写真はプリンス・エドワード島のグリン・ゲイブルズ 赤毛のアンの家です。
原題をそのまま訳せば 「グリン・ゲイブルズのアン」といいます。
それを「赤毛のアン」と訳した村岡花子先生のセンスに脱帽です。
その「赤毛のアン」の最後に引用されているロバート・ブラウニングの詩です。
『ピッパが通る』(Pippapassed)という劇詩に書かれています。
この詩を訳された上田敏先生、なんという美しい日本語でしょう。
春の朝(あした)
時は春、
日は朝(あした)、
朝(あした)は七時、
片岡(かたをか)に露みちて、
揚雲雀(あげひばり)なのりいで、
蝸牛(かたつむり)枝に這(は)ひ、
神、そらに知ろしめす。
すべて世は事も無し。
原詩は以下の通りです。
Pippa's Song
The year's at the spring
And day's at the morn;
Morning's at seven;
The hill‐side's dew‐pearled;
The lark's on the wing;
The snail's on the thorn;
God's in his heaven ―
All's right with the world!
『ピッパが通る』<春の朝>のあらすじはこうです。
北イタリアのアーゾロという町の紡績工場にピッパという純真な少女が働いています。
ちなみにピッパはフィリッパの愛称です。
年にたった1回しかないお休みの日ピッパは 美しい春の朝に
与えられた神さまの恵を心から賛美しながら細い通りを歩いていきます。
その通りはさまざまな状況に陥った人々がいましたが、
ピッパの神さまを賛美する声を聴き、自分の邪な心に気づき、回心していきます。
もちろんピッパはだれかを回心させることを意図しているわけではありません。
ただうれしくて、神さまに感謝して自分の心を歌っているだけでした。
劇詩には朝から夜までのピッパのことが書かれています。
『赤毛のアン』の最後で、大好きだったマシューは天に召され、
マリラは失明寸前、家計の事情も加わり
アンはせっかく決まった大学進学を諦めざるを得なくなりました。
失意のアンですが、好敵手のギルバードと温かな心が通いあい、
地元の小学校で教えながら勉学を続けることができるようになり、
苦しい道でも角を曲がれば、あたらしい道が開く希望を持ちます。
いろんなことがあったけど、すべては神の御心の通りに行われますように。
ちなみに、村岡花子先生は最後の一文を
「 神は天にあり 世はすべてよし」とアンはそっとささやきました。
と訳されました。
モンゴメリは神への賛美で物語を終えました。
4月のうるわしい朝は、心から「神は天にいましてこの世はすべてよし」と言えますが、
嵐の朝のようにつらい苦しいときは、ついつい下を向いて
「神さま、どうして、どうして、私ばかりがこんな目に・・・」と思ってしまいます。
それでも曲がり角の向こうには、何か素晴らしいものが待っていると思って
毎日を過ごしてゆけたら、人生はずっと楽しいものになるかもしれません。
明日も良い日でありますように。