港も見える丘から

人生のゴールデンエイジにふと感じることを綴っていきます

NO.211 『主われを愛す』日本で最初に歌われた讃美歌

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蒼穹の昴」シリーズを読み終わり、中国から帰ってきて、

虚脱感に浸る間もないまま、

私はclubhouseというワンダーランドに飛び込みました。

お友達、家族からは賛否両論。

好奇心の強い私はやっぱり入っていきました。

聞いているばかりではつまらないので、

自分のお部屋を持つことにしました。

そこで最初は「赤毛のアン」のお話をしました。

モデレーターは重要な役目で、

ただ話していれば良いというものでないことがわかりました。

場数を踏むしかありません。

 



弟の部屋でお茶していたところ、

「ヨコハマの女性宣教師」メアリー・P・プラインと「グランマの手紙」

背表紙が私を呼ぶので

早速、義妹から借りてきました。

 

 

 

そこには1871年から1875年に宣教師として横浜に滞在したメアリー女史が

故国アメリカにいる三人の孫に書き綴った愛ある手紙が収められています。

多く人に読んでもらうために1877年に出版された本を

安倍純子先生が訳された貴重な一冊です。

 


読み始めて、私は次第に明治時代にタイムスリップしていきました。

 


1871年ジュリア・N・クロスビー、ルイーズ・ピアソン、メアリー・プラインは

揃って来日し、やがて横浜山手48番地にバラの家屋を借りて、

アメリカン・ミッション・ホームを建設します。

 

そしてこの3人が横浜共立の前身・共立女学校と

共立女子聖書学院の前身・偕成伝道女学校を創設しました。

 

 

 

メアリーが1872年4月18日に孫娘のキティ–あてに書いた手紙の文中に

ノナという少女が登場します。

親に捨てられ、大怪我で歩行困難で、

ホームに引き取られた日本人の少女です。

もちろん英語は一言も理解できません。

最初は先生たち言うことも聞かず周りの人を手こずらせました。

当時の日本には歌はありませんでしたから、

誰も歌うこと知りませんでした。

宣教師がやってきて初めて歌を耳にしたのです。

 


宣教師たちが讃美歌を最初に聴いたとき、ノナは戸惑いますが、

次第に興味を示して、歌を覚えていきました。

 


そのうち、ノナは早起きをして食堂に一番のりして、

自分の小さな椅子に腰をかけ、讃美歌を歌うようになりました。

 

 

 

“Jesus loves me “

“Christ is born the Lord of glory “

“There is a happy land “

 


他にも部分的ですが、5、6曲を歌います。

 


という記述がありました。

 

 

 

♬“Jesus loves me “は「主われを愛す」超有名な讃美歌です。

 

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エスワレヲ愛シマス。

サウ聖書申シマス。

彼レニ子供中。

信スレハ属ス。

ハイエス愛ス。

ハイエス愛ス。

サウ聖書申ス。

エスワカタメニ。

天ノ御門ヒラキ。

ソノチニヨレリ。

ハイエス愛ス。

 


ジュリア・クロスビーが最初の翻訳した歌詞です。

 


♬“Christ is born the Lord of glory “はクリスマスの讃美歌です。

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調べてみましたが、ストーリーにたどりつけませんでした。

国会図書館で調べてみたいです。


♬“There is a happy land “

この讃美歌は「大草原小さな家」“LITTLE HOUSE ON THE PRAIRIE”

第17章 父さん 町にいく に出てくるのです。

父さんが町に出かけ、狼の遠吠えが近くで聴こえる不安な夜、父さんの身を案じるローラはなかなか寝付けません。

ゆり椅子に座って母さんが優しい声で歌うのがこの歌でした。

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どんなこもり歌なのかしらとずっと気になっていました。

そして、数年前「大草原の小さな家」を訪ねる旅に出かけて、

現地で買ったCDで初めてこの子守歌を聴きました。

あれ!とびっくりです。

 


讃美歌490番 あまつみくには いとたのし です。

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「永生 天国」という項目に分類され、

普通はあまり歌われない讃美歌でしたので、知らなかったのです。

「主われを愛す」と同じように「児童」に分類されていたなら、

教会学校でもっと歌われていたに違いありません。

 

ところで、ヘボン式ローマ字を作ったヘボン博士は

1953年日米修好通商条約締結で来日が可能になると知るや、

長男を知人に預けて、妻クララと共に

1859年にニューヨークから横浜へ宣教師としてやってきました。

ヘボン博士はニューヨークきっての病院を経営していて、

市内に3つの広大な住宅と別荘を持つ成功者でしたが、

相次いで3人の子どもを失い、

「自分のために選ばれた任地へ行きたい」と強い思いを持っていました。

遣わされる場所が日本だったのです。

 


神奈川宿に到着したヘボン博士は成仏寺本堂に居を構えました。

ニューヨークから選んできた荷物は3トンといわれ、

その中にフォルテピアノがあったという記録が残っています。

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シーボルトが持ってきたスクエアピアノが日本最初のピアノですが、

フォルテピアノの第1号はクララの持ってきたものです。

そのピアノがどうなったか、いろいろ調べても記述がなく、

今も横浜ミストリーとなっています。

 

私の家から徒歩10分圏内にある成仏寺に置かれたフォルテピアノ

その音色はどうハマっ子に響いたのでしょうか。

神奈川宿から山手の居住地に引っ越したヘボン博士の家で開かれていた

クララの教会学校フォルテピアノの演奏で数々の讃美歌が歌われていました。

その音が、子どもたちの声が聞きえてくるようです。

 

主われをあいす

主はつよければ

われよわくとも

おそれはあらじ

わが主エス わが主エス

わが主エス われをあいす

 

キーボードを弾きながらお話しできる!

私にとってclubhouseはおもしろいツールです!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

NO.210 蒼穹の旅の終わりは…

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旅から戻ってきてみたら、“clubhouse”という

見慣れない世界ができていて、

私は好奇心いっぱいのアリスの気分になっていました。

お友達のうさぎさんに招待されて入ってみたら、

ワンダーランドが広がっていました。

このお話しはまたいずれしたいと思います。

 


まずは旅の続きのお話しです。

 

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●マンチュリアン・リポート

1928年(昭和3年)6月未明、張作霖を乗せた特別列車が爆破されました。

中華民国安国軍総司令・陸軍大元帥であった張作霖

蒋介石率いる国民革命軍の北伐により、北京から撤退し、本拠地奉天に戻る途中、

満鉄線とのクロス地点で乗車車両を爆破され、同日中に自宅で死去しました。

のちの満州事変にもつながるこの爆破事件は

「皇姑屯事件」と呼ばれ、日本関東軍の仕業とされました。

関東軍の暴挙に激怒した昭和天皇の密命を受けて、

若き軍人志津が聞き綴った「満州報告書《A Manchurian Report》と、

かつて西太后と光緒帝を載せて走った

誇り高きイギリス製の特別機関車のひとりごと《A Monologue of Iron》

で、次第に真相が明かされていきます。

今だにときあかされていない最大級の昭和史ミステリーです。

f:id:tw101:20210221151955j:image 張作霖

f:id:tw101:20210221152053j:image 爆破事件場所 (Wikipedia より)

 


再見…つぁいちぇん…という音は悲しみでなく、希望なのだと思いました。

 


●天子蒙塵 (てんしもうじん)

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1924年、クーデターにより、清朝ラストエンペラー溥儀は紫禁城を追われ、

正妃・婉容、側妃・文繡と共に生家に逃げ込みます。

さらなる危険が迫り、

溥儀は日本の庇護の下、密かに北京から天津日本大使館へ脱出しました。

 


溥儀は王朝再興の夢を見て、

極度のアヘン中毒に陥っている正妃・婉容はイギリス亡命を望み、

そして側妃・文繡は「自由」を望み、離婚をしました。

 

一方、父・張作霖を失った張学良は失意のままイタリアを経由してイギリスへと向かいます。

 


かくして、二人の天子は塵をかぶって逃げ惑うのでした。

史上最も高貴な離婚を成し遂げた文繡を語り部として第一巻は展開していきます。

 

f:id:tw101:20210221151727j:image 溥儀と婉容 

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文繡  (Wikipedia より)

 

 

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第二巻は

張作霖が爆殺されて3年、馬占山は「我に山河を返せ」と叫び、

満州の猛獣を化した関東軍に一人反抗を続けていました。

f:id:tw101:20210221152404j:image 馬占山 (Wikipedia より)

 

 

1931年、張作霖側近だった張景恵の説得を受け、

一度は日本にまつろおうとします。

 

満州国建設を急ぐ日本と大陸の動静を注視する国際連盟の狭間で

深い孤独に沈んでいく溥儀の心模様と、

謀略渦巻く満州の底知れぬ闇が描かれています

 

 

 

 

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第三巻には希望の地を目指し、海を渡った二人の日本男児の正太と修。

駆け落ちして大陸へ逃避行する美男美女。

満州の怪人・甘粕正彦男装の麗人川島芳子

吉田茂やココ・シャネルなど

歴史的著名人も登場し、それぞれの運命を切り開いていきます。

日中戦争前に何が起きていたのか、リアルな映像が目に浮かびます。

そして、かつての英雄が中原のかなたに探し求めた男がついに現れます。

 

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そしていよいよ最終巻。

中華皇帝への返り咲きを夢みるラストエンペラー・溥儀、

一度は蒋介石満州軍を禅譲し、渡欧しながらも、上海に戻ってきた張学良。

欧米列強との対決を模索し、東亜連盟を構想する石原莞爾

日本と中国思惑が複雑絡み合う中、

二人の天子は再び歴史の表舞台へ登場してきます。

そして、最後は溥儀の即位と、全く想像していない場面で終わります。

f:id:tw101:20210221152455j:image ラストエンペラー 溥儀

f:id:tw101:20210221152514j:image 張学良 (Wikipedia より)

 


西太后、溥儀、張作霖、張学良等の実在の人物が繰り広げる近代中国史を背景に、

李春雲、李春雷の兄弟 梁文秀の妻となった二人の妹玲玲、

架空の人物が、真の主人公として、

満州人の心、そして普遍的な人の生き様を見せてくれました。

 

オスカルとアンドレを通してフランス革命に興味をもち、

ヨーロッパの歴史の学びを深くしていった私は、

すっかりおじいちゃんになった春雲の目を通して、

「溥儀の即位」がどういうものだったにか知り、

日本と中国との暗澹たる関係を知ることができました。

 


伝説の「龍玉」は誰の手に渡るのか…

正太と修のその後は?

 


溥儀、張学良のその後、

そして毛沢東蒋介石との戦いは…

 


まだまだ先が読みたい!と「天子蒙塵6部」と調べてみたら、

2018年12月2日付の「好書好日」のインタビュー記事を見つけました。

 


第5部まできましたが、シリーズは続きます」

 


シリーズ累計530万部超。第4部まで文庫本で10冊。第5部は単行本4冊、という破格の規模で、近代の中国と日本の分かちがたい関係を浮かび上がらせてゆく。中国には40回ほど渡ったという浅田さん。最初に取材目的で渡った20年ほど前は、いまほどの経済大国になるとは考えていなかった。

「中国そのものが変わっている。いろんな意味で、このシリーズは早く書けません」

「人も街も画一的でなく、なぞが多く、奥が深い」と中国を評する。中学の頃から漢文の美しい言葉にあこがれるようになり、10代の頃からこつこつと通史などを学んできた。中国出身の担当編集者は「偏らない見方で、日本と中国が描かれている。知らなかったことも多く、読みながら歴史を知る思いです」と言い添える。

 


『96年から刊行「シリーズ続く」「早くは書けない」』

 シリーズで一貫して描かれているのは不屈の人々。波乱の人生を送った張学良は、100歳まで生きた。最新刊では「嘆く間があるのなら、どうにかするのですよ」と、溥儀を幼い頃から支えてきた人物が語る最終盤の場面が印象深い。

 そんな精神の強さは「負けず嫌い、ということで生きてきたようなもの」という自身の歩みとも重なる。

 例えば、出版不況ということも安易に信じない。「時代のせいにしたら、終わりです。本が売れなくなった背景に、刊行点数が多すぎ、内容もよくない本が目立つようになったことがある。もっと、いい本をつくっていかなくては」。そのうえで「子供が最初に出合う本がつまらなければ、もう読まなくなります」と将来を見据える。

 「いい小説というものは、分かりやすく、美しく、おもしろく」と3カ条を示す。根っこにあるのは、小説の神様の存在を信じる思い。小説とは考えて書けるものではなく、素材そのものが落ちてくるものという。それも若いからいただけるのか、と考えていたが、「意外とジジイになっても降ってくることが分かりました」と明かす。

 もうすぐ67歳。「贈りものを受け止められるよう、一定のテンションに張り詰めていく努力はしております」(木元健二)=朝日新聞2018年11月28日掲載

 

 

 

「没法子(メイファーヅ)と言わなければ、

人間は存外まともに生きてゆけるものです。

鳥や獣をごらんなさい。雨が降れば宿り、風のゆくえを読み、暑さ寒さをうまく凌いで生きていけるではありませんか。ならば万物の霊長たる人間が「どうしようもない」などと言うのは贅沢な話です。

 嘆く間があるのなら、どうにかするのですよ。」

 


慈愛に満ちた母のように語る春児の言葉…

春児は隣人を愛し続けたイエス様のようでした。

何もかもうまくいかず、絶望感に苛まれても、

大丈夫、大丈夫、きっとうまくいく…

 

「どうしようもない」から

「どうにかなる」へ。

 

 

 

浅田次郎さんのメッセージが心に響きます。

 


「日本ペン倶楽部の始まり」を当時会長をされていた浅田次郎さんが

明治学院大学チャペルでの講演会でお話しくださったことがあります。

初代会長島崎藤村

1936年にアルゼンチンブエノスアイレスで開かれた国際ペン倶楽部に

初参加の日本代表として参加しました。

 


1931年9月18日「満洲事変」が起き、翌 年の満洲国が成立し、

日本はこの愧偶国家の国際認知を望みましたが、

それは当然拒絶され,1933年、国際連盟を脱退して、

孤立への道を辿りはじめていたのです。

 


日本ペン倶楽部の創立も,この外交的孤立を挽回するために,

外務省主導で な さ れ た 文 化 政 策 の 一環 となっていました。

島崎藤村の会長在任期間は1935年から1943年という極めて難しい時期でした。

 


そのあたりの話を和服姿の浅田次郎さんからお聞きしたとき、

私はまだ「蒼穹の昴」を読んでいませんでしたし、

歴史認識もほとんどありませんでした。

 


今、もう一度、あの時に戻ってお話しを聴けたら、

いろいろな事がわかったかもしれないと残念に思います。

 


1900年(明治33年)生まれの亡き祖父、

1928年(昭和3年)生まれの亡き母が生きた時代も

戦争に明け暮れた混乱の時代でした。

その中にあっても、毅然として小さくても自分の使命を果たしてくれたおかげで、

今、私はここ横浜の地で幸せを感じて生活することができています。

 


安穏とした時代などないのです。

これからどんな状況になっても、どうしようもない…と言わず、

どうにかなると希望を持っていたいと、

蒼い空を見上げて思う午後です。

 

 

 

 


最後におまけ 

人名など漢字で見るのと音で聴くのと大違いです。その一例です。

西太后(シータイホウ)  

万歳爺(ワンソイイエ) 

愛新覚羅溥儀(アイシンギヨロプーイー)

龍玉(ロンユイ)  

袁世凱ユアンイカイ)  

梁文秀(リアンウエンシウ)  

李春雲(リイチユンユン) 

毛沢東(マオヅオドン) 

王逸(ワンイー) 

春児(チユンル) 

玲玲(リンリン)

 

 

 

 

 

 

NO.209 蒼穹の昴への旅

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ただいま!長い旅から帰ってきました。

 


1月7日、緊急事態宣言が出てから、

私は異次元、異空間を飛び、

中国 「蒼穹の昴への旅」に出かけていきました。

 


浅田次郎先生が「この作品を書くために小説家になった」

とおっしゃった「蒼穹の昴」シリーズ。

蒼穹の昴」「珍妃の井戸」「中原の虹」

「マンチュリアン・リポート」「天子蒙塵」の

5作品から成り立ちます。

 

 

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中合作によるテレビドラマが

NHKデジタルハイビジョンで放映されてからも

すでに10年余りすぎていますが、

田中裕子さんの迫真の演技が光った西太后

記憶に残っていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。

実は私は小説を読んだだけで、そのドラマを私は観ていないのですが、

今回、読み返して、満州の大地や長城、

北京の紫禁城を、私はずっと旅していました。

 

 

 

Wikipediaを参照にごく簡単にご紹介します。

⚫︎蒼穹の昴

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時は光緒12年(1886年(日本:明治19年))から光緒25年(1899年(日本:明治32年))までの清朝末期です。

 


李春雲(春児)は糞拾いによって貧しい家族を養っていましたが、

父、長兄が病死、次兄は出奔という悲劇の中で、

大切な母と妹のために自ら浄身し、宦官となって西太后の下に出仕しました。

一方、春児の亡くなった次兄の親友の梁文秀(史了)は、

光緒12年の科挙を首席(状元)で合格し、

翰林院で九品官人法の官僚階級を上り始めました。

その頃、清朝内部では、政治の実権を握っている西太后を戴く后党と、

西太后を引退させて皇帝(光緒帝)の親政を実現しようとする帝党とに分かれ、

激しく対立していました。

后党と帝党の対立は、祖先からの清朝の伝統を守ろうとする保守派と

衰えた清朝を制度改革によって立て直そうとする革新派(変法派)の対立となり、

両者の対立は、やがて西太后と皇帝の関係にも、

深い溝を生んでゆくことになります。

春児は西太后の寵を得てその側近として仕え、

一方、文秀は皇帝を支える変法派若手官僚の中心となっていきます。

滅びゆく清朝の中で懸命に生きていく春児と文秀の二人を軸に壮大なスケールで描かれています。

 


満天の星のなかにひときわ輝く昴、その夜空に魅せられました。

 


⚫︎珍妃の井戸

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1898年 義和団の乱が勃発し、北京は騒乱状態になり

列強8ヶ国の軍隊がこれを鎮圧しました。

そんな最中に光緒帝の寵妃珍妃が紫禁城内の井戸に落とされ殺されるという事件が起こりました。

1900年、「一国の君主の妃が暗殺されたことは、重大な事件であり真相を突き止めなければならない」と、

イギリス帝国海軍提督エドモント・ソールズベリー、ドイツ帝国大佐ヘルベルト・フォン・シュミット、

ロシア帝国からは露清銀行総裁セルゲイ・ペトロヴィッチ

そして、日本の東京帝国大学支那学)教授松平忠永の

4人の貴族が真相を解明するために集められ、

トーマス・E・バートン記者、蘭琴氏、袁世凱氏、瑾妃殿下、劉蓮焦氏

愛新覚羅溥儁氏の証言を聞いていきます。

 


戊戌の政変に敗れ、幽閉された光緒帝には

正妻の他に姉妹である二人の妃がおりました。

皇帝は妹の珍妃だけを愛していました。

その寵妃が生きたまま井戸に投げ込まれてしまったのです。

誰が珍妃を殺したのでしょうか…。

降りしきる黄砂の中なかで明らかになる悲しいラブストーリー。

 

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この中に落ちてしまったの…と思わず、私はその小さな井戸を覗いてみました。

4000年前とかの事ではなく、

わずか120年しかたっていないことに改めて気づきました。

 

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⚫︎中原の虹

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舞台は清朝末期の光緒33年(明治40年、1907年)から民国5年(大正5年、1916年)6月の中国です。

 


半世紀にわたり、落日の清王朝を支えてきた西太后は死期を悟り、

自らの手で王朝を滅ぼすことを決意し、次の皇帝に3歳の溥儀を指名します。

光緒帝を愛しながらも、中国を狙う諸外国に渡さないための悲壮な決断をする西太后に寄り添う春児。

 


方や、家族を捨てた春児の兄、春雷は馬賊のカリスマ的存在の張作霖と運命の出会いを果たし、

馬と拳銃の腕前を買われ、馬族に加わり頭角を現していました。

 


光緒帝の死の翌日、西太后も逝去し、清王朝の混迷は深まります。

 


国内の革命勢力と諸外国に対処するため、

一度は追放された袁世凱が再び呼び戻され、

満州を支配する張作霖は有能なブレーン王永江を得て、

名実ともに「東北王」となりました。

ところが、幼き皇帝溥儀に襲いかかる革命の嵐の中、ついに清朝は滅亡しました。

新生中華民国に颯爽と現れた指導者宋教仁は暗殺者の手にかかり、

時代は再び混乱し、戊戌の政変後日本に亡命していた梁文秀の帰国を望む声が高まっていきました。

 


極貧の中で生き別れになり、

最後の宦官となった春児と馬族の雄春雷はついに再会を果たします。

 


そして伝説の王者の球「龍玉」を持つ真の覇者が長城を越えます。

 


ああ、涙…涙…久しぶりに涙で文字が見えなくなりました。

 

 

 


長城の外、満州の草原をひた走る馬族たち、

その果てしない台地にかかる大きな虹を見ました。

 


(長くなるので、第4作目、第5作目は後日書きます。)

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さて、私は中国史がどうも不得手でした。

漢字が多く、読み方も難しいので、避けていたと思います。

受験では世界史を選択していましたが、

国史がでたら、アウト!で諦めようと覚悟し、

ほとんど勉強しませんでした。

 


恥ずかしいくらい無知でしたが、

中国青島にある工場と貿易をすることになり、

中国語を学び、中国を知ろうと決意しました。

が、どうしても、わかりませんでした。

 


コロナ感染緊急事態宣言が出され、

ステイホームを余儀なくされ、テレビやSNSでの情報が垂れ流されて行く中で、

どの情報が正しいのか、だんだんわからなくなっていきました。

 


その上、アメリカ大統領選疑惑、香港のデモ、ウイグル問題、

 

などなど、

事実や真相がわからないことが多すぎて、

情報に溺れて息ができないような気がする時もありました。

 

そこで、天空の部屋から旅に出て行きました。

 


そして、この1か月かけて、清朝の最後の中国を旅して、

安寧な時代などない!と改めて思いました。

 


該博な知識と丹念な取材に裏打ちされた浅田次郎さんの「史観」は

私の頭に酸素をふんだんに送ってくれました。

 


蒼穹の昴」に登場するアメリカ人ジャーナリスト トーマス・バートンの言葉を転記しておきたいと思います。

 


人類は力の真価を見誤まった。人間の実力をはきちがえてしまった。

俺はな、ケイ。正義と良識の根拠を、そこに見出したんだ。

 ウオール・ストリートの株価ばかりに一喜一憂している連中にはわかるまい。だが、コットン・フィールズのちっぽけな教会で、簡単な読み書きを教わっただけの俺には、ジャーナリストの使命のありかがわかっていた。

 正義(justice)と良識(common sense)。猿が二本足で立ち上がった瞬間に悟ったもの。あるいは、二本足で立ち上がる勇気のみなもととなったものは、それだ。

 正義はけっして神の御名のもとのジャスティスではない。良識はけっして哲人たちの説いたコモンセンスではない。立ち上がった猿が新たな視野に見た真実、その正義と良識とが、人類の実力なのだ。

猿に戻るな、ケイ。

だから、俺を抱きしめるその手で、こいつを抱いてくれ。

アメリカ人も日本人も、フランス人もイギリス人も、世界中のほとんど人間は猿に戻ってしまったが、こいつは猿ではない人間の未来を拓こうとしているんだ。おまえらはみな、こいつの演説を民主共和国家の宣言としか聞かなかっただろうが、実はそんなちっぽけなものじゃない。こいつはそんな当たり前の政治家ではない。

曠野にたったひとりで立ち上がって、正義と良識の地平をたしかめ、さあ、みんな立てと号令する、偉大な人類の指導者だ。過てる人類の、かけがえのない指導者になる男なのだ。

 


この言葉は誰について、どんな状況で語れるのか、

興味のある方にはぜひ「蒼穹の昴」を読んでいただきたいと思います。

 


浅田次郎さんは現地取材いかずに、この作品を書かれたそうですが、

だからこそ、イメージはダイレクトに伝わってきたのかもしれません。

 


中国への旅から帰国し、次はどこの世界に行こうかなと思っています。

おすすめなところがあれば教えてください〜

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

NO.208 読書はじめ②『日没』

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緊急事態宣言発令について語る総理大臣の言葉があまりに貧相で悲しい…

ということをポロリと漏らせる今はまだましなのか。

と思わずにはいられない衝撃的な小説を読み終わりました。

桐野夏生さんの『日没』です。

 


松本侑子さんの書評や、関連記事を読み、

ずっと気になっていた『日没』

2日、みなとみらいのウォーキング帰り、

立ち寄ったTSUTAYAには在庫がなく、

帰宅してすぐにAmazonで注文したら、速攻で翌日に届き、

怖い、怖い、と思いながらも、一気に読んでしまいました。

 


…私は基本的に世の中の動きには興味がない。というのも、絶望しているからだ。いつの間にか、市民ではなく国民と呼ばれるようになり、すべてがお国優先で、人はどんどん自由を明け渡している。ニュースはネットで見ていたが、時の政権におもねる書きっぷりにうんざりして、読むのをやめてしまった。もちろん、テレビは捨てたし、新聞も取っていない…

 


読み始めて最初のページに書かれたこの文章で引き込まれました。

わかる、わかる、この気持ちと…

 

 

 

さて、ざっとあらすじです。

 


エンタメ作家のマッツ夢井の元に、ある日、総務省「文化文芸倫理向上委員会」という聞いたこともない機関からの「召喚状」が届くところから、始まります。飼い猫がいなくなってしまったり、有名な作家が病んだり、亡くなったりというなんとなく不審なこともありましたが、自分に問題があるなどとつゆにも思っていないマッツは、しぶしぶながらも召喚に応じます。

指定された駅に行き、迎えの車に乗せられ、茨城の外れの海辺の断崖絶壁にある建物に着いてから、あれよあれよという間に、「収監」されたような扱いを受けていきます。

外部との連絡禁止。ネット環境なし。反論しようものなら、「反抗」とみなされ減点され、収容期間が延びていきます。

そこに収容されている人々は「よくない小説を書いた小説家たち」のようですが、お互いの接触、会話禁止。マッツは“B98番”と呼ばれ、貧相な食事しか与えられず、尊厳を奪われていきます。

彼女が収容された原因は「犯罪や暴力を肯定しているようだ」という一般読者の根拠もない密告でした。

本など読んだこともない所長は、「政治なんかには口を出さずに、心洗われる物語とか、傑作をものにしていただきいたいのですよ」とマッツを「正しい小説家」にするために作文を書かせます。マッツは所長の意に沿うようなくだらない作文を書き、早く家へ帰ろうとします。

しかし、一旦収容されたら解放される望みはないということを知り、愕然とします。

かろうじてコミュニケーションを持てる人間さえも、敵か味方か、分からなくなり、なんとか自分の精神を正常に維持していくため、最大の努力をしますが、次第に洗脳され「自死」が頭をよぎるようになっていくのです。


果たしてマッツはここから出ることができるのでしょうか。

映画「パピヨン」のラストシーンが浮かんできます。

ところが、最後の15行は「えええ⁉️」

衝撃的な結末をむかえます。

 


桐野夏生さんはこう言っています。

 


経済構造が貧困を生んでいるのに自己責任論ばかりで、ネットの発達で誰もが管理・監視から逃れられない。正義を振りかざして他者を攻撃する人が増えた。そんな絶望的な現状を考えたらこうなりました。いま、日本の社会全体が冷笑的になっていると思うんです。誰かが真面目なことを言っても、ちょっと高みに立って『なに本気になってるの?』ってスルーする。日本に蔓延しているディスコミュニケーションの空気も含めて、きちんと描けたらいいなと。(2020年12月20日 東京新聞 Web版 )

 

 


新型コロナの流行は予想外でしたけれど、現実が小説に追いついたというか、むしろより過激になっていますよね。里帰りする人を監視したり、自粛警察みたいなことをやってみたり。

 小説に書いたようなことがいま実際に起きても驚きません。もし、私がどこかに連れていかれて、『あの人、最近、見ないね』——なんて、笑い事じゃないですよ(笑)」2020年10月30日 オール讀物 編集部 〜現実の日本と地続きのリアリズム小説――『日没』(桐野 夏生)

 

 

 

テレビも新聞も、SNSも メディアというメディアが本当の事を伝えていない…

という事は薄々感じていると思いますが、

どこに真実があるかはわかりません。

 


「真理はあなたを自由にする」(ヨハネによる福音書8章21節)と

エスは十字架の死を前に弟子たちに言っています。

今の私たちは常に空気を読むことを求められいて、

「その場の空気」に支配されています。

同調圧力の中で主体性を奪われている状態は最初は苦しいですが、

慣れてしまい、何も考えなくなって流されていく方が楽でしょう。

 


「真理」というものは、どの時代でも誰かの手で上手に、

どこかに隠されてしまってるのかもしれません。

だから人はいつの時代でも、自分勝手に生きてはいるけど、

真の自由人にはなかなかなれません。

 

 


真理を探究する人は国家にとっては好ましくなく、

いつのまにか消されてしまいます。

2000年前、十字架に磔にされたイエス・キリストのように。

 


でも、イエス・キリストは3日目に復活しました。

死にうち勝つ大いなる希望があります。

「夜明け」の喜びです。

 

 

 

一方、「日没」というタイトルは

夜になる前の最後の輝きを表しているように思えます。

ここには、もはや希望はないのでしょうか。

 


この小説で怖いのは「絶望と孤独」です。

人と分断され、他者への猜疑心から

他人も自分も何もかも信じられなくなるとき、

心が壊れて、精神は崩壊します。

 


コロナパンデミックで怖いのはウイルス感染だけでなく、

人生を前向きに生きようする希望が断ち切られることのような気がします。

ワクチンができて、ウイルス感染から勝ち残ったら、

人の心はコロナ以前に戻れるでしょうか。

 


主体性を失い、

心をなくしてしまった人で溢れる社会…

 


ここでふと考えます。

敵…と敢えて呼びます。

敵が望まないことは何か。ということを。

それは「愛を持って信頼と協力する」

 


信じ合う人たちが同じ気持ちを持っていくとき、

分断でなく協力があるとき、

きっと希望が生まれてきます。

 


精神科医ビクトール・フランクル

アウシュビッツの絶望の中で生き抜けたのは、

希望があったからで、

その希望の基は

幼いころ「両親と過ごした楽しかった思い出」だったと後に書いています。

 

 


『日没』の結末を読んで、なんで?

と思った読者が、

自ら、考え、行動することで、

その結末を変える力を持てるのではないかと思いました。

 

難しいテーマでした。

最後まで読んでくださってありがとうございました。

2021年、希望を持って生きることができますように。

 

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NO.207 読書はじめは『JR上野駅公園口』

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2021年横浜のお正月はとても穏やかに過ぎてゆきました。

恒例の横浜駅東口付近でも箱根駅伝観戦もせず、

ふらりとシーバスに乗船して山下公園まで束の間のクルーズを楽しみました。

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空と海の青さは、

日常に漂う澱を洗い流してきれるような気がして、

心地よい海風に吹かれていました。

 


美しく整備された横浜港ですが、

昔のような貿易港としての活気がなくなったかなあと、

読みかけの『JR上野駅公園口』のストーリーと重ねてしばし思い出の中に降りていきました。

 

終点の山下公園で下船し、氷川丸を見ながら

歩いていると、哀愁を帯びた汽笛が鳴りました。

汽笛は低く長く続きました。

ああ、私は横浜にいるのだなあと思いました。

 

 

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柳美里さんの『JR上野駅公園口』が

権威ある全米図書賞翻訳文学部門

(National Book Award for Translation Literature)の文学受賞したと聞いた時から、

ずっと気になっていましたが、

なかなか本を読む時間を取れず、

お正月に読もうとKindleにダウンロードしていました。

 


元旦、お節料理をいただいてから、ひだまりの中で読み始めました。

 


あらすじのあらすじは

1933年、(昭和)天皇と同じ日に福島県相馬郡に生まれた主人公カズは、

東京オリンピックの前年、出稼ぎをするために上京、上野駅に降り立ちます。

高度成長期にこの国の発展を底辺で支えたカズでしたが、

皇太子を同じ日に生まれた長男を早くに亡くし、

妻にも死に別れ、上野公園でホームレスとなって日々の生活を送っていました。

ある時、上野で国立科学博物館へいらした天皇

センチュリーの後部座席の窓から手を振っている姿を辛うじて見ることができ、

同時代を生き抜いた自分の人生を一瞬邂逅していくのです。

 


2014年に柳美里さんはこの小説を書いた経緯をあとがきで述べています。

まとめてみました。

 


2006年、ホームレスの方々の間で「山狩り」と呼ばれる、行幸啓直前に行われる「特別清掃」の取材を行いました。

取材は3回行われました。

彼らと話をして歩き、集団就職や出稼ぎで上京してきた東北出身者が多いということを知りました。

この取材のことを気にかけながら、精力的に執筆活動をしていうちに2011年2月11日 東日本大地震が起き、続いて、原発事故が起きました。

 


柳美里さんは南相馬郡市役所にある臨時災害放送局南相馬ひばりエフエム」でパーソナリティをつとめ、たくさんの人から「生の声」を聞いていきます。

この地に原発を誘致する前は、一家の父親や息子たちが出稼ぎに行かなければ生計が成り立たない貧しい家庭が多かったことを知ります。

 

家を津波で流されたり、「警戒区域」内に家があるために避難生活を余儀なくされている方々の苦悩と、出稼ぎで郷里を離れているうちに帰るべき家をなくしてしまったホームレスの方々の痛苦がわたしの中で相対し、二者の痛苦を繋げる蝶番のような小説を書きたいと思うようになりました…

 


2020年オリンピック関連の土木工事には震災と原発事故で家や職を失った一家の父親や息子が従事し、東北沿岸部の復旧、復興が遅れるのではという懸念もありました。

 


多くの人々が希望のレンズを通して6年後のオリンピックを見ているからこそ、わたしはそのレンズではピントの合わないものを見てしまいます。

「感動」や「熱狂」の後先を…

 

 

 

さて、この6年後、新型コロナ感染パンデミックのため、

東京五輪が延期されことになると誰が思っていたでしょうか。

 

 

 

私はこの小説を読んで、1982年から1999年に住んだ浅草のことを思い出しました。

ちょうど、バブル全盛期と終焉期でした。

 


自社ビルの目の前にある花川戸公園にもいくつもの立派なブルーハウスがたっていました。

そのひとつ、うちから一番近くのブルーハウスの住民は毎日、

ハウス周辺から始め、公園内の掃き掃除をし、

籠でカラスも飼い始め、時折、キーボードで演奏もしていました。

地元の人間とのトラブルを好まず、温厚な方で、そのうち顔馴染みになって、

挨拶も交わすようになりました。

私はおじさんの事を知りたくなりました。

商家のヨメである私が「取材」をするわけもいかず、

会社の事務室からよく見えるブルーハウスのおじさんを毎日見ながら、

私はただ想像するだけでした。

 


そして、親しげに声をかけるおじさんに、

具体的にどう接するよう、幼い息子たちに教えたら良いのかも、

わかりませんでした。

 

 

 

 

 

 

さて、その頃、上野公園内のテント部落を「パークヒルズ」、

隅田公園内を「リバーサイド」と呼んでいました。

そこには、かつて建築現場で働いていたプロが作る

見事な出来栄えのブルーハウスがたくさん並んでいました。

縄張りがあって、住み分けはきちんとされていて、

たまに新参者が間違えて場所を荒らして、

騒ぎになっているのが見て取れました。

 


皇室の方々が日光へ東武電車でお出かけになるとき、

本所吾妻橋下のブルーハウスは台東区側も墨田区側も一掃されます。

「特別清掃」の日だったわけです。

 


隅田公園は子どもたち良い遊び場でしたが、

ホームレスの方々の生活の場でもありました。

トイレや水飲み場で洗濯や水浴びもしていました。

こんな光景は日常です。

 


ある時、公園で遊んでいた3才くらいだった長男がバナナを一本持って、

次男をベビーバギーで寝かしつけていた私のところへ帰ってきました。

 


「あら、どうしたの?バナナ…」

お船のおじさんにもらった」

お船のおじさん…以前、実際に使っていて、

今は遊び場となっている屋形船に住むおじさんです。

「知らない人にものをもらってはダメよ…」と、

バナナを息子の手から取りながら、

ふと、おじさんは故郷にいる孫のことを思い出して、

この子にバナナをくれたのかなあと思ったりもしました。

 


また、地元浅草小学校PTAクラス役員を6年間引き受け、

私は72回、廃品回収しました。二天門の回収場所では、

たまに誰かが集めたダンボールや、空き缶の山を

持っていってしまうこともありましたが、

縄張りのホームレスの方は私たちが集めたものを

他の誰かが持っていかないように見張ってくれて、

段ボールのまとめ方も教えてくれました。

 


花やしき前で食堂をしているお友達は、

ホームレスの女の子と一緒に遊ぶ娘をどうしたら良いものかと、

考えこんでいました。

その子は出生届もないので、学校にも行っていませんが、

ホームレス同士でよく面倒を見ているようで、

情緒的に落ち着いたとても優しい女の子で、

いつの間にか仲良くなったようでした。

学校にも行ってない子がいることを、

自然に理解する下町の子の強さがありました。

 


浅草の老舗の飲食店は、ホームレスの方々が食べることができるように、

残飯を綺麗に店裏に置いていました。

そう、不思議に共存してました。

 

 

 

 

 

 

あの頃から比べると、ブルーハウスは減ったのかしら…?

あの頃とは違う形の「ホームレス」になっているのかしら…?

 

社会情勢はより過酷になって、

そう上に新型コロナ感染拡大。

 

 

 

いつまた緊急事態宣言が出るか、

わからなくなってきました。

自粛生活はいつまで続くのかしら。

 

いざという時には誰も助けてくれない…?

希望の光も見えない…?

 

こんな時…だから…?

いえ、こんな時だから…こそ…‼︎

 

どうしたら良いのでしょう…
答えはいくつもあるはず。

それを考えないと…と

 

 

 

そして、私はAmazonから届いたばかり本を手にしました。

桐野夏生さん『日没』

 

そして、あっという間に読み終えてしまいました。

続けてブログを書きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

NO.206 一遍上人(最終章) 終焉の地 神戸へ

f:id:tw101:20201230134916j:image真光寺観音堂

 


1289年7月中旬の頃、体調が悪化した一遍上人は死期を察して、

大和田泊(兵庫県神戸市)の観音堂(現在の真光寺)に入りました。

 


8月10日、「一代聖教みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」と、

持っていた書籍を全て燃やしてしまいました。

そして、8月23日、朝の念仏を唱えていた最中に51歳の生涯を閉じました。

 


一遍は遺戒で後追い自殺を禁じていたにもかかわらず、

7人が入水自殺をしてしまいました。

リーダー格の他阿も念仏を唱えて餓死をしようとしますが、

近くにいた領主が聞きつけ、自殺を思い留めさせました。

そこで、他阿は生きて、遊行を続けることになり、

時宗へと発展していくのでした。

 


栗原康先生の「死してなお踊れ」の最後の文を紹介します。

 


わが屍をのに捨て、獣にほどこすべし。教信と同じように、究極の慈悲を実行したい。畜生に食われて、畜生になる。さいごのさいごまで、ひとでありながら、ひとをこえようとしたのである。でも、ざんねんながらそうはならなかった。在家の人たちが、一遍を供養させてくれといってきたのである。遺言どおり、まかせることにした。どんなかたちであれ、屍体のつかいかたに執着してはいけない。観音堂のまえの松のしたで、一遍上人を荼毘にふした。お墓は五輪塔で、石造りの玉垣に囲まれている。簡素なもんだ。そのとなりに、ちっちゃな御影堂をたてている。『一遍聖絵』をみるとおもしろくて、荼毘にふした松の木から、ふわっと煙がたちのぼって、それをおって目を左にむけると、お墓と御影堂がみえてくる。しかもすごいことに御影堂の中には、ドーンッと一遍上人がたっているのだ。もちろん御影堂の中に一遍上人像がおかれたということなのだろうが、絵をみるかぎり、どうみても本人にしかおもえない。わたしなどは『一遍聖絵』の実物をみにいったときに、友人といっしょに「うわあ、一遍上人が生きかえった‼︎」と歓声をあげてしまったほどだ。マジである。ぜひ、絵をみてもらいたい。

 じゃあ、その絵にこめているおもいはなんなのか。そのへんは、さいごの聖戒のことばから察することができる。一遍を火葬して、たちのぼる煙をみあげながら、みんなこうおもったという。さびしい。もういちどでいい、もういちどだけでいいから、あのときのあのひとのあの声がききたい。これはなにかムリなことでもいっているのだろうか。そんなことを考えているうちに、ふとどこからともなく、なむあみだぶつという声がきこえてきた。ナムナムナムナム。気づけば、念仏の大合唱だ。セミのように無尽蔵にわきあがってくるその声が、だれの声なのかもわからない。そういえば、一遍の声もこんなかんじじゃなかったっけ?復活だ、うたえばいつもよみがえる。衆生をすくえ。われひとりももらさじと、どうせかなわぬはかない夢ならば、散って狂って捨て身で生きろ。死んだつもりで生きてみやがれ。フオオオオ、フオオオオオオ‼︎!

うたえ、おどれ、はねろ、ふるえろ。ところかまわず、泣きさけべ。仏だ、セミだ、チクショウ、チクショウ、チクショウ。いくぜ、極楽。虫けら上等。泣いて、泣いて、泣いて、虫けらになりてえ。チクショウ‼︎…

 


JR兵庫駅からタクシーで5分ほどで真光寺に着きました。

清められた境内を歩き、社務所に行き、

「こんにちは。」と声かけますと、中から御住職さんがお出ましになりました。

一遍上人のことを調べています。」と簡単な自己紹介をしながら、

これまでのブログをお見せしました。

最初は戸惑いがちな表情をされていた住職さんも、

次第に打ち解け、一遍上人の話しをしてくださり、

一遍上人のお墓に案内してくださいました。

あ、あのあたりに松の木が…

では、あそこで荼毘にふされたのか…などと

一遍上人の最後の時を思いながら、お話を聞いていました。

 


すると、住職さんは

阪神淡路大震災のときにね、あの塔が倒れてしまってね。

私はその時、東京にいたので、飛んきましたが、大阪から先へいけなくてね。

漁船でここまで来ました。

倒れた塔から一遍上人のご遺骨がこぼれ出ていて、

それを納めたのだけどね、まとめた時にご遺骨の一部がハンカチについてね、

どうしたものかと思ったけそ、後に学生連れてインドに行く際にお持ちして、お納めしたんですよ」と

おっしゃっいました。

 

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f:id:tw101:20201231073920j:image松の木があったところです。
f:id:tw101:20201230135730j:image御廟所 
f:id:tw101:20201230135013j:image無縁如来
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ご住職さんの長島尚道さんは大正大学で教鞭をとられた、

時宗教学研究所長でいらして、一遍上人研究の第一人者の方です。

その上、大正大学で尚道先生と出会い、

長島夫人となられた和代さんは、明治学院大学院で福祉を学ばれました。

当時は福祉の大学院は明治学院にしかなかったそうで、

私が大学の福祉学科の後輩だと知って、

親しく書庫に連れていってくださり、

ご自身の卒論まで見せてくださいました。

 

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思わず、私が「マリゴールドの魔法」というNPOを立ち上げたいという夢を語ると、

「大丈夫、できるわよ。私は12の保育園と社団を2つ立ち上げたのよ。

大丈夫、簡単。簡単。頑張って。」とエールを送ってくださり、

共著作の「子育て支援」〜子どもの最善の利益を護るために〜という専門書をくださいました。

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なんという展開でしょう!と驚きつつ、

明治学院といえば、賀川豊彦先生。

日本のソーシャルビジネスの草分けで、尊敬してます」と言ったところ、

なんと、なんと、

「あら、賀川豊彦先生はすぐそこで生まれたのよ!」と和代先生。

「ええええええ⁉️」と驚く私に、

長島住職は生誕の地を地図で描いてくださいました。

 


一遍上人のことを書いてきましたが、

今日、終焉の地に来れたので、ピリオドとしたいと思います。」

と最後に挨拶すると、

「熊野に行きなさい。」と一言。

ああ、やっぱり熊野ね…と、

私の思いは一遍上人トランスフォーメーションの地、

熊野へ飛んで行きました。

 


旅はまだ続くというわけです。

 

 

 

この場所が海に近いということを実感する冷たい風が吹く中、

賀川豊彦先生生誕の地へ歩いて行きました。

賀川先生は1888年

回漕業者・賀川純一と徳島で芸妓をしていた菅生かめの子として生まれました。

4歳の時に相次いで父母と死別し、

徳島で血の繋がらない父の本妻と祖母に育てられますが、

「妾の子」と周囲から陰口を言われるような孤独な幼年時代を過ごしました。

 

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大宅壮一賀川豊彦の追悼文の中でこう言っています。

大衆の生活に即した新しい政治運動、社会運動、組合運動、農民運動、協同組合運動など、およそ運動と名のつくものの大部分は、賀川豊彦に源を発していると云っても、決して云いすぎではない。近代日本を代表する人物として。自信を誇りをもって世界に推挙しうる者を一人あげようと云うことになれば、私は少しもためらうことなく、賀川豊彦の名をあげるだろう。かつて日本に出たことはないし、今後も再生産不可能を思われる人物ーー、それは賀川豊彦である。」

 


一遍上人終焉の地に近いこの場所で生を受けた豊彦君は、

真光寺の境内で遊んでいたのではないでしょうか…。

記憶もあいまいなほどの幼い心に

一遍上人の「大衆を愛する心の種」が撒かれていたのかもしれない…。

ソーシャルビジネスの草分けの賀川豊彦先生に、

一遍上人がつながっていたとは…

 

 


私の夢と希望は来年も、また再来年も、

そのまた次の年、次の年へと

ご縁をいただいた方々と

一緒に叶えていきたいと思います。

 

 

 


 2020年 お付き合いくださり、ありがとうございました。

お一人おひとりが健康を支えられて、

素晴らしい年を歩むことができますようにお祈りします。

 

来年もよろしくお願いします。

 

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ずっと、いつも一緒にいる歓喜童子たち…

ありがとう。

 

 

 

 

NO 205 一遍上人⑩ 《いざいざ、京都へ…》





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2020年が静かに暮れていきます。

新型コロナ感染予防に明け暮れた1年でした。

取り巻く環境は大きく変わり、失ったものもありましたが、

人生の意味を省みる良い時間にもなりました。

一遍上人と運命的な出会いをした2020年晩秋、

GOTOトラベルを使い京都、神戸に訪れました。

 


一遍上人と染殿院》

さて、時は1248年。

46歳になった一遍上人は4月16日、四条京極釈迦堂に入ります。

現在は京都市中京区新京極中之町にある時宗のお寺染殿地蔵となっています。

一遍聖絵』には踊り屋を作って踊り念仏を披露している図が見て取れます。

身分の貴賤上下もなく、すさまじい人数が押し寄せる大盛況で、

見物にやってきた貴族の牛車が、引き返すこともできないほどの

無茶苦茶な賑わいでした。

ここぞとばかり一遍は念仏札を配ります。

お坊さんに肩車をしてもらって、上から念仏札を撒きます。

我も我もと手を伸ばす人たち。結縁につぐ結縁。

来ている人以上に一遍もものすごい高揚感に満ちていたことでしょう。

 


染殿院へ新京極にある有名な甘栗屋さんの脇から入りました。

弘法大師空海により808年により創建された染殿院は

安産を守る寺院と呼ばれています。

子宝に恵まれない文徳天皇のお后が

「四条の寺院に御利益のある地蔵菩薩が安置されている」と聞き、

願掛けを行ったところ、満願の日に懐妊の兆候があり、

時満ちて男の子を出産をされました。後の清和天皇です。

お后は染殿皇后と呼ばれていたことから、

地蔵菩薩は「染殿地蔵」寺院は「染殿院」と呼ばれ、

安産を守る寺院として全国へ広まっていきました。

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一遍上人が京都に行き、染殿院に真っ先に入ったのも、

そこが市中の人たちの信仰に対象となっていたからではないかと思えるほど、

地域に根ざした寺院でした。

 


《平家ゆかりの長楽寺》

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さて、祇園町の賑やかな通りから、

八坂神社を抜けて、円山公園の奥へと歩いていくと、

静寂な空気に包まれます。

晩秋の京都の紅葉はまだまだ美しい色合いをとどめていてました。

805年桓武天皇の勅令によって創建され、

天台宗比叡山延暦寺の別院として建てられましたが、

その後、時宗に改まりました。

壇ノ浦の戦いで平家が敗れたとき、平清盛の娘で、

安徳天皇の生母であった建礼門院も幼い安徳天皇と共に入水しますが、

源氏の兵士に髪の毛を絡みあげられ、助けられました。

そして、29歳で出家し、御仏にすがり、亡くなった愛する人たちの供養して過ごします。

高校生の時、古典の授業で読んだ「建礼門院右京太夫」を思い出しながら、

お墓に頭を垂れました。

 

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竹林を通り、さらに奥へ進んでいくと、ぱっと視界が開け、

京都市中が見晴らせる素晴らしい景色が広がっていました。

 

 

 


時宗初期歴代上人像八体が並ぶ中に、運慶の作風を伝える一遍上人の立像がありました。

ああ、また会えましたねと声をかけたくなるお顔でした。

 

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《女人往生の寺 誓願寺 和泉式部 誠心院》

 

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海外からのお客様がいない京都は、

和服姿の日本人女性が目立ちました。

有名な観光地には人出も多いのですが、

ちょっと外すと本当に静かで、ゆっくりと見て周ることができます。

ここ誓願寺も新京極に街中にあり、

平安時代の有名な二人の女性作家、

清少納言和泉式部極楽往生しているお寺です。

清少納言はあまりにも有名ですが、

和泉式部紫式部に比べてやや地味に見えますが、

冷泉家の皇子兄弟とも熱烈な恋愛関係に陥るなど、恋多き女歌人でした。

天性の美貌と歌才に恵まれた和泉式部でしたが、

最愛の娘に先立たれ、誓願寺で仏の道を求め、髪を切り尼になりました。

「女人往生」のお寺なので、恋に悩む女性も多く訪れるようです。

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和泉式部の歌碑 

「霞たつ 春きにけりと この花を 見るにぞ鳥の声もまたるる」

 

 

また、世阿弥の作と伝えられている謡曲誓願寺』は

和泉式部一遍上人が縁起と霊験を物語り、和泉式部が歌舞の菩薩となって現れることから、

芸能の世界に人たちが扇子を奉納するようになりました。

また、ここから落語も始まったそうで、庶民に愛されるお寺だと思いました。

 


 『京都時宗道場《御朱印》巡り』には16寺院が掲載されています。

「道場」とは古くは「さとりの場」「修行の場」でありました。

浄土門では念仏三昧の場として「念仏道場」が置かれたゆえに、

時宗では「道場」と呼ばれる寺院が多いということがわかります。

 

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 一遍上人は市屋道場と呼ばれた金光寺に長く滞在し、

高床式の踊り屋をたて、遠くからでも見物できるようにしました。

道場の周りには貴族、武士、坊主、尼僧、庶民があふれかえり、

ボロをまとった貧民もたむろしていました。

おそらく、炊き出しをしたおこぼれに与ろうと噂を聞きつけてやってきたのでしょう。

みんなで踊って、食べて、念仏唱えろ!

 


市場道場を離れ、桂、現在の京都右京区に移った一遍は病に倒れ、

3ヶ月ほど、桂にとどまり、養生します。

連日連夜踊りまくっていた疲れも出ていたのでしょう。

すっかり寝込んでしまいましたが、ゆっくり思索する時間を持ちました。

 


久しぶりに栗原康先生の「死してなお踊れ」から引用させていただきます。

 


愛のためだとか、信心のためだとかいって、自分の利益を満たそうとするのはもうやめよう。やればやるほど、自分がそれにとらわれてしまって、生きにくくなってしまう。

 どうしたらいいか。一遍はこういっている。たいせつなのは無念だ。なにものにもとらわれないこころ、ただそれだけなんだと。財産なんてどうでもいい、見返りなんてどうでもいい、迷惑がられたってかまわない。ただ相手にしてあげたいとおもったことをやってしまえばいい。いつだって、仏のこころはおせっかいだ。おもったことは、捨て身でやれ。一心不乱に身を捨てひとを愛しても、なにかもどってくるだなんておもわないで。それがひとをおもい、仏をおもうということだ。アミダの慈悲の芽みたいなもんだといってもいいだろうか。その芽は、わたしたちの日常生活のあらゆる場に遍在していて、しかもけっしてなくなってしまうことはない。ありふれた生の無償性。そろそろ、その花をさかせましょう。さけべ、うたえ、おどれ、あそべ。おのれの神(たましい)をふるわせろ。死んだつもりで芽吹いてみやがれ。いますぐ散ってもかまわない。三千世界、いちどにひらく梅の花。一丸をなって、バラバラに生きろ。…

 

 

 

この年末年始、会いたい人たちにも会えず、

おとなしく家にいることになりそうです。

思索をするには良い時です。

 

みなさま、良い時間を過ごしてください。

 

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やっぱり京都はいいですね〜

 

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