出家して1年たったとき、生きながらして、
阿弥陀如来の極楽世界を拝みたいという大願を持つ中将法如のもとに、
6月17日、忽然を老尼一人姿を現しました。
老尼が申されるには「百駄の蓮を集めなさい」とのことでした。
それだけの蓮を一人で集めることはできず、父の力も借りて、
6月19日、20日の二日間で百駄の蓮は集めら、
21日、22日、二日で法如と老尼で蓮の茎を折って糸を紡ぎ、
寺の北東に新しい井戸を掘らせてその糸を洗い、染め、
傍らにある桜の樹にかけて乾かされました。
そういうことからこの井戸を染井といい、
その桜を糸かけの桜と呼ぶようになりました。
6月23日の黄昏に、今度は若き織姫があらわれ、
糸を眺めてうれしそうに「今夜織りましょう」と
機織りの道具を千手堂の西北の隅にすえて織始めました。
軽やかな音をたて見事な美しい仏と菩薩が織りあがっていき、
わずか3日で完成したのです。これであなたの願いは果たしました。
私はこれで帰ります。と老尼は中将法如に向かって言われましたので、
法如は老尼にとりすがり、ご身分をあかされるように頼みました。
すると老尼は座りなおして申されました。
「私は西方極楽の教主阿弥陀如来である。
お前のこのたびの願いを聞き届けるためにきた。
そして先に帰った織姫は、私の脇士の観音菩薩である。
よいかな、今より13年後、必ずお前を迎えにくる、それまで勤めて精進せよ」
そして座を立たれ、紫雲に乗られ、西の空に向かいかえられました。
時は流れ宝亀5年申寅となり、中将法如は28歳の春をお迎えになりました。
阿弥陀如来のお迎えが来るときまで、
一人でも多くの人々を招き集めて語り聞かせたいと思っておいででした。
するとやがて遠近から数知れない善男善女が本堂に集まってまいりましたので、
中将法如は曼荼羅に向かわれて語り始められました。
この様に極楽の世界のありさまを目の前にありありと語り聞かされ、
どの様な罪深い人間でも一度心から南無阿弥陀と名号を唱えさえすれば
必ず往生が叶うと真心をこめて説き聞かされたのでございます。
それを聞いた人々はこの曼荼羅を拝して、
心うたれ、喜びの涙を流し、念仏をとなえ、顔を喜びの光で満たしました。
明けて宝亀6年、中将法如29歳の時、
静かに阿弥陀如来の来迎をお待ちになりました。
往生が近いことを悟られ、沐浴して身を清め、手をあらい、口をすすぎ、
西方に向かって端座され合掌して念仏を唱えて待っておられました。
ついに14日の午後、紫の雲があたりに満ち、なんとも言えない香が漂い、
妙なる音楽が空の上に響きわたり、その雲間から一条の光明がさし、
阿弥陀如来を始め、多くの仏菩薩が、そのお姿を現され、
如来から放たれた一筋の光明が中将法如のお顔を照らし出し給うと思うや
、そのまま優しく微笑まれたまま、眠るように息を引き取られ、浄土でお帰りになりました。
臨終に集まってきた人々は、老若貴賤を問わず随喜の涙を流し、
口々に念仏を唱えて中将法如の遺徳を讃えたのでございます。(完)
【参考文献】 中将姫物語 編集発行者 川中光教
【中将姫とツムラ】
中将姫が家を出て最初に身を寄せたのが、初代・津村重舎の母方の実家・藤村家といわれ、それを契機に交流が始まりました。中将姫は当麻寺で修行していた頃、薬草の知識も学び庶民に施していましたが、その処方を藤村家にも伝え、それか藤村家家伝の薬・中将湯となったということです。
五日にわたっての連載も最終回になりました。
姫が織り上げた曼荼羅をこの目で見ましたが、それは見事なものでした。
キリスト教文化圏で壮大な宗教画を見て、感動するのとちょっと違いました。
天国も極楽浄土も、同じところでないかしらと思います。
人間の思うことなど、チリのようなもので、
もっともっと大きな力があるのでは、と、ふと思いました。