港も見える丘から

人生のゴールデンエイジにふと感じることを綴っていきます

NO.197 一遍上人⑥ 一遍さんの生涯

 

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「遊 捨て聖 一遍上人 踊り遊ぶ」がAmazon

浄土宗部門で売上ランキング2位に浮上

という嬉しい知らせが治海さんから届きました。

 


堂々1位は栗原康さん「死してなお踊れ」です。

すごいです。

 



 


嬉しいことがあると 俄然 元気がでてきますね。

さて、これまで一遍上人について書いてきましたが、

いよいよ、その生涯を紹介します。

 


様々な文献がありますが、その中で圧倒的な面白さ、

栗原康さんの一遍上人年譜を引用させていただきます。

 


Amazon Kindleの文章コピーには制限があり、

先日の浄土宗の文章も、この年譜もiPadで入力しました。

大変な作業でしたが、おかげさまでしっかり頭に入りました。

コピぺだけではダメなのだなあとつくづく思いました。

さて、一遍上人の生涯は…

 

 

 

1239年(1歳) 伊予の道後(愛媛県松山市)でうまれる。うぶ湯はとうぜん道後温泉だ。温泉うまれ、温泉そだち。父は河野通広。幼名は松寿丸。

 


1249年(10歳) 母の死をきっかけに出家。随縁と名づけられる。

 


1251年(13歳) 修行のため九州の太宰府へ。浄土宗西山派聖達に師事。とおもったら肥前佐賀県)、清水寺の華台にあずけられる。ありったけの経典と注釈書をよんでくるのじゃあ。華台から智真と名づけられる。わずか一年で教義をきわめる。華台もビックリ。ふたたび聖達のもとへ。師匠によろしく!

 


1263年(25歳) 5月24日、父の死をきっかけに還俗。病身の兄をたすけるために、故郷にもどる。あんちゃ~ん! 屋敷をかまえて結婚。煮ても焼いてもセックスだ。奥さんふたりに子どもふたり。アンアンノンノン観音さん。智真、世俗にまみれる。

 


1271年(33歳) 親類の恨みをかって、数人の郎党に襲撃される。闇討ちだ。刀をうばってかえりうち。殺、殺、殺、されど殺。血まみれじゃあ! またこのころ奥さんふたりの愛憎嫉妬、ドツボにはまってどっぴんしゃん。ある日、碁盤をまくらに寝ていた奥さんたちの髪がヘビになって喰いあっているさまを目撃。ギャア!!! からみあうヘビを碁盤ごと刀でぶった切った。出家だ、再出家しかねえ。この春、聖達を再訪。帰りに長野の善光寺によって二河白道図をみる。秋に帰郷。窪寺の閑室にこもって、十一不二の頌をつくる。

 


1273年(35歳) 7月、菅生の岩屋へ。半年ほど山岳修行。

 


1274年(36歳) 2月8日、いざ遊行へ。家も子も地位も財産もなげ捨てて、身ひとつで念仏をひろめにゆく。捨ててこそ。あ、あれ? 奥さんと娘も出家してついてきてしまった。チャチャチャ! まずは大阪、四天王寺へ。「南無阿弥陀仏」とかかれた念仏札をくばりはじめる。このころから一遍を名のる。夏、熊野本宮へ。信心のないお坊さんにも念仏札をくばる。その夜、熊野権現から啓示。信不信を問わず、浄不浄をきらわず。いいよ。その後、奥さんと子どもを伊予にかえし、一人北九州へ。10月、蒙古軍が筑前(福岡県)に侵攻。元寇(文久の役)だ。一遍は戦地をまわる。むし湯をつくってケガ人の治療。よっ、テルマエ・ロマエ!翌年の秋、伊予にもどる。

 


1276年(38歳) ふたたび九州へ。遊行してまわる。豊後(大分県)では、守護の大友頼泰の帰依をうける。鉄輪温泉はじめました。ここにしばらく滞在し、他阿弥陀仏・真教がなかまになる。好(ハオ)兄妹!こののち、遊行には複数人が同行する。

 


1278年(40歳)  備前(岡山県)の藤井へ。吉備津宮の神主の家をたずねる。息子さんの留守中にその奥さんを出家させる。おせっかい上等でございます。帰宅後、怒った息子さんは一遍をおいかけ、福岡市で刀をぬいてきりかかる。一遍、これを眼力で撃破。ハ、ハウ。息子さん出家し、あたまをまるめる。これをみていた町の衆、われもわれもと一遍に帰依。いっきに280に人だ。マジヤベエ!

 


1279年(41歳) 秋、信濃(長野県)佐久郡伴野へ。小田切の里で、ある武士に屋敷に滞在。ここで自然発生的に踊り念仏がはじまる。ちええっ!ちえええっ!この冬、おなじ佐久郡大井太郎と、その姉さんが帰依。うちで踊り念仏と屋敷にまねかれる。ぜひもなし。三日三晩、数百人でおどり狂う。あまりはげしさに屋敷の板敷をぬいてしまった。フオオオオ、フオオオオオオ!!!壊してさわいで、燃やして、あばれろ。

 


1280年(42歳) 夏ごろ、長野を出て東北へむかう。奥州江刺郡(岩手県北上市)へ。承久の乱流罪となったおじいちゃん、河野通信のお墓参り。あばよ、じいちゃん。反乱上等、念仏よし。仏のまえではみな平等。いまいばっているやつがなんだ。この腐りきった武士の世に、念仏の火の玉をブチこんでやれ。いくぜ、鎌倉!

 


1281年(43歳)  5月、ふたたび蒙古襲来(弘安の役)。7月、暴風で退却していく。一遍たちはとにかく鎌倉をめざした。戦争はキライ。だまされねえぞ。鎌倉幕府。したがわぬえぞ。戦争動員。国土じゃねえよ。浄土だよ。

 


1282年(44歳) 3月1日、鎌倉の小袋坂へ。視察にきていた北条時宗の一行に制止される。一遍かまわず突進。棍棒でボコボコにされる。いたいよ、チキショウ!翌日から片瀬の浜辺へ。踊り屋をたてて、踊り念仏を決行。貴賤あめのごとくに参詣し、道俗雲のごとくに群集す。7月16 日までおよそ120日間、ぶっとおしでおどり狂った。いま死ぬぞ!いま死ぬぞ!死してなお踊れ。

 


1283年(45歳)  尾張萱津(愛知県あま市)の甚目寺へ。町の有力者からやたらと食べ物がとどく。一遍はそれで大規模な炊きだしをやった。乞食も非人も上下の貴賤なく、みんなで同じ釜の飯を食らう。その後、貧民救済の炊きだしが慣例になった。うわさをききつけた近隣の悪党たち、一遍を支持。「この坊さんに手をだしたらブチ殺すぞ」との高札をだす。

 


1284年(46歳)  4月16日、京都四条京極釈迦堂(現、染殿地蔵院)にはいる。ここで踊り念仏。すさまじいひとの群れだ。テンションのあがった一遍は、肩車をしてもらって狂ったように念仏札をバラまいた。ホレ!ホレ!その後、空也上人ゆかりの市屋道場(金光寺)へ。ふたたび踊り念仏。熱気、熱気、熱気。大盛況だ。はねろ、はねろ、はねろ。散って狂って捨て身ではねろ。シャー!

 


1285年(47歳)  美作(岡山県)の一宮中山神社へ。差別をうける。一遍に同行していた乞食、ハンセン病者はケガレているからはいれないという。なんだこのやろう、ふざけやがって。

ヤッチマイナ。神社の中でさわぎまくった。コメだせ、コメだせ、コメをだせ。おそなえ用の御釜でコメをたかせて、みんなに平等にふるまわせた。ざまあみやがれ。

 


1287年(49歳)  播磨(兵庫県)の書写山円教寺へ。絶景、そして秘宝・如意輪観音像に大感動だ。生きててよかったさ〜♪気分上々。山をおりたあと松原八幡神社にはいり、そこで「別願和讃」かく。

 


1288年(50歳)  伊予へもどる。12月、大三島大山祇神社へ。翌年2月、神事に生贄はいらねえとムダな殺生をいさめる。

 


1289年(51歳)  7月初旬、淡路島へ。一遍は体調がわるい。もうこれ以上うごけない。でもたのまれれば、いつでも死ぬ気で踊り念仏だ。いけ、いけ、往け、往け。おまえの命はいきるためにながれている。7月中旬、死期をさっし、大輪田泊(兵庫県神戸市)の観音堂(現、真光寺)にはいる。8月10日、もっていた書籍をすべ燃やす。「一代聖教みなつきて、南無阿弥陀になりはてぬ」聖典はいらない、教団はつくるな、念仏でゆけ。8月23日、死去。遺言はこれだけだ。「わが屍を野に捨て、獣にほどこずべし」一遍、カッコイイ。死んでからが勝負。いくぜ極楽、なんどでも。

 


なんとまあ、ロックンロールの生き方…でしょうか。

 


最期を少し補足します。栗原さん、ごめんなさい!

8月10日、(奇しくも、私のお誕生日)所持していた書籍類を阿弥陀経を読みつつ焼却してしまいました。

8月9日から7日間紫雲がたなびき、17日酉刻、御臨終といって人々がさわぎだします。

が、最後の札を授ける力は残っていて、20日から22日の3日間は水垢離をしました。

そして、8月23日の辰の始、往生。時衆及び結縁衆7人、一遍上人を追って、

前に海に身を投げてしまいます。

遺言にしたがって一遍上人の御遺体は野に捨てる…ことはされず、

観音堂前の松の下で火葬。在家のものたちが墓所を荘厳しました。

神戸真光寺です。そして、その後、相模原無量光寺に分骨されました。

 


事細かな軌跡がいまもなお残っているのは、

12巻に及ぶ「一遍聖絵」のおかげです。

 

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神奈川県立博物館資料室で調べて、一遍遊行略図を発見したとき、

初めて、遊行先の地理が頭に入りました。

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遊行開始から12年で、本州、九州を徒歩で、

遊行したのはすごいなあと思います。

 


一遍上人をそこまで鼓舞させたものはなんだったのでしょうか。とふと思います。

高邁な思想の果てに辿りついた境地から、というよりも、

なんだかなあ…この人生と思いつつ、ある時、阿弥陀仏の慈悲の本質にはっと気づき、

よし!やってやるぞ!と思い始め、お友達に支えられ…

あっちこっちからのお声かけに呼ばれて遊行していく、

大変そう、辛そう、だけど、とっても楽しそう!という一遍上人の姿が思い浮かびます。

 


先日、お誕生日を迎えて、私も人生とは何かと、考えてみました。

人生100年といっても、誰もが元気で100歳を迎えるわけではありません。

いつ「自分のその時」が来るのか誰もわかりません。

 


さて、これからの「おまけ人生」をどう生きるか…

一遍上人の人生をなぞりながら、思いました。

 


私は16歳で母を失くしてから、

事情があり、父からも独立して、

4つ下の弟の面倒をみながら、なんとか生きてきました。

大変な時もありました。

でも、その都度、その都度、

たくさんの方に助けられてきました。

多くの方から恩をいただきました。

いただいた恩をお返ししたいけれど、

すでに天国に召された方もいらして、

直接お返しできないかたもいらっしゃいます。

いま、縁を結んだ方に

いただいたご恩を送る…

恩返しならぬ、恩送りをしてゆけたらと

思うようになりました。

 

 


できないことを嘆くより、

できることを丁寧にやって

恩を送っていけたら、それは

わたしの一番の幸せなのだと思います。

 

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コロナ感染拡大で大変な状況に置かれて、

困った、困ったと頭を抱えている方も多いでしょう。

こういうときは迷わず神頼み!

神さま、神様、助けて!

仏さま、仏さま、お助けください!

声に出してみるといいですね。

踊ってみるのもいいですね。


きっときっと、幸せになれるという希望をもって

明日を生きることができたらいいですね。

 

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YouTubeのブックバーという番組で

杏ちゃんが「死してなお踊れ」を取り上げていますので、

ご覧になってください!

ご覧になってください。

https://youtu.be/hToPb6OTt1E