港も見える丘から

人生のゴールデンエイジにふと感じることを綴っていきます

NO.132 チャリティーコンサート In 建長寺

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北鎌倉から鎌倉へ向かう道に鎌倉五山第一位臨済宗建長派大本山建長寺があります。

1253年に宋から来日していた高僧・蘭渓道隆を招いて建立した最初の禅寺です。
けんちん汁の始まりの禅寺と言ったら親しみがわくでしょうか。

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先日、建長寺本堂でチャリティーコンサートがあり、
私は初めてお寺のコンサートを経験しました。

 

コンサートが始まる前に半僧坊から展望台に登りました。
鎌倉アルプスを尾根伝いで歩いた10代の頃を思い出しました。
展望台からは富士山も見ることができました。
梅の花咲く、美しい昼下がりです。

 

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コンサートは鎌倉のお母さんたちが福島の子どもたちを
毎年、鎌倉に招待している未来・連福プロジェクトさん主催で、
シンガーソングライターの佐々木祐滋さんと
バンデューラ奏者 ナターシャ・グジーさんが出演されました。

本堂には300人ほどの聴衆で満杯でした。

 

f:id:tw101:20170213200630j:image佐々木祐滋さんの歌う「INORI」

 

f:id:tw101:20170213201933j:image休憩時間にはホーリーバジル 茶がふるまわれました。

 

 

 

 

 

《 未来のこども達を守り、育て、幸福の輪を広げよう》という主旨は

私の思いと同じです。

親子で野山を歩いたり、茶道で礼儀を学んだり、華道で心豊かさを学んだりと

体験を重視した取組をしたり、

被災地みなさんを無料で鎌倉に招くこともされている未来・連福プロジェクトを

初めて知りました。

 

また、佐々木さんとナターシャさんは、お二人でピースオンウイングという
平和交流プロジェクトを主催されています。

佐々木祐滋さんは広島平和記念公園にある原爆の子のモデルである
佐々木禎子さんの甥御さんです。
NPO法人SADAKO LEGACY 副理事長として禎子ストーリーを通じて
相手を「思いやる」ことや相手と「分かち合う」心を共有できるように
禎子さんの遺品の折鶴を世界各国に寄贈し、
歌を交えた講演活動をしています。

叔母の禎子さんは2歳の時に広島で被爆しました。
足の速い元気な少女でしたが、10年後に白血病を発病し、
病に倒れました。
亡くなるまで、折鶴を降り続けました。
小さな指で折られた鶴は、時を超えて、世界に届けられ、
ニューヨークやホノルルにも送られています。

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1986年4月26日深夜チェルノブイリ原発で爆発事故が発生しました。
最初は重大事故とは知らされておらず、
翌日は普段と変わらない生活をしていた住民たち。
子どもたちは学校に行き、外で遊んでいました。

ところがその翌日になって、
大したことではないけれど、念のため、3日間避難してください。
必要なものしか持っていかないで
3日後に戻ってきます。

そう言われて街をでたナターシャさん一家は
2度と家に戻ることはなく、
あれから30年の時が流れました。

最初は大したことはないと思います。
放射能は目に見えませんから。

ナターシャさんは民族楽器 バンデューラ弾き手になり
2000年から日本で音楽活動をはじめました。
そして、禎子さんのお兄さんから、一羽の「禎子の折鶴」が贈られました。
平和への思いと、核の悲劇を繰り返さない願いが込められた一羽の折鶴。

チェルノブイリ原発事故から30年を迎えた昨年 4月26日、
日本から平和と友好の印として、
この折鶴が、ウクライナのマリーナ・ポロシェンコ大統領夫人に手渡され、
現在は国立チェルノブイリ博物館に展示されています。

翼に平和をのせて ピースオンウィング という平和交流プロジェクトでは、

ナターシャさんは希望する学校があれば
どこへでもウクライナから届けられた折鶴を届け、
チェルノブイリ原発事故についての学びが
できるような取組をされています。

 

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佐々木さんとナターシャさんから
私は「使命」というものを感じました。
「天命」と言うべきでしょうか。
人には、その人にしかできない使命があると思います。

五十にして天命を知り、
六十にして耳順う、

孔子の言葉を思いだします。

 

二度と帰ることができない生まれ故郷を思う

ナターシャさん歌に合わせて

全員で「ふるさと」を歌いました。

心が締め付けられるような思いになりました。

忘れてはいけない悲劇。

繰り返してはいけない悲劇。

 


コンサートの前には春の日差しに溢れていたのに
コンサートが終わる頃には小雪が舞っていました。

人生、何があるかわかりませんが、
天命を知って生きて生きたいと思いました。

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NO.131 「母」いよいよ上映です

 

プロレタリア文学の旗手と呼ばれた小林多喜二の母小林セキの
一生をプロテスタント作家三浦綾子が描いた小説「母」
その映画を観てきました。

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監督は御年85歳の最高齢女性監督 山田火砂子さんです。
山田さんは知的障害をもったお子さんを育てられました。
社会の弱者への温かい眼差しの映画を作られてきましたが、
最近の風潮に危機意識を持ち、
なんとしてでも伝えなければいけないという熱いパッションをもって、
「母」のメガホンを取られました。

 

 

「私の人生」 というメッセージでこう書かれています。

前略…
その頃の日本は貧しい国なのに軍備だけは一等国なみに
作っていたので国民の生活は、酷いものであった。
一部の金持ちだけが優雅な暮らしをしていただけ。
多喜二はこんな時代に青春を生きていた。
小樽の裏町を歩き、酷い暮らしをしているタコと言われる労働者を見たり、
この世の不条理を嫌というほど見せたれ、
この国は狂っている、人民に良い暮らしをと
社会主義になる。
この頃の多喜二は銀行に就職していて
当時の学校の教師の給料の倍ももらっていたのに、
そのまま生きていたなら、
日本が戦争に負けてから軍国主義でなく消費国になったので
多喜二はどんな高給をもらい豪邸に住んでいたでしょう。
でも、彼は人民大衆にもっと豊かな生活をと望み、
官権によって虐殺されてしまいました。
生きていたらもっともっと本が書けたのに、
日本という国は芸術家を大事にしない国。
私は本当に悔しいかぎりです。(終)

  

 

山田監督の叫びは映画のあちこちに聞かれます。

多喜二の死後の、太平洋戦争時、セキは共産主義とみなだれ、
非国民扱いされていました。

お隣さんのおばさんは、セキに優しく接していますが、
ある日、こっそりセキに言います。
靖国の母なんかならなくていい。
無事に息子に帰ってきてほしい」って言って人がいるわよ。

ここだけの話よ。

 

 

この台詞は最初はなかったそうです。
撮影の前日、台詞が変わったことをFAXで受けた
神田さち子さんはびっくりしましたが、
この台詞を噛み締めて演じられました。

母の思いはみな同じです。
誰が好き好んで大切な息子を戦場に送るでしょうか。
与謝野晶子は弟に『君死にたもうことなかれ』とよみ、

『お国のためとして笑顔で送り出しはするものの
母親や妻にとっては戦争ほど呪わしいものはない』
市川房枝さんは言いました。

 

 

今、私たちはとりあえず、言いたいことが言えています。
いろいろなところで見張られていても、
一般市民レベルではまだ言論の自由は確保されています。


でも、これから先、大丈夫でしょうか。
共謀罪なんてものを作りたい方たちの熱い思いが通ったら、
大変なことになります。
思考停止している場合ではないでしょう。

 

この映画を制作した現代ぷろだくしょんは
昭和26年山田典吾、山村聰森雅之、夏川静江らの人々を
中心にした俳優集団を母体としています。
昭和28年 「村八分」の撮影開始からずっと社会派映画を取り続けています。
山田典吾監督は亡くなってしまいますが、夫人の火砂子さんが
志を継ぎ、映画を取り続けています。

映画は制作費がかかります。
娯楽映画でないので、台所は火の車でしょう。
去年、音楽プロデューサーという立場になり、大変な思いをしたので、
私は制作側に回って見てしまうようになりました。

 

小山まで出かけて撮ったエキストラ場面は
残念ながら時間の都合でカットされていました。
映画デビューできませんでしたが、
宣伝費がないというお話し聞いて、何かお手伝いをと思いました。

写真撮影大丈夫ですか?とお聞きしたら、

どうぞ、宣伝してくださいとおっしゃっていただきました。
多くの方に見ていただきたいです。

寺島しのぶさんの演技は

愛情あふれる控えめながら心の熱いセキそのものでした。

 

 

 

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昨日、東京江戸博物館で上映会では
山田監督を始め
小林多喜二塩谷瞬
小林三吾役 水石亜飛夢
宮本百合子役 露のききょう
山本夫人役 神田さち子
セキ子役 上野神楽

みな様の舞台挨拶がありました。

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極道役の進藤龍也牧師にもお目にかかれて嬉しかったです。

 

f:id:tw101:20170211082118j:image小林多喜二塩谷瞬さん

 

f:id:tw101:20170211082147j:image 宮本百合子役 露のききょうさん

 

f:id:tw101:20170211082216j:image 棒頭役 進藤龍也牧師

 

週刊金曜日にも特集が掲載されています。

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カソリック作家 遠藤周作原作 沈黙
プロテスタント作家 三浦綾子原作 母

私に大きな影響を与えた二人の作家の作品の映画を
同じ週に観ることができ、思考全開。

信仰と言論の自由を守るために、
できる限り努力しようと思います。

母 に上映劇場は以下の通りです。
ぜひ、お出かけください。

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NO.130 沈黙 Silence の衝撃

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スコセッシ監督「沈黙」を観てきました。

私の想像より、ドライな映画という第一印象を持ちました。
また、日本では描けない視座だと思いました。

折しも本日 、大阪城ホール高山右近列福式が行われます。

時の移り変わりを感じます。


映画内容でなく、私の感想を書きたいと思います。

 

 遠藤周作先生の「沈黙」を初めて読んだときの衝撃は
あまりに大きいものでした。
ちょうどバプテスマ(洗礼)を受けたばかりの14歳…
全知全能のオールマイティーの神を信じた私には
到底受け入れられない神の解釈でした。
続いて「死海のほとり」「イエスの生涯」では、
奇跡も行えず、無力で、悲しみに満ちたイエスが描かれていて、
私は「こんなの絶対間違っている」と思いました。

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 私は幼稚園から大学までプロテスタントの教育を受け、
いわゆるクリスチャンホームで育ち、
何も迷うことなくバプテスマを受けました。
高校時代の教会キャンプで、「神」の存在を語り合い、
神は沈黙する無能な存在、あるいは神の存在そのものさえを否定され、
理論的な反論もできず、「でもでも、神様はいるもん」と
半泣きしそうになった記憶もあります。

今までに 「沈黙」を何度も読み返し、頭の中で映像化してしまい、
あまりに残酷な場面の連続に、私は映画を観ることを躊躇していました。

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穴つりという拷問

 

 

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原作を読んだことのない次男が先週観てきて、
キチジローに興味を持ったのか、珍しく私に観るように勧めてきました。
あまりに熱く語るので、勧めに従い、昨日、行ったわけです。

 

 

このところ、身の回りで不本意なことが多く、
思いっきり泣きたい気分になっていたので、
ハンカチを2枚持って行きました。

ところが、そのハンカチを使ったのはたった一箇所でした。
食い入るように観てしまい、泣けないのです。

 

踏み絵の中から語りかけてくるイエスの言葉を聞いたとき、
心に柔らかい温かな力が流れてきました。
自然に涙が出てきました。

 

ここからです。
棄教したロドリゴの生き方に共感を覚えました。
裏切り者のキチジローに「一緒にいてくれてありがとう」と言ったロドリゴ
この一言が心にしみました。

世の中の全ての人から見捨てられた時、
絶望の中で、たった一人で取り残されてしまう時、
傍にそっと寄り添って、一緒にいてくれる人、
エスはそういう人だと、
それでいいのだという事を、
60歳を超えて思いました。

 

 

さて、キリスト教弾圧は開国まで200年以上続きました。
司祭もないまま、信仰の火を消さず、隠れキリシタンとして生き延びました。

 

1854年アメリカによって開国した日本は、
キリスト教を外した西洋文化を取り込みました。

この国に根をはれないとポルトガルの宣教師が判断したのは

正解だったかもしれません。

アメリカのプロテスタントの宣教師は
まず、聖書の翻訳をして、聖書のみ言葉が直接伝わるようにしました。
そして、西洋技術、医学、教育に 力を注ぎました。

あっというまにキリスト教信者は増えていきます。
教会に人が溢れます。
カソリックは農民に広まっていきましが、
プロテスタントは知識階級に支持されました。
海外からの援助によって多くのミッションスクールが建てられました。

 キリスト教は根付くと思われたのもつかの間
世界大戦が起こり、再び敵国の宗教になり、
弾圧され、苦難が続きました。

 

太平洋戦争が終わった時、
アメリカはコーラとプレイボーイで
アメリカ文化をもたらしました。
多くの若者はアメリカに恋をし、
日本は本当に開国しました。

この国に必要なものかどうかは、時の利権者が決めるものです。
でも、もしかすると、
キリスト教はこの国には必要でないと大衆によって
判断され続けてきたのかもしれません。

信仰の自由の現代、

信仰は最も必要のないものになってしまったのでしょうか。

 

 

 

幼少期はただ主イエスの子どもとなれるよう頑張り、
中年期・壮年期は教会活動奉仕に頑張ってきました。
老年期に入る今、私は何を求めて教会の戸を叩くのでしょう。
このところずっと考えている課題です。
その一つの答えを見いだしました。

 

一度 神を棄てた上に
なんども棄教したという証明書を書いたロドリゴ
棄教した司祭として批判されました。

ロドリゴのモデルとなった司祭、岡田三右衛門は

1658年 84歳で江戸でなくなり、小石川のお寺に葬られました。

実際、どんな余生を送ったのでしょうか。


映画では最後の場面が象徴していますが、
彼の本心は誰も知りません。
ただ、神はご存知です。

映画が終わり、一瞬、静寂に包まれたとき、
突然、ハッと気付きました。

神が沈黙しているのではなく、
私が聴いていないのだと…

聴く耳のあるものは聴くが良い…イエスは言われました。

沈黙の衝撃は静まるところか、
今日もさわさわと広がっています。

感想、こっそりお聞かせください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

NO.129 子どもへ期待するもの

【子どもにとって親の期待とは何か】

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『父母であること』

あなたは子どもたちに
愛を与えることはできるが
あなたの ものの考えを 与えることはできない
なぜなら
子どもたちは 子どもたち自身の
ものの考え方を持っているのだから

あなたは子どもたちのからだを
世話することはできるが
彼らの魂をそっくり飼いならすことはできない
なぜなら
彼らの魂は明日というすみかに息づいているのだから

あなたは子どもたちのようになろうと
努めてもてもよいが
子どもたちをあなたのように
しようなどとしてはならない
なぜなら
人生は後向きに進んでいくものでもないし
昨日のままで
止まっているものでもないのだから
ペルシャの古詩〉

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断捨離お片付け中、手に取った卒業論文
冒頭にこの詩が書いてありました。
提出時、教務主任がこの詩を読み、
「子育てするときに読み直しなさいね」と私に話しかけてきたことを
鮮明に覚えています。

 

幼い時から絶対の存在であった母の
大きな期待に応えるべく、
私はかなり奮闘してきました。

16歳で母をなくした時の喪失感は大きく、
その後、周囲から、
さあ、自由 に生きなさいと言われても、
私は自分の考えを持って行動することに苦労しました。
こらから先、何がしたいのか
どうやって、何を目的 にして生きていったらいいのか。
大学を卒業して、社会に出ることが不安でした。
私をがんじがらめにした母親の期待とは何だったのか、
突き詰めて考えてみようと卒論で論じました。

 

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最終章の最後にはこう書いてあります。
「最後に両親の主体性を問うてみたいと思う。親が親なりの自己の判断を識別することができれば、いたずらにマスメディアに踊らされる事なく、他の子どもと我が子を比較することなく、子どもに冷静な期待をかけられるのではないかと思う。
社会概念にとらわれず、冷静に自分とは何か を改めて問い直してみる必要があるだろう。外部の力に身を委ねて、あたかも自分で考えたような錯覚に陥る ならば、それは自由の放棄であろう。
親は自由に主体性を持って子どもを育てるべきだ。」

 

 

二人の息子を育てるとき、私は何回か読み返しました。
偉そうなことばかり書いていた若い日の自分に
現実はそんなものではないわ。
冷静になんてなれないわと思いました。
子育てに「べき」という言葉はないのです。
いつかこの続きを書かなければと思ったこともありました。


昨日、2月1日、私立中学受験の日でした。
今から20年も前になってしまった息子の中学受験の事を思い出しました。
最初の受験日
この子はこれから人生で最初の選抜をくぐり抜けていくのだわと、
試験会場に大勢の受験生の流れの中に
吸い込まれていく後ろ姿を見ながら思いました。

 

第1志望校に合格すればよし、第2志望になっても、
不合格になっても、与えられた場所が一番だと思って、
希望を持って乗り越えて欲しいとふと思ったものです。

 

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幸い、志望校へ入学をゆるされました。
幼顔の息子を寮に入れての帰り道、
この子は私の手元から巣立っていったのだと思いました。

 

f:id:tw101:20170202082931j:image(新入生父母歓迎会会場 この写真は1996年度のものです)

 

 

その子は、今、人生初、最大級の仕事を抱えて奮闘しています。
あなたなら大丈夫と見守れる母親となりました。

 

 

親は子どもに幸せになってほしいと思って育てているでしょう。
良い学校に入り、良い会社で仕事をして
良い伴侶とめぐり合い、子どもに恵まれる人生、

私が卒論を書いたときよりも、社会状況は良くなっているでしょうか?
否、ますます将来は不透明になっています。
私たち祖父母世代は、子どもたちに何を伝えられるでしょう…

4月に幼稚園に入園する孫娘の口癖は
「今、考えてるの!自分で考えるって大切なことよ…」です。
両親からいつも言われているのでしょう。
そう、自分で考えることの素晴らしさを教えたいと思います。

アウシュビッツを生き抜いた心理学者、
「夜と霧」の著者フランクル
どんな人生にも意味があると考え、どんな状況においても
「それでも、私は人生にイエスと言おう」と書いています。
彼の希望の根源は幼いときの幸福な体験だったそうです。
その体験とは青空のもと、芝生の上で両親とピクニックをして
笑って過ごしたひと時でした。

 

親が子どもに望むことは生き延びることだと思います。
今年受験する子どもたちが、どんな結果になろうとも、
置かれた場所でベストを尽くし、
明日を生きて欲しいと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

NO.128 吟遊詩人の旅 ウクライナの音楽と文学

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昨夜、JASRAC 日本音楽著作権協会主催 「世界を旅する音楽」の最終回がけやきホールで開かれました。
私は昨年、夏にバンドウーラ奏者 カテリーナさんのコンサートをプロデュースしました。
今回のコンサートはお姉さんのナターシャさんが出演されました。
水晶の歌声と言われる通り、美しい容姿とその歌声にすっかり魅了されました。

赤い花々の刺繍が施された白いブラウスに真っ赤なロングスカート姿の
ターシャさんはバンドウーラが63本の弦があり、重さは8キロもあることなど、
ひと通りの説明をしてくれました。
バンドウーラにもいくつかの種類があるそうで、
最近は若い世代にも人気があり、ポップスやジャズなどのジャンルを超えて
使われているようです。

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ウクライナの女性は皆、刺繍を教えられ、
刺繍ができないと家事ができないとみなされてしまい、
家庭でも学校でも必ず習うものだそうです。

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刺繍をするときは1人で黙ってするのでなく、何人かが集まり、
おしゃべりや歌を歌いながら楽しみながらするそうです。
刺繍には魔除けの意味があって、
胸元、首周り、袖口、そういうところから邪悪なものが入りこまないように
するためと知りました。

 

 

第2部では東京大学大学院スラブ語文学と現代文芸論を教えていらっしゃる
沼野充義先生の講義もありました。

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ウクライナ旧ソ連の一部としてひとまとめにされていましたが、
ロシアよりずっと古い歴史と伝統を持っていて、
プロコフィエフをはじめとした数多くの音楽家を生んできました。

文学者は 「死せる魂」のニコライ・ゴーゴリ
オデッサ物語」イサック・バーベリ
映画ではセルゲイ・パラジャーリ「火の馬」
最近の作家ではアンドレイ・クルコフ「ペンギンの憂鬱」
が挙げられました。

ソフィア・ローレン主演「ひまわり」に出てくる一面のひまわり畑も
ウクライナです。

さて、バンドウーラと似たコブザいう楽器があります。

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コブザは小型で弦の数も少なく、リュートに発展していきます。
コブザの弾き手をコブザーレと呼びました。
琵琶法師のように、盲目のコブザーレも多かったそうで、
彼らは虐げられた弱者の思いを込めた歌や
政府の批判的な歌を歌いながら村村をまわる
吟遊詩人でした。
当然、政府からはよく思われず、迫害されました。

 

「コブザーレ」という詩集を書いたウクライナの国民的詩人 タラス・シェフチェンコ
彼は近代ウクライナ語文学の始祖と呼ばれ、

紙幣にも自画像が描かれるほどの超有名人です。

貧しい農奴の生まれで幼くして孤児となりますが
絵の才能を見出され、画家、詩人として生きます。

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しかし、農奴解放運動にも関わり、皇帝ニコライ1世とその妻アレクサンドラを
批判する詩が見つかり、逮捕されて、サンクトペテルブルクの刑務所に収監され、
その後、10年間も流刑生活を送りました。
その間はペンも絵筆も持つことを禁止されました。

「コブザーレ」はウクライナ語で書かれたため、ロシアの知識人からは
「いなかっぺの言葉」を使う詩人と批判されましたが、ウクライナの文化人からは
母国語で書いたことで絶賛されました。

ターシャさんは「コブザーレ」の詩に作曲して、
日本語で歌っています。
望郷の思いを切々と歌っているナターシャさんの姿は
悲しみだけで終わらず、その先に続く希望を見せてくれました。

シェフチェンコが友人 コトリャレフスキーの死を悼んで書いた
「レクイエム」にナターシャさんが曲をつけた
初演も見ることができて幸いでした。

アンコールは「鳥の歌」
パブロ・カザルスによる平和を希求する旋律は
歌に込められたナターシャさんの思いが
心に染み込んできて、最後の音がなり終わった後も
鳥の声が聞こえてくるようでした。

6歳のときにチェルノブイリ原発事故を経験したナターシャさん、
原発から3.5キロしか離れていなかった彼女のふるさとは
二度と帰ることのできない場所となりました。

望郷の思いを持ちながら、
日本を第二の祖国として福島の子どもたちのためにも
活動している姿に心をゆり動かされました。

運命を嘆かず、使命を生きる道を選んでいく勇気を与えられました。

2月11日には鎌倉 建長寺で東北の子どもたちを招いての
コンサートがあるそうです。

http://www.office-zirka.com/images/event/Kenchoji-170211.jpg

私に何ができるだろうとふと考えながら帰途につきました。

https://www.google.co.jp/url?sa=t&source=web&cd=21&ved=0ahUKEwjW34W7ueTRAhWJa7wKHWwIBagQt9IBCHIwFA&url=https://www.youtube.com/watch?v=0fBS_HEvJXs&usg=AFQjCNHNuu95trRkfRCVWpuHq_Met1S_bw&sig2=146nJty1qnIMKc6evClF7g

 

 

 

 

 

NO.127 しぇあひるずヨコハマと ゆずりは

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私が暮らした家の内部解体が始まりました。

解体してみたら、60センチも天井に空間があったことがわかりました。


半世紀前に建てられた三階建て鉄筋コンクリート造りで、
三階が住居、一階、二階は当時しては珍しいメゾネットタイプの賃貸住宅です。

もう一棟のアパートはさらに古いモルタルアパートです。

f:id:tw101:20170116135928j:image三階建アパート

f:id:tw101:20170116135938j:image最初の私の部屋 

 

f:id:tw101:20170116141338j:image 屋上のお部屋は人気がありました

 

小学生だった私は初めての自分の部屋を持てるとあって、
期待に心を弾ませていました。

港も見える丘の上に祖父が家を建てたのは
横浜大空襲の後のことでした。
私の母と祖父は協力して、 敷地に一軒家とアパートを次々に建て、
外国の方も含めていろいろな家族が住んでいました。

 

 

各家庭にお風呂もテレビない時代です。
大家をしていた我が家のお風呂を共同で使い、
テレビでみんなで力道山のプロレスを
見ていた記憶があります。

 

カラーテレビが出た頃、「ジャングル大帝」「魔法使いサリーちゃん」を
敷地内に住む子どもたちとアイスを食べながら一緒に見た記憶もあります。
お引越しをしてくる家族に子どもがいるかどうかは
私の最大の関心事でした。

 

10歳の時に、私は子どもたちだけで地域の子ども会を組織、

納涼会やクリスマス会を企画運営したこともあります。

 

高度成長時代の大人は無我夢中に働いていて、

今よりも、子どもに目もお金もかけていなかったかもしれません。

それでも子どもたちはへっちゃらでした。
そう、子どもたちには勢いがあったのです。
ひょっこりひょうたん島」を見て育った私たちです。
自分で考えるという自由を大切にするようにと
家庭でも学校の先生にも教えられてきました。

 

 

そのうち、母は、横浜市立大学と提携し、大学生の下宿を始めました。

食事のお世話はもとより、

持ち前の御節介で縁談を世話したり、それは華やかな時代でした。

働きすぎたのか、母はくも膜下出血で早逝し、

残された私と弟は
自立自活を余儀なくされました。

 

親のいない我が家にはいつも友達が集まってきていました。
一緒にご飯を食べてずっとおしゃべりして過ごし、
弟のお友達はさらにたくさん集まってきました。
賑やかな時代です。

それでもきちんと自律していたと思います。

 

 

時代は変わり、食事をするのも、テレビを見るのも、個別の時代となり、
SNSの時代となりました。

 

自分で考える人がたくさんいたら大変。
みんな考えないようにするために、あの手この手で
今のシステムを作りあげたお偉い方々…
見事に思惑通りになりました。

 

ここで、私は考えました。
子どもたち「考えるという自由」を持ってもらえるような取組を
どうやってしていこうと。

浅草に嫁ぎ、再び横浜に戻ってきたとき、
その時はただ、生まれた場所に戻りたいと
自分の幸せばかりを考えていました。
でも、いま、私の思いは子どもたちや孫たちの世代へと移っています。
生まれ育ったこの場所で、神さまの御心に沿うような
取組を始めてゆこうと思います。
もう一度、昭和40年代のようなコミュニケーションをとれる
共同住宅を作ります。

 

ここがどう変わっていくか楽しみです。

 

しぇあひるずヨコハマのクラウドファンディングも
皆様の温かい支援を受けて、
200万円を超えました。目標の200%を超えました。

二人の息子たちも懸命に頑張っています。
あんなに小さな子どもだったのに…

祖父、母、私、息子、そして孫へ、
ふと、息子の小学校卒業式に読んだ詩が思い浮かびました。
楽観できない時代だからこそ、
夢と希望を渡していきたいと、思いました。
今週金曜日まで、後4日。
ご協力いただけたら嬉しいです。

 

 


✳︎

ゆずり葉
河井酔茗

 

 

子どもたちよ
これはゆずり葉の木です
このゆずり葉は
新しい葉ができると
入れかわって古い葉が落ちてしまうのです

こんなに厚い葉
こんなに大きい葉でも
新しい葉ができるとむぞうさに落ちる
新しい葉に命をゆずって──

 

子どもたちよ
おまえたちは何をほしがらないでも
すべてのものがおまえたちにゆずられるのです
太陽のめぐるかぎり
ゆずられるものは絶えません

かがやける大都会も
そっくりおまえたちがゆずり受けるのです
読みきれないほどの書物もみんなおまえたちの手に受け取るのです
幸福なる子どもたちよ
おまえたちの手はまだ小さいけれど──

世のおとうさん、おかあさんたちは
何一つ持ってゆかない
みんなおまえたちにゆずってゆくために
命あるもの、よいもの、美しいものを
いっしょうけんめいにつくっています

今 おまえたちは気がつかないけれど
ひとりでにいのちはのびる鳥のようにうたい
花のように笑っている間に気がついてきます

そしたら子どもたちよ
もう一度ゆずり葉の木の下に立って
ゆずり葉を見るときがくるでしょう

                                                                        ✳︎

 

 

 

 

しぇあひるずヨコハマ クラウドファンディングです。

よろしくお願いします。

        ⇩

https://faavo.jp/yokohama/project/1679 

 

 

 

NO.126 母の希いと息子の覚悟

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「死んだら何を書いてもいいわ」
母・萩原葉子との百八十六日
萩原朔美

 

本を整理していたら、この背表紙が目に飛び込んできました。


積読になっていた本です。
とても、とても、気になって、お正月早々 読みました。

詩人 萩原朔太郎の長女である葉子と暮らした日々を
一人息子の萩原朔美が綴った随筆です。

 

 

 

母である前に作家として生き、

還暦を過ぎて、ダンスを始め、62歳にして
ダンススタジオ付きの家を建てたエネルギッシュな葉子さんに
すっかり魅せられてしまいました。

 

 

作家という職業につく方々は、所謂、「普通」の人生を送れないようです。
普通の感覚でないから小説を書くことができるのでしょうか、
葉子さんも過酷な少女時代を送りました。

 

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萩原朔太郎

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上田稲子 

 

萩原朔太郎の妻、上田稲子、 葉子さんのお母様ですが、
この女性がまた個性的。
呑んだくれて深夜に帰宅する詩人朔太郎との生活は
ほとんど破綻していたのか、
当時、流行し始めたダンスに熱中し、二人の娘を家に残し、
毎日のようにダンスホールに出かけて行き、
仲良しの宇野千代さんの影響を受けて
流行の先端の断髪して、夫と娘を捨て、家を出て行きました。

前橋にある朔太郎の実家は 名家で
厳格な医者の家でしたから、そんな不埒な嫁が産んだ
孫娘など居候以下と扱われ、冷たい環境の中、
葉子さんと妹の明子さんは不遇な幼少時代を過ごしました。

葉子さんは後年、自分を捨てた母親を探し出し、
一緒に住みました。

 

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奔放な作家の娘たちは、 なぜか離婚率が高いようです。
葉子さんは朔美さんを連れて離婚し、
その上、中学生の一人息子の朔美さんを母親の稲子さん、妹の明子さんに預け、
自分は一人暮らしをして分筆業をしたツワモノです。

母親を圧倒的な存在として捉える息子たちは
おそらく、みんなマザコンで、
年をとって 力が落ちてきた母親に怒りを覚えて、
些細なことで強い口調になってしまうらしいということを
読み進むうちに知りました。

 

 

「後悔」という章にはこういう文章がありました。
……病院のことや食事のこと、彼女の知り合いのこと、
日常の所作、なんでもかんでも怒るきっかけがあった。
どうしてそんなにイライラして母親を叱るのか。
自分に母親を怒る資格があるのか。
何という息子なんだ。
何度も何度も反省し、もっと優しく接しようと思った。
それでもまた、大声を出してしまう。
母親は私の連れ合いに、「なぜ、朔ちゃんはあんなに怒るのかしらね」
と嘆いていたらしい。

ある時急にその原因がわかった。
私の母親に対する甘えなのである。
自分の母親はこうあってほしい。
怒りはそういう思い込みから出発しているのだ。
こんな弱い、動けない親を私は認めない。
そのことが怒っている原因なのである。
わかってしまうと、なんだかガッカリした。
急に怒る自分が子供に見えてきた。
自分はまだ甘えたい子供のままだったのだ。
なんということだろうか。
一体いつになったら、大人になれるのだろうか……

 

 

 

朔美さんはこの時すでに60歳を超えていて、立派な紳士として
社会でも活躍されていました。
それでも母親には甘えていたのです。

私自身は母親を思春期に亡くし、
母の死後、すぐに再婚した父を疎み、
躁鬱病の弟の面倒をみなければいけなかったので、
「甘える」ということを知らずに生きてしまいました。

家族の温かさを望んだ結婚でしたが、
嫁ぎ先では商家の嫁として、家業と子育てに孤軍奮闘してきました。
息子たちはとにかく自立、自律してほしいと
心して育ててきました。

 

60歳を超えた今、新しい事業を始めようと決心したとき、
私は今後20年の自分の生き方を考え始めました。
そんなとき、この本に出会いました。
いつ、手に入れたのか記憶にない一冊の本。
この本が今の私に進むべき道を示してくれました。

 

今、どんなに元気でも、
ある日、ある時、
気力がなくなり、
記憶力が低下し、
筋力も落ち、

自分が年老いたと感じる日が来るでしょう。
息子に大きな声で叱られることもあるでしょう。

 

 

そんな日が来たら、
私は子どもになって、
子どもたちに甘えてみようと、
ふと、思いました。