、

縄張りのホームレスの方は私たちが集めたものを

他の誰かが持っていかないように見張ってくれて、

段ボールのまとめ方も教えてくれました。

 


花やしき前で食堂をしているお友達は、

ホームレスの女の子と一緒に遊ぶ娘をどうしたら良いものかと、

考えこんでいました。

その子は出生届もないので、学校にも行っていませんが、

ホームレス同士でよく面倒を見ているようで、

情緒的に落ち着いたとても優しい女の子で、

いつの間にか仲良くなったようでした。

学校にも行ってない子がいることを、

自然に理解する下町の子の強さがありました。

 


浅草の老舗の飲食店は、ホームレスの方々が食べることができるように、

残飯を綺麗に店裏に置いていました。

そう、不思議に共存してました。

 

 

 

 

 

 

あの頃から比べると、ブルーハウスは減ったのかしら…?

あの頃とは違う形の「ホームレス」になっているのかしら…?

 

社会情勢はより過酷になって、

そう上に新型コロナ感染拡大。

 

 

 

いつまた緊急事態宣言が出るか、

わからなくなってきました。

自粛生活はいつまで続くのかしら。

 

いざという時には誰も助けてくれない…?

希望の光も見えない…?

 

こんな時…だから…?

いえ、こんな時だから…こそ…‼︎

 

どうしたら良いのでしょう…
答えはいくつもあるはず。

それを考えないと…と

 

 

 

そして、私はAmazonから届いたばかり本を手にしました。

桐野夏生さん『日没』

 

そして、あっという間に読み終えてしまいました。

続けてブログを書きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

NO.206 一遍上人(最終章) 終焉の地 神戸へ

f:id:tw101:20201230134916j:image真光寺観音堂

 


1289年7月中旬の頃、体調が悪化した一遍上人は死期を察して、

大和田泊(兵庫県神戸市)の観音堂(現在の真光寺)に入りました。

 


8月10日、「一代聖教みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」と、

持っていた書籍を全て燃やしてしまいました。

そして、8月23日、朝の念仏を唱えていた最中に51歳の生涯を閉じました。

 


一遍は遺戒で後追い自殺を禁じていたにもかかわらず、

7人が入水自殺をしてしまいました。

リーダー格の他阿も念仏を唱えて餓死をしようとしますが、

近くにいた領主が聞きつけ、自殺を思い留めさせました。

そこで、他阿は生きて、遊行を続けることになり、

時宗へと発展していくのでした。

 


栗原康先生の「死してなお踊れ」の最後の文を紹介します。

 


わが屍をのに捨て、獣にほどこすべし。教信と同じように、究極の慈悲を実行したい。畜生に食われて、畜生になる。さいごのさいごまで、ひとでありながら、ひとをこえようとしたのである。でも、ざんねんながらそうはならなかった。在家の人たちが、一遍を供養させてくれといってきたのである。遺言どおり、まかせることにした。どんなかたちであれ、屍体のつかいかたに執着してはいけない。観音堂のまえの松のしたで、一遍上人を荼毘にふした。お墓は五輪塔で、石造りの玉垣に囲まれている。簡素なもんだ。そのとなりに、ちっちゃな御影堂をたてている。『一遍聖絵』をみるとおもしろくて、荼毘にふした松の木から、ふわっと煙がたちのぼって、それをおって目を左にむけると、お墓と御影堂がみえてくる。しかもすごいことに御影堂の中には、ドーンッと一遍上人がたっているのだ。もちろん御影堂の中に一遍上人像がおかれたということなのだろうが、絵をみるかぎり、どうみても本人にしかおもえない。わたしなどは『一遍聖絵』の実物をみにいったときに、友人といっしょに「うわあ、一遍上人が生きかえった‼︎」と歓声をあげてしまったほどだ。マジである。ぜひ、絵をみてもらいたい。

 じゃあ、その絵にこめているおもいはなんなのか。そのへんは、さいごの聖戒のことばから察することができる。一遍を火葬して、たちのぼる煙をみあげながら、みんなこうおもったという。さびしい。もういちどでいい、もういちどだけでいいから、あのときのあのひとのあの声がききたい。これはなにかムリなことでもいっているのだろうか。そんなことを考えているうちに、ふとどこからともなく、なむあみだぶつという声がきこえてきた。ナムナムナムナム。気づけば、念仏の大合唱だ。セミのように無尽蔵にわきあがってくるその声が、だれの声なのかもわからない。そういえば、一遍の声もこんなかんじじゃなかったっけ?復活だ、うたえばいつもよみがえる。衆生をすくえ。われひとりももらさじと、どうせかなわぬはかない夢ならば、散って狂って捨て身で生きろ。死んだつもりで生きてみやがれ。フオオオオ、フオオオオオオ‼︎!

うたえ、おどれ、はねろ、ふるえろ。ところかまわず、泣きさけべ。仏だ、セミだ、チクショウ、チクショウ、チクショウ。いくぜ、極楽。虫けら上等。泣いて、泣いて、泣いて、虫けらになりてえ。チクショウ‼︎…

 


JR兵庫駅からタクシーで5分ほどで真光寺に着きました。

清められた境内を歩き、社務所に行き、

「こんにちは。」と声かけますと、中から御住職さんがお出ましになりました。

一遍上人のことを調べています。」と簡単な自己紹介をしながら、

これまでのブログをお見せしました。

最初は戸惑いがちな表情をされていた住職さんも、

次第に打ち解け、一遍上人の話しをしてくださり、

一遍上人のお墓に案内してくださいました。

あ、あのあたりに松の木が…

では、あそこで荼毘にふされたのか…などと

一遍上人の最後の時を思いながら、お話を聞いていました。

 


すると、住職さんは

阪神淡路大震災のときにね、あの塔が倒れてしまってね。

私はその時、東京にいたので、飛んきましたが、大阪から先へいけなくてね。

漁船でここまで来ました。

倒れた塔から一遍上人のご遺骨がこぼれ出ていて、

それを納めたのだけどね、まとめた時にご遺骨の一部がハンカチについてね、

どうしたものかと思ったけそ、後に学生連れてインドに行く際にお持ちして、お納めしたんですよ」と

おっしゃっいました。

 

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f:id:tw101:20201231073920j:image松の木があったところです。
f:id:tw101:20201230135730j:image御廟所 
f:id:tw101:20201230135013j:image無縁如来
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ご住職さんの長島尚道さんは大正大学で教鞭をとられた、

時宗教学研究所長でいらして、一遍上人研究の第一人者の方です。

その上、大正大学で尚道先生と出会い、

長島夫人となられた和代さんは、明治学院大学院で福祉を学ばれました。

当時は福祉の大学院は明治学院にしかなかったそうで、

私が大学の福祉学科の後輩だと知って、

親しく書庫に連れていってくださり、

ご自身の卒論まで見せてくださいました。

 

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思わず、私が「マリゴールドの魔法」というNPOを立ち上げたいという夢を語ると、

「大丈夫、できるわよ。私は12の保育園と社団を2つ立ち上げたのよ。

大丈夫、簡単。簡単。頑張って。」とエールを送ってくださり、

共著作の「子育て支援」〜子どもの最善の利益を護るために〜という専門書をくださいました。

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なんという展開でしょう!と驚きつつ、

明治学院といえば、賀川豊彦先生。

日本のソーシャルビジネスの草分けで、尊敬してます」と言ったところ、

なんと、なんと、

「あら、賀川豊彦先生はすぐそこで生まれたのよ!」と和代先生。

「ええええええ⁉️」と驚く私に、

長島住職は生誕の地を地図で描いてくださいました。

 


一遍上人のことを書いてきましたが、

今日、終焉の地に来れたので、ピリオドとしたいと思います。」

と最後に挨拶すると、

「熊野に行きなさい。」と一言。

ああ、やっぱり熊野ね…と、

私の思いは一遍上人トランスフォーメーションの地、

熊野へ飛んで行きました。

 


旅はまだ続くというわけです。

 

 

 

この場所が海に近いということを実感する冷たい風が吹く中、

賀川豊彦先生生誕の地へ歩いて行きました。

賀川先生は1888年

回漕業者・賀川純一と徳島で芸妓をしていた菅生かめの子として生まれました。

4歳の時に相次いで父母と死別し、

徳島で血の繋がらない父の本妻と祖母に育てられますが、

「妾の子」と周囲から陰口を言われるような孤独な幼年時代を過ごしました。

 

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大宅壮一賀川豊彦の追悼文の中でこう言っています。

大衆の生活に即した新しい政治運動、社会運動、組合運動、農民運動、協同組合運動など、およそ運動と名のつくものの大部分は、賀川豊彦に源を発していると云っても、決して云いすぎではない。近代日本を代表する人物として。自信を誇りをもって世界に推挙しうる者を一人あげようと云うことになれば、私は少しもためらうことなく、賀川豊彦の名をあげるだろう。かつて日本に出たことはないし、今後も再生産不可能を思われる人物ーー、それは賀川豊彦である。」

 


一遍上人終焉の地に近いこの場所で生を受けた豊彦君は、

真光寺の境内で遊んでいたのではないでしょうか…。

記憶もあいまいなほどの幼い心に

一遍上人の「大衆を愛する心の種」が撒かれていたのかもしれない…。

ソーシャルビジネスの草分けの賀川豊彦先生に、

一遍上人がつながっていたとは…

 

 


私の夢と希望は来年も、また再来年も、

そのまた次の年、次の年へと

ご縁をいただいた方々と

一緒に叶えていきたいと思います。

 

 

 


 2020年 お付き合いくださり、ありがとうございました。

お一人おひとりが健康を支えられて、

素晴らしい年を歩むことができますようにお祈りします。

 

来年もよろしくお願いします。

 

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ずっと、いつも一緒にいる歓喜童子たち…

ありがとう。

 

 

 

 

NO 205 一遍上人⑩ 《いざいざ、京都へ…》





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2020年が静かに暮れていきます。

新型コロナ感染予防に明け暮れた1年でした。

取り巻く環境は大きく変わり、失ったものもありましたが、

人生の意味を省みる良い時間にもなりました。

一遍上人と運命的な出会いをした2020年晩秋、

GOTOトラベルを使い京都、神戸に訪れました。

 


一遍上人と染殿院》

さて、時は1248年。

46歳になった一遍上人は4月16日、四条京極釈迦堂に入ります。

現在は京都市中京区新京極中之町にある時宗のお寺染殿地蔵となっています。

一遍聖絵』には踊り屋を作って踊り念仏を披露している図が見て取れます。

身分の貴賤上下もなく、すさまじい人数が押し寄せる大盛況で、

見物にやってきた貴族の牛車が、引き返すこともできないほどの

無茶苦茶な賑わいでした。

ここぞとばかり一遍は念仏札を配ります。

お坊さんに肩車をしてもらって、上から念仏札を撒きます。

我も我もと手を伸ばす人たち。結縁につぐ結縁。

来ている人以上に一遍もものすごい高揚感に満ちていたことでしょう。

 


染殿院へ新京極にある有名な甘栗屋さんの脇から入りました。

弘法大師空海により808年により創建された染殿院は

安産を守る寺院と呼ばれています。

子宝に恵まれない文徳天皇のお后が

「四条の寺院に御利益のある地蔵菩薩が安置されている」と聞き、

願掛けを行ったところ、満願の日に懐妊の兆候があり、

時満ちて男の子を出産をされました。後の清和天皇です。

お后は染殿皇后と呼ばれていたことから、

地蔵菩薩は「染殿地蔵」寺院は「染殿院」と呼ばれ、

安産を守る寺院として全国へ広まっていきました。

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一遍上人が京都に行き、染殿院に真っ先に入ったのも、

そこが市中の人たちの信仰に対象となっていたからではないかと思えるほど、

地域に根ざした寺院でした。

 


《平家ゆかりの長楽寺》

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さて、祇園町の賑やかな通りから、

八坂神社を抜けて、円山公園の奥へと歩いていくと、

静寂な空気に包まれます。

晩秋の京都の紅葉はまだまだ美しい色合いをとどめていてました。

805年桓武天皇の勅令によって創建され、

天台宗比叡山延暦寺の別院として建てられましたが、

その後、時宗に改まりました。

壇ノ浦の戦いで平家が敗れたとき、平清盛の娘で、

安徳天皇の生母であった建礼門院も幼い安徳天皇と共に入水しますが、

源氏の兵士に髪の毛を絡みあげられ、助けられました。

そして、29歳で出家し、御仏にすがり、亡くなった愛する人たちの供養して過ごします。

高校生の時、古典の授業で読んだ「建礼門院右京太夫」を思い出しながら、

お墓に頭を垂れました。

 

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竹林を通り、さらに奥へ進んでいくと、ぱっと視界が開け、

京都市中が見晴らせる素晴らしい景色が広がっていました。

 

 

 


時宗初期歴代上人像八体が並ぶ中に、運慶の作風を伝える一遍上人の立像がありました。

ああ、また会えましたねと声をかけたくなるお顔でした。

 

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《女人往生の寺 誓願寺 和泉式部 誠心院》

 

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海外からのお客様がいない京都は、

和服姿の日本人女性が目立ちました。

有名な観光地には人出も多いのですが、

ちょっと外すと本当に静かで、ゆっくりと見て周ることができます。

ここ誓願寺も新京極に街中にあり、

平安時代の有名な二人の女性作家、

清少納言和泉式部極楽往生しているお寺です。

清少納言はあまりにも有名ですが、

和泉式部紫式部に比べてやや地味に見えますが、

冷泉家の皇子兄弟とも熱烈な恋愛関係に陥るなど、恋多き女歌人でした。

天性の美貌と歌才に恵まれた和泉式部でしたが、

最愛の娘に先立たれ、誓願寺で仏の道を求め、髪を切り尼になりました。

「女人往生」のお寺なので、恋に悩む女性も多く訪れるようです。

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和泉式部の歌碑 

「霞たつ 春きにけりと この花を 見るにぞ鳥の声もまたるる」

 

 

また、世阿弥の作と伝えられている謡曲誓願寺』は

和泉式部一遍上人が縁起と霊験を物語り、和泉式部が歌舞の菩薩となって現れることから、

芸能の世界に人たちが扇子を奉納するようになりました。

また、ここから落語も始まったそうで、庶民に愛されるお寺だと思いました。

 


 『京都時宗道場《御朱印》巡り』には16寺院が掲載されています。

「道場」とは古くは「さとりの場」「修行の場」でありました。

浄土門では念仏三昧の場として「念仏道場」が置かれたゆえに、

時宗では「道場」と呼ばれる寺院が多いということがわかります。

 

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 一遍上人は市屋道場と呼ばれた金光寺に長く滞在し、

高床式の踊り屋をたて、遠くからでも見物できるようにしました。

道場の周りには貴族、武士、坊主、尼僧、庶民があふれかえり、

ボロをまとった貧民もたむろしていました。

おそらく、炊き出しをしたおこぼれに与ろうと噂を聞きつけてやってきたのでしょう。

みんなで踊って、食べて、念仏唱えろ!

 


市場道場を離れ、桂、現在の京都右京区に移った一遍は病に倒れ、

3ヶ月ほど、桂にとどまり、養生します。

連日連夜踊りまくっていた疲れも出ていたのでしょう。

すっかり寝込んでしまいましたが、ゆっくり思索する時間を持ちました。

 


久しぶりに栗原康先生の「死してなお踊れ」から引用させていただきます。

 


愛のためだとか、信心のためだとかいって、自分の利益を満たそうとするのはもうやめよう。やればやるほど、自分がそれにとらわれてしまって、生きにくくなってしまう。

 どうしたらいいか。一遍はこういっている。たいせつなのは無念だ。なにものにもとらわれないこころ、ただそれだけなんだと。財産なんてどうでもいい、見返りなんてどうでもいい、迷惑がられたってかまわない。ただ相手にしてあげたいとおもったことをやってしまえばいい。いつだって、仏のこころはおせっかいだ。おもったことは、捨て身でやれ。一心不乱に身を捨てひとを愛しても、なにかもどってくるだなんておもわないで。それがひとをおもい、仏をおもうということだ。アミダの慈悲の芽みたいなもんだといってもいいだろうか。その芽は、わたしたちの日常生活のあらゆる場に遍在していて、しかもけっしてなくなってしまうことはない。ありふれた生の無償性。そろそろ、その花をさかせましょう。さけべ、うたえ、おどれ、あそべ。おのれの神(たましい)をふるわせろ。死んだつもりで芽吹いてみやがれ。いますぐ散ってもかまわない。三千世界、いちどにひらく梅の花。一丸をなって、バラバラに生きろ。…

 

 

 

この年末年始、会いたい人たちにも会えず、

おとなしく家にいることになりそうです。

思索をするには良い時です。

 

みなさま、良い時間を過ごしてください。

 

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やっぱり京都はいいですね〜

 

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NO.204 《うるわしの白百合 制作秘話》

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NHK朝ドラ「エール」が佳境に入ってきました。

衝撃的な恩師藤堂先生の戦死が描かれた戦時下篇は

豊橋空襲で何もかもが瓦礫と化した焼け跡を彷徨いながら、

讃美歌「うるわしの白百合」を歌う薬師丸ひろ子さんのシーンが

ハイライトとなりました。

 

モンペ姿の薬師丸ひろ子さんが

大好きだった祖母の姿と重なり、

ウルウルしながら見ていました。

 


この場面は素晴らしいと多く賞賛の記事が掲載されていましたが、

「エール」で描かれるキリスト教を監修されている

立教大学 西原先生がご自身のFBで、このシーンにまつわる秘話を書かれました。

とても素晴らしい文で、感動し、

ブログに引用掲載することをお願いしたところ

快く応じてくだいました。

長いので、抜粋を…とも思いましたが、

それでは意味がないので

全文掲載させていただきます。

 


【長文です】

 


本日(2020年10月16日)放映された、NHK連続テレビ小説『エール』で、薬師丸ひろ子さんが絶唱された賛美歌「うるわしの白百合」は、心が震えるくらいに素晴らしかった。視聴されたみなさんも、感動されたのではないだろうか。私もキリスト教考証者として、この場面の提案時から、実際のNHK渋谷スタジオでの収録まで、演技指導も含めて関わることができたことを、本当に幸いであったと思う。

 


6月28日に、NHKのディレクターから、「薬師丸ひろ子さんから、チーフプロデューサー宛てに、第18週の90回(金曜回)豊橋の空襲後のシーンについて、焼け野原の自宅前で昔を回想しながら歌う歌として「うるわしの白百合」を歌うのが適当であるか、西原先生にご確認いただきたいというご質問がありました。マネージャーさんからのお尋ねと90回の台本を添付いたしますので、ご確認いただき、ご回答いただけると幸いです」という連絡を受けた。すでに各種メディアで、脚本も執筆したチーフ演出の吉田照幸監督が語られているように、当初の台本では、薬師丸ひろ子さん演じる光子が、「戦争の、こんちくしょう!こんちくしょう!」と唸りながら地面を叩くシーンであった。薬師丸さんは、ここは地面を叩くのではなく、何か歌を歌えないか、過去を回想するのに「菜の花」を口ずさむのはどうかと思ったが、賛美歌の「うるわしの白百合」がその場面に適当であるか、百合はキリスト教では復活を意味するらしいが、そのあたりを含めてキリスト教考証の西原に検証頂きたいのと、その様なことでも良いのかチーフプロデューサーに聞きたい、とのことであった。

 


私は早速、以下のように応答させていただいた。「ご連絡ありがとうございました。薬師丸ひろ子さんからのお尋ねですが、大変素晴らしいアイデアだと存じます。「うるわしの白百合」ですが、今回の「敗戦」の知らせを聞いた光子のさまざまな思い、ことに「復活」「新たな<いのち>の再生」を願って、また、自身のクリスチャンとしてのアイデンティティを、何にも規制されることなく<謳う>ことができるその思いを表現するという意味でも、ぜひ、薬師丸ひろ子さんのご提案が実現できることを私も期待しております。このようなご提案をされる薬師丸ひろ子さんに、正直、あらためて感激いたしました。関内家は聖公会という設定でしたが、「うるわしの白百合」は聖公会の『聖歌集』にはなく、日本基督教団の『讃美歌集』に収録されたものです。しかしながら、ミッションスクールをはじめ、広くキリスト教関係者の間で親しまれた歌ですので、光子が愛唱していたとしても不思議ではありません。「うるわしの白百合」は現在の『讃美歌』496番(1954年発行)で、その譜の下にある〔509〕という記載は、1931年(昭和6年)版『讃美歌』の「該当讃美歌番号」です。『讃美歌略解(後編・曲の部)』によれば、「この曲の出典は不詳。音楽的に価値の高い曲ではないが、わが国で広く愛唱されているので、この版に残された。原曲は前半の16小節に記譜法上了解し難い点が多かったので、原作曲者の意図をできるだけ尊重しつつ、小泉功が全般的に譜を書き改めた」(290頁)とありますので、おそらく1931年版に、原曲に近い形で同曲が収載されていたのではないかと予想できます。ですので、敗戦時に「うるわしの白百合」が歌われたとしても問題はないと存じます。取り急ぎまして、以上、どうぞよろしくお願いいたします。西原廉太」

 


その後、さらに調べた上で、以下の補足をお送りした。「1931年版『讃美歌』にもしっかりと「うるわしの白百合」が収録され(第509番)、歌詞もほぼそのままであることが確認できました。大正から昭和初期に、とりわけ女子学生の間で愛唱されたようです。しかし、19世紀にアメリカで創られたこの曲は、宗教的内容が乏しい、音楽的にも価値が高くないとの評価で、早くからアメリカの歌集からは姿を消してしまいました。多く愛唱されているという理由などで、日本だけに生き残ったもので、1954年版『讃美歌』集でも「雑」という項目に分類されていました。1997年に『讃美歌21』が発行された時に、そのような理由から残念ながら消えてしまった賛美歌のひとつです。おそらく高齢の方々には懐かしく思われる方も多いと思います」

 


このような経緯で、急遽、この場面は、台本通りではなく、薬師丸ひろ子さんが「うるわしの白百合」を歌われることとなった。NHKの段取りでは、光子が関内家の焼け跡を茫然と彷徨い、歩いている時に、焼け果てた柱や床の下から、焼け焦げた、『竹取物語』の本や、子どもたちの懐かしい書物を拾い上げるのだが、その中に、聖歌集を見つけ、光子がそれを開いた時に、そこに「うるわしの白百合」の歌があり、剥き出しになった基礎の上に座って、歌い始める、というものであった。

 


ここで私が悩んだのは、先述した通り、関内家は聖公会という設定であり、歴史的には、「うるわしの白百合」は聖公会の『聖歌集』にはなかった、という点である。そこで、私は、以下のような設定をNHKに提案した。<光子は、名古屋にある1889年創立の金城女学校の卒業であり、学校で良く「うるわしの白百合」を歌い、親しんでいた。光子が焼け跡で拾い上げたのは、日本聖公会『古今聖歌集』ではなく、金城女学校時代に彼女が大切にしていた『讃美歌集』だった>。

 


日本聖公会中部教区司祭の聖公会信徒の祖母は、金城女学校卒であり、「うるわしの白百合」は実質的に「第2校歌」として愛唱していたという。また、日本聖公会の信徒の中にも、「うるわしの白百合」を故人愛唱聖歌と指定される方は少なくない。したがって、光子が、「うるわしの白百合」に親しんでいたことは、何の不思議もない。ただ、1945年当時にミッションスクールで用いられていた学校讃美歌集を見つけるには至らなかったため、当時、実際に使用されていた、「日本日曜學校協會」編纂の『日曜學校 讃美歌』を参照して、私が、現在、理事長を担っている、日本のすべてのプロテスタント系ミッションスクールが加盟している「キリスト教学校教育同盟」の前身である、「基督教教育同盟會」が編纂した『基督教學校 讃美歌』が存在したこととし、NHKの美術スタッフに急遽、製作を依頼した。NHK美術スタッフは、僅か2日で、添付の写真のような見事な『基督教學校 讃美歌』を作ってくださった。しかも、絶妙な範囲を焼け焦げた状態にしてくださった。薬師丸ひろ子さんが、歌いながら手にされているのが、この『基督教學校 讃美歌』である。実際の放映では、このクローズアップ映像は使用されなかったが、テレビ画面に映り込まないアイテムであっても、これほどの細かな設定と準備が為されていることを、理解していただけるとありがたい。

 

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さて、薬師丸ひろ子さんの「うるわしの白百合」のシーンは、7月3日、NHK渋谷スタジオで収録された。当日、私は、薬師丸さんの演技指導ということで、収録に立ち会った。前室で、私が、薬師丸さんに、どうして、この賛美歌をご存知なのかと尋ねたところ、ご出身の玉川大学の礼拝で良く歌われ、とても親しまれていたとのことであった。事前に、私は、「うるわしの白百合」の2節部分のみを歌われることを提案していた。15分という放映時間の中で、常識的に考えても、薬師丸さんの歌唱部分の尺は相当短いはずだと認識していたからである。もし一部(一節)ということであれば、台本のイメージを踏まえても、2節が相応しいと考えた。「かぎりなき/いのちに/さきいずる/すがたよ」という詩は、前日までに繰り広げられるインパール作戦豊橋空襲という「絶望的な死」を悲しみながら、しかし、未来への限りない「いのち」を願うという意味でも、感動的ではないかということ、また、これは私のある意味、偏見でもあったのだが、1節の「イエスきみの/はかより/いでましし/むかしを」という、ダイレクトにキリスト教の中心的教理を表現する詩を、公共放送としてのNHKが放映するのには躊躇があるのではとも想定したからである。ところが、薬師丸ひろ子さんは、1節と2節すべてを完璧に暗唱されて来られてきた。また、この「うるわしの白百合」という賛美歌は、アカペラで歌うのはかなり難しい曲である。しかし、歌唱指導の小菅けいこ先生と共に、修正の指導をさせていただいたのは、僅か1音、1文字であった。小菅先生とは収録後、さすがにプロフェッショナルですね、と感嘆し合った次第である。

 


いよいよ薬師丸ひろ子さんの撮影が始まり、薬師丸さんは、最初は静かに「うるわしの」と歌い出され、そして2節に入ると、歌は高揚し、最後はまさしく「絶唱」であった。監督の「カット」がかかっても、広いスタジオは深い沈黙に包まれたままであった。私の隣でモニターを見つめていた、若いスタッフたちが、目を真っ赤にしながら泣いていた。私も、胸が締めつけられながら、涙が溢れて止まらなかった。吉田監督が、「薬師丸さんが体現する悲しみと、そこから立ち向かわなくてはいけないという力強さを歌から感じたので、もうドラマじゃなくなっているなって思いました。みんなそれぞれが何かを感じ振り返る時間になっていて、それを(朝ドラの尺の)15分の中でやることに勇気と迷いはありましたけど、さすが薬師丸さんだなって」と証言されている通り、その現場は、もはやドラマではなかった。

 


新型コロナウイルス感染症蔓延と、それに伴う収録中止、放映中止、10話分カットという、『エール』収録開始時には想定もしていない異常事態に直面し、収録再開後も、極限の感染対策で神経を擦り減らす中で、それでも、良質のドラマを創り上げたいという、『エール』制作陣、一人ひとりの中に、薬師丸ひろ子さんの「うるわしの白百合」の歌は、深い深いところで響いたのだろうと思う。私は、収録直後の前室で、薬師丸ひろ子さんに心からの感謝の思いを伝えると同時に、土屋勝裕チーフプロデューサーに、「この場面は間違いなくNHK朝ドラ史上の名場面になるのではないか」と声をかけたが、本日の放映で、ただの1秒もカットされることなく、1節、2節、すべてが歌われた薬師丸ひろ子さんの「うるわしの白百合」は、確かに、歴史的な「名場面」となった。

 


薬師丸ひろ子さんの「うるわしの白百合」が持つ意味は、観た者それぞれにとって違うだろう。そもそも、「うるわしの白百合」という賛美歌は、イースター、復活を謳う歌である。戦争・死・暴力という「死」と「絶望」。それを悲しみながら、しかし、ただそこに留まるのではなく、未来の平和・生・人間の尊厳という「いのち」と「希望」を願い、告げることの大切さ。そこには「死」から「復活」へという、神学的なメッセージが通奏低音のように流れている。自分が作曲した歌に鼓舞され、予科練兵として戦地に赴き戦死した弘哉君の壊れたハーモニカを前にして、「音楽で人を戦争に駆り立てることが、ぼくの役目なのか」「若い人の命を奪うことがぼくの役目なのか」と自問しつつ、ついには「ぼくは、音楽が憎い」と呟く古山裕一。その絶望的な呟きに対する、見事な応答こそが、光子の「うるわしの白百合」なのではないか。本当の『エール』とは何かを、音楽の本当の力を、光子は、裕一や音、そして華、残された、これからの世代の未来を覚えて歌ったのではないか。否、「祈った」のではないだろうか。

 


また、光子はキリスト者として、戦中、特高からも監視される中、礼拝をすることも、地下のような場で、ひっそりとせざるを得なかった。戦争が終わり、今、光子はようやく、声高らかに、自分の大好きな愛する聖歌を歌うことができる。また、十字架も堂々と、身につけることができる。そのことの喜びは間違いなく大きなものであった。しかし、豊橋空襲で、愛した教会もまた焼け落ちたに違いない。事実、日本聖公会中部教区「豊橋昇天教会」は、関内家が焼失した同じ日の、1945年6月19日の空襲で全焼した。現在の「豊橋昇天教会」は、 1949年11月3日に再建されたものである。

 


その光子が首から下げていた十字架であるが、一目して「ロザリオ」だと分かる。「ロザリオ」は、カトリック教会信徒が大切にするものであり、聖公会も含めて、プロテスタントの信徒が持つことは基本的にはないし、カトリックの方々は祈りに用いるが、首にかけることはない。実は、この光子のロザリオは、『エール』収録開始時からNHKが準備されていたもので、関内家の仏壇前に特設された安隆の遺影横に置かれていた。当初から私も、聖公会家庭には馴染まないので、気にはなっていたのであるが、それほどクローズアップされないということもあり、光子が、かつて親交のあったカトリックの友人から譲り受けたもので、光子はそれを、「ロザリオ」としてではなく、首にかける「十字架」として愛用していた、という設定にしていただいた。昨日放映された、火災現場に梅を救いに行こうとする光子のシーンの撮影本番直前に、薬師丸ひろ子さんが、私のもとに来られて、首にかけて良いでしょうかという質問をされた。確かに、手にロザリオを持ちながら梅を探すのは無理であること、また、光子は聖公会でありカトリックではないので、むしろこれを「ロザリオ」として用いるのではない方が良いとの咄嗟の判断で、「そのようにしていただいて結構です」とお答えした次第である。今後の『エール』の中でもこのロザリオは登場するが、決して「ロザリオ」という名称では表現されない予定である。

 


「うるわしの白百合」を歌い終わった薬師丸ひろ子さんが、ゆっくりと、しかし、優しく十字架をその手に包む美しい場面があったが、それは事前に、私と薬師丸さんとで相談させていただいた姿である。それは、世を去ったすべての人の魂と、いま生きるすべての<いのち>を優しく包む「祈り」に他ならない。このような「祈り」を見事に表現された薬師丸ひろ子さんと、また、制限のある中にあって、その「祈り」を静かに、そのままに届けてくださった『エール』の制作陣のお一人ひとりに、あらためて、心からの感謝を伝えたい。

 

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祖母は、リベラルな考えを持っていた人でした。

母は父の経営する料亭の女将をしていたので、

夕方から居なくなってしまい、私は祖母に面倒を見てもらっていました。

寝る前にしてくれた話の中で戦争中の話がありました。

 

「戦争、怖かった?」

「そりゃ、怖かったさ、横浜の空襲で、うちにも爆弾が落ちて、みんな燃えたんだよ」

「戦争、嫌いだなあ」

「そうだね。おばあちゃんも戦争は嫌だったよ。

爆弾も怖いけど、人の心がもっと怖かったよ」

 

私はまだ小さかったのに、

祖母の、この言葉はなぜか、記憶に残っています。

「みんな同じでないといけない」という考えに違和感があるのは、

「おばあちゃんの教え」だったのかもしれません。

 


祖母は「うるわしの白百合」と「山路越えて」が好きで、

よく子守歌代わりに歌ってくれました。

 

 

 

戦時中の監視社会…爆弾より怖かった人の心。

祖母の言った、その意味が、今よくわかります。

「二度と戦争をしない国」憲法9条を学んだ時、

私は心底、日本に生まれてよかったと思いました。

 


モンペ姿で働く祖母の姿が薬師丸ひろ子さんの姿に重なった時、

私は孫たちの世代に何を残していけば良いのかと考えずにはいられませんでした。

 

隣組のあった監視社会なんて、絶対にいやですよね。

 

感謝をもって生きる感謝社会を作りたいと思った朝でした。

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NO.203 小栗判官照手姫物語

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昨日は「敬老の日

朝晩に涼しい風も吹き、

待ちわびたお出かけをしたくなる思いは誰も同じ…

久しぶりに行楽地も賑わった一日でした。

渋滞する横浜新道を抜けて、藤沢遊行寺に行ってきました。

 

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時宗総本山である遊行寺境内の北東に長生院という小さなお寺があります。

古くは閻魔堂と呼ばれていましたが、

照手姫に中興され、「長生院」と改称したと伝えられています。

 

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江戸時代には、『小栗判官伝説』が流布されて、

歌舞伎にもなっているほど有名な話となっていました。

安寿と厨子王物語」と並び称されるお話ですが、

私はほとんど知らなくて、

今回、改めてストーリーを読みました。

 

 

 

いくつかのバリエーションがありますが、これは長生院に伝わるお話です。

 


 昔、常陸の国、真壁郡小栗(現真壁郡協和村)に、

小栗満重という大名がおりました。

応永(1394〜1427)の頃、当時関東管領として関東を治めていた足利持氏に謀反の疑いをかけられて、攻め落とされてしまいました。

満重は、わずか10人の家来を連れて三河の国(現愛知県)に落ち延びていきました。

その途中、相模の国郷土横山大膳の家人に誘われて、しばらく大膳の館に留まっていました。

 


両親と早くに死に別れ、訳あって大膳の館で妓女をしている照手姫と恋に落ち、

夫婦になる約束をしました。

 


横山は、実は旅人を殺して金品を奪う盗賊で、何も知らずに立ち寄った満重を格好の獲物と殺害する様子を見計っていましたが、

10人の屈強の家来を相手にするには、勝ち目もなく、手をこまねいていました。

やっと、策を練り、人食い馬と言われる荒海「鬼鹿毛」にのせて、殺そうと企てます。

 

ところが、馬術の達人である満重は難なく荒馬を乗りこなしてしまい、計画は失敗しました。

 


次は酒盛りを開き、毒入の酒で毒殺を企みました。

知らずに酒を飲んだ満重主従は命を落とし、11人の屍は上野原に捨てられてしまいました。

 


その夜、藤沢遊行寺で、大空上人の夢枕に閻魔大王が現れ、「上野原に11人の屍が捨てられている。満重一人を蘇生させられるので、熊野の湯に入れて、もとの身体に治すように力を貸せ」と告げました。

すぐに上人は上野原に行ってみると、11人の屍があり、お告げのとおり、10人の家来は事切れていましたが、満重だけはかすかに息がありました。上人は家来たちを葬り、満重を寺に連れて帰りました。

 


上人は閻魔大王のお告げにしたがい、「この者は、熊野の湯に送る病人である。一歩でも車を引いてやるものは、千僧供養に勝る功徳を得よう」と書いた札を満重の首にかけ、引車にのせ、熊野へ送り出しました。

藤沢から紀州の熊野まで、大勢の人々が車を引いて送ってくれたおかげで、満重は熊野に着き、熊野権現の霊験と温泉の効き目で元の身体に戻りました。

 


一方、照手姫は、満重が毒を盛られた後、密かに横山の館を抜け出しましたが、追手につかまり、川に投げ込まれてしまいました。

しかし、日頃信心している観音菩薩のご利益で、海に流れ、金沢六浦の漁師に救われ一命をとりとめました。

ところが、美しい照手姫に嫉妬した漁師の女房は、姫を松の木に縛りつけ折檻し、松葉でいぶしたりしていじめ抜き、挙句に人買いに売り飛ばしてしまいます。それでも照手姫は満重を思いながら健気に生き抜いていきます。

 


さて、身体の癒えた満重は一族の住む三河に行き、力を借りて京都の幕府に訴えます。生死の境から蘇ったことは稀有の仏徳であるとして、満重は常陸の領地を与えられ判官の位を授かりました。

常陸に戻った満重は、兵を率いて横山大膳を討つと、遊行寺に詣り、上人にお礼をするろともに、亡くなった家来10人の菩提を弔いました。

 


そして、満重は美濃の青墓(現岐阜大垣市)で下女として働いていた照手姫を救いだし、晴れて二人は夫婦になり、常陸の国で幸せ暮らします。

時を経て、満重亡き後、弟の助重が領地を継ぎ、鎌倉に来た折に、遊行寺に参り、満重と家来の墓をたてました。

そして、照手姫も仏門にはいり、遊行寺内に草庵を営みましたが、永享元年(1429)長生院を建て、余生を静かに過ごしました。

 


この話は芸能取り上げられ、近松門左衛門『当流小栗判官』、

小栗判官車街道』等数多くかかれるようになりました。

 

例えば、

漁師の女房入り飛ばされた照手姫は美濃青墓の万屋の主人に買われ

常陸小萩」という名前を与えられ、下女づとめのきつい労働をさせられていましたが、

ある日、車に乗った餓鬼のような男を哀れ思い、5日の暇をとって車を引いていきました。

その男が愛する満重とも知らずに…

満重は自分の車ひいてくれた人々にお礼言って周る中で小萩を訪ね、

二人は再会するというストーリーとなります。さすが…

 

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説教浄瑠璃として語られるだけでなく、

歌舞伎・人形芝居として盛んだった「小栗もの」も

明治維新以降衰退の一途をたどり、人々から忘れたれていましたが、

現代になって見直されて、1991年初演のスーパー歌舞伎『オグリ』で一躍有名になりました。

遊行寺では遊行かぶき『小栗判官と照手姫ー愛の奇跡」が上演されるようになりました。

 

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一遍上人に魅せられて、

遊行寺に出かけたのは8月初旬のギラギラと太陽の照りつける日でした。

小栗判官照手姫のお墓があることは知っていましたが、

このお話がぐっと身近に思えたのは、

一遍上人にそっくりと思った舞踏家大野慶人先生のお嬢さんとランチをした時でした。

なんと、おじい様大野一雄先生が遊行寺で『小栗判官照手姫』を

上演されていた!と知ったとき、ブルっと身体が震えました。

 

YouTubeで探すと大野一雄先生の『小栗判官照手姫』がすぐに見つかりました。

https://m.youtube.com/watch?v=hBYc3CIwE64

 

https://youtu.be/93cPgMAM9e0

 

一つのことに集中すると、どんどん、どんどん繋がり、

興味はますます膨らんんでいくのです。

 

 

ベールに覆われた向こう側にあるものを、

ベールを取って知り得ることが面白くてなりません。

 


小栗判官と照手姫が生涯を過ごした常陸の国でなく、

ここ遊行寺菩提寺を建てた意味を噛みしめながら、

枝垂れ桜のしたにある照手姫のお墓に参りました。

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f:id:tw101:20200922120100j:image 小栗判官と家来のお墓
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神奈川県下には他にも照手姫ゆかりの場所があります。

相模湖町 美女谷 照手姫誕生の地

城山町 小栗公園 小栗判官屋敷跡

相模原市 上溝  照手姫産湯の湧き水、榎神社

金沢区六浦 専光寺 照手姫守本尊がまつられています。

⑤戸塚区俣野町 荒馬鬼鹿毛が飼われていたところ

 


興味をそそられます。

これからの季節、お散歩に良いかもしれません。

 

百日紅の花びらがハラハラと舞い、

季節は夏から秋へと確実に変わっていきます。

 

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NO.202 《ヴァイオレット・エヴァーガーデン》

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2度の公開延期となっていた

京都アニメーションの新作映画『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』が、

昨日18日、全国の劇場で公開初日を迎えました。

 

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コロナ自粛期間、私はTSUTAYAディスカスでDVDをジャンルを問わず借りまくり、

毎日何時間も映画見ていました。

その中の一本が「ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝」

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映像の美しさ、ストーリーの展開、作品の持つ世界観にすっかり心を奪われ、

テレビの再放送で本伝を観ました。

 

 

 

 


封切られた映画は期待通りの素晴らしい作品でした。

入場する際、数量限定での三種ランダム配布中の、

書き下ろし短編小説冊子『ベネディクト・ブルーの菫」をいただきました。

感激!

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ここで、内容を少し紹介します。

戦闘武器として拾われ、殺戮の道具扱いされていた名もなき少女が、

若き少佐にヴァイオレットという名前を与えられ、

庇護を受け、道具から人間へと育てられていきます。

ヴァイオレットは主人であるギルベルト少佐の命令を忠実にこなし、

戦争末期の戦闘で両腕を失くしながらも、

手負いの少佐を助けようと奮闘しますが、

病院で気づいたときには、少佐の生死もわからず、

自分も義手をつける身体になっていました。

 

 

 


退院後、ギルベルトの親友でもあった上官のホッジンズの経営する郵便社で

手紙を代筆する自動手記人形〜ドールとして働くことになりました。

タイピストとしては極めて優秀なヴァイオレットですが、

人の心が分からず、報告書のような味気ない文章しか書けませんでした。

依頼人との関わり中で、次第に、言葉にならない思いを知り、

感情が豊かになっていき、一人前のドールと成長していきます。

 


ヴァイオレットはギルベルト少佐が最後に言った「心から愛している」

という言葉の意味を知りたいと強く願っていきます。

 


依頼人たちの、肉親思う愛情の深さを知るうちに、

「愛」の意味を理解するようになり、

ヴァイオレットは国一番のドールとなります。

そして、今回の新作へとストーリーは展開していきます。

 

何度も、涙を拭いました。

 

 


「自動手記人形」という職業、憧れてしまいます。

お気に入りの便箋に手紙…を書くことが大好きでした。

 

全国各地のお友達へ、せっせと手紙書いていた高校時代…

万年筆でペンだこができるくらい毎日書いていました。

 

最近、手紙を書いたのはいつかしら…

 

 

いつしか、手紙はメールに変わっていきました。

 


この映画を見ていると、

思いを綴った手紙を、

封蝋印のある封筒に入れて送りたくなります。

 

 

 

人は愛されて初めて、愛を知り初めて、

誰かを愛することができるようになる…と

切ないくらい無垢なヴァイオレットの姿を見ていて思います

 

あいしている…

愛…それは…心から大切に思うこと…

はかなく、すぐに壊れてしまいそうな心を

優しく包むひだまりのよう…

 

 

登る朝日の輝きが

今日という日に希望を与えてくれます。

 

 


夢と希望を持って京都アニメーションに入社し、

大好きなアニメの仕事をしていて、

放火事件の犠牲になった36名の尊い命の悼み、

クレジットの名前を見て、涙が止まりませんでした。

 

こんなに素敵な映画を作ってくれて

ありがとう

ありがとう 

ありがとう

 

駅直結のT・ジョイ横浜のレイトショーの帰り道、

駅周辺にはコロナ禍を忘れるようなたくさんの人影がありました。

 

元の日常には戻れないけれど、

少しずつ、少しずつ、前に進んでいく時がきたようです。

 

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