港も見える丘から

人生のゴールデンエイジにふと感じることを綴っていきます

NO.197 一遍上人⑥ 一遍さんの生涯

 

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「遊 捨て聖 一遍上人 踊り遊ぶ」がAmazon

浄土宗部門で売上ランキング2位に浮上

という嬉しい知らせが治海さんから届きました。

 


堂々1位は栗原康さん「死してなお踊れ」です。

すごいです。

 



 


嬉しいことがあると 俄然 元気がでてきますね。

さて、これまで一遍上人について書いてきましたが、

いよいよ、その生涯を紹介します。

 


様々な文献がありますが、その中で圧倒的な面白さ、

栗原康さんの一遍上人年譜を引用させていただきます。

 


Amazon Kindleの文章コピーには制限があり、

先日の浄土宗の文章も、この年譜もiPadで入力しました。

大変な作業でしたが、おかげさまでしっかり頭に入りました。

コピぺだけではダメなのだなあとつくづく思いました。

さて、一遍上人の生涯は…

 

 

 

1239年(1歳) 伊予の道後(愛媛県松山市)でうまれる。うぶ湯はとうぜん道後温泉だ。温泉うまれ、温泉そだち。父は河野通広。幼名は松寿丸。

 


1249年(10歳) 母の死をきっかけに出家。随縁と名づけられる。

 


1251年(13歳) 修行のため九州の太宰府へ。浄土宗西山派聖達に師事。とおもったら肥前佐賀県)、清水寺の華台にあずけられる。ありったけの経典と注釈書をよんでくるのじゃあ。華台から智真と名づけられる。わずか一年で教義をきわめる。華台もビックリ。ふたたび聖達のもとへ。師匠によろしく!

 


1263年(25歳) 5月24日、父の死をきっかけに還俗。病身の兄をたすけるために、故郷にもどる。あんちゃ~ん! 屋敷をかまえて結婚。煮ても焼いてもセックスだ。奥さんふたりに子どもふたり。アンアンノンノン観音さん。智真、世俗にまみれる。

 


1271年(33歳) 親類の恨みをかって、数人の郎党に襲撃される。闇討ちだ。刀をうばってかえりうち。殺、殺、殺、されど殺。血まみれじゃあ! またこのころ奥さんふたりの愛憎嫉妬、ドツボにはまってどっぴんしゃん。ある日、碁盤をまくらに寝ていた奥さんたちの髪がヘビになって喰いあっているさまを目撃。ギャア!!! からみあうヘビを碁盤ごと刀でぶった切った。出家だ、再出家しかねえ。この春、聖達を再訪。帰りに長野の善光寺によって二河白道図をみる。秋に帰郷。窪寺の閑室にこもって、十一不二の頌をつくる。

 


1273年(35歳) 7月、菅生の岩屋へ。半年ほど山岳修行。

 


1274年(36歳) 2月8日、いざ遊行へ。家も子も地位も財産もなげ捨てて、身ひとつで念仏をひろめにゆく。捨ててこそ。あ、あれ? 奥さんと娘も出家してついてきてしまった。チャチャチャ! まずは大阪、四天王寺へ。「南無阿弥陀仏」とかかれた念仏札をくばりはじめる。このころから一遍を名のる。夏、熊野本宮へ。信心のないお坊さんにも念仏札をくばる。その夜、熊野権現から啓示。信不信を問わず、浄不浄をきらわず。いいよ。その後、奥さんと子どもを伊予にかえし、一人北九州へ。10月、蒙古軍が筑前(福岡県)に侵攻。元寇(文久の役)だ。一遍は戦地をまわる。むし湯をつくってケガ人の治療。よっ、テルマエ・ロマエ!翌年の秋、伊予にもどる。

 


1276年(38歳) ふたたび九州へ。遊行してまわる。豊後(大分県)では、守護の大友頼泰の帰依をうける。鉄輪温泉はじめました。ここにしばらく滞在し、他阿弥陀仏・真教がなかまになる。好(ハオ)兄妹!こののち、遊行には複数人が同行する。

 


1278年(40歳)  備前(岡山県)の藤井へ。吉備津宮の神主の家をたずねる。息子さんの留守中にその奥さんを出家させる。おせっかい上等でございます。帰宅後、怒った息子さんは一遍をおいかけ、福岡市で刀をぬいてきりかかる。一遍、これを眼力で撃破。ハ、ハウ。息子さん出家し、あたまをまるめる。これをみていた町の衆、われもわれもと一遍に帰依。いっきに280に人だ。マジヤベエ!

 


1279年(41歳) 秋、信濃(長野県)佐久郡伴野へ。小田切の里で、ある武士に屋敷に滞在。ここで自然発生的に踊り念仏がはじまる。ちええっ!ちえええっ!この冬、おなじ佐久郡大井太郎と、その姉さんが帰依。うちで踊り念仏と屋敷にまねかれる。ぜひもなし。三日三晩、数百人でおどり狂う。あまりはげしさに屋敷の板敷をぬいてしまった。フオオオオ、フオオオオオオ!!!壊してさわいで、燃やして、あばれろ。

 


1280年(42歳) 夏ごろ、長野を出て東北へむかう。奥州江刺郡(岩手県北上市)へ。承久の乱流罪となったおじいちゃん、河野通信のお墓参り。あばよ、じいちゃん。反乱上等、念仏よし。仏のまえではみな平等。いまいばっているやつがなんだ。この腐りきった武士の世に、念仏の火の玉をブチこんでやれ。いくぜ、鎌倉!

 


1281年(43歳)  5月、ふたたび蒙古襲来(弘安の役)。7月、暴風で退却していく。一遍たちはとにかく鎌倉をめざした。戦争はキライ。だまされねえぞ。鎌倉幕府。したがわぬえぞ。戦争動員。国土じゃねえよ。浄土だよ。

 


1282年(44歳) 3月1日、鎌倉の小袋坂へ。視察にきていた北条時宗の一行に制止される。一遍かまわず突進。棍棒でボコボコにされる。いたいよ、チキショウ!翌日から片瀬の浜辺へ。踊り屋をたてて、踊り念仏を決行。貴賤あめのごとくに参詣し、道俗雲のごとくに群集す。7月16 日までおよそ120日間、ぶっとおしでおどり狂った。いま死ぬぞ!いま死ぬぞ!死してなお踊れ。

 


1283年(45歳)  尾張萱津(愛知県あま市)の甚目寺へ。町の有力者からやたらと食べ物がとどく。一遍はそれで大規模な炊きだしをやった。乞食も非人も上下の貴賤なく、みんなで同じ釜の飯を食らう。その後、貧民救済の炊きだしが慣例になった。うわさをききつけた近隣の悪党たち、一遍を支持。「この坊さんに手をだしたらブチ殺すぞ」との高札をだす。

 


1284年(46歳)  4月16日、京都四条京極釈迦堂(現、染殿地蔵院)にはいる。ここで踊り念仏。すさまじいひとの群れだ。テンションのあがった一遍は、肩車をしてもらって狂ったように念仏札をバラまいた。ホレ!ホレ!その後、空也上人ゆかりの市屋道場(金光寺)へ。ふたたび踊り念仏。熱気、熱気、熱気。大盛況だ。はねろ、はねろ、はねろ。散って狂って捨て身ではねろ。シャー!

 


1285年(47歳)  美作(岡山県)の一宮中山神社へ。差別をうける。一遍に同行していた乞食、ハンセン病者はケガレているからはいれないという。なんだこのやろう、ふざけやがって。

ヤッチマイナ。神社の中でさわぎまくった。コメだせ、コメだせ、コメをだせ。おそなえ用の御釜でコメをたかせて、みんなに平等にふるまわせた。ざまあみやがれ。

 


1287年(49歳)  播磨(兵庫県)の書写山円教寺へ。絶景、そして秘宝・如意輪観音像に大感動だ。生きててよかったさ〜♪気分上々。山をおりたあと松原八幡神社にはいり、そこで「別願和讃」かく。

 


1288年(50歳)  伊予へもどる。12月、大三島大山祇神社へ。翌年2月、神事に生贄はいらねえとムダな殺生をいさめる。

 


1289年(51歳)  7月初旬、淡路島へ。一遍は体調がわるい。もうこれ以上うごけない。でもたのまれれば、いつでも死ぬ気で踊り念仏だ。いけ、いけ、往け、往け。おまえの命はいきるためにながれている。7月中旬、死期をさっし、大輪田泊(兵庫県神戸市)の観音堂(現、真光寺)にはいる。8月10日、もっていた書籍をすべ燃やす。「一代聖教みなつきて、南無阿弥陀になりはてぬ」聖典はいらない、教団はつくるな、念仏でゆけ。8月23日、死去。遺言はこれだけだ。「わが屍を野に捨て、獣にほどこずべし」一遍、カッコイイ。死んでからが勝負。いくぜ極楽、なんどでも。

 


なんとまあ、ロックンロールの生き方…でしょうか。

 


最期を少し補足します。栗原さん、ごめんなさい!

8月10日、(奇しくも、私のお誕生日)所持していた書籍類を阿弥陀経を読みつつ焼却してしまいました。

8月9日から7日間紫雲がたなびき、17日酉刻、御臨終といって人々がさわぎだします。

が、最後の札を授ける力は残っていて、20日から22日の3日間は水垢離をしました。

そして、8月23日の辰の始、往生。時衆及び結縁衆7人、一遍上人を追って、

前に海に身を投げてしまいます。

遺言にしたがって一遍上人の御遺体は野に捨てる…ことはされず、

観音堂前の松の下で火葬。在家のものたちが墓所を荘厳しました。

神戸真光寺です。そして、その後、相模原無量光寺に分骨されました。

 


事細かな軌跡がいまもなお残っているのは、

12巻に及ぶ「一遍聖絵」のおかげです。

 

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神奈川県立博物館資料室で調べて、一遍遊行略図を発見したとき、

初めて、遊行先の地理が頭に入りました。

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遊行開始から12年で、本州、九州を徒歩で、

遊行したのはすごいなあと思います。

 


一遍上人をそこまで鼓舞させたものはなんだったのでしょうか。とふと思います。

高邁な思想の果てに辿りついた境地から、というよりも、

なんだかなあ…この人生と思いつつ、ある時、阿弥陀仏の慈悲の本質にはっと気づき、

よし!やってやるぞ!と思い始め、お友達に支えられ…

あっちこっちからのお声かけに呼ばれて遊行していく、

大変そう、辛そう、だけど、とっても楽しそう!という一遍上人の姿が思い浮かびます。

 


先日、お誕生日を迎えて、私も人生とは何かと、考えてみました。

人生100年といっても、誰もが元気で100歳を迎えるわけではありません。

いつ「自分のその時」が来るのか誰もわかりません。

 


さて、これからの「おまけ人生」をどう生きるか…

一遍上人の人生をなぞりながら、思いました。

 


私は16歳で母を失くしてから、

事情があり、父からも独立して、

4つ下の弟の面倒をみながら、なんとか生きてきました。

大変な時もありました。

でも、その都度、その都度、

たくさんの方に助けられてきました。

多くの方から恩をいただきました。

いただいた恩をお返ししたいけれど、

すでに天国に召された方もいらして、

直接お返しできないかたもいらっしゃいます。

いま、縁を結んだ方に

いただいたご恩を送る…

恩返しならぬ、恩送りをしてゆけたらと

思うようになりました。

 

 


できないことを嘆くより、

できることを丁寧にやって

恩を送っていけたら、それは

わたしの一番の幸せなのだと思います。

 

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コロナ感染拡大で大変な状況に置かれて、

困った、困ったと頭を抱えている方も多いでしょう。

こういうときは迷わず神頼み!

神さま、神様、助けて!

仏さま、仏さま、お助けください!

声に出してみるといいですね。

踊ってみるのもいいですね。


きっときっと、幸せになれるという希望をもって

明日を生きることができたらいいですね。

 

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YouTubeのブックバーという番組で

杏ちゃんが「死してなお踊れ」を取り上げていますので、

ご覧になってください!

ご覧になってください。

https://youtu.be/hToPb6OTt1E

 

 

 

 

 

 

 

 

NO.196 一遍上人⑤ 死してなお踊れ

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長い梅雨の後やってきた酷暑の夏、

夏生まれで夏が大好きの私も外出るのを怯んでしまうほどの、

眩しい太陽が照りつけています。

こんな日はじっくり部屋に篭るのもいい時ですね。

 


さて、「遊 捨て聖 一遍上人 踊り遊ぶ」がAmazonでも購入できるようになりました。

これで歓喜童子は日本中にぴょんぴょん遊びにいくでしょう。

 

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絵本のみならず、栗原康さんの栞「気分はなみあみだぶつ」がすごい評判になっています。

栗原康さんは日本の政治学者で専門はアナキズム研究。

著書に『大杉栄伝永遠のアナキズム』や『学生に賃金を』などがある。

東北芸術工科大学にて非常勤講師を務めている方です。

 

Wikipediaによれば、

1979年、埼玉県に生まれる。高校時代に満員電車で気分が悪くなって吐いてしまったところ、サラリーマンに背中をカバンで連打されたという経験がトラウマとなり、それからは満員電車を避け、途中駅の公園で読書をした。ある日公園で読んだ大杉栄の評論がきっかけでアナキズムを研究することになる。早稲田大学政治経済学部を卒業後、同大学院の政治学研究科の博士後期課程を満期退学。白井聡とは同じゼミであった。

2014年、『大杉栄伝 永遠のアナキズム』で第5回いける本大賞を受賞する。2016年、6冊目の著書『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』が岩波書店より刊行された。2017年、池田晶子記念「わたくし、つまりNobody賞」を受賞。

 


と書かれています。

でも、どんな方か…ということより先に、栞の文章に圧倒されて、興味深々。

そこで早速「死してなお踊れ 一遍上人伝」をKindleでダウンロードして読みました。

 


ひらがな80%、ノリの良い軽快な文章、リズミカルで驚くほど、

読みやすく、あっという間に読み終えました。

 


難しい内容を読みやすく書くのが一流。

簡単な内容を難しい文章で書くのが三流…と聞いたことがありますが、

栗原康さんはすごいと心から思いました。

一遍上人の資料を読み、浄土宗についても学んできましたが、

栗原さんの解釈ほどよくわかるものはありません。

 


企画の長屋のり子さんを通して

「引用文をブログに掲載しても良いですか」とお聞きしたところ、

快諾いただきました。

是非、是非、本を読んでいただきたいので、

ここでは「浄土宗」についての文章を

少し長くなりますが、紹介させていただきます。

 

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浄土にいくことは権力とたたかうということとおなじことだ。

 ここからもうすこしだけ、一遍がまなんだ浄土のおしえにちかづいておこう。日本では、平安末期からちょっとずつ浄土のおしえが紹介されてきたが、それがいっきにひろまったには、鎌倉時代にはいってからだ。きっかけをつくったには浄土宗の開祖、法然。じゃあ、この法然はなにをやったのかというと、さすがである。ただでさえわかりやすかった浄土のおしえを、さらにわかりやすくしたのだ。法然は、こういった。法蔵の四八願のなかで、だいじなのは一八願である。これだけでいい、ほかはかえりみなくてもいい、だいじなものはえらんでつかめ、一八願、というのである。

 さきほども一八願についてはすこしふれたが、じゃあ法然はこれをどう解釈していたのかというと、かれは仏の名をよぶというところ注目していた。

オレの名を10回もよんでくれているのに、そいつが救われないならば、オレは仏になんかならなくてもいい、と。これいいかたをかえると、ただの10回でも阿弥陀仏の名をよべば、だれでも極楽にいけるということだ。

南無阿弥陀仏。南無というのは帰依するということなので、わたしは阿弥陀仏に帰依しますよという意味だ。仏を唱えろ、念じましょう。なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。このことばをとなえれば、だれでもかならず救われる。だれでもできる。かんたんにできる。そりゃそうで、アミダはひとを選別しない、われひとりももらさじといっているのだから、そのすくいかたがだれでもできるものじゃなくちゃおかしいのである。なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。ととなえろ。念仏。極楽だ。

 これはとてもラジカルなことをいっているのって、わかるだろうか。ふつううだったら、お寺にはいって、何十年もかけてきびしい修行をして、それにたえたものだけが仏の道をきわめられるとか、そうじゃなくても、お寺にたくさん寄進をして、功徳をつんだふとだけが救われますとか、そんなふうにいわれているのに、法然は念仏をとなえるだけで、だれでも救われますよとかいってしまっているのだから。いいかたをかえると、お寺はいらない。教団もいらない。カネもいらない。権力もいらない。あらゆる権威はいらないんだということである。そりゃあ、いじめられる、迫害される。とりわけ、他宗教のお坊さんたちはカンカンだ。法然がいっていることをみとめてしまったら、たとえ教団のトップになったとしても、ちやほやしてもらえなくなってしまうわけだし、そこまでいかなくても、何年もがんばって修行してきたのに、そんなの意味ねえよといわれてしまうのだから。

 ということで、1204年、天台宗比叡山延暦寺が朝廷にたいして、念仏をやめさせろという上奏文をだした。それから翌年には、法相宗興福寺がおなじような上奏文をだしている。これだけだったら、なんとかもちきったかもしれないが、さらに翌年、法然の弟子二名がやらかしてしまう。後鳥羽上皇、お気に入りの女房たちを出家させてしまったのだ。おそらく、愛人かなんかだったのだろう。やっちまったなあ。

上皇はもう、大激怒だ。1207年、その弟子二名にくわえて、ほかの二名の弟子もまきぞえをくらって処刑されてしまった。法然は僧籍をはくだつされ、土佐に流罪となる。そのほか七名の弟子たちも流罪にされた。ひどいもんだ、これを承元の法難という。 

 でも、法然やその弟子たちはめげやしない。むしろ、いっていることを、どんどん先鋭化させていった。やいやい、そこの金持ちども。おまえら、ほんとうにカネをつんだだけで成仏できるとおもっているのか。ふざけんじゃねえ、仏はカネで買えやしない。やいやい、そこのえらそうにしている坊主ども。おまえら、ほんとうにこむずかしい修行でもつんでいれば、成仏できるとでもおもっているのか。これだけ努力したから、これだけ救われるとか、損得打算じゃないか。仏がそんなみみっちいことするわけがないと。

 だいたい、カネをもっているやつがえらい、仏教にくわしいやつがえらいとかいっていたら、カネ、カネ、カネ、学歴、地位、名誉、もっともっとと、みんなおのれの富をふやすことばかりに駆りたてられてしまうじゃないか。

自分の行為に見返りをもとめ、それでえられたものに執着する。自力我執だ、欲まみれ。仏の世界がそんなものであるはずがない。仏はひとを選別しない。だれでも無条件に救うのである。だいじなのはそれを信じることだ。ほんとうはそれがいちばんむずかしい。だって、なんにもしていないのに救われる実感をもちましょうといっているのだから。でも、やれる。まずは自力我執をうち捨てて、ほかなる力を、アミダの力を信じよう。なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。富も権力もクソくらえ。アミダにまかせろ、絶対他力。浄土にいくということは、権力とたたかうということとおなじことだ。

 


 「承元の法難」の際、流罪になった七名の中に親鸞がいました。

親鸞法然の思想を受け継ぎ、浄土真宗を開きます。

親鸞は「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。しかるを世の人つねにいわく、『悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。』この条、いったんそのいわれあるに似たれども、本願他力の意趣に背けり。」と言っています。

 


これは他力をたのむ心が欠けている作善の人でさえ浄土へ生まれることができるのだから、自力では救れないことを悟った穢悪汚染の人間が、他力をたのめば往生できるのは当然である」ということになります。

この思想の根底には親鸞の「他力本願」の教えがあります。他力本願とは、「南無阿弥陀仏」という念仏によってしか人は救われないとする、親鸞が一生をかけて広め続けた阿弥陀如来にすべてを任せきるという生き方の思想です。

 

 

 

一遍はさらにそのさきへとすすんでいる。経典によれば、法蔵ははるかむかしに阿弥陀仏になっている。ということは、われわれはが救われるということは、もうきまっているんじゃないのか、いやすでに救われているといってもいいんじゃないのか。そうだ、念仏はもうとなえられている、ひとは生きながらにして往生できているんだと。

 ここまできて、あらためて、なにいってんのというひともいるかもしれない。だって浄土にいく、往生するというのは、あの世にいくということじゃないか、死ぬということじゃないのか。なのに、すでに救われているとか、生きながらにして往生できるって、どういうことですか、あたまおかしいんじゃないですかと。一遍だったら、こうきりかえすだろう。うるせえよと。一遍は、おおまじめにこう考えている。現世と浄土のあいだに境界なんてありはしない、仏の世界はいつだって人間の世界にすべりこんでいるのだと。これ、阿弥陀仏は無量光明ともいわれていて、つきることなくはっせられている慈悲の光のことを意味していた、慈悲の力そのものなんだというのをおもいだしてもらえたら、わかりやすくなるんじゃないかとおもう。 

 じゃあ、その慈悲というのはなんなのかというと、それはわが身なんてかえりみずに、ひとになにかしてあげたい、してあげることだ。法蔵は宇宙がおわるんじゃないかというくらい、ながいあいだ修行をつんで、やっと仏になれるとかいわれていたのに、それをぜんぶほうりなげて、くるしんでいる衆生を救おうとした。あいつらが救われないなら、オレも救われなくいていい、オレはどうなってもいいから、まずあいつらを、みんな救ってほしいんだと。

法蔵は自分がやっていことに、見返りなんてもとめない。侠気だ、無償のこころ、慈悲である。そのいきごみがみとめられて、法蔵は阿弥陀仏という仏になっていて、つきることなく慈悲の光をはっしている。だとしたら、われわれの日常生活は、はじめからアミダの慈悲でみちあふれているんじゃないだろうか。

 で、一遍はおもったわけだ。いちどでもいい、ただのいちどでもいいから、阿弥陀仏の光を体にあびれば、だれだっていますぐに仏になれると。

人間がみずから光をはっするのだ。見返りなんてもとめない。ほどこし、ほどこし、そしてさらなるほどこしだ。仏になれる、成仏だ。ひとは生きながらにして、往生できる。なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。だから浄土にいくということは、死後の世界にいくことではなくて、いまここで無償の生をいきるということだ。生きるも死ぬも関係ないね。念仏となえて、宣言しよう。アミダ、最高。オレ、仏。

 


アミダの力はすでにある、いつでもつかえ、もっともっと。

 

 

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浄土宗の教えが心にどんと入ってきて、

元気になってくるような気がしてきます。

 


私はバプテスト派クリスチャンなのですが、

浄土宗の教えには共感できることがたくさんあります。

 

「私は無宗教です。」思っている方はたくさんいらっしゃると思います。

「宗教は怖い!」とさえ思ってる方も多いのではないでしょうか。

 


何もかもうまくいってる!という時代には宗教は必要ないかもしれません。

自分の努力があってもなくても、確実に実をむすぶことができます。

 

一遍上人が生きた時代はといえば、蒙古襲来、初めて外敵と戦う国難時です。

人々は飢えに苦しみ、病気に倒れ、希望などありません。

それなのに、偉い人たちは自分たちの益になるようなお寺にお金をかけまくっていました。

いつの時代もお偉いさんのやる事は同じです…

 



 



 


絶望感にひたっている人たちに「南無阿弥陀仏」と唱えれば

浄土にいけるといって回った一遍上人は、

一粒の種のような希望だったと思います。

 


一遍上人の業績には「念仏踊り」と「御賦算」があります。

 


御賦算とはわかりやすく言えば、「お札くばり」のことです。

賦は「くばる」、算は「念仏札」を意味します。

一遍上人は巡り歩かれるところで、必ず御賦算を行いました。

念仏札は、集まった人々1人ずつに遊行上人が手ずから配られます。

一遍上人は、南無阿弥陀仏の印板を作って刷ったお札を

生涯に約250万1千人(25万1千人とも)に配られたと言われています。

お念仏を称えれば、阿弥陀仏の本願の舟に乗じて極楽浄土に往生できるとの安心のお札であります。

それにしてもすごい数です。

何ひとつ自分の持ち物がない人々が、

「自分だけのお札」をもらって、どれだけ嬉しかったことでしょう。

 

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バブルを経験し、繁栄を極めた国にも、

「将来の希望などない時代」が再び巡ってきました。

コロナウイルス襲来!

この先の歴史家はこの時代をなんと呼ぶのかわかりません。

でも、私たちは生き延びて、後世に何かを残せると思うのです。

 


なぜか、教会学校の子どもたちと歌っていた讃美歌を思い出してしまいます。

♫わたしは ちいさいひ ひかりましょ

 わたしは ちいさいひ ひかりましょ 

 ひかれ ひかれ ひかれ♫

 


歓喜童子が遊んで、踊って、光っている…

 

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なんか楽しくなりそう…

 

ああ、なにかを残すことが大切なのでないですね。

 

あなたはどう思いますか…?

 

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NO.195 一遍上人④ 片瀬地蔵堂跡

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藤沢駅から江ノ島電鉄に乗り、石上、柳小路、鵠沼、を過ぎ、湘南海岸公園で下車。

地図を頼りに歩くこと8分。なかなか見つけることができません。

洗車をしている地元のおじさまや、郵便配達の方に聞いても、

首を傾げるだけでした。

それもそのはず、そこは片瀬海岸3丁目でした。

 

そこで、目指す片瀬3丁目に向かいましたが、そのあたりは住宅地。

お店もなく道を聞くことも出来ずに困っていると、

一軒の家からおばあちゃんと男の子が出てくるところに遭遇しました。

思わず、道を尋ねると、小学校3年生くらいの男の子は、

「わかります。」と言って

親切に、しっかりと道順を教えてくれました。

教えられた通りに進むと、そこに目指す地蔵堂跡がありました。

 

 

時は1282年(弘安5年)、3月のことでした。

一遍上人が滞在し、道場となっていた片瀬地蔵堂には貴賎道俗の人々が多く集まってきていました。

3月末のある日、紫の雲がたち、空から真っ白な花が降り始め、芳しい香りが漂ってきました。そのあとも、時にしたがって度々このような不思議な出来事が起こりましたので、ある人が不思議に思って、これは何か意味があるのでしょうかとお尋ね申し上げたところ、

 


「花の事ははなにとへ、紫雲の事は紫雲にとへ、一遍はしらず」とお答えになりました。

 

 

 

なんともあっさりとした、ある意味、突き放した返答のようにも感じなくもありません。

聖はこうも歌っています。

 


咲く時が来れば咲き、散る時が来れば自然に散る花と同様、自然の理法のままに我が身もなって行くのです。花には花の色があり、月には月の光があります。ただそれだけのことと、執着なく眺めていれば、心は格別のもの思いもありません。無心でいられるものです。

 


しみじみそうだなあと思います。

もっともらしい答えをしようと、こねくりまわしている私など、ハッとさせられます。

お前は花の何を知っているのか?お前は紫雲の何を知っているのか?と

一遍上人に頭を撫でられながら、笑って問われる気がいたします。

 

 

 

 


東京大学教授、松岡心平先生の興味深い一文を紹介します。

 


一遍聖絵】によると、一遍が踊り念仏を始めたのは、信州小田切の里である。(第四巻)

踊屋はまだない。武家屋敷の庭先での踊り念仏である。一遍は踊りの集団には加わらず、縁側に立って鉢を叩いて囃しており、庭では土墳のそばで、時衆の僧尼や武士たちが足を高くあげながら思い思いに踊っている。

 信州佐久の大井太郎の館でも踊り念仏は行われた。『聖絵』第五巻では、一遍たちが大井太郎の屋敷から立ち去る場面が描かれるだけだが、屋敷の縁側の板が踏み抜かれているのが印象的だ。詞書には「数百人をどりまはりけるほどに、板敷ふみおとしなどしたりける」とあり、屋敷内で数百人が踊り狂って板敷を踏み破ったようだ。

「数百人をどりまはり」とあるからには、踊ったのが一遍ら時衆の面々だけでないことは明らかだろう。

 弘安二年(1279年)冬、信州で自然発生的に始まった踊り念仏は、道俗ともに激しく踊り狂うアナーキーなものであった。

 ところが、不思議なことに、これ以降の二年半ほどの間、『聖絵』から、踊り念仏の描写・記述がぷっつり途絶えてしまう。再びそれが復活するのは、弘安五年(1282年)の春、鎌倉近くの片瀬浜の地蔵堂においてである。(第六巻)

しかも、踊り念仏は、全く新たな面貌をもって再登場する。

 ここで初めて、高床に屋根つきの仮設舞台「踊屋」が現れる。さらに、舞台上で踊るのは、時衆の僧尼に限られる。囃す楽器もありあわせの鉢から鉦鼓に変わっている。そして、一遍たちが鉦鼓に合わせて板を踏み鳴らして念仏を唱え、法悦に浸りながら右旋回するさまを、一般の人々は踊屋の下から眺め上げるだけであった。

 片瀬浜での念仏踊りは、明らかに組織的な「踊り念仏興行」というべきものへと変質しているのである。

 念仏が、劇場を生み出した瞬間である。

 


私は神奈川県立博物館資料室で、この文章を読んだとき、

まるでその場「念仏が、劇場を生み出した瞬間」にいたような衝撃を得ました。

物音一つしない部屋にいながら鉦鼓の音が聞こえる気がしました。

この感動を持って、片瀬地蔵堂に参りましたので、

その場に立ったときも、念仏踊りの音楽が聴こえてきました。

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そこには当時を忍ぶ建物はなにもありません。

なにもない、ただの野原です。

先ほどの男の子がここを知っているわけがわかりました。

大人にはなんの意味もないこの場所も、

子どもたちにとっては意味ある遊び場なのでしょう。

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一遍上人と時衆は鎌倉に入れず、この場所で4ヶ月を過ごしました。

遊行の旅で4ヶ月も同じ所に留まった例は他にはないようです。

春分の日から、夏至の時期、一番日が長くなるこの時期、

踊屋では毎夜、踊り念仏が繰り広げられ、

あちこちから多くの民が集まって、

観にきたのではないでしょうか…

食べるものを売る輩もいたかもしれません。

ミッドサマーフェスティバル!

 

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踊り念仏は各地に広まり、盆踊りに変化して、今につながります。

YouTubeで「踊り念仏」を検索すると、

流麗な、穏やかな動きの奉納される踊りとして多く出てきます。

 

 

 

でも私には違う光景が見えました。

1991年、バブル時代、ジュリアナ東京です。

「お立ち台」と呼ばれるステージで、

ワンレン・ボディコン女性がジュリ扇をヒラヒラさせて踊り、

ホールのみんなもトランス状態で踊る光景です。

子育て真っ最中の私には全く縁のない場所でしたが…

信州佐久で自然発生的に始まった、

道俗ともに踊り狂うアナーキーの踊り。

 

もしかして、いろいろ問題もあったのかもしれません。

 

そこで皆で知恵を絞って作り出したものが

片瀬地蔵堂の踊り念仏のショーだったのかもしれません。

とにもかくにも、娯楽の少ない当時の人々の

大きな楽しみだったに違いありません。

 

貴族や武士の高位のものだった宗教を、民間レベル、

しかも、男だけでなく、女子どもに伝える目的のための

最高の踊り念仏エンターテインメントは、

最上の布教コマーシャルだったと思います。

 


一遍上人の旅は続くように、

私の一遍上人への旅も続きます。

 

江ノ電石上駅柳小路駅の中間地点にある蓮池の花、

もう時期を過ぎていますが、

咲いている可憐な蓮の花、

「遊 捨て聖 一遍上人 踊り遊ぶ」の花です。

癒されます。

 

 

 

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NO.194 一遍上人③ 藤沢遊行寺

 

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長かった梅雨が明け、待ち望んだ夏空が広がる朝、

私は晴れ晴れとした気持ちでJR藤沢駅に降り立ちました。

藤沢在住のお友達と久しぶりに会えるのも大きな楽しみでした。

 


改札口で待ち合わせをして、お互いの近況報告をしながら、

駅からまっすぐ10分ほど歩くと、境川のたもとに出ました。

そこには資料館があり、中へ入ってみます。

 

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f:id:tw101:20200802075621j:image 品川、川崎、神奈川、保土ヶ谷、戸塚、藤沢 東海道6つ目の宿場町です。

 

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江戸時代も大賑わいの門前町だった様子が伝わってきます。

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そして、現在、箱根駅伝の際には「遊行坂」が大きな通過ポイントとなる重要な場所です。

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山の方に目を向けると、遊行寺の立派な山門が見えています。

 

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一遍上人が初めて藤沢の地を踏まれたの1282年(弘安5年)、御年43歳の時でした。

35歳で遊行の旅に出られて、すでに8年。北は奥州平泉から南は太宰府まで、遊行されていました。

1282年の春、常陸・武蔵を経て、こぶくろ坂から鎌倉入りを目指されました。

鎌倉は幕府の所在地、時の将軍は惟安親王、執権は北条時宗でした。

当時、鎌倉では北条氏の保護を受けて禅宗の寺院が盛んになってきていましたので、

各宗の高僧たちは鎌倉での布教をこころみようとしていました。

また、浮浪の人々も仕事と食料を求めて、あちこちから集まってきました。

ありとあらゆる階層の人々が、せまい鎌倉市中にひしめいていたのです。

 


一遍上人も多くの民衆への念仏勧進を願い、鎌倉に入ろうとされました。

ところが、こぶくろ坂で警護の武士が行く手を遮ります。

浮浪者の取り締まりを厳しくしていた鎌倉に、

乞食のような恰好をした一遍上人の一団を入れる訳にはいかなかったのです。

武士に棒で叩かれながらも一遍上人は、「人々に念仏を勧めて歩くことが私の命である。

このように制止されれば、どこへ行けばいいというのか。いっそこの場で命を終えよう。」とおっしゃいました。

一遍上人衆生化益への強い意志と気迫に圧倒されたのか、

武士は鎌倉の外では布教が禁止さてていないと告げます。

そこで、一遍上人は片瀬へ向かい、別時念仏会、踊り念仏を修されたのでした。

この時、一遍上人がはじめて藤沢の地に足跡を印したのです。

ただ、のちに遊行四代呑海上人がこの藤沢に遊行寺を開き、

それが総本山になろうとは一遍上人とて、思いもよらぬものでした。

 


また、遊行寺Wikipediaで調べてみますと、

俣野(現在の藤沢市西俣野、横浜市戸塚区俣野町、東俣野町)の領主だった俣野氏の一族である俣野五郎景平が開基。景平の弟である遊行上人第四代呑海は、三代智得の死後にその跡を継いで時宗総本山であった当麻道場(無量光寺)に入山しようとするが、呑海が遊行を続けている間に北条高時の命令により当麻にいた真光が止住するようになっていたため、正中2年(1325年)に俣野領内の藤沢にあったという廃寺極楽寺を清浄光院として再興したのが開山と言われる。

 


清浄光寺(しょうじょうこうじ)は、神奈川県藤沢市にある時宗総本山の寺院。藤沢山無量光院清浄光寺と号す。近世になって遊行寺(ゆぎょうじ)と通称され、明治時代より法主(ほっす)・藤沢上人と遊行上人が同一上人であるために通称の遊行寺の方が知られている。藤沢道場ともいう。

次第に当麻道場をしのぐ影響力を持つようになり、藤沢は門前町として発展するようになった。

 


http://www.jishu.or.jp/

 

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境内は広く開放感があります。

奥に進むと本堂に上がる脇の一遍上人像が立ち、お迎えしてくれます。

 

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「こんにちは、一遍さん。」と思わず声をかけてしまいました。

このところ、寝ても覚めて一遍さん!なので、とても身近に感じています。

 

 

 

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本堂にお参りすると、そこにはご本尊阿弥陀如来が鎮座されていました。

中からはすーと涼しい風が吹いてきます。

 


コロナ禍で大変な思いをされている方々の上に

仏様の慈悲がありますようにと

自然に祈りの言葉が出てきます。

 


本堂から宗務所に行きました。

今日の目的は「遊 捨て聖 一遍上人 踊り遊ぶ」の寄贈です。

ところが社務所は鍵がかかっていて開きません。

どうしましょう…と思いながら、あたりを歩いていると、

扉の空いた勝手口から法衣を纏った住職さんの姿が見え、思わず声をおかけしました。

そして、本を渡しながら、お話しさせていただ、受け取っていただきました。

僅か5分のことでしたが、緊張して、汗が流れていきます。

f:id:tw101:20200802082201j:image 歓喜童子はいたって元気で飛び跳ねていきました。

 


目的を果たして、ほっとして、宝物館に入り、エアコンの効いた中で展示品を鑑賞しました。

 


写真を撮ることができませんが、

ここには

空也上人立像」「一遍聖絵」「後醍醐天皇御像」など貴重な展示品があって

興味を惹かれます。

 


http://yugyoji-museum.world.coocan.jp/tenran.htm

 

 

 


一遍上人は鎌倉に入ることはできませんでした。

しかし、それが結果的にかえってよかったのではないかと思いました。

 


もし、鎌倉に入れず、片瀬にきたことで、一遍上人の思いは踊り念仏と相まって、

民間に広まっていったような気がしてなりません。

まさか、こんな立派なお寺が総本山となり、

多くの信者たちの魂の故郷になるとは…思ってもみなかったことでしょう。

その人生は遊行の連続。安住の地を持つこともなく、

己のものは全て捨てさり、

ただ人々に「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えなさいと布教した、

捨て聖 一遍上人

 

 

 

 

 

 


遊行寺を後にして、藤沢でランチをしてから、

踊り念仏で有名になる片瀬に向かいましたが、

そのお話しは次回に!

 

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NO.193 一遍上人② 無量光寺

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 歓喜童子の絵を見ながら、一遍上人の言葉を味わううちに

一遍上人の人生に俄然興味が湧いてきました。

そこでWikipediaYouTubeで調べ、一遍上人の映画も観ました。

そしてなんと相模原に一遍上人開祖のお寺 

当麻山無量光寺があることを知りました。

藤沢の遊行寺が有名ですが、

まず先に無量光寺に行ってみることにしました。

 


横浜駅から相鉄線海老名でJR相模線に乗り換え、原当麻(はらたいま)で下車。

国道沿いの道を10分ほど歩いて下っていくと、入り口の門構えが見えてきました。

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7,000坪の境内は亀の形をしていて、亀の首にあたる参道を登り山門にはいります。

 

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まっすぐ進んだところに、一遍上人が立っていらして、

近づくと、よく来たね…と

私を呼んでくださいました。

 


歓喜童子たちを連れてまいりました。

 どうぞこの子たち用いてください。

 みんなの心を元気にして

 愛と勇気を満たしてください」

と、申し上げました。

 


それから、ずずっと、

中に進み、社務所に行きました。

 

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「ごめんください」と声をかけると、

割烹着姿の優しそうな年配の女性が奥から出てきてくださいました。

私は名刺を差し出し、自己紹介して、不躾ながら、住職さんへの取次をお願いしました。

残念ながら、本日ご葬儀のため住職さんはご不在でした。

本の説明をして、一遍上人のゆかりのお寺に奉納させていただきたいと申し上げると、

住職さんにお渡しくださるとお約束いただけました。

少しお話しをしていたら、一遍上人のお墓があることを教えてくださり、

どうぞこちらにと、案内までしてくださいました。

そこには一遍上人のお墓と、歴代上人のお墓がひっそりと並んでいました。

なんの標もない墓地ですから、ご案内いただけなかったら、

知る由のないところでした。

 

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小冊子をいただき、読んでみて、いろいろな事がわかりました。

 

 

 

当麻山無量光寺時宗に帰属し、古くは浄土門当麻派大本山として栄え

「当麻根本道場」と呼ばれていました。

 


そもそも時宗とは何でしょうか。

Wikipediaによれば、鎌倉時代末期に興った浄土派の一宗教で、

浄土宗は信心の表れとして念仏…南無阿弥陀…を唱えることで往生できると説いています。

 


開祖の一遍上人は1239年(延応元年)2月15日に伊予(ほぼ現在の愛媛)の名門河野家、

通廣公の次男として生まれ、幼名は松寿丸でした。

幼くして母を亡くし、父の勧めで天台宗継教寺で出家し、

13歳で法然の孫弟子にあたる聖達の下で10年にわたり浄土宗西山義を学びました。

 


1261年、秋も半ばのことです。

当時23才の一遍上人は諸国遊行の旅の途中、依知の里の草案に一夜の宿をとり、一心に念佛を唱えていました。

すると、真夜中に東の空が急に光り輝き、妙見菩薩が姿を現され、

「あなたのおいでになるのを長い間待っていた。この山はあなたに宿縁のある山である。

この山で修行すれば念佛功徳は四海に及ぶであろう。

夢々疑うことなかれ」と告げられ、紫雲の中に消えました。

上人はありがたいお告げに感動し、夜明けを待ちきれず、相模川を渡り、

東北方の大樹の茂る亀形の丘に登ってみると、そこに妙見菩薩の小さな祠がありました。

上人はこれを「金光院」と名付け、修行に励まれましたが、1263年、父死去の悲報を受け、故郷の伊予に帰っていきました。

その後、1270年43歳の時に、奥州遊行の帰路、当麻山にとどまり、修行をされました。

そして翌年3月、鎌倉方面に向け遊行の旅に発たれます。

この時、名残を惜しむ弟子や信徒に乞われ、自らの姿を水鏡に映し、

筆をとって絵姿を描き、自ら頭部を刻み、弟子たちも力を合わせて等身大の木像を完成させました。

これが御影の像として尊ばれ、現在も本尊として安置されています。

 


一遍上人は51歳で波乱万丈の生涯を閉じますが、その臨終の際に殉じようとしや弟子に新教上人がいました。

死を前にして全ての書物を焼き払った一遍上人の教義を継いだ新教上人は1303年2月、

遊行を知得上人に委ね、年老いた身ながら、翌年当麻山に一字(建物)を建立しました。

そして、無量光佛の由来からその名を「無量光寺」と名付け、宗祖一遍上人の分骨を埋葬し、

時宗教団の本拠地とし、念佛の道場として守られました。(小冊子より要約)

 


木立からは大きなエネルギーを感じます。

雨上がりのみずみずしく光るビロードのような苔上に、

ぴょんぴょん飛び跳ね、舞っている歓喜童子たち…

 

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なんとも不思議な光景が広がっていくのを感じました。

 

 

 

 

 

 

 


一遍上人法語です。

 


夫念仏の行者用心のことしめすべきよし承り候。南無阿弥陀仏と申す外、さらに用心もなく、此外に又示すべき安心もなし。諸の智者達の様々に立ておかるゝ法要どもの侍るも、皆諸惑に対したる仮初めの要文なり。されば、念仏の行者は、かやうの事をも打ち捨てて、念仏すべし。「むかし、空也上人へ、ある人、『念仏はいかがもうすべきや』と問ひければ、『捨てゝこそ』とばかりにて、なにとも仰せられず」と、西行法師の撰集抄に載せられたり。是誠に金言なり。念仏の行者は智恵をも愚癡をも捨て、善悪の境界をもすて、貴賤高下の道理をもすて、地獄をおそるゝ心をもすて、一切の事をすてゝ申す念仏こそ、弥陀超世の本願にはかなひ候へ。かやうに打ちあげ打ちあげとなふれば、仏もなく我もなく、まして此内に兎角の道理もなし。善悪の境界皆浄土なり。外に求むべからず、厭ふべからず。よろづ生きとしいけるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずといふことなし。人ばかり超世の願に預るにあらず。またかくのごとく愚老の申す事も意得にくゝ候はば、意得にくきにまかせて愚老が申す事をも打ち捨て、何ともかともあてがひはからずして、本願に任せて念仏したまふべし。念仏は安心して申すも、安心せずして申すも、他力超世の本願にたがふ事なし。弥陀の本願には欠けたる事もなく、あまれることもなし。此外にさのみ何事をか用心して申すべき。ただ愚なる者の心に立ちかへりて念仏したまふべし。

南無阿弥陀仏

 

 

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歓喜童子があなたのところへも遊びに行くかもしれません…ね。

 

NO.192 《捨て聖 一遍上人 踊り遊ぶ》 一遍上人 ①

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はねばはね 踊らばおどれ 春駒の

 のりの道をば しるひとぞしる 

 


今から8世紀も以前、踊り念仏をおこない、

捨て聖とも遊行上人とも称された一遍上人の生きた言葉は、

苦しみと、悲しみとは、そして歓びとはなにかを深々と見つめ、生きること、死ぬこと、

命とは何かを現在もわたしたちに問いかける。

捨て、祈り、踊った一遍上人の静謐さと躍動の姿が

治海の墨絵、増山誠の墨書により、新たな息吹をもって

本書にもたらされている。(監修 菊井崇史)

 


出来たてホヤホヤの絵の本が昨日届きました。

 

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さてさて、歓喜童子たちは命を与えられ、絵本の中で自由に踊ったり、歌ったり。

私がページをめくるたびに、さっと元の場所に戻っている気配を感じます。

 


ねえねえ、あそぼ!

さあさあ、おどろ!

 

そんな不機嫌な顔しないでさ!

そんな疲れた顔しないでさ!

 

ほらほら、あそぼ!

そうそう、おどろ!

Namunamunamunamu

Namunamunamunamu

 

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蓮の葉っぱ下で、蓮の花の上で

念仏唱えて 踊っている歓喜童子たち。

 

思わず笑みが浮かんでいます。

 


この本の紹介をすることができて

私は本当に嬉しくてたまりません。

 


治海さんとは多感な10代の頃、ある教会団体の全国キャンプで知り合いました。

関西のほとばしるパワーに圧倒されたあの日から、今に至るまで、

ずっとずっと、私の知らない世界を見せてくれ、

魅力ある方々に紹介してくれています。

 


満を期しての出版。

 


企画をされた長屋のり子さんは、

屋久島の詩人 故山尾三省さんの妹さんで、

小樽を本拠地に活躍されていらっしゃる詩人です。

2011年、10月、初めてお目にかかりました。

小樽の名所をご案内くださったときに

立ち寄った富岡カトリック教会。

たまたま司祭さまがいらして中に入れてくださり、

祭壇の前で2人で祈りました。

それからも私は数回しか会ったことはないのですが、

過ごした時間ではなく、その心を分かち合うその深さで、

心から尊敬し、お慕いしています。

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治海さんの独特な墨絵に添える墨書を書かれたのは、

増山誠さんです。

f:id:tw101:20200724115653j:image小林多喜二の小説「不在地主」のモデルとなった磯野商店を改装した歴史ある建築物です。

 

 

小樽に訪れた2011年、立ち寄った海猫屋で

増山さんにお目にかかりましたが、2016年10月末に40年の歴史に幕を閉じられ、

現在は新しいお店“otaru dining NO NAME”をやっていらっしゃいます。

 


治海さんは40年ほど前に、京都で着物の配色の仕事をしている時に、

墨絵に出会い、恩師に人物画を勧められ、日本書紀などを読み、

日本神話を学ぶうちにインスピレーションを得て、

大きな目をした顔の童を描き、「なんやねん」と名付けました。

 


その後、鉄眼寺の高僧に「歓喜童子」という名前を与えられた「なんやねん」は、

治海さんの家具、掛け軸など幅広く扱う遊亀堂の看板となっていきました。

 

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歓喜童子に魅せられた私はバッグや傘、クッションなどの小物を弊社で作れたらと、

商標登録を取った時期もありました。

なかなか実現せず、もどかしい思いしながら、

会社を定年退職しましたが、ずっと気になっている歓喜童子でした。

 


その子たちが、いよいよ、世に出る時がきたのです。

我が子のような可愛い歓喜童子達が絵の中から飛び出して、

踊り始める時がきたのです。

 

 

 

コロナ感染拡大は収まる気配もなく、

不安は広がり、加えて大雨災害や地震予兆に怯えるこの時は、

一遍上人が踊り念仏を行ったとき、

災害に飢饉に見舞われ、

政情不審もあり、混沌としていた時と

酷似しています。

 


こんな時に…いえ、こんな時だからこそ、

人は謙虚に念仏を唱えるのではないでしょうか…

神や仏にすがるのではないでしょうか…

 


監修された詩人で書籍編集もされる菊井崇史さんが

アナキズム研究のご専門、政治学者栗原康さんに歓喜童子の絵をお見せしたところ、

すっかり気に入って、何か書きたいと申し出てくださり、

なんとも、素晴らしい、栞となりました。

この文章も素晴らしいです。

全文は書けませんが、

最後のくだりを少し紹介します。

 


 さて、いまコロナの時代。ソーシャルディスタンスをたもつことが、あたかも道徳的なことであるようにいわれている。

いつどこでだれにうつすのかもわからない病気だから、マスクをしてオンラインでしゃべって距離をとるのが相手を思いやることだと。

しかし、なんどでも問いかけなければならない。そこに震えはあるのか。

そこに仏はいるのか。いるのは市民かウイルスか、友か敵か、ただそれだけだ。

そろそろ腐った目で人間をみるのはやめにしよう。

ナムナムナムナム。壊してさわいで、燃やしてあばれろ。

われわれは圧倒的にまちがえる。気分はなむあみだぶつ。神を騰せろ。(たましいをおどらせろ)

 

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パッとページを開いたら、そこにいるはずの童子がいない!

どこかに踊り念仏に行っちゃった?

そんな時が来るかもしれない…と密かに期待している私です。

 

歓喜童子」が現代の「アマビエ」となり、

私たちの心を勇気づけ、免疫力アップの手助けをしてくれるように思えてなりません。

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f:id:tw101:20200724120308j:image出版社はこちらです!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

NO.190 伊勢山皇大神宮と野毛ランチ

 

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 はまっこの心のよりどころ、伊勢山皇大神宮に行ってきました。

伊勢山皇大神宮は天照皇大神を祭神とし、社紋は桜の花。

横浜ならびに横浜港の総鎮守とされ、

「関東のお伊勢さま」

「汽笛の聞こえるお伊勢さま」として親しまれています。

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1870年(明治3年) 、それまで一寒村であった横浜は、開場港となり、

貿易の街として急速に発展していきました。

キリスト教の伝道者が多く来日し、

山手の丘にはミッションスクールもできていく時代…

外国文化が大量に押し寄せてきました。

井関神奈川県知事は横浜の精神的支柱とするべく、

神社信仰の確立が必要と考え、伊勢神宮より勧請されたと伝わる古社を再興して、

港を一望する丘の上へ遷座しました。

遷座に際しては、5日間にわたり、

日本一と称えられた盛大な祝祭が執り行われました。

その費用は当時の外務省半年分の予算にも匹敵すると言われ、

このお祭りをきっかけとして、

横浜からアイスクリームが世に広まったとも言われています。

 


神宮の鎮座まします伊勢山の丘は、もともとは野毛山と呼ばれていましたが、

遷座の際に伊勢山と改めてられました。

境内の一部には伊勢山貝塚と呼ばれる遺跡もあり、縄文後期の土器も出土されていて、

いにしえの縄文人たちが住んでいた地域であると考えられます。

 

 


開港後、横浜には他地域からの多くの移住者が住みつき、

隣人同士のつながりが希薄で、地域共同体としての機能が低かったようで、

何とか、市民を一つにまとめあげ、

横浜市民」としての価値観を植え付けたいと願い、遷座祭を盛り上げたようです。

江戸に負けない「はまっこ」の自覚はこのあたりから生まれたのでしょうか。

 

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摂末社としては以下の三社があります。

 

摂末社杵築宮(きづきのみや):伊勢神宮の外宮の祭神である豊受姫大神に合わせ、月讀命、須佐男命、大国主命住吉三神を祀る。
子之大神(ねのおおかみ):野毛町の氏神で、大国主命、姥姫を祀る。元々は野毛の町内にあったが、戦禍により社殿を焼失し、現在、杵築宮に合祀されている。姥姫とは、埋め立て前の桜木町駅周辺の海上にあった「姥岩」に鎮座していた女神で、護良親王の乳母を祀ったものと伝わる。
大神神社磐座(おおみわじんじゃいわくら):大物主大神を祀る。奈良県三輪明神大神神社より分霊を受けて1996年(平成8年)に鎮座した。社殿が成立する以前の、「磐座」(いわくら)と呼ばれる古代の祭祀場が再現されている。

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私はこの度、旧姓に戻りました。

旧姓は「世古」といいます。

「せまいところ」が変じて世古になったようで、

京都の「小路」と同じです。

かなり珍しい名字ですが、伊勢の

「山田の町」は世古だらけです。

 

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お伊勢さんには、行けないけれど、

伊勢山皇大神宮にいって、

世古に戻りましたよ!と

報告したら、とても身近に感じました。

 

 

 

ひと気のない境内では

折しも夏至の大祓神事が行われている時でしたので、

茅の輪をくぐることができました。

初めての経験です。

 

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野毛側の階段を降りていくと

お茶会もできる庵があります。

そこの手水舎には美しく紫陽花の花が咲いていました。

静謐な美しさに包まれ、

心も清らかになってきます。

 

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階段を降りて、野毛の町に出る頃には

お日様が顔を出していました。

 

お腹もすいたので、どこかでランチにしましょう!

と歩いていて選んだお店は

世界で24位に輝くピザ屋

キアッキェローネ

窯で薪で焼き上げられるピザは絶妙な美味しさです。

人気店なのに予約なしで入れました。

 

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http://www.chiacchierone.jp/

 

 

 

 

今後の作戦会議の有意義なビジネスランチは大成功!

 

そして再びお散歩して大岡川沿いの気になっていたお店「カサデリロ」さんにいってみました。

 

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お腹いっぱいなのが、残念…

そこで、ケーキセットを注文しました。

 

なんとお通しにチーズケーキも付いている贅沢さ!

 

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テラス席はとっても気持ちが良かったです。

今度は絶対、パエリア食べに来ますね!

と店長のマリオさんにお約束してきました。

 

https://casadelrio-sakuragicho.com/?utm_source=google&utm_medium=map

 

野毛にお住まいのSさんのご案内で

とっても素敵なお散歩とビジネスランチができました。

お世話になりました!

 

ここから何が飛び出していくか…

とっても待ち通しい気持ちです。

 

忘れられない一日となりました。