港も見える丘から

人生のゴールデンエイジにふと感じることを綴っていきます

NO.129 子どもへ期待するもの

【子どもにとって親の期待とは何か】

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『父母であること』

あなたは子どもたちに
愛を与えることはできるが
あなたの ものの考えを 与えることはできない
なぜなら
子どもたちは 子どもたち自身の
ものの考え方を持っているのだから

あなたは子どもたちのからだを
世話することはできるが
彼らの魂をそっくり飼いならすことはできない
なぜなら
彼らの魂は明日というすみかに息づいているのだから

あなたは子どもたちのようになろうと
努めてもてもよいが
子どもたちをあなたのように
しようなどとしてはならない
なぜなら
人生は後向きに進んでいくものでもないし
昨日のままで
止まっているものでもないのだから
ペルシャの古詩〉

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断捨離お片付け中、手に取った卒業論文
冒頭にこの詩が書いてありました。
提出時、教務主任がこの詩を読み、
「子育てするときに読み直しなさいね」と私に話しかけてきたことを
鮮明に覚えています。

 

幼い時から絶対の存在であった母の
大きな期待に応えるべく、
私はかなり奮闘してきました。

16歳で母をなくした時の喪失感は大きく、
その後、周囲から、
さあ、自由 に生きなさいと言われても、
私は自分の考えを持って行動することに苦労しました。
こらから先、何がしたいのか
どうやって、何を目的 にして生きていったらいいのか。
大学を卒業して、社会に出ることが不安でした。
私をがんじがらめにした母親の期待とは何だったのか、
突き詰めて考えてみようと卒論で論じました。

 

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最終章の最後にはこう書いてあります。
「最後に両親の主体性を問うてみたいと思う。親が親なりの自己の判断を識別することができれば、いたずらにマスメディアに踊らされる事なく、他の子どもと我が子を比較することなく、子どもに冷静な期待をかけられるのではないかと思う。
社会概念にとらわれず、冷静に自分とは何か を改めて問い直してみる必要があるだろう。外部の力に身を委ねて、あたかも自分で考えたような錯覚に陥る ならば、それは自由の放棄であろう。
親は自由に主体性を持って子どもを育てるべきだ。」

 

 

二人の息子を育てるとき、私は何回か読み返しました。
偉そうなことばかり書いていた若い日の自分に
現実はそんなものではないわ。
冷静になんてなれないわと思いました。
子育てに「べき」という言葉はないのです。
いつかこの続きを書かなければと思ったこともありました。


昨日、2月1日、私立中学受験の日でした。
今から20年も前になってしまった息子の中学受験の事を思い出しました。
最初の受験日
この子はこれから人生で最初の選抜をくぐり抜けていくのだわと、
試験会場に大勢の受験生の流れの中に
吸い込まれていく後ろ姿を見ながら思いました。

 

第1志望校に合格すればよし、第2志望になっても、
不合格になっても、与えられた場所が一番だと思って、
希望を持って乗り越えて欲しいとふと思ったものです。

 

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幸い、志望校へ入学をゆるされました。
幼顔の息子を寮に入れての帰り道、
この子は私の手元から巣立っていったのだと思いました。

 

f:id:tw101:20170202082931j:image(新入生父母歓迎会会場 この写真は1996年度のものです)

 

 

その子は、今、人生初、最大級の仕事を抱えて奮闘しています。
あなたなら大丈夫と見守れる母親となりました。

 

 

親は子どもに幸せになってほしいと思って育てているでしょう。
良い学校に入り、良い会社で仕事をして
良い伴侶とめぐり合い、子どもに恵まれる人生、

私が卒論を書いたときよりも、社会状況は良くなっているでしょうか?
否、ますます将来は不透明になっています。
私たち祖父母世代は、子どもたちに何を伝えられるでしょう…

4月に幼稚園に入園する孫娘の口癖は
「今、考えてるの!自分で考えるって大切なことよ…」です。
両親からいつも言われているのでしょう。
そう、自分で考えることの素晴らしさを教えたいと思います。

アウシュビッツを生き抜いた心理学者、
「夜と霧」の著者フランクル
どんな人生にも意味があると考え、どんな状況においても
「それでも、私は人生にイエスと言おう」と書いています。
彼の希望の根源は幼いときの幸福な体験だったそうです。
その体験とは青空のもと、芝生の上で両親とピクニックをして
笑って過ごしたひと時でした。

 

親が子どもに望むことは生き延びることだと思います。
今年受験する子どもたちが、どんな結果になろうとも、
置かれた場所でベストを尽くし、
明日を生きて欲しいと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

NO.128 吟遊詩人の旅 ウクライナの音楽と文学

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昨夜、JASRAC 日本音楽著作権協会主催 「世界を旅する音楽」の最終回がけやきホールで開かれました。
私は昨年、夏にバンドウーラ奏者 カテリーナさんのコンサートをプロデュースしました。
今回のコンサートはお姉さんのナターシャさんが出演されました。
水晶の歌声と言われる通り、美しい容姿とその歌声にすっかり魅了されました。

赤い花々の刺繍が施された白いブラウスに真っ赤なロングスカート姿の
ターシャさんはバンドウーラが63本の弦があり、重さは8キロもあることなど、
ひと通りの説明をしてくれました。
バンドウーラにもいくつかの種類があるそうで、
最近は若い世代にも人気があり、ポップスやジャズなどのジャンルを超えて
使われているようです。

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ウクライナの女性は皆、刺繍を教えられ、
刺繍ができないと家事ができないとみなされてしまい、
家庭でも学校でも必ず習うものだそうです。

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刺繍をするときは1人で黙ってするのでなく、何人かが集まり、
おしゃべりや歌を歌いながら楽しみながらするそうです。
刺繍には魔除けの意味があって、
胸元、首周り、袖口、そういうところから邪悪なものが入りこまないように
するためと知りました。

 

 

第2部では東京大学大学院スラブ語文学と現代文芸論を教えていらっしゃる
沼野充義先生の講義もありました。

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ウクライナ旧ソ連の一部としてひとまとめにされていましたが、
ロシアよりずっと古い歴史と伝統を持っていて、
プロコフィエフをはじめとした数多くの音楽家を生んできました。

文学者は 「死せる魂」のニコライ・ゴーゴリ
オデッサ物語」イサック・バーベリ
映画ではセルゲイ・パラジャーリ「火の馬」
最近の作家ではアンドレイ・クルコフ「ペンギンの憂鬱」
が挙げられました。

ソフィア・ローレン主演「ひまわり」に出てくる一面のひまわり畑も
ウクライナです。

さて、バンドウーラと似たコブザいう楽器があります。

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コブザは小型で弦の数も少なく、リュートに発展していきます。
コブザの弾き手をコブザーレと呼びました。
琵琶法師のように、盲目のコブザーレも多かったそうで、
彼らは虐げられた弱者の思いを込めた歌や
政府の批判的な歌を歌いながら村村をまわる
吟遊詩人でした。
当然、政府からはよく思われず、迫害されました。

 

「コブザーレ」という詩集を書いたウクライナの国民的詩人 タラス・シェフチェンコ
彼は近代ウクライナ語文学の始祖と呼ばれ、

紙幣にも自画像が描かれるほどの超有名人です。

貧しい農奴の生まれで幼くして孤児となりますが
絵の才能を見出され、画家、詩人として生きます。

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しかし、農奴解放運動にも関わり、皇帝ニコライ1世とその妻アレクサンドラを
批判する詩が見つかり、逮捕されて、サンクトペテルブルクの刑務所に収監され、
その後、10年間も流刑生活を送りました。
その間はペンも絵筆も持つことを禁止されました。

「コブザーレ」はウクライナ語で書かれたため、ロシアの知識人からは
「いなかっぺの言葉」を使う詩人と批判されましたが、ウクライナの文化人からは
母国語で書いたことで絶賛されました。

ターシャさんは「コブザーレ」の詩に作曲して、
日本語で歌っています。
望郷の思いを切々と歌っているナターシャさんの姿は
悲しみだけで終わらず、その先に続く希望を見せてくれました。

シェフチェンコが友人 コトリャレフスキーの死を悼んで書いた
「レクイエム」にナターシャさんが曲をつけた
初演も見ることができて幸いでした。

アンコールは「鳥の歌」
パブロ・カザルスによる平和を希求する旋律は
歌に込められたナターシャさんの思いが
心に染み込んできて、最後の音がなり終わった後も
鳥の声が聞こえてくるようでした。

6歳のときにチェルノブイリ原発事故を経験したナターシャさん、
原発から3.5キロしか離れていなかった彼女のふるさとは
二度と帰ることのできない場所となりました。

望郷の思いを持ちながら、
日本を第二の祖国として福島の子どもたちのためにも
活動している姿に心をゆり動かされました。

運命を嘆かず、使命を生きる道を選んでいく勇気を与えられました。

2月11日には鎌倉 建長寺で東北の子どもたちを招いての
コンサートがあるそうです。

http://www.office-zirka.com/images/event/Kenchoji-170211.jpg

私に何ができるだろうとふと考えながら帰途につきました。

https://www.google.co.jp/url?sa=t&source=web&cd=21&ved=0ahUKEwjW34W7ueTRAhWJa7wKHWwIBagQt9IBCHIwFA&url=https://www.youtube.com/watch?v=0fBS_HEvJXs&usg=AFQjCNHNuu95trRkfRCVWpuHq_Met1S_bw&sig2=146nJty1qnIMKc6evClF7g

 

 

 

 

 

NO.127 しぇあひるずヨコハマと ゆずりは

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私が暮らした家の内部解体が始まりました。

解体してみたら、60センチも天井に空間があったことがわかりました。


半世紀前に建てられた三階建て鉄筋コンクリート造りで、
三階が住居、一階、二階は当時しては珍しいメゾネットタイプの賃貸住宅です。

もう一棟のアパートはさらに古いモルタルアパートです。

f:id:tw101:20170116135928j:image三階建アパート

f:id:tw101:20170116135938j:image最初の私の部屋 

 

f:id:tw101:20170116141338j:image 屋上のお部屋は人気がありました

 

小学生だった私は初めての自分の部屋を持てるとあって、
期待に心を弾ませていました。

港も見える丘の上に祖父が家を建てたのは
横浜大空襲の後のことでした。
私の母と祖父は協力して、 敷地に一軒家とアパートを次々に建て、
外国の方も含めていろいろな家族が住んでいました。

 

 

各家庭にお風呂もテレビない時代です。
大家をしていた我が家のお風呂を共同で使い、
テレビでみんなで力道山のプロレスを
見ていた記憶があります。

 

カラーテレビが出た頃、「ジャングル大帝」「魔法使いサリーちゃん」を
敷地内に住む子どもたちとアイスを食べながら一緒に見た記憶もあります。
お引越しをしてくる家族に子どもがいるかどうかは
私の最大の関心事でした。

 

10歳の時に、私は子どもたちだけで地域の子ども会を組織、

納涼会やクリスマス会を企画運営したこともあります。

 

高度成長時代の大人は無我夢中に働いていて、

今よりも、子どもに目もお金もかけていなかったかもしれません。

それでも子どもたちはへっちゃらでした。
そう、子どもたちには勢いがあったのです。
ひょっこりひょうたん島」を見て育った私たちです。
自分で考えるという自由を大切にするようにと
家庭でも学校の先生にも教えられてきました。

 

 

そのうち、母は、横浜市立大学と提携し、大学生の下宿を始めました。

食事のお世話はもとより、

持ち前の御節介で縁談を世話したり、それは華やかな時代でした。

働きすぎたのか、母はくも膜下出血で早逝し、

残された私と弟は
自立自活を余儀なくされました。

 

親のいない我が家にはいつも友達が集まってきていました。
一緒にご飯を食べてずっとおしゃべりして過ごし、
弟のお友達はさらにたくさん集まってきました。
賑やかな時代です。

それでもきちんと自律していたと思います。

 

 

時代は変わり、食事をするのも、テレビを見るのも、個別の時代となり、
SNSの時代となりました。

 

自分で考える人がたくさんいたら大変。
みんな考えないようにするために、あの手この手で
今のシステムを作りあげたお偉い方々…
見事に思惑通りになりました。

 

ここで、私は考えました。
子どもたち「考えるという自由」を持ってもらえるような取組を
どうやってしていこうと。

浅草に嫁ぎ、再び横浜に戻ってきたとき、
その時はただ、生まれた場所に戻りたいと
自分の幸せばかりを考えていました。
でも、いま、私の思いは子どもたちや孫たちの世代へと移っています。
生まれ育ったこの場所で、神さまの御心に沿うような
取組を始めてゆこうと思います。
もう一度、昭和40年代のようなコミュニケーションをとれる
共同住宅を作ります。

 

ここがどう変わっていくか楽しみです。

 

しぇあひるずヨコハマのクラウドファンディングも
皆様の温かい支援を受けて、
200万円を超えました。目標の200%を超えました。

二人の息子たちも懸命に頑張っています。
あんなに小さな子どもだったのに…

祖父、母、私、息子、そして孫へ、
ふと、息子の小学校卒業式に読んだ詩が思い浮かびました。
楽観できない時代だからこそ、
夢と希望を渡していきたいと、思いました。
今週金曜日まで、後4日。
ご協力いただけたら嬉しいです。

 

 


✳︎

ゆずり葉
河井酔茗

 

 

子どもたちよ
これはゆずり葉の木です
このゆずり葉は
新しい葉ができると
入れかわって古い葉が落ちてしまうのです

こんなに厚い葉
こんなに大きい葉でも
新しい葉ができるとむぞうさに落ちる
新しい葉に命をゆずって──

 

子どもたちよ
おまえたちは何をほしがらないでも
すべてのものがおまえたちにゆずられるのです
太陽のめぐるかぎり
ゆずられるものは絶えません

かがやける大都会も
そっくりおまえたちがゆずり受けるのです
読みきれないほどの書物もみんなおまえたちの手に受け取るのです
幸福なる子どもたちよ
おまえたちの手はまだ小さいけれど──

世のおとうさん、おかあさんたちは
何一つ持ってゆかない
みんなおまえたちにゆずってゆくために
命あるもの、よいもの、美しいものを
いっしょうけんめいにつくっています

今 おまえたちは気がつかないけれど
ひとりでにいのちはのびる鳥のようにうたい
花のように笑っている間に気がついてきます

そしたら子どもたちよ
もう一度ゆずり葉の木の下に立って
ゆずり葉を見るときがくるでしょう

                                                                        ✳︎

 

 

 

 

しぇあひるずヨコハマ クラウドファンディングです。

よろしくお願いします。

        ⇩

https://faavo.jp/yokohama/project/1679 

 

 

 

NO.126 母の希いと息子の覚悟

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「死んだら何を書いてもいいわ」
母・萩原葉子との百八十六日
萩原朔美

 

本を整理していたら、この背表紙が目に飛び込んできました。


積読になっていた本です。
とても、とても、気になって、お正月早々 読みました。

詩人 萩原朔太郎の長女である葉子と暮らした日々を
一人息子の萩原朔美が綴った随筆です。

 

 

 

母である前に作家として生き、

還暦を過ぎて、ダンスを始め、62歳にして
ダンススタジオ付きの家を建てたエネルギッシュな葉子さんに
すっかり魅せられてしまいました。

 

 

作家という職業につく方々は、所謂、「普通」の人生を送れないようです。
普通の感覚でないから小説を書くことができるのでしょうか、
葉子さんも過酷な少女時代を送りました。

 

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萩原朔太郎

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上田稲子 

 

萩原朔太郎の妻、上田稲子、 葉子さんのお母様ですが、
この女性がまた個性的。
呑んだくれて深夜に帰宅する詩人朔太郎との生活は
ほとんど破綻していたのか、
当時、流行し始めたダンスに熱中し、二人の娘を家に残し、
毎日のようにダンスホールに出かけて行き、
仲良しの宇野千代さんの影響を受けて
流行の先端の断髪して、夫と娘を捨て、家を出て行きました。

前橋にある朔太郎の実家は 名家で
厳格な医者の家でしたから、そんな不埒な嫁が産んだ
孫娘など居候以下と扱われ、冷たい環境の中、
葉子さんと妹の明子さんは不遇な幼少時代を過ごしました。

葉子さんは後年、自分を捨てた母親を探し出し、
一緒に住みました。

 

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奔放な作家の娘たちは、 なぜか離婚率が高いようです。
葉子さんは朔美さんを連れて離婚し、
その上、中学生の一人息子の朔美さんを母親の稲子さん、妹の明子さんに預け、
自分は一人暮らしをして分筆業をしたツワモノです。

母親を圧倒的な存在として捉える息子たちは
おそらく、みんなマザコンで、
年をとって 力が落ちてきた母親に怒りを覚えて、
些細なことで強い口調になってしまうらしいということを
読み進むうちに知りました。

 

 

「後悔」という章にはこういう文章がありました。
……病院のことや食事のこと、彼女の知り合いのこと、
日常の所作、なんでもかんでも怒るきっかけがあった。
どうしてそんなにイライラして母親を叱るのか。
自分に母親を怒る資格があるのか。
何という息子なんだ。
何度も何度も反省し、もっと優しく接しようと思った。
それでもまた、大声を出してしまう。
母親は私の連れ合いに、「なぜ、朔ちゃんはあんなに怒るのかしらね」
と嘆いていたらしい。

ある時急にその原因がわかった。
私の母親に対する甘えなのである。
自分の母親はこうあってほしい。
怒りはそういう思い込みから出発しているのだ。
こんな弱い、動けない親を私は認めない。
そのことが怒っている原因なのである。
わかってしまうと、なんだかガッカリした。
急に怒る自分が子供に見えてきた。
自分はまだ甘えたい子供のままだったのだ。
なんということだろうか。
一体いつになったら、大人になれるのだろうか……

 

 

 

朔美さんはこの時すでに60歳を超えていて、立派な紳士として
社会でも活躍されていました。
それでも母親には甘えていたのです。

私自身は母親を思春期に亡くし、
母の死後、すぐに再婚した父を疎み、
躁鬱病の弟の面倒をみなければいけなかったので、
「甘える」ということを知らずに生きてしまいました。

家族の温かさを望んだ結婚でしたが、
嫁ぎ先では商家の嫁として、家業と子育てに孤軍奮闘してきました。
息子たちはとにかく自立、自律してほしいと
心して育ててきました。

 

60歳を超えた今、新しい事業を始めようと決心したとき、
私は今後20年の自分の生き方を考え始めました。
そんなとき、この本に出会いました。
いつ、手に入れたのか記憶にない一冊の本。
この本が今の私に進むべき道を示してくれました。

 

今、どんなに元気でも、
ある日、ある時、
気力がなくなり、
記憶力が低下し、
筋力も落ち、

自分が年老いたと感じる日が来るでしょう。
息子に大きな声で叱られることもあるでしょう。

 

 

そんな日が来たら、
私は子どもになって、
子どもたちに甘えてみようと、
ふと、思いました。

 

 

 

 

 

 

NO.125 2017年 希望の年に… 断捨離して始めましょう

 

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2017年は穏やかな光に包まれて始まりました。

元旦は地元の洲崎神社とヨコハマの隠れた名所、

コットンハーバーに

お散歩してきました。

 

一昨年は実父、昨年は義父と2年続いての喪中となり、
今年は、そのお知らせさえも出しそびれ、
いただいた方に寒中お見舞いを書いています。

 

 

昨年末から続いている断捨離、継続中です。
私の「持ち物」は紙類が大半を占めていることに驚かされます。

まずは絵葉書、便箋、一筆書きの類いです。
旅へ行けば当地の絵葉書、
美術展に行けば展示されている絵画の絵葉書、
お気に入りの可愛い絵葉書、
あちこちから出てくる絵葉書を集めると相当量になり、
寒中お見舞いはお気に入りの絵葉書にしたためました。
ノート、シールも…

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それにもまして、本もたくさんあります。
文庫本は極力買わないようにして、Kindleで読みますが、
それでもかなりの量になっています。
御著者のサイン入りもかなりあります。
ブックオフに持っていくものと、保存しておくものを
選別することのも一仕事です。
ほとんど、保存に分類されていきます。
中には思わず手に取り、読み始めてしまう本もあり、
今は、ダメダメと慌てて本を閉じる…の繰り返しです。

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そして多いのがこれまで関わってきた委員会の議事録です。
子どもたちの学校の父母会、教会関連、同窓会…
目を通してシュレッダーにかけての廃棄。
シュレッダーは手動と電動の2台ありますが、
どちらも家庭用の小さなもので、ひたすら断裁しました。
手が痛くなりました。

 

銀行封筒に入った新札や

商品券も発見し、

とっても嬉しくなりました。

封筒や袋のチェックは欠かせません。

 

写真や年賀状もおいそれと処分できません。
どれもに思い出があります。

断捨離のコツはどうでいいものを捨て、
空間を確保することから始め、
思い出のあるものは後回しにしていくそうです。

 

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片付けてどう収納するかではなく、断捨離は
意識を変えるということらしい…

 

 

そこで、自分の心の中の「思い」の断捨離を決行しました。
40年間 何かあるごとにふっと湧いてくる
理不尽な、悔しい、悲しい思い…
そんな、マイナーな思いを断ち切ることができました。
ずっと言えなかったこと、言わなかったことを、
素直に正直な気持ちを話す機会が奇跡的に起きたのです。


なんでこんなことに煩わされていたのかしらと思ってしまうほど
スッキリ爽やかな気持ちになり、
新しい年の幕開けを飾りました。

 

 

そして、昨日、しぇあひるずヨコハマの記事が神奈川新聞に掲載されました。

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クラウドファンディングも大詰めを迎えます。

https://faavo.jp/yokohama/project/1679

 

新しいぶどう酒は新しい皮袋に…

まずは私の意識改革が必要です。

 

そう言えば、最近は見かけなくなった凧揚げ。
私は家の屋上から凧を揚げるのが大好きでした。
野っ原で凧を揚げるのは、まず走り回ります。
屋上で止まったまま、凧をあげることはちょっと難しいです。
風をみないといけません。
吹いている風に乗ったとき、凧は泳ぐように
空に舞い上がっていきます。
こうなるとあとは糸をキュっと引いたり緩めたりするたびに
どんどん高く揚がっていきます。
凧揚げをしてみたくなりました。

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2017年 いらないものをどんどん捨てて、
希望を高く揚げる年にしたいと
真っ青な冬の空を見上げてふと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

NO.124 追悼 渡辺和子先生 ピーマンの喩え

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大晦日の朝、尊敬してやまないシスター渡辺の訃報を知りました。
いつか、この日が来ると思っていましたが、本当に悲しいです。
クリスマスを越して、ちょっと落ち着いたころ、
神様は和子先生のこの世の使命をよしとされ、
御許にお連れになったのだと思います。

 

自由学園最高学部 キリスト教価値観の講義を3年に渡り
聴講させていただき、
どこかで講演があれば飛んでいき、
シスターの追っかけになったこともありました。

 

「置かれた場所で咲きなさい」がベストセラーとなり、
二.二六 事件でお父様を目の前で殺されたという経験をお持ちになり、
キリストに救われ、シスターになっていった人生も
多くの方々に知られていると思います。

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ここでは、最初に私が、心を動かされたお話を書きます。
それは「ピーマンの喩え」というお話しです。
和子先生はピーマンがお嫌いだそうです。
好き嫌いが許されない修道会の中ですが、

そっとお皿の片隅にお残しになったそうです。

でも、ピーマンがこの世から消えてしまえば良いと願ってみたり、
ピーマン撲滅運動とか致しません。
ピーマンがお好きな方もいらっしゃいます。
青椒肉絲とか、ピーマンがなければできないお料理もあります。

ピーマンにはピーマンの存在価値があります。

 

 

さて、この世の中にはピーマン的人間もいるものです。
どうしても好きになれないピーマンのような人…

そんな人を好きにならなくてもいいでのです。
そっとお皿の隅に寄せるように
自分の生活の片隅に置いてしまっていいのです。

 

あの人さえいなければいいのにとか、
撲滅運動をして糾弾したりとかせずに…

 

イエス様は「あなた方は互いに愛し合いなさい」と
おっしゃいましたが、
「お互いに好きになりなさい」とはおっしゃっていません。

もし、イエス様がお互い好きになりなさいとおっしゃったなら、
私は無理です。できませんと言ったでしょう。
好き嫌いは感情です。

 

でも、愛するということは、好きになることとはちょっと違います。
愛はその人の存在を否定しないで
大切に思うこと。
そして赦すことです。

ピーマン的な人がいたら、お幸せにと言って
後ずさりして逃げてしまっていいのですよ。

 

 

このお話は私にとっては衝撃でした。
私は誰もかれも好きにならなくてはいけないと
子どものころから思い込んでいました。
好きになって受け入れることが大切と思っていました。

嫌われたくないから…

 

だから、ピーマンを飲み込まなければいけないと
結構無理をして生きてきました。
涙目になっても飲み込もうと必死でした。
でも、存在を否定しなければ、好きにならなくてもいい、

なんだか、心からホッとしました。

シスターがピーマンが本当にお嫌いだったかどうか…

でも、この喩えはわかりやすくて、私は大好きです。

 

講義が終わった時、学生たちと同じく
レポートを提出することになり、
私は自分の生い立ちと葛藤、

そして、講義を聞いての
気づきと感想を書きました。

 

すると、美しい朱色の字で
「あなたは心の柔らかい方です。
いつまでも柔軟な心を持ち続けてください。」と
書いてくださいました。

このコメントは私の宝物です。


年末の大掃除、容赦のない断捨離を敢行している最中、
昨日、キリスト教価値観にレポートを見つけて読んだばかりでした。

 

また、数年前、最後にお目にかかり、和子先生に、
先生から聞いたことを
いろんな方に伝えていいですか?と伺った時、
「まあ、嬉しいわ。どうぞ、みんなに伝えてくださいね。」とにっこり微笑んで
私の両手をとってしっかり握ってくださいました。
あの時の笑顔を忘れません。

 

2013年、アメリカ、ボストンに行った際、
私は和子先生の学ばれたボストンカレッジに行き、
キャンパスを歩きました。

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爽やかな居心地の良いキャンパスでした。

ここで教育学を学ばれ、帰国してすぐに
ノートルダム清心女子大学院長になられたのです。


丙申、激動の一年がくれていくこの日、
和子先生から教えていただいたことを心に留め、

感謝して、
きたるべき新しい年に備えてゆきたいと思います。

 

 

 

 

皆様にとって2017年が素晴らしい年になりますように。

 

 

 

NO.123 クリスマスおめでとう 星のかんむり 谷村みよ子


クリスマスおめでとうございます。
わたしの大好きな作家松谷みよ子さんの「星のかんむり」のお話を書きます。


イギリス、ロンドンに住むブラウンさんという大金持ちのおじいさんが亡くなりました。
教会や、貧しいひとたちのための施設や病院に、
いつもたくさんの献金をしていた名士のおじいさんでした。
おじいさんはひとりの天使に連れられて天国にいく途中、いろいろ考えていました。
「きっと神様から星がたくさんついた冠をもらえるに違いない。
献金もたくさんしたし、学校への寄付もしたし、教会を一度も休んだことはないし、
勉強だって仕事だってなまけたことはないのだから、一番すごい冠をもらえるだろう」
これまでやってきたことを思い起こして満足でした。
すると天国の門につきました。なんだこんなところなのか。
天国はもっとすごいところだと思ったのに、とあたりに青い星と雲しかない門を見てがっくりしました。
門の中からピカピカ光るきれいな冠をつけた天使が
ひとつだけ星のついた冠をもって出てきました。
「おお、マリアさまですな」とブラウンさんがさけぶと、
「いえ、とんでもない、私はルツですよ」と天使が言います。
「この冠をおかぶりください」
「ええ?去年の大晦日になくなったルツなのか」
びっくりするブラウンさんにルツははいと答えました。
「なんでお前の冠にはたくさん星がついているのに、
わしの冠にはひとつしかないのか」

不服そうに言うブラウンさんに最初の天使が言います。
「どうしてなのか説明しましょう」そしてルツのお話しが始まりました。
ルツは教会の入り口に捨てられていたのをブラウンさんに拾われて、
お屋敷で働いていましたが、心のやさしい娘でした。
どんなにつらいことがあっても、神様への感謝を忘れず、
いつも他の人のことを考えていまいした。
けがした子雀をいっしょうけんめい看病したり、
病気のお母さんをかかえた郵便配達の少年の妹になって励ましたり、
神経痛で困っているおばあさんの孫娘になってお世話をしたり、
娘を亡くして泣いてばかりいる絵描きさんの娘の代わりになって支えになってあげたり、
足の障害をもった女の子のお友達になったり、
仕事の合間にこっそりとよいことをしていました。
でも、いつも怒られてばかりです、どこに行っていたの!仕事をさぼっているんだね。
教会にもいかないでどこをほっつき歩いているんだと、
みんなは誰もルツのしていることを知りません。
知っているは神様だけでした。
屋根裏部屋でどれだけルツが祈っていたか、それを知っているのも神様だけでした。

天使の話を聞いて「なるほど、ルツはやさしい子だ」とブラウンさんも認めました。
「しかし、聖書の教えにしたがって、私はたくさんの献金をしてきました。
わたしのおかげでたくさんの人を幸せにしてきました。ルツの何倍もね」
とブラウンさんは言います。
「あなたはお金持ちです。そのお金の中から献金をしてこられ、
世の中の人から尊敬され、感謝され、よりお金もちになれました。
あなたはこの地上でもう十分によい行いへのご褒美をいただきましたね。
それに比べるとルツさんは少しも人からほめられようという気はなく、
ただ神様を喜ばせたいと思っていました。
人でなく、神様がルツさんのよい行いをほめてくださいました。
だから星がたくさんついています。」
「よくわかりました。わたしは正しい、立派な人間だとうぬぼれ、
神様からたくさんのご褒美をいただけるものと思っていました。
いつでも人からほめられたくて、そればかり考えていました。
いやしい私は星などいただくねうちもありません。この冠をお返しします。」
そう言って冠を返そうとすると天使はそれをとめて
「ブラウンさん、その冠はかぶっていらっしゃい。
せっかく神様があなたのためにくださったものです。」と言いました。
なぜかわからないブラウンさんに天使は
去年のクリスマスにしたことを話してくれました。
神様が喜ばれる良い行いというものは、自分は忘れているものなのです。

クリスマスの日にブラウンさんはホームレスになってしまったかつてのお友達に食べさせ、着物を与え、仕事の世話までしてあげたのでした。
愛から出た行いでした。そのことを神様は記録していました。
そして冠にひとつの星をくださいました。
「神様はまったく公平でいらっしゃる。神様のなさることにはまちがいはない」
ブラウンさんはひざまずいて
「わたしはこのひとつの星をありがたくちょうだいします」と言いました。
そのときバーンを花火のような音がしました。
「ごらんなさい。またひとつ星がうまれましたよ」天使が言いました
「地上のどこかで、誰かが隣人に愛の行いをするとき星がうまれます。
毎日星が生まれるから宇宙はこんなに美しいのです」
こうしてブラウンさんはルツさんに手をひかれて天国の門を通っていきました。




誰かがどこかで、こっそりと本当に小さな良い行いをするとき、
宇宙のどこかで星がうまれます。
褒められようとか、お返しをほしがったりする良いことを神様は喜ばないけれど、
だれも知らないでする良い行いをしたときに星が生まれるので、
あんなに、きらきらと輝くのですね。

わたしは子どもの時からずっと、このお話が大好きでした。
良いクリスマスをお過ごしください。