港も見える丘から

人生のゴールデンエイジにふと感じることを綴っていきます

NO.152 直木賞受賞作『銀河鉄道の父』

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風も涼しくなって、読書の秋、

勧められた門井慶喜著『銀河鉄道父』を読み終えました。

 


宮沢賢治の誕生から死に至るまでの短いけれど、

父、政次郎に深く愛された生涯を描いた感動作です。

 


宮沢賢治は1896年8月27日、岩手県花巻市

父宮澤政次郎、母イチの長男として生まれ、

祖父が創業した質屋を営む裕福な家で育ちました。

長男の賢治は後継としての家族の期待を

一身に受けて成長します。

 

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6歳の時に赤痢で2週間入院した際も

寝ずの看病をしたのは父政次郎でした。

看護していて自分も感染してしまった政次郎は

大腸カタルを起こし、生涯、胃腸が弱くなってしまいます。

「仕事第一の父親」でなく「子ども第一の父親」でした。

 

 


賢治は幼い時から、学力優秀で、

教師からはさらに上の学校進学を勧められます。

しかし、「質屋に学問はいらない」という祖父の一言で

一度は進学を諦めます。

実家の手伝いをして日々悶々と過ごす賢治。

自らも進学を諦め、親の後継ぎとなった政次郎は

賢治を進学させる決意をします。

そして、子どもの頃から石集めが大好きだった賢治は

盛岡高等農林学校へ進学します。

仲の良い妹のトシは上京して日本女子大学校へ進学します。

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「質屋に学問はいらない」

「女子に学問はいらない」

と言われた時代に、

後継者を自分の望む道に進ませ、

長女を東京の女子大に行かせるとは

政次郎は相当に教育熱心な父親であったと思います。

 


地元の名士の政次郎は、

子どもたちのそれぞれの個性を充分に生かした

ユニークな教育をしました。

 


やがて結核で身体を壊したトシは

岩手花巻に戻り、最後の日を迎えます。

 


“あめゆじゅ とてちて けんじゃ”

あの有名な詩『永訣の朝』で賢治は妹の臨終の

その瞬間さえも「詩」にしました。

政次郎はそんな賢治に驚きます。

それが詩人なのでしょう。

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賢治は優れた教師でしたが、やはり満足せず、

教師を辞して、

物語を紡ぐ道を選んでいきます。

 


妹や弟、教え子たちに話して聞かせた

物語を童話にしていきます。

法華教への信仰,

ひたむきな農民の心情を基に、

架空の理想郷、イーハトーブを作り、

創作活動を続けますが、

その道は決して平坦ではありました。

自費出版した「心象スケッチ 春と修羅」も

思うように売れませんでした。

 


結核の病魔は賢治を離さず、

最後は最愛の妹トシと同じように、

故郷で母に看取られて息を引き取りました。

享年37歳。

両親の思いは如何ばかりだったことでしょう。

 


やがて、生前には知られなかった賢治の作品は

弟清六や草野心平らの尽力で

世間に広まって行きます。

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最愛の息子 賢治の最後の願いは

〈日本語訳の妙法蓮華経を一千部つくって、

みんなに差し上げてください。〉というものでした。

政次郎は確かに約束を果たしました。

 

 


息子がかわいくて、かわいくて仕方ない

スーパー親バカ とも言える宮澤政次郎…

 


愛されて、大切にされて育った賢治は

文学者としては、もしかして、珍しく、幸せな

人生だったと思います。

 


こうして小説は終わります。

 


賢治は日蓮の法華教信仰を持っていましたが、

彼の描く小説には、聖書の言葉や

キリスト教の思想が垣間見られます。

 


実は花巻で宣教師との出会いがありました。

このお話はいずれ、また、書きたいと思います。