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港も見える丘から

人生のゴールデンエイジにふと感じることを綴っていきます

NO.139 君はどこにいるの

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「君はどこいるの」

時は昭和39年、東京オリンピックを控え、
右肩上がりで沸き立っている時代。
妻に先立たれ作家の藤沢省二郎は、
すみ慣れた邸宅を売り払い、

鎌倉にこじんまりとした平屋に移り住みました。

一人娘のみことお手伝いのきよと3人が暮らしていくには十分でしたが、
大きな家を手放したわりには、多額な税金がかけられ、
手元の現金が少なく、省二郎は気がおさまりません。
相続税、不動産所得税、固定資産税、そこに延滞手数料まで乗り、
愛国心がなくなった」と大げさに騒ぐ省二郎でした。
実は一人娘のみこの行く末が案じてならない省二郎は
少しでも財産を残せるように考えていたのでした。
みこは戦時中軍需工場へ駆り出され、栄養失調と過労で身体を壊し、
腎臓を片方摘出してしいました。
疲れやすく、結婚も覚束ない状態でした。
自分への父親の思いを知っているみこは、つとめて明るく振る舞い、
憎まれ口を叩き、自分の弱さを決して見せないようにしていました。

ある日、「作家と娘」という取材に訪れた女流カメラマンの
活き活きとした姿を見て、自分の身と比べたみこは取材を拒否し、
父親を困らせましたが、みこの良き理解者きよは、
省二郎にみこの気持ちを伝えようとしますが、
すぐには呑み込めない父親でした。
本当の自分はどこにあるのかしらと自問自答するミコ。

入浴中に女性からの電話に慌てて出るだけでなく、

有頂天で、大はしゃぎする父親を見て、複雑な思いを持ちました。

2年前に妻をなくした省二郎は、旅先で出会った女性を愛するようになり、
彼女の離婚が成立したので、再婚すると言い出しました。
お相手の高野冴はみこと同じ年です。
冴は省二郎のプロポーズを受け入れますが、同居はしないと宣言します。
みこいる家から朝来て、夜帰る「妻問い婚」を主張して譲りません。
仕方なく原稿用紙を抱え、省二郎は鎌倉から東京へ通うという結婚生活が
始まりました。
帰る電車が一本ずつ遅くなって来ました。
寒い冬の日も終電で帰る父親を、玄関で待つみこ。
彼女の身体は次第に弱っていきました。
お互い距離を置きながらも気遣いあうみこと冴。

 

父親を冴が本当の幸せを築くために、自分も積極的に生きたいと思い、

阿波踊りを踊ってみせるミコ、

心臓に負担がかかり、その場で倒れてしまいました。

 

娘と若い妻、どちらも大切で愛する省二郎でしたが、
みこの、その命の灯火が消えてしまったとき、
深い慟哭の中で冴を遠ざけていました。
あの戦争さえなければ… みこは元気でいられたのに…
みこ、もう一度、あの憎まれ口を叩いておくれ、
みこ、どこにいるんだ、
省二郎の慟哭…
主をなくした部屋にポツンと置かれた
みこの揺り椅子が揺れ、
私の青空」が流れてきました。

 

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昭和39年… 私は8歳でした。
東京オリンピックの前で全てが輝いていました。
傷痍軍人の姿が街から消えていき、
防空壕跡などの戦争の傷跡が消され、
大人たちは明るい未来を夢見ていました。
子どももはしゃぎ回っていました。

訳もわからずに。

 

 

昭和3年生まれの母は鶴見の軍需工場で青春を過ごしました。

ミコさんは昭和4年か5年の生まれという設定とお聞きし、
母と重なりました。

青春を返してほしいとよく言っていた母…

母の死後、すぐに再婚を決めた父、
まだ42歳だったのだから、仕方ないと思いましたが、
母が存命だった時からの交際相手との結婚に
私は許せない思いでいっぱいで、
「あなたの結婚相手としては認めるけれど、
母親としては認めない」と言い放った18歳の自分を思い出しました。

家族とはなんだろうと思います。
私の思い描いていた家族作りは、夢に終わりました。

君はどこにいるの…?
私はどこにいるの…?

すーと涙が流れて、そっと拭ったいわきの夜でした。

 

 https://youtu.be/59bnXW280lE

 

NO.138 いわき復活への道

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東日本大震災から6年の歳月が流れました。
まるでもう復興されたいるかのように思い込もうとしても
まだまだ道のりは険しいものがあります。

 

もともと過疎化が進んでいて、諸問題が山積している地域が
根こそぎ生活基盤を失ったのです。

復興 reconstruction という言葉は元通りにするという意味を
持ちますが、
東北には 再生 rebirth が必要だと日頃思っています。

支援として何ができるかとずっと考えていますが、
あまりに微力でおこがましくて、支援などできません。
私の一つの道はその場に行って寄り添うことだと思っています。

昨年11月、JAERVのいわき公演日に紹介されたお芝居が

「君はどこにいるの」でした。

 

いわき市市政施行50周年記念事業 ならびに福島復興支援事業として
特別にいわき芸術文化交流館アリオス大ホールで開かれた

石井ふく子名作劇場〉「君はどこにいるの」

実行委員長をされているMさんのお誘いをいただきました。

気張って和服を着ていきました。
自分で着付けて電車に乗り、いわきまで行って、翌日 帰る…
結構きついと思いつつ、
せっかくの千秋楽なのでと、久しぶりの着物を準備しました。


石井ふく子さんは東芝日曜劇場の名プロデューサーで、
私は小学生の時からの大ファンでした。

最初に「愛と死を見つめて」を見た時の衝撃は忘れられません。
大空真弓さん主演でした。

 

シリーズでは
池内淳子さん「女と味噌汁」(1965〜1980)
吉永小百合さん、杉村春子さん「下町の女」(1970〜1974)
森光子さん「天国の父ちゃん こんにちは」(1966〜1974)

 

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この三本は欠かさず見ていました。
亡き母が大好きで、一緒に見ていました。
母は必ず泣きました。ポロポロ 涙をこぼして泣きました。
「天国の父ちゃん こんにちは」が一番好きでした。

1972年に亡くなった母との思い出の中で
一緒にテレビを見たこの時間は愛おしく感じます。
最終回は一人で見た私は、この番組で人生の理不尽さと
たくましく生きる女の強さを学びました。

 

 

下町言葉、山の手言葉、
おじいちゃん おばあちゃん、
おじさん、おばさん、お姉さん、お兄さん みんな、
それぞれの言葉を話していた時代、
テレビから流れる言葉は美しく聞こえました。

 

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この作品は東芝日曜劇場に書き下ろされた「懐かしい顔」で、
石井ふく子先生のご尊父 伊志井寛先生が父親役、
娘役は高峰秀子さんでした。
原作は小島政二郎先生、脚本は砂田量爾先生でした。

感銘を受けた伊志井先生は新派舞台でも取り上げたいと思い、
演出をふく子さんに任せることになったのです。
父親役は伊志井寛先生、娘役は水谷良重さんでした。


それから50年近くの歳月がたち、
三越劇場創立90周年の記念公演として、
「懐かしい顔」は「君はどこにいるの」と改題し、
上演が決まりました。

今回の配役は
父親役に西郷輝彦さん、娘役には一路真輝さん
父親の再婚相手役に竹下景子さんです。
皆さん、素晴らしい演技で、会場を魅了しました。


Mさんのご好意で、なんと、
打ち上げ会場にも参加させていただき、
石井ふく子先生と東芝日曜劇場のことを
親しくお話しできました。


3歳お姉さんの竹下景子さんとも
クイズダービー時代の昔話に花を咲かせ、
一路真輝さんとは昭和38年当時の思い出を語り合いました。
至福の時間でした。

西郷輝彦さんに写真撮影をお願いしたら、
笑顔で応えてくださり、SNSアップのお許しもいただきました。

 

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同じホテル宿泊していましたので、お部屋戻るエスカレーターもご一緒。
地方公演の良さをしみじみ感じました。

翌日朝食会場でも皆さんとご一緒。
こういう時、着物を着ていると印象深いものだと思いました。

 

 

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津波で甚大な被害を受けた薄磯。
息子たちが幼い頃は毎年 薄磯で海水浴をしていました。
何軒もあった民宿は全て津波に呑まれてしまいました。

その地奇跡的に残った「雲雀乃苑」
塩屋埼灯台の足元にある観光拠点で、美空ひばりさんの
名曲「 乱れ髪」の歌碑が建っています。
周辺の道路もやっと通行できるように整備が進みました。
6年を期に ひばりさんが残してくれた 地域の財産を復活して、
地域の復興・復活を取り戻すための祈念祭も行われました。

快晴の青空の元、ひばりプロダクション 加藤和也社長を
来賓にお迎えしてもセレモニーが行われ、
「君はどこにいるの」の出演者のみなさまを交えての
テープカットも行われました。

 

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いわきの復活、再生はまだまだこれからだと思います。
過去のことと思わず、これからも寄り添うことができたらと
思いました。

 

 

地元の民宿 今はプレハブで食堂してます。なんでも美味しいです

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 また来ますね〜 いわきのお友達に手を振って

帰路につきました。

 

 

 

 

 

 

NO.137 耳が痛い話し…と月夜のノクターン

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ピアニストの久元祐子さんのブログをいつも楽しみにしています。
先日は“ショパン@なんば”というテーマのブログで、
YAMAHAなんば店サロンでのショパン講座のことを書かれていました。
ショパンの愛した楽器プレイエル、その柔らかなピアニッシモ
ふわりと残響が残るまろやかな切り口を、
現代のピアノにどう翻訳していくかなどを
演奏を交えてお話してくださるなんて
夢のような講座で、近くなら飛んでゆきたいと思いました。

 

f:id:tw101:20170307202709j:image(プレイエル)

 

さて、そこでのエピソードです。
繊細な音色のお話をするので、サロンの中では
マイクを使いたくないと準備したところ、
後ろの方から声が聞こえないのでマイクを使うことになりました。

祐子さんのお許しをいただき、
ブログを引用させていただきます。

………………………………………

 

 


態度が大きいのに、私の声は小さい、、(泣)ということでしょう。諦めてスタッフの方が用意してくださったマイクを使って話し始め、ピアニッシモの魅力、ディミニュエンドの消え入るようなニュアンス、ため息のモチーフなど弱音アプローチを展開していきました。現代のピアノはフォルテッシモやマルカートを得意とする楽器ですから、そこからピアニッシモやレガートを引き出すには「技術」が必要になってくるからです。

そうこうするうちに、皆さんの耳が弱音に慣れていかれたようなのです。マイクが全く必要なくなりました。
音量というものは、「慣れ」の要素が多く、騒音の中にいると大きな声でなければ聞こえませんし、耳鳴りがするほどの静寂の中では小さな木々のそよぎでさえも聞き逃すことはありません。

光もスピードもそうです。闇に目が慣れてくると先が見えてきたり、高速道路から一般道に降りたとき、速いスピードに慣れてしまって速度を落とせなかったり・・・。

現代は、大きな音に耳が鳴れている時代です。電気がない時代の"蝋燭と月明りの夜"に想いを馳せ、ショパンの「デリカティッシモ」に近づいていきたいと思ったひとときでした。
…………………………………………………………………………


日頃感じている思いが、すっきり美しい言葉で表現された
気持ちよさです。

今、耳をすませてみればこうしていると ゴーンという本覚寺さんの
時を知らせる鐘の音がします。

空高く飛ぶジェット機の音も、電車の音もします。
ここでは、汽笛も聞こえる時もあります。

朝には小鳥の声、風のそよぐ音、雨音、

都会でも身の回りには
いろいろな自然の音が聞こえます。

ところが、外に出て、たとえば、駅の近くに行くと、
あちこちから、電子音が聞こえてきます。
電車やバスにのれば、次の停車駅の案内や
注意喚起のアナウンスがひっきりなしに流れます。
隣り合わせのお店が、大音量で異なる音楽を流す
ファッションビルや、
ドアが空いた途端、はじける玉と電子音楽が飛び出してくるパチンコ店、
どこに行っても、音が溢れ、雑音になっています。
だから、みんな、イヤホンをかけ、自分の音だけ聞いているのでしょうか。

 

私は左の耳の構造がちょっと違うみたいで、
子どものときから、音に敏感、というか、
大きな音が怖くてたまりませんでした。

一番嫌いなのは雷の音。
恐怖で箪笥の中で耳を塞いでいました。
花火も音が怖くて苦手。遠くで見るだけ。
運動会のヨーイドンの空砲は身体が固まってしまうほど。
お風呂屋さんのカーンという桶の音が
耳に突き刺さり
室内プールのワンワンワンとする音も苦手。

大きな音が嫌いだったので、
多感な時期もロックを聞かなかったと
後になって気づきました。


静寂は無音ではありません。
虫の鳴き声を「声」として認識できるのは
日本人とポリネシア人だけだそうです。
それは右脳と左脳の違いで、
虫の音を西洋人が音楽脳である右脳で処理するのに対し、
日本人は言語脳の左脳で受け止めると、
東京医科歯科大学の角田教授が実験で突き止めたそうです。

脳の違い、耳の構造の違いで、

また、年齢の違いで、
同じ音も個人差が出てくるものなのでしょう。

 

雑踏の中で、雑音に慣れてしまうと、
かすかな音など聞こえない耳になっていきます。
聞かないように自分を訓練してしまうこともできます。

 

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〈現代は、大きな音に耳が鳴れている時代です。電気がない時代の"蝋燭と月明りの夜"に想いを馳せ、ショパンの「デリカティッシモ」に近づいていきたいと思ったひとときでした〉

蝋燭と月明かりの夜、繊細かつ優美な
ショパンノクターン全曲を聴いてみたいと思いました。

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(しぇあひるずヨコハマから)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

NO.136 にっぽんよ にっぽん ドドンガドン

 

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…………テレビのせいである。
と、唐突に書く。
すべてがテレビのせいでないにしても、99パーセントは、テレビのせいなのだ。
テレビが人間を“思うままにもてあそん”でいる。
そうするために、私は三十年近くテレビの仕事をした。
日本と日本人を手玉にとるために、視聴者であるあなた方をなぶりものにするために、もてあそぶために、仕事に精を出したのである。
内部告発だ。だから信用してくださっていい。…………

 

       

 

林秀彦著 「ココロをなくした日本人」
第4章 とりとめのない不安はどこからくるのか 「わかりやすさ」が「決然さ」を阻む
からの抜粋です。

断捨離で本の整理をしているので、今は本は買わないことにしました。
そこで横浜市立図書館で本を借りてきての読書三昧。
中央図書館でないので、豊富な品揃え!というわけにはいきません。
それでも、背表紙が私に読んでと声をかけてきます。
今回、私を誘ってきた魅惑の方が林秀彦さんです。
面白いので、ちょっと長くなりますが、引用を続けます。

 

 

…………「わかりやすく!」
が、いつ頃からかの至上命令、というか、絶対条件になった。
テレビドラマのシナリオを書く際のである。
「むずかしすぎる!視聴者はバカだ。もっとやさしく!」
誰がそんな命令を発しているのか、結局は藪の中のままだった。
ディレクターはプロデューサーだと言い、プロデューサーは制作部長だと言い、
制作部長は局長だと言い、局長はスポンサーだと言う。
私はその段階を実地に何度も上って行き、突きとめようとした。
「そんなこと言ってないよ。たぶん電通さんだろ」
とスポンサーの担当者は言った。
広告代理店で、その階段は行き止まりだった。

例えば主役の女優さんが泣いているシーンを書く。
「良子の頰に一筋の涙が光る」
とか、作者は“ト書き”に書く。
なぜ泣くかなどは、その役者さんが前後のストーリーの展開でわかっていればいい。

その心を表現するのが役者の腕の見せどころである。
セリフとしては、せいぜい「………」と書いておく。
考えながら見ている視聴者ならそれだけで理解し、同感、感動する。
ところがこれではバカな視聴者にはわからない、という。
もっとわかりやすく!
そこで、必要もないのに相手役の男優を登場させて、次のようなセリフをつけたす。
「どうしたんだ、泣いたりして」
「いいの、ほっといて…」
ところが、これでもわかりにくいという。そこでつけ足す。
「どうしたんだよ、言ってごらん」
「悲しいの…」
当たり前だ。悲しいから泣いているのである。
でも、これでもバカな視聴者は見過ごし、聞きすごすかもしれない。
もっとわかりやすく!
仕方がない、後はナレーションをかぶせるしかない。そこで書く。
「良子は、悲しさのあまり涙がこみ上げ、そっと頰を拭うのであった…」
見ていればちゃんとそのとおりの演技を役者がしているのだが、
バカな視聴者は見逃しているかもしれないのだ。
これでもまだわからない人がいるに違いない。
何しろ視聴者はオオバカの代表者なのである。
そこでディレクターが、作家に内緒でセリフを現場で書き足す。
「悲しいかい?」
「そう、悲しいの」
「そうだったのか、そうならそう言えばよかったんだ」
「ええ、悲しくて、悲しくて…」
これでやっと、どんなバカで、考えることを一切放棄している視聴者でも、
理解できるかもしれないと、ディレクターは胸をなでおろす。
みんなが理解するドラマでないと、視聴率が取れないのである。
理解する、と同時に、その一人一人の日本人から考える能力を殺す。
オーバーに書いていることではない。
日常茶飯にテレビ局の中で起きている事実である。
(略)
ドラマの登場人物には個人の考えなど一切なく、曖昧な人物ばかりになるというに等しい。

となれば、見ている人間も、全員曖昧になる。
自分のしっかりした意見や、決然とした考え方や、指針など持てなくなる。

決然さのあるドラマはだめ、漫然としたドラマがいい、これが絶対方針なのである。

そのころはまだ誰も、漫然さが不安の母体などと気づいていなかったのだ。
……………

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林秀彦さんは1934年生まれで、学習院高等科を出て、19歳で横浜から船に乗り、
ヨーロッパに行き、ドイツ、フランスの大学で哲学を学び、帰国後、松山善三に師事し、

脚本家として活躍されました。
「ただいま11人」「若者たち」「七人の刑事」「鳩子の海」など多数の作品があります。
お父さんの林賢一氏も文筆家で、「おはなはん」のモデル林ハナさんはお祖母様にあたり、

離婚した奥様は冨士眞奈美さんという、日本のテレビ放送の生き証人という方でしたが、

1988年、オーストラリアに移住してしまい、2010年に亡くなりました。

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この著者は2000年発行となっています。
今、林さんがバラエティー番組ばかりになったテレビを見たら、
なんとおっしゃるかしら…と思います。

林さんのお母さまは俳句を嗜む方で、
豊富な語彙を持って子育てされたのでしょう。
小さい頃から慈しみを持って接してもらえる子ども、
否定的なことばを投げつけられている子ども、
テレビに育てられている子ども、
どのように育つか推測はつきます。

言葉がない子育ては思考を育てません。
それがわかっているのに、テレビだけでなく、
ネットゲームや教育アプリで刺激を受け続ける子どもたち…

なんとかしないとと思います。

 

鳩子の海 」 の斉藤こずえちゃんの歌を思い出します。

 

♪ にっぽんよ にっぽん わしらが お国
   まだ 守れるぞ 時間は あるぞ
       ドドンガドン ♪

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1974年4月から1975年3月まで放送されたNHK連続テレビ小説鳩子の海
最高視聴率は53.3パーセントのこのドラマは、
広島原爆投下など、戦争のショックで記憶を失い、
瀬戸内の港町で育てられた少女の放浪の軌跡を描いたものでした。

私は高校を卒業するときでした。
日本を守る…そんな意識はなく、
ただ自分の将来ばかりに気を取られていた時です。

今、私は 孫たちの世代のためにも

日本を守りたいと思います。

まだ守れるぞ、時間はあるぞ!

この言葉が私を駆り立てている春の日です。

 

 

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NO.135 冬来たりなば春遠からじ

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3月 弥生に入りました。

 

来月、グランドオープンを迎えるしぇあひるずヨコハマですが、
二つの建物を同時にリノベーションするというのは
想像以上に困難なことが多く、
気の休まることはありません。

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工事が始まってから、のべ700人の方々が
作業をしてくださっていると聞きました。
関係者の方々に毎日感謝して過ごしています。

 

 

前橋の養蚕家の三男に生まれた祖父は22歳で
希望を持って上京し、東京で仕事を得ようとしましたが、
海が見たくて、そのまま横浜に来てしまい、
ご縁をいただき、神奈川県警で働くことになりました。
お酒は飲めず、冗談一つ言わない真面目な祖父の趣味は
詩吟と書道でした。

 

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〈ひ孫誕生 聖路加病院にて 87歳の祖父〉

 

終戦後、神奈川区軽井沢にあった三菱重工社員寮の舎監を務めていた頃、
祖父はご縁をいただき、神奈川本覚寺の僧正さんと親しくなりました。
お寺といえども戦禍を逃れるわけにもいかなかった時代、
本覚寺は水も出ない有様で、様々な不自由を強いられていました。
そのことを知り、祖父はなんとか力になろうと、
三菱重工のツテを頼りに尽力し、諸問題は解決していきました。

 

僧正さんは祖父に恩義を感じ、ずっと頼りにしていたそうです。
そして、高島台の土地、好きなところを使っていいから、家を建てませんかと
申し出てくださいました。
祖父は港が見える丘をたいそう気にいり、住むことにしましたが、
全てを借りることはしませんでした。

昭和28年、私が生まれる3年前のことでした。

 

 

そこには、大邸宅が建っていましたが、横浜大空襲で消失してしまい、
見事な石の灯篭が3つ、日本庭園の池と、洋館の後を忍ばせる鉄筋が
残っていただけだったと当時の記憶を
叔母が話してくれました。

母は祖父母と力を合わせ、父の財力の助けを借りて、
10年の間に叔母、叔父の家を含む
家3軒 アパートを2軒建てました。

そして、44年の生涯を走り抜けていきました。

 

 

再婚し、別居した父は頼りにならず、
私は4つ年下の弟の面倒を見ながら、青春期を過ごしました。
12歳で母を亡くした弟を、周囲の大人は不憫に思い、
甘やかし、なんでも好きな物を買い与えました

弟は大学の時、鬱状態の少ない躁鬱病を発病しました。
人付き合いも良く、面倒見も良い性格で、
友達もたくさんいました。
鬱がないなら、それほど深刻でもないと思われがちですが、
躁状態時は気が大きくなり、
借金をしてまで、大金を使い、私は後始末に駆けずり回り、
他人に言えない苦しみを何度も味わいました。

欲しいものは、なんでも手に入るという経験しか持っていないのですから、
愛情の表現は好きな物をあげることと思い込むのも無理はありません。
好きな女の子には、要求されるままに買い与えました。
本当にほしいものは、物でなく、優しい愛情だったのに
その愛情を誰も与えることができなかったのかもしれません。

 

私が結婚した時、子どもを出産したとき、
息子が小学校に行く時、孫が生まれた時、
そういう私の一番大変な時に限って
彼は調子を崩してしまいました。
私の注意を引くためだったのかもしれません。

浅草の商家で、朝から晩までくたくたになって働きながら、
子どもを育てるだけで精一杯の私に
さらに重い足枷となった弟でした。

その弟は2年前に初めて、家賃収入のある実家を出て、
家賃を払って住むという当たり前の暮らしを生活を始め、
遅いけれど、独り立ちをしました。

 

たった二人しかいない兄弟、仲良くして、助け合いなさいと

何度も母から言い聞かされて来ましたら、

見放すことができませんでした。

 

記憶も品物もいっぱい詰まった家の内部の一切がなくなったとき、

私は寂寞感と解放感を同時にもった自分に驚きました。

 

 

そして先日、2月27日、静岡に転居して行きました。
生まれ育った懐かしい土地を離れた時、
初めて感じる郷愁の念、彼は今、何を思っているか…
ただ、幸せになってほしいと思います。

 

f:id:tw101:20170302120948j:image〈昭和43年頃 弟と〉

 

このように弟の病について書くのは、これが初めてです。
心や精神から活力を奪い取られてしまうこの時代、

病を持っている人だけでなく、

ケアする立場の人も、逃げ場が少なくなっているように思えます。

 

私が経験したことが、もしかしたら、
一つの手がかりになるかもしれないと思い、
これからの時間、
私ができることを、
できる範囲で、
実践して行けたらと思うようになりました。

 

f:id:tw101:20170302121021j:image    f:id:tw101:20170302121124j:image 〈昭和35年 奥に見えるには日水社宅〉

 

 

 

その場として、祖父、母が愛した高島台。

ボロボロになって終焉を迎えるだけだったこの場所に

イースターの頃に、再び、新しい命が与えられます。

 

息子がリニューアルした、この場を用いて行けたらと思います。

 

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〈見晴らし最高の屋上〉

 

冬来りなば春遠からじ…

If Winter comes, can Spring be far behind ?

もし、冬という厳しい季節がなかったなら、
春の喜びをどうやって感じられるのだろうか?
春の訪れは寒くてつらい冬を越した人ほど、
喜びに満ちたものとなるはず…

シェリーの詩を何度も口ずさみます。

 

 

今、真冬で、絶対、春なんてこないと思う方にも
必ず春は訪れます。
この希望はどこから来るのか…
また、いつか、書いてみたいと思います。

 

 

4月になったら、やることがいっぱい。
そのために、今静かに本を読みたい…
曇り空を見上げて、ーふと思いました。

 

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昭和41年当時 

 

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同じ場所の今日。

50年のうちに松は大木になりました。

 

 

 

 

 

 

 

NO.134 横浜育ちの閨秀作家 ささきふさ

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自由学園父母会でご一緒だった尊敬する先輩のEさんが、

「昭和前期女性文学論」に論文を発表されました。

《ささきふさ「春浅く」と「ある対位」ーモダニズムフェミニズムの視点から》

というものです。

 

この論文を書かれる経過を聴いていた私は、

謹呈の栞が挟まれた厚みのある一冊を手にした時、

我がことのように、いえ、それ以上に嬉しく思いました。

お祝いしたくて、横浜にお招きすることにいたしました。

 

そこで、田中屋さんの平日限定お昼膳を予約しました。

横浜ゆかりの女性列伝集に名前を見ることができるささきふささんと

坂本龍馬の妻だったおりょうさん。

何かどこか共通するものを感じます。

 

お昼はお席の指定ができないということでしたが、

なんと、月の間に通されました。

先日、七五三のお祝いをしたお部屋です。

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とても優雅なお昼膳をゆっくりいただける極上の時間でした。

美しい器に盛られた美味しいお料理に舌鼓を打ちつつも、

話題は次から次へと飛び、尽きることはありません。

おりょうさんのお写真も見せていただき、開港当時の横浜に思いを馳せました。

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 そして、我が家にお招きし、喜久屋さんのラムボールでお茶をいたしました。

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さて、ささきふささんってどんな方だったのでしょうか。 

明治30年に東京市芝区で生まれました。

横浜に嫁いだ17才年上の姉繁が子宝に恵まれなかったため、

ふさは13才で繁の嫁ぎ先である大橋家の養女となり、

横浜市立本町小学校に転校しました。

大橋家は指路教会の熱心な後援者で、ふさは16才で受洗しました。

 

神奈川県立第一高等女学校(平沼高校)を卒業後、青山学院英文科に進学しました。

大学4年になる春先、デビュー作「男女貞操論」が矯風会の懸賞論文で一位入賞を果たし、

翌年、当時はまだ珍しい断髪にして、2年後には「断髪」という短編集を刊行しました。

男性の優位性と横暴性を生む男性中心社会に対して、

女性だけに要求される貞操観念に問題があると指摘し、

家、地位、財産、跡継ぎのための結婚は間違いで、

男女同等の価値観を持って、愛ある結婚をすべきだと述べています。

そして、そのために、女性には高等教育を与える一方、

男性には人として紳士としての人格的教養を与えるべきだと説いています。

《ささきふさ「春浅く」と「ある対位」ーモダニズムフェミニズムの視点から》参照

 

当時、こう主張するのは勇気のいることで、

「男女貞操論」を書いたことがきっかけで、

矯風会ガントレット恒子の秘書となりました。

 

大正12年、万国婦人参政権大会に出席するため単身ローマに渡り、

そのままヨーロッパで過ごし、関東大震災の知らせはパリで受け取りました。

エネルギッシュでハイカラなふさが結婚相手として選んだ男性は佐々木茂索、

新潮社に身をおく新進作家で、芥川龍之介が媒酌人という華やかさでした。

読書思索の生活と見事な主婦ぶりを発揮する場の均衡がよく取れて、

「佳人才子の新家庭は非の打ち所がなく、眩しいように輝いていた」と

友人の森田たまが語っています。

仲睦まじく暮らしながら、子宝に恵まれませんでした。

 

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広津和郎

「頭がヴィヴィドに働き、従って観察も鋭く早いが、ナマの感情をそのまま人には見せたくない。

云いかへればはしたなさなど凡そ人には見せたくない、と云うような意地で、自分を抑制しいゐるさういふしとやかさ。

ーそれには明治の東京の山の手の教養を身につけたひとの意地つ張りのやうな味もある。

そこがまた理知的に冴えた風貌の一面に、一種古風なものを何處かに感じさせる所以でもある」

と述べています。

《ささきふさ「春浅く」と「ある対位」ーモダニズムフェミニズムの視点から》参照

 

 

多感な時期を横浜で過ごしたふさがリベラルな

都市文化を身につけたのは想像に難くなく、

ハマっ子の私にも共通する何かがあるかもしれないと、

嬉しい気持ちになりました。

 

ふさは終戦後の昭和24年10月、癌性腹膜炎で逝去しました。

まだ53才という若さです。

茂索は昭和21年に菊池寛のあとを継いで文藝春秋新社を作りましたが、

翌年、公職追放の指令を受け社長を辞任しました。

しかしまたその翌年、再び社長に復帰し、

本格的な活動を開始する矢先に愛妻の死に直面しました。

 

今回、ささきふさに巡りあったことで、

私自身もこれからの生き方を考えるきっかけになりました。

 

晩年にあたる昭和21年の作品「おばあさん」は青空文庫でも読む事ができます。

そのしっかりとした、美しい日本語は読んでいて心地よい気持ちになりました。

おすすめです。

 

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早い時期から男女の不平等性に違和感を感じていたふさが、

今、私たちを見たら、どう思うかしら、ああ、日本も進歩したと思うのか、

まあ、何にも変わってないじゃないと思うのか、

と考えてしまいました。

 

私自身、何を変えたのかしらと、ふと、思いました。

 

 

NO.133 和をもって尊しとなす

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今年度から確定申告にマイナンバーが義務付‼︎

いつの間に⁉︎ と驚きました。

 

 

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私はマイナンバーカードを持っていないし、
通知書さえ手元にありません。

あの頃、父の看取りで家にいることがなく、
通知書さえ受け取れず、そのままに…

国民全員にナンバーを振る事は大変なことだと思います。
父にも、亡くなった後に通知書が届きました。
2015/10/5   ナンバーが配布された日に亡くなったレアなケースでした。

 

私が気になったのは、世帯主に家族全員の通知書が届いたことです。
サザエさん宅のように世帯で仲良く暮らしているという
大前提があるのでしょうか?

特殊な理由で住民票があるところに住んでない人
家族が険悪な状況にあったりして、
勝手に家族に通知書を取られ、渡してもらえない人など、
いくらでも通知書さえ手元にないことが考えられます。
こういう想像が得意な私は、世帯主にまとめて通知書を送っても大丈夫という
神経を持つ「お上」のすることがよくわかりません。
どうして、大事なマイナンバーが(成人には)個人宛に直接届くようにできなかったのかしら。

素朴な疑問は世帯主制度。

こういう行政制度海外にもありますか?興味あります。

 

通知書があろうとなかろうと、
マイナンバーなんていらないと徹底抗戦しようがしまいが、無駄なこと。
私はすでにナンバリングされています。
マイナンバーが記載された住民票を取ればわかります。

まだまだよくわからない制度です。


よくわからないけど、制度があり、義務付けられたのだから、
それを守ることは当然と、考えるのが当たり前なのでしょう。
でも、当たり前でしょ、と言われると、なんか、ちょっと嫌だなと思います。

そして、最近の風潮を見ていると、
ちょっと嫌だなということが多いような気がします。

ちょっとくらい嫌だなと思っても文句を言わずに
みんなと一緒にするものなの でしょうが…

 

 

「和をもって尊しとなす」
ほら、角をたてないで、みんな仲良くしましょうよ。

そういう風に使ってしまいがちなこの言葉。

 

ところが、憲法十七条の第一条で言っている意味は違うみたいです。

---人はともすれば、派閥や党派などを作りたがる。
さすれば、偏見に満ちたり、対立を深める結果となる。
そうではなく、お互いに心を和らげ、 睦まじく話し合いをし、
みなで合意を持つならば、道理にかなった行動をなすことができよう。----
というものです。

さらに 第十七条は
--- 重大な事柄は一人で決定してはならず、必ず、多くの人と
議論し、是非を検討してゆくならば、その結果は道理に
かなうものになるであろう----
という内容になっているらしいです。

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議論をうやむやにして、表面上の一致のみを求める
「空気の支配」や同調圧力に対して、批判しているのです。
聖徳太子は道理にかなった結論を得るためには
公正な議論が不可欠と考えていました。

 

 

この時代はヤマト王権が日本を統一国家にしていく過程の時で、
遣隋使を派遣し、外交的な政策をとりつつ、内部政策を充実させ、
仏教を取り入れて日本という国を作ろうとしました。
でも、新興宗教の仏教より神道を信奉し、仏教に敵対する勢力もあり、
なかなか一筋縄ではいかない時代でした。
そこで、お互いの考えを尊重して、話し合いをして道理に従って
決めていこうと取り決めをし、憲法を作ったのでしょう。

民主主義の根幹がすでにこの時代に謳われているのはすごいなあと
感心してしまいます。

このままいってたら日本は世界のリーダーになれたかもしれません。

 

それなのに、なんで今、間違った解釈をして
「ちょっとくらい嫌だなと思っても、長いものには巻かれて、
みんなで仲良く暮らしましょう」みたいな風潮になっているのでしょうか。

 

 

「和をもって尊しとなす」
英語ではなんて表現するのか調べてみました。

Cherish the harmony among people.


Putting Utmost Priority On Harmony !
Harmony is of [our] top priority.
Harmony is of utmost importance.
Harmony is of the highest preference.
Harmonizing Ourselves Comes First !

Harmony is to be valued.

和 はharmony …
ちょっとニュアンスが 違うのでは…と思い、
尊敬する英語の先生に伺いました。

結論は harmony and peace…

 

和  はずばり  WA 
日本人ならではの美しい思いが含まれています。

いい言葉です。

 

さてさて、このマイナンバー(日本語では個人番号 )

住基ネットみたいに消滅してしまうかしら。
それとも生まれたらすぐに体内にチップを埋め込まれてしまうとか…?
そうなったら「ちょっと嫌だなあ」ではすまないなあ〜と思ってしまいました。