港も見える丘から

人生のゴールデンエイジにふと感じることを綴っていきます

NO.194 一遍上人③ 藤沢遊行寺

 

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長かった梅雨が明け、待ち望んだ夏空が広がる朝、

私は晴れ晴れとした気持ちでJR藤沢駅に降り立ちました。

藤沢在住のお友達と久しぶりに会えるのも大きな楽しみでした。

 


改札口で待ち合わせをして、お互いの近況報告をしながら、

駅からまっすぐ10分ほど歩くと、境川のたもとに出ました。

そこには資料館があり、中へ入ってみます。

 

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f:id:tw101:20200802075621j:image 品川、川崎、神奈川、保土ヶ谷、戸塚、藤沢 東海道6つ目の宿場町です。

 

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江戸時代も大賑わいの門前町だった様子が伝わってきます。

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そして、現在、箱根駅伝の際には「遊行坂」が大きな通過ポイントとなる重要な場所です。

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山の方に目を向けると、遊行寺の立派な山門が見えています。

 

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一遍上人が初めて藤沢の地を踏まれたの1282年(弘安5年)、御年43歳の時でした。

35歳で遊行の旅に出られて、すでに8年。北は奥州平泉から南は太宰府まで、遊行されていました。

1282年の春、常陸・武蔵を経て、こぶくろ坂から鎌倉入りを目指されました。

鎌倉は幕府の所在地、時の将軍は惟安親王、執権は北条時宗でした。

当時、鎌倉では北条氏の保護を受けて禅宗の寺院が盛んになってきていましたので、

各宗の高僧たちは鎌倉での布教をこころみようとしていました。

また、浮浪の人々も仕事と食料を求めて、あちこちから集まってきました。

ありとあらゆる階層の人々が、せまい鎌倉市中にひしめいていたのです。

 


一遍上人も多くの民衆への念仏勧進を願い、鎌倉に入ろうとされました。

ところが、こぶくろ坂で警護の武士が行く手を遮ります。

浮浪者の取り締まりを厳しくしていた鎌倉に、

乞食のような恰好をした一遍上人の一団を入れる訳にはいかなかったのです。

武士に棒で叩かれながらも一遍上人は、「人々に念仏を勧めて歩くことが私の命である。

このように制止されれば、どこへ行けばいいというのか。いっそこの場で命を終えよう。」とおっしゃいました。

一遍上人衆生化益への強い意志と気迫に圧倒されたのか、

武士は鎌倉の外では布教が禁止さてていないと告げます。

そこで、一遍上人は片瀬へ向かい、別時念仏会、踊り念仏を修されたのでした。

この時、一遍上人がはじめて藤沢の地に足跡を印したのです。

ただ、のちに遊行四代呑海上人がこの藤沢に遊行寺を開き、

それが総本山になろうとは一遍上人とて、思いもよらぬものでした。

 


また、遊行寺Wikipediaで調べてみますと、

俣野(現在の藤沢市西俣野、横浜市戸塚区俣野町、東俣野町)の領主だった俣野氏の一族である俣野五郎景平が開基。景平の弟である遊行上人第四代呑海は、三代智得の死後にその跡を継いで時宗総本山であった当麻道場(無量光寺)に入山しようとするが、呑海が遊行を続けている間に北条高時の命令により当麻にいた真光が止住するようになっていたため、正中2年(1325年)に俣野領内の藤沢にあったという廃寺極楽寺を清浄光院として再興したのが開山と言われる。

 


清浄光寺(しょうじょうこうじ)は、神奈川県藤沢市にある時宗総本山の寺院。藤沢山無量光院清浄光寺と号す。近世になって遊行寺(ゆぎょうじ)と通称され、明治時代より法主(ほっす)・藤沢上人と遊行上人が同一上人であるために通称の遊行寺の方が知られている。藤沢道場ともいう。

次第に当麻道場をしのぐ影響力を持つようになり、藤沢は門前町として発展するようになった。

 


http://www.jishu.or.jp/

 

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境内は広く開放感があります。

奥に進むと本堂に上がる脇の一遍上人像が立ち、お迎えしてくれます。

 

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「こんにちは、一遍さん。」と思わず声をかけてしまいました。

このところ、寝ても覚めて一遍さん!なので、とても身近に感じています。

 

 

 

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本堂にお参りすると、そこにはご本尊阿弥陀如来が鎮座されていました。

中からはすーと涼しい風が吹いてきます。

 


コロナ禍で大変な思いをされている方々の上に

仏様の慈悲がありますようにと

自然に祈りの言葉が出てきます。

 


本堂から宗務所に行きました。

今日の目的は「遊 捨て聖 一遍上人 踊り遊ぶ」の寄贈です。

ところが社務所は鍵がかかっていて開きません。

どうしましょう…と思いながら、あたりを歩いていると、

扉の空いた勝手口から法衣を纏った住職さんの姿が見え、思わず声をおかけしました。

そして、本を渡しながら、お話しさせていただ、受け取っていただきました。

僅か5分のことでしたが、緊張して、汗が流れていきます。

f:id:tw101:20200802082201j:image 歓喜童子はいたって元気で飛び跳ねていきました。

 


目的を果たして、ほっとして、宝物館に入り、エアコンの効いた中で展示品を鑑賞しました。

 


写真を撮ることができませんが、

ここには

空也上人立像」「一遍聖絵」「後醍醐天皇御像」など貴重な展示品があって

興味を惹かれます。

 


http://yugyoji-museum.world.coocan.jp/tenran.htm

 

 

 


一遍上人は鎌倉に入ることはできませんでした。

しかし、それが結果的にかえってよかったのではないかと思いました。

 


もし、鎌倉に入れず、片瀬にきたことで、一遍上人の思いは踊り念仏と相まって、

民間に広まっていったような気がしてなりません。

まさか、こんな立派なお寺が総本山となり、

多くの信者たちの魂の故郷になるとは…思ってもみなかったことでしょう。

その人生は遊行の連続。安住の地を持つこともなく、

己のものは全て捨てさり、

ただ人々に「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えなさいと布教した、

捨て聖 一遍上人

 

 

 

 

 

 


遊行寺を後にして、藤沢でランチをしてから、

踊り念仏で有名になる片瀬に向かいましたが、

そのお話しは次回に!

 

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NO.193 一遍上人② 無量光寺

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 歓喜童子の絵を見ながら、一遍上人の言葉を味わううちに

一遍上人の人生に俄然興味が湧いてきました。

そこでWikipediaYouTubeで調べ、一遍上人の映画も観ました。

そしてなんと相模原に一遍上人開祖のお寺 

当麻山無量光寺があることを知りました。

藤沢の遊行寺が有名ですが、

まず先に無量光寺に行ってみることにしました。

 


横浜駅から相鉄線海老名でJR相模線に乗り換え、原当麻(はらたいま)で下車。

国道沿いの道を10分ほど歩いて下っていくと、入り口の門構えが見えてきました。

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7,000坪の境内は亀の形をしていて、亀の首にあたる参道を登り山門にはいります。

 

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まっすぐ進んだところに、一遍上人が立っていらして、

近づくと、よく来たね…と

私を呼んでくださいました。

 


歓喜童子たちを連れてまいりました。

 どうぞこの子たち用いてください。

 みんなの心を元気にして

 愛と勇気を満たしてください」

と、申し上げました。

 


それから、ずずっと、

中に進み、社務所に行きました。

 

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「ごめんください」と声をかけると、

割烹着姿の優しそうな年配の女性が奥から出てきてくださいました。

私は名刺を差し出し、自己紹介して、不躾ながら、住職さんへの取次をお願いしました。

残念ながら、本日ご葬儀のため住職さんはご不在でした。

本の説明をして、一遍上人のゆかりのお寺に奉納させていただきたいと申し上げると、

住職さんにお渡しくださるとお約束いただけました。

少しお話しをしていたら、一遍上人のお墓があることを教えてくださり、

どうぞこちらにと、案内までしてくださいました。

そこには一遍上人のお墓と、歴代上人のお墓がひっそりと並んでいました。

なんの標もない墓地ですから、ご案内いただけなかったら、

知る由のないところでした。

 

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小冊子をいただき、読んでみて、いろいろな事がわかりました。

 

 

 

当麻山無量光寺時宗に帰属し、古くは浄土門当麻派大本山として栄え

「当麻根本道場」と呼ばれていました。

 


そもそも時宗とは何でしょうか。

Wikipediaによれば、鎌倉時代末期に興った浄土派の一宗教で、

浄土宗は信心の表れとして念仏…南無阿弥陀…を唱えることで往生できると説いています。

 


開祖の一遍上人は1239年(延応元年)2月15日に伊予(ほぼ現在の愛媛)の名門河野家、

通廣公の次男として生まれ、幼名は松寿丸でした。

幼くして母を亡くし、父の勧めで天台宗継教寺で出家し、

13歳で法然の孫弟子にあたる聖達の下で10年にわたり浄土宗西山義を学びました。

 


1261年、秋も半ばのことです。

当時23才の一遍上人は諸国遊行の旅の途中、依知の里の草案に一夜の宿をとり、一心に念佛を唱えていました。

すると、真夜中に東の空が急に光り輝き、妙見菩薩が姿を現され、

「あなたのおいでになるのを長い間待っていた。この山はあなたに宿縁のある山である。

この山で修行すれば念佛功徳は四海に及ぶであろう。

夢々疑うことなかれ」と告げられ、紫雲の中に消えました。

上人はありがたいお告げに感動し、夜明けを待ちきれず、相模川を渡り、

東北方の大樹の茂る亀形の丘に登ってみると、そこに妙見菩薩の小さな祠がありました。

上人はこれを「金光院」と名付け、修行に励まれましたが、1263年、父死去の悲報を受け、故郷の伊予に帰っていきました。

その後、1270年43歳の時に、奥州遊行の帰路、当麻山にとどまり、修行をされました。

そして翌年3月、鎌倉方面に向け遊行の旅に発たれます。

この時、名残を惜しむ弟子や信徒に乞われ、自らの姿を水鏡に映し、

筆をとって絵姿を描き、自ら頭部を刻み、弟子たちも力を合わせて等身大の木像を完成させました。

これが御影の像として尊ばれ、現在も本尊として安置されています。

 


一遍上人は51歳で波乱万丈の生涯を閉じますが、その臨終の際に殉じようとしや弟子に新教上人がいました。

死を前にして全ての書物を焼き払った一遍上人の教義を継いだ新教上人は1303年2月、

遊行を知得上人に委ね、年老いた身ながら、翌年当麻山に一字(建物)を建立しました。

そして、無量光佛の由来からその名を「無量光寺」と名付け、宗祖一遍上人の分骨を埋葬し、

時宗教団の本拠地とし、念佛の道場として守られました。(小冊子より要約)

 


木立からは大きなエネルギーを感じます。

雨上がりのみずみずしく光るビロードのような苔上に、

ぴょんぴょん飛び跳ね、舞っている歓喜童子たち…

 

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なんとも不思議な光景が広がっていくのを感じました。

 

 

 

 

 

 

 


一遍上人法語です。

 


夫念仏の行者用心のことしめすべきよし承り候。南無阿弥陀仏と申す外、さらに用心もなく、此外に又示すべき安心もなし。諸の智者達の様々に立ておかるゝ法要どもの侍るも、皆諸惑に対したる仮初めの要文なり。されば、念仏の行者は、かやうの事をも打ち捨てて、念仏すべし。「むかし、空也上人へ、ある人、『念仏はいかがもうすべきや』と問ひければ、『捨てゝこそ』とばかりにて、なにとも仰せられず」と、西行法師の撰集抄に載せられたり。是誠に金言なり。念仏の行者は智恵をも愚癡をも捨て、善悪の境界をもすて、貴賤高下の道理をもすて、地獄をおそるゝ心をもすて、一切の事をすてゝ申す念仏こそ、弥陀超世の本願にはかなひ候へ。かやうに打ちあげ打ちあげとなふれば、仏もなく我もなく、まして此内に兎角の道理もなし。善悪の境界皆浄土なり。外に求むべからず、厭ふべからず。よろづ生きとしいけるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずといふことなし。人ばかり超世の願に預るにあらず。またかくのごとく愚老の申す事も意得にくゝ候はば、意得にくきにまかせて愚老が申す事をも打ち捨て、何ともかともあてがひはからずして、本願に任せて念仏したまふべし。念仏は安心して申すも、安心せずして申すも、他力超世の本願にたがふ事なし。弥陀の本願には欠けたる事もなく、あまれることもなし。此外にさのみ何事をか用心して申すべき。ただ愚なる者の心に立ちかへりて念仏したまふべし。

南無阿弥陀仏

 

 

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歓喜童子があなたのところへも遊びに行くかもしれません…ね。

 

NO.192 《捨て聖 一遍上人 踊り遊ぶ》 一遍上人 ①

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はねばはね 踊らばおどれ 春駒の

 のりの道をば しるひとぞしる 

 


今から8世紀も以前、踊り念仏をおこない、

捨て聖とも遊行上人とも称された一遍上人の生きた言葉は、

苦しみと、悲しみとは、そして歓びとはなにかを深々と見つめ、生きること、死ぬこと、

命とは何かを現在もわたしたちに問いかける。

捨て、祈り、踊った一遍上人の静謐さと躍動の姿が

治海の墨絵、増山誠の墨書により、新たな息吹をもって

本書にもたらされている。(監修 菊井崇史)

 


出来たてホヤホヤの絵の本が昨日届きました。

 

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さてさて、歓喜童子たちは命を与えられ、絵本の中で自由に踊ったり、歌ったり。

私がページをめくるたびに、さっと元の場所に戻っている気配を感じます。

 


ねえねえ、あそぼ!

さあさあ、おどろ!

 

そんな不機嫌な顔しないでさ!

そんな疲れた顔しないでさ!

 

ほらほら、あそぼ!

そうそう、おどろ!

Namunamunamunamu

Namunamunamunamu

 

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蓮の葉っぱ下で、蓮の花の上で

念仏唱えて 踊っている歓喜童子たち。

 

思わず笑みが浮かんでいます。

 


この本の紹介をすることができて

私は本当に嬉しくてたまりません。

 


治海さんとは多感な10代の頃、ある教会団体の全国キャンプで知り合いました。

関西のほとばしるパワーに圧倒されたあの日から、今に至るまで、

ずっとずっと、私の知らない世界を見せてくれ、

魅力ある方々に紹介してくれています。

 


満を期しての出版。

 


企画をされた長屋のり子さんは、

屋久島の詩人 故山尾三省さんの妹さんで、

小樽を本拠地に活躍されていらっしゃる詩人です。

2011年、10月、初めてお目にかかりました。

小樽の名所をご案内くださったときに

立ち寄った富岡カトリック教会。

たまたま司祭さまがいらして中に入れてくださり、

祭壇の前で2人で祈りました。

それからも私は数回しか会ったことはないのですが、

過ごした時間ではなく、その心を分かち合うその深さで、

心から尊敬し、お慕いしています。

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治海さんの独特な墨絵に添える墨書を書かれたのは、

増山誠さんです。

f:id:tw101:20200724115653j:image小林多喜二の小説「不在地主」のモデルとなった磯野商店を改装した歴史ある建築物です。

 

 

小樽に訪れた2011年、立ち寄った海猫屋で

増山さんにお目にかかりましたが、2016年10月末に40年の歴史に幕を閉じられ、

現在は新しいお店“otaru dining NO NAME”をやっていらっしゃいます。

 


治海さんは40年ほど前に、京都で着物の配色の仕事をしている時に、

墨絵に出会い、恩師に人物画を勧められ、日本書紀などを読み、

日本神話を学ぶうちにインスピレーションを得て、

大きな目をした顔の童を描き、「なんやねん」と名付けました。

 


その後、鉄眼寺の高僧に「歓喜童子」という名前を与えられた「なんやねん」は、

治海さんの家具、掛け軸など幅広く扱う遊亀堂の看板となっていきました。

 

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歓喜童子に魅せられた私はバッグや傘、クッションなどの小物を弊社で作れたらと、

商標登録を取った時期もありました。

なかなか実現せず、もどかしい思いしながら、

会社を定年退職しましたが、ずっと気になっている歓喜童子でした。

 


その子たちが、いよいよ、世に出る時がきたのです。

我が子のような可愛い歓喜童子達が絵の中から飛び出して、

踊り始める時がきたのです。

 

 

 

コロナ感染拡大は収まる気配もなく、

不安は広がり、加えて大雨災害や地震予兆に怯えるこの時は、

一遍上人が踊り念仏を行ったとき、

災害に飢饉に見舞われ、

政情不審もあり、混沌としていた時と

酷似しています。

 


こんな時に…いえ、こんな時だからこそ、

人は謙虚に念仏を唱えるのではないでしょうか…

神や仏にすがるのではないでしょうか…

 


監修された詩人で書籍編集もされる菊井崇史さんが

アナキズム研究のご専門、政治学者栗原康さんに歓喜童子の絵をお見せしたところ、

すっかり気に入って、何か書きたいと申し出てくださり、

なんとも、素晴らしい、栞となりました。

この文章も素晴らしいです。

全文は書けませんが、

最後のくだりを少し紹介します。

 


 さて、いまコロナの時代。ソーシャルディスタンスをたもつことが、あたかも道徳的なことであるようにいわれている。

いつどこでだれにうつすのかもわからない病気だから、マスクをしてオンラインでしゃべって距離をとるのが相手を思いやることだと。

しかし、なんどでも問いかけなければならない。そこに震えはあるのか。

そこに仏はいるのか。いるのは市民かウイルスか、友か敵か、ただそれだけだ。

そろそろ腐った目で人間をみるのはやめにしよう。

ナムナムナムナム。壊してさわいで、燃やしてあばれろ。

われわれは圧倒的にまちがえる。気分はなむあみだぶつ。神を騰せろ。(たましいをおどらせろ)

 

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パッとページを開いたら、そこにいるはずの童子がいない!

どこかに踊り念仏に行っちゃった?

そんな時が来るかもしれない…と密かに期待している私です。

 

歓喜童子」が現代の「アマビエ」となり、

私たちの心を勇気づけ、免疫力アップの手助けをしてくれるように思えてなりません。

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f:id:tw101:20200724120308j:image出版社はこちらです!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

NO.190 伊勢山皇大神宮と野毛ランチ

 

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 はまっこの心のよりどころ、伊勢山皇大神宮に行ってきました。

伊勢山皇大神宮は天照皇大神を祭神とし、社紋は桜の花。

横浜ならびに横浜港の総鎮守とされ、

「関東のお伊勢さま」

「汽笛の聞こえるお伊勢さま」として親しまれています。

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1870年(明治3年) 、それまで一寒村であった横浜は、開場港となり、

貿易の街として急速に発展していきました。

キリスト教の伝道者が多く来日し、

山手の丘にはミッションスクールもできていく時代…

外国文化が大量に押し寄せてきました。

井関神奈川県知事は横浜の精神的支柱とするべく、

神社信仰の確立が必要と考え、伊勢神宮より勧請されたと伝わる古社を再興して、

港を一望する丘の上へ遷座しました。

遷座に際しては、5日間にわたり、

日本一と称えられた盛大な祝祭が執り行われました。

その費用は当時の外務省半年分の予算にも匹敵すると言われ、

このお祭りをきっかけとして、

横浜からアイスクリームが世に広まったとも言われています。

 


神宮の鎮座まします伊勢山の丘は、もともとは野毛山と呼ばれていましたが、

遷座の際に伊勢山と改めてられました。

境内の一部には伊勢山貝塚と呼ばれる遺跡もあり、縄文後期の土器も出土されていて、

いにしえの縄文人たちが住んでいた地域であると考えられます。

 

 


開港後、横浜には他地域からの多くの移住者が住みつき、

隣人同士のつながりが希薄で、地域共同体としての機能が低かったようで、

何とか、市民を一つにまとめあげ、

横浜市民」としての価値観を植え付けたいと願い、遷座祭を盛り上げたようです。

江戸に負けない「はまっこ」の自覚はこのあたりから生まれたのでしょうか。

 

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摂末社としては以下の三社があります。

 

摂末社杵築宮(きづきのみや):伊勢神宮の外宮の祭神である豊受姫大神に合わせ、月讀命、須佐男命、大国主命住吉三神を祀る。
子之大神(ねのおおかみ):野毛町の氏神で、大国主命、姥姫を祀る。元々は野毛の町内にあったが、戦禍により社殿を焼失し、現在、杵築宮に合祀されている。姥姫とは、埋め立て前の桜木町駅周辺の海上にあった「姥岩」に鎮座していた女神で、護良親王の乳母を祀ったものと伝わる。
大神神社磐座(おおみわじんじゃいわくら):大物主大神を祀る。奈良県三輪明神大神神社より分霊を受けて1996年(平成8年)に鎮座した。社殿が成立する以前の、「磐座」(いわくら)と呼ばれる古代の祭祀場が再現されている。

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私はこの度、旧姓に戻りました。

旧姓は「世古」といいます。

「せまいところ」が変じて世古になったようで、

京都の「小路」と同じです。

かなり珍しい名字ですが、伊勢の

「山田の町」は世古だらけです。

 

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お伊勢さんには、行けないけれど、

伊勢山皇大神宮にいって、

世古に戻りましたよ!と

報告したら、とても身近に感じました。

 

 

 

ひと気のない境内では

折しも夏至の大祓神事が行われている時でしたので、

茅の輪をくぐることができました。

初めての経験です。

 

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野毛側の階段を降りていくと

お茶会もできる庵があります。

そこの手水舎には美しく紫陽花の花が咲いていました。

静謐な美しさに包まれ、

心も清らかになってきます。

 

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階段を降りて、野毛の町に出る頃には

お日様が顔を出していました。

 

お腹もすいたので、どこかでランチにしましょう!

と歩いていて選んだお店は

世界で24位に輝くピザ屋

キアッキェローネ

窯で薪で焼き上げられるピザは絶妙な美味しさです。

人気店なのに予約なしで入れました。

 

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http://www.chiacchierone.jp/

 

 

 

 

今後の作戦会議の有意義なビジネスランチは大成功!

 

そして再びお散歩して大岡川沿いの気になっていたお店「カサデリロ」さんにいってみました。

 

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お腹いっぱいなのが、残念…

そこで、ケーキセットを注文しました。

 

なんとお通しにチーズケーキも付いている贅沢さ!

 

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テラス席はとっても気持ちが良かったです。

今度は絶対、パエリア食べに来ますね!

と店長のマリオさんにお約束してきました。

 

https://casadelrio-sakuragicho.com/?utm_source=google&utm_medium=map

 

野毛にお住まいのSさんのご案内で

とっても素敵なお散歩とビジネスランチができました。

お世話になりました!

 

ここから何が飛び出していくか…

とっても待ち通しい気持ちです。

 

忘れられない一日となりました。

NO.189 わたしの若草物語

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じいっと、封切りを待っていた映画

「ストーリー・オブ・マイライフ〜わたしの若草物語

観てきました。

 

映画館はソーシャル・ディスタンスを確保するべく、

座席は一席ずつ空席となっていました。

 


映画の 原作“Little Women

は1868年にルイーザ・メイ・オルコット によって書かれました。

南北戦争時に青春を生きたマーチ家の四人姉妹を描いた自伝的物語です。

原題の“Little Women “とはルイーザの父ブロンソン

実際に娘たちに呼びかけるときに用いた言葉で

少女であっても、個を持った一人の女性であるという意味を示しています。

日本では1906年「小婦人」と訳された翻訳本が出版され、

1923年には「四少女」という題で出版されました。

1934年、キャサリン・ヘップバーン主演による映画公開の際、

若草物語」がタイトルになりました。

この映画の監修を手がけたのは、吉屋信子さんだったということで、

おそらく原題を「若草物語」としたのは

吉屋信子さんだったのではないかと思われています。

さすがです! 

「四少女」とはインパクトが大違いです。

 


前置きが長くなりましたが、

私お気に入りは、なんといっても、1949年版の「若草物語」です。

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メグ: ジャネット・リー

ジョー:ジューン・アリソン

ベス:マーガレット・オブライエン

エイミー:エリザベス・テイラー

 


そろいも揃っての美女ばかりで、お洋服も可愛くて、

私の永遠のファッションバイブルになりました。

この「若草物語」以外に「若草物語」は認めないと思っていました。

 


ところが、1994年にウエイナ・ライダー主演の映画が公開され、

恐る恐る観に行きました。

「女性が自立して生きる」というテーマが明確に描かれていて、

当時の私は小説を書き始めていたので、多いに啓発され、

刺激を受けました。

衣装も素敵で、期待以上でした。

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さて、最初にエマ・ワトソンが「若草物語」に出演する!と聞いた時、

てっきり彼女がジョーを演じるのかと思いました。

その後、キャストが分かり、エマ・ワトソンはメグ。

ジョーをシアーシャ・ローナンが演じるとわかりました。

そして…なんと、メリル・ストリープがマーチおばさん!

 


これは絶対 観てみたい!

コロナ禍で上映延期…

やっと観る事ができて、

期待は膨らむ一方、「怖いという思い」も捨てることはできませんでした。

 

 

 

監督グレタ・ガーウィグの脚本はこれまでの映画に挑むような意思を感じます。
ああ、ジョーの「進化」の目覚ましさ…


現在、過去へと飛ぶ展開に、最初の頃は、

落ち着かない気分でしたが、次第に引き込まれていきます。

ジョーが本を書くシーンはこれまで以上の迫力がありました。

 

「売れるために結末を変えてあげる」ジョーは

原作にはない場面で、そう言い放ちます。

これは監督の本心のようにも思えました。(ネタバレすみません。)

 

三人のジョー

f:id:tw101:20200622131155j:imageジューン・アリソン

 

 

f:id:tw101:20200622131200j:imageウェイナ・ライダー

 

f:id:tw101:20200622131244j:image今回のシアーシャ・ローナン

 

 

 


とにかく風景、衣装が美しく、

ため息ついて、見惚れてしまいました。

 


私はルイーザ・メイ・オルコット が大好きで、

アメリカ、マサチューセッツ州コンコードには二回訪ね、

スリーピーホローにあるオルコット の墓地、

成功したオルコット が住んだボストンの家も、

執筆したニューヨークのアパートにも出かけて、

身近に感じてきました。

 


幼い時からオルコット が好きだった私の夢は

大きくなったら小説家になることでした。

 


それ以上になりたかったのは「自立した女性」でした。

結婚だけが全てじゃない!と思っていました。

 

 


十代の頃、

アンはギルバートとめでたく結ばれたのに、

ジョーが初恋のローリーでなく、

年上のベア教授を伴侶に選んだ時の落胆したものですが、

今ではジョーの賢明さを理解できます。

 

 


今回の映画ではジョーの懸命さが際立って描かれていて好感を持ちました。

しかし、何より一番感動したのは

メリル・ストリープ演じるマーチおばさんです。

ジョーの年も、マーチ夫人の年も超え、

マーチおばさんの年に一番近くなった今、

一人で生きるという人生を選んだマーチおばさんのことをもっと、

知りたいと思うようになりました。

いつまでも好奇心を捨てず、自分の夢を若い世代に託せるゆとりを持ち、

華やかなに生きるマーチおばさん!

今までの中で一番素敵な「マーチおばさん」です。

 

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最後にプラムフィールド学院が出てきた時には

心の中で拍手喝采

 

今、私の夢が「ここ」にあります!

 


ぜひぜひ、ご覧ください!

観たら、感想語りあいましょう!

永遠の“Little Women “を

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

NO.188 朝のお散歩でスッキリ

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コロナ感染拡大に伴う緊急事態宣言下の自粛生活で、

読書三昧、動画見放題のダルな生活を2カ月続けていたら、

身体も、頭もすっかり重くなっていました。

 

これはなんとかしないといけないかな…と

考えていた矢先…

10万円給付申請書を出しにいった早朝、

あまりに気持ちが良いので、そのままみなとみらい地区に歩いて行き、

新しくできたキングモール橋を渡り、臨港パークに出て、海を見ました。

 

キラキラと輝く海、埠頭を渡る朝風、

ゆるやかにカーブする水際に打ち寄せる波の音…

久々に五感いっぱいに感じる湊に感動しました。

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そして、翌日、6月1日から、

名前表記を旧姓に戻したことをFBで公開し、

心機一転、

朝の散歩をスタートしました。

 



 


《洲崎大神》

その日はまず近場からとばかり、

お散歩は京急神奈川駅から歩いて5分ほどにある洲崎大神から始めました。

建久2年(1191年) 源頼朝安房国一宮の安房神社の霊を移して祀ったことに始まると伝えられています。

神社前から海に向かって延びる参道が、第一京浜に突き当たるあたりに、

かつての船着場があり、横浜開港当時は、開港場と神奈川宿を結ぶ重要な拠点となったそうです。

毎年、大きな祭礼が行われていますが、今年は残念ながら、中止です。

 

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孝道山

法華経新宗教である孝道教団の本山で、桜の名所として、

地元の商店街の協力で「孝道山まつり」が華やかに行われる、

東横線東白楽近くの高台にある景色の良いお寺です。

東横線線路後にできた「東横フラワーロード」で反町から歩いていけます。

 

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《三ツ沢貝塚

反町から始まる「せせらぎ緑道」を歩いていき、

豊願寺境内をを抜けると三ツ沢公園に出ます。

 

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バス通りを少し歩くと、県立翠嵐高校が見えてきます。

校門を過ぎて左手に曲がったところに一枚の看板「三ツ沢貝塚」があります。

明治38年(1905年)秋、イギリス人医師で考古学者のニール・ゴードン・マンローによって発見されました。

付近には多量の貝層や、それに含まれる縄文土器・石器・人骨などの遺物の他、

竪穴住居などの遺構が発見されました。

 

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浅間神社

横浜市西区にある、木花咲耶姫命を祭神に祀る神社で

承暦4年(1080年)源頼朝浅間神社を勧請して造営されたという歴史のある神社です。

このあたりは袖ヶ浦(入江)に面した帷子川の河口港として栄え、

江戸時代には東海道五十三次の神奈川と程ヶ谷宿の間の宿でした。

幕末の横浜開港の際には門前より横浜(現中黒関内)に至る「横浜道」が整備されていました。

また、三ツ沢に繋がるこの一帯にも横穴古墳群が発見されています。

 

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まあ、まあ…!

古代の昔から、海に近いこのあたりには、人々が暮らしていたのですね。

神奈川という地名が最初に歴史に登場するのは中世鎌倉時代

北条時宗下文に「鶴岡八幡宮武蔵国稲目・神奈河両群」とあり、これが初目で、

当時は神奈河郷は相模国鎌倉の鶴岡八幡領だったことがわかります。

そうだったのか!洲崎大神や浅間神社ができた時、

ここは神奈河という名前さえついていなかった‼️

 


私は海外旅行が大好きで、日常生活が煮詰まってくると、

一人でふらりと出かけていきました。

コロナ自粛がなければ、3月には台湾に行く予定でした。

しかし、今となっては、当分、仕事でもない海外旅行は

当分、自粛しないければならなくなりました。

 


今まで見向きもしなかった地元の道、地元の史跡。

近所を歩いてみれば、いろいろな発見があります。

車であっという間に通り過ぎてしまっている国道も、

脇道を歩くと、

思わぬところにつながっていることに気づきます。

 

地図も見ずに、ただ勘だけを頼りに歩くことは、

五感が研ぎ澄まされていき、頭がスッキリしてきます。

飛行機に乗って遠い見知らぬ土地へ行っていたときも

本当に楽しかったですが、

家近くの見知らぬ道をとことこ歩いていくのも楽しみです。

 

道は必ずつながっていることがわかるから…

車だったら引き返さなければならないような道も

歩いていると抜けることができるものです。

それは当たり前なのに新鮮です。

 

神奈川区は神奈川県に似て、横に長い区です。

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コロナ自粛期間でインプットした言葉、映像、思考、

頭の中に渦巻いていて、言葉に表せないことが、

歩いていると、整理されて、新しい引き出しができて、

そこに入っていくような気になってきました。

 


夜中に悶々と考えることは、悲観的になりがちですが、

朝の静謐な空気に包まれて、歩くときに思い浮かぶことには

光に輝く前向きな考えです。

 


雨の中、歩くのも楽しみです。

 


生まれた街、大好きな横浜…

開発ラッシュの横浜、今見ている景色もいずれ過去になるのです。

 


今を大切にしたいと思いながらお散歩したいです。

 


昨日、横浜CIALが部分オープンしました。

鶴屋町から横浜駅まで、かつての東横線

線路後の道、「はまレールウォーク」も完成しました。

どう変わる?

横浜から目が離せません。

 

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NO.187 《あの日のオルガン》

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緊急事態宣言も解除され、少しづつ日常生活が戻っていきますが、

もう元通りにはならないのではと、つい、ふと思ったりします。

そんな悲観的な思いを打ち消す勇気は、

時として小説や映画から与えられます。

その一つがこの『あの日のオルガン』です。

 


『あの日のオルガン 疎開保育園物語』は久保つぎこ氏によるノンフィクション『君たちは忘れない疎開保育園物語』(きみたちはわすれない そかいほいくえんものがたり)と題して1982年11月に草土文化より刊行されました。

太平洋戦争末期に空襲を避けて東京・品川の戸越保育所と東京・墨田の愛育隣保館の2つの保育所の保母11人、園児53人が埼玉県南埼玉郡平野村(現蓮田市)の無人寺・妙楽寺へ集団疎開したの「疎開保育園」の実録が、関係者への取材に基づいて克明に綴られています。

 

『君たちは忘れない疎開保育園物語』を『あの日のオルガン 疎開保育園物語』と改題して2018年7月に朝日新聞出版より再刊し、

『あの日のオルガン』と題して平松恵美子監督・脚本により映画化され2019年2月に公開されました。

 

 

あらすじです。

第二次世界大戦末期、警報が鳴っては防空壕に避難する生活が続く1944年、東京品川の戸越保育所では、保母たちが保育所疎開を模索していました。まだ幼い子どもたちを手放す不安、迫りくる空襲から子どもたちだけでも助けたい、と意見の分かれる親たちを保母たちが必死に説得しました。

 

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自分たちの食べ物にも事欠く時期に、子どもを受け入れてくれるところはなかなかありませんでした。

やっと埼玉に受け入れ先の寺がみつかりますが、そこは酷い状態の荒れ寺でした。

手を入れてなんとか疎開生活をスタートした若い保母たちと幼い園児たちを待っていたのは、毎日わき出てくる問題との戦いの日々でした。家が恋しい思いからのストレスで毎日のように夜尿をする子どもが続出します。

 

それでも若き保母たちは子供たちと向き合い、毎日ひたむきに励ましあいながら奮闘していた。そんな彼女たちにも空襲の影がせまってきます。

「子どもに文化的生活をさせたい」という思いで必死に守る楓主任先生、子どもからは慕われているけど、まるで子どもと同じように手間のかかる新米のみっちゃん先生。

 

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そして、東京大空襲の夜、悲劇が襲いました。

家族が空襲で命を落とした子どもが何人もでき、一家全滅で一人だけ生き残った男の子もいました。

終戦を迎えて、それぞれお迎えが来る中、両親でなく親戚に引き取られていきます。

最後の子どもが家族の元に戻って、ようやく疎開保育園は閉園しました。

 


私は疎開保育園というものがあったことは知りませんでした。

戸越、墨田とどちらも馴染みのある地域の保育園ということで、

特別思い入れがありました。

 


3歳の孫を見ていると、この年齢のこんな小さな子どもを

手放さねばならない親の気持ちもよくわかりますし、

また、何としても子どもたちを守ろうとする先生の気持ちも理解できました。

 

映主任の楓先生を演じた戸田恵梨香さんにすっかり感情移入をしてしまった私でした。

 


テロップで53人の子どもたちは生き残り、

今でもなお、親交を深めているということを知りました。

 

 

 

 

生きていることは素晴らしいことだと思います。

あの戦後の焼野原から立ち上がり、明日を信じて一歩踏み出した祖父母から、

もっときちんと話を聞いておけばよかったと

今になって思います。

私の生まれる10余年前には、

まだ戦争をしていたという事実に愕然とします。

「もはや戦後ではない」と言われた時代に育った私。

辛い過去を忘れることは大切ですが、

忘れてはいけないことまで消し去ったしまったら、

また同じ過ちを犯してしまう危険があります。

 


コロナ禍で理由も何も分からず、

自粛させられいる子どもたちを見ていると、

いつでも、どこでも、一番弱いところにしわ寄せがいくなあと思います。

ちゃんと守ってあげることができる大人になっているかしら…

おばあちゃんの年になって、いえ、なったからこそ、わかることもあるんのですね。

 


終戦になれば、爆弾投下はなくなりましたが、

緊急事態宣言が解除されたといっても、

コロナウイルスが消えた訳ではありません。

まだまだ気を引き締めて生活していきたいと思います。

 

f:id:tw101:20200526171839j:image 子どもたちの命を守り抜いた保母さんたち