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港も見える丘から

人生のゴールデンエイジにふと感じることを綴っていきます

NO.34 母の日の始まり

明日は母の日です。
私は16才の晩秋、母を亡くしました。
翌年「母の日」礼拝のとき、友人たちが胸につけた赤いカーネンションを見て、
「私にはもう母はいないのだ」と、急に悲しくなり、
家に帰るなり布団にくるまって泣いたことを今でも思い出します。
4つ年下の弟の母代りになってなんとか頑張っていた私の心の緊張の糸が
ふっと緩んでしまったのかもしれません。

さて、今のように母の日にカーネンションの花を贈るようになったのはいつからでしょうか。
アイルランドイングランドですでに17世紀に祝われています。
もともとは奉公中の子どもたちが年に一度、
教会で母親と面会ができるなどの特別な日として
レント期間の第4日曜(イースターの3週間前)に行われていました。


アメリカで南北戦争終結直後の1870年、
女性参政権運動家ジュリア・ウォード・ハウが、
夫や子どもを戦場に送るのを今後絶対に拒否しようと立ち上がり
「母の日宣言」(Mother's Day Proclamation)を発しています。

ハウの「母の日」は、南北戦争中にウェストバージニア州で、
「母の仕事の日」(Mother's Work Days)と称して、
敵味方問わず負傷兵の衛生状態を改善するために地域の女性を結束させた
アン・ジャービスの活動にヒントを得たものでしたが、
結局普及することはありませんでした。

ジャービスの死後2年経った1907年5月12日、
その娘のアンナは、亡き母親を偲び、母が日曜学校の教師をしていた教会で記念会をもち、
母の好んだ白いカーネンションを贈りました。
アンナの母への想いに感動した人々は、母をおぼえる日の大切さを認識し、
1908年5月10日にフィラデルフィアの同教会に470人の生徒と母親達が集まり最初の「母の日」を祝いました。
アンナは参加者全員に、白いカーネーションを手渡しました。
このことから、白いカーネーションが母の日のシンボルとなったのです。
アンナ・ジャービスは友人たちに「母の日」を作って国中で祝うことを提案しました。
1914年に「母の日」はアメリカの記念日になり、5月の第2日曜日と定められました。

日本では青山学院で教えた三人の宣教師夫人が「母の日」を伝え、広めました。
その一人マイラ・E・ドレーパー(1859~1935)です。
彼女は1913年、日本で最初に「母の日」の行事を行いました。
メアリ・J・チャペル(1852~1912)は帰国したアメリカで1908年から祝われるようになった
「母の日」について伝えられ、日本でもこれを広めようと努めましたが、病に倒れ、
その志をドレーバー夫人に託しました。

その後「母の日」普及に貢献したのが、ファニー・G・ウィルソン(1868~1957)です。
彼女は1900年から1902年まで青山女学院院長を務めた後、
青山学院宣教師で役員のロバート・P・アレキザンダーと結婚し、
1907年から34年間、青山学院構内の宣教師館で生活しました。
彼女がチャペル夫人・ドレーパー夫人の運動を継承し、日本各界の著名人に働きかけた結果、
ついに「母の日」は1932年、日本で初めて公式行事として祝われました。(青山学院大学HPより)

さまざまな事情で母の日を祝えない子どもを考慮して
赤いカーネンションを胸につけることをしなくなりました。
でもそこに「愛と思いやり」があるかと言えばそうでもない気がします。
母がいないという状況は変わりませんから、
その現実にどう立ち向かうかを一緒に考えていく大人になりたいと思います。

明日はジュリア・ウォード・ハウ女史について書きます。