港も見える丘から

人生のゴールデンエイジにふと感じることを綴っていきます

NO.162. IR(総合型リゾート)の実現に向けて 横浜市

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神奈川公会堂で開催されたIR市民説明会に参加してきました。

先月、事前の申し込みをして、当日、受付で座席指定を受け、開始10分前に席に着きました。

私の席は3-20 前から3番目で林文子市長をしっかり見据えことのできる席でした。

 


元TBSアナウンサー渡辺真理さんが司会を始めると、

すぐに

「なぜあなたが司会をするのか」というヤジが飛び、

「(前回)私に至らない点がございました。あくまでも中立な立場で

司会を務めさせていただきます」と低姿勢。

こんなことに時間を使ってはもったいないということで

開始20分ほどで本題に入りました。

 

 

 


まず、最初に横浜市長の林さんから横浜の現状が説明されました。

 

「東京、大阪に比べ横浜は日帰り客が多く、観光消費額は少ないんですね。

 

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生産人口が少なくなるのに、老年人口が増える一方、

経済活力は低下し、

個人市民税も減少し、社会保障費が増加するわけですよ。

上場企業も東京の17分の1の107社しかなく、

法人市民税も東京の14分の1の570億円しかないわけ。

市民一人あたりの一般会計予算額は大阪67.3万円に比べ、47.1万円と少ないんですね。」

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とにかく、東京、大阪に比べて横浜市は見入りが少ないという説明がありました。

 

 

次の話題はどれだけお金がかかるかということ。
「老朽化した市道は修繕しなくちゃいけないし、

小中学校も建て替えなければ危ないし、

巨大台風への対応もしないといけないし、

それは大変なんですよ!」

という泣き落としが続きます。

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次は…

「ですけどね、今年はラグビーワールドカップもあって、

勝戦には70,103人も来場したし、

新港ふ頭もできて、ワールドクルーズポートには同時に

7隻の大型船も停泊できるようになったんですねえ〜

来年のオリンピック・パラリンピックでは

8カ国のホストタウンになるし、

英国代表チームの事前キャンプにもなるわけですね。

大型音楽ホールもできるし、

ガーデンネックレス横浜や

横浜農場の取り組みも素晴らしいものなのですよ〜」

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と、横浜がすごい取り組みをしていることをアピール。

 

なるほど、すごいじゃない。

これをもう少し発展させればIRなんていらないんじゃないの?

と素朴に思いました。

 

 


はい、ここからです。

「お金がなくなってしまうから、稼がなければね。

それにはカジノ でしょ!」と言わんばかりに

横浜がめざすIRの姿、憧れのシンガポールリゾート・ワールド・セントーサや

マリーナ・ベイ・サンズの宣伝

そして横浜が欲しいIRの構想が語られ、

こんなのいいでしょう!という宣伝の後、

市民の皆さまへの安心・安全への対策をさらっと

話して19時40分が過ぎ、休憩タイムに入りました。

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15分の休憩中で質問を書いて渡し、

渡辺真理さんがランダムに抜き取った質問に

市長が答えるという形の第二部が始まりました。

 


休憩タイムに会場を見渡してみれば、3:2で男性優位。

年齢的に6割は60代以上という印象です。

みんな「天下のご意見番」というお顔をされているように見えます。

 

そういうおじさまたちを迎え撃つために

林文子市長は「話の長いおばさん戦法」をとっているのでしょうか!

と、思ってしまうほど、関係ないことに話が飛びます。

(私に言われたくないでしょうが…)

 


⚫︎これだけ市民反対がある中で、市民投票をしないなら、

 どうやって市民の同意を取り付け確認をするのですか?

 


⚫︎入場制限をかけるのはいいが、入場者が少なければ

 収益は少ないのではないか?

 


⚫︎デメリットの検討が少ないのでは?

 


⚫︎本当に市として収入増となるのか?

 企業が儲かるだけではないのか?

 


⚫︎収入がないなら、まず先に無駄使いをやめるべきではないか!

 


質問に、「話が長くてすみません」と言い訳しながら

的外れな答えをしては司会者に指摘されてる林市長。

 

私は質疑応答のメモを取っていましたが、

段々気分が悪くなってきて、

お腹も痛くなってきて、

我慢の限界の20時35分に退出してしまいました。

あの後、どうなったのかしら…

 


この説明会は18箇所で開催されるようなので、

一回ごとに学び、もう少しきちんと説明できるようになることを

期待します。

 


私はカジノ はカナダナイアガラにある

カジノ しか入ったことがありません。

シンガポールのカジノ では中国人の団体があまりうるさくて、

入り口で退散したので、他のカジノ とと比べることができませんが、

ナイアガラのカジノ は早朝だったこともあり静かで清潔で、

1時間ほど一人でスロットをしてみました。

初めてなので、係の人にいろいろ教えてもらって遊びました。

20ドルでやめようと決めていましたが、

最初は面白いようにコインが出てきました。

でも最後は空になってしまい、“donation ”の文字。

“何がdonation “よ…と軽く受け流しましたが、

後で聞いたら、1969年に法律でカナダのカジノ の「寄付金」は政府が受け取ることができ

モントリオールオリンピックの赤字返済にも、

カジノ で得た税金が使われて、

カナダ国民のカジノ に対する考えが肯定的となり、

今ではカナダの至るところでチャリティーや、レジャーとしてカジノ を

楽しむようになったというのです。

 


またナイアガラ周辺の先住民であるセネカ族は自身の

カジノを経営する権利を訴え、アメリ最高裁が許可し、

セネカ族をはじめとする先住民がカジノ 運営に大きな役割を持ち、

セネカ・ナイアガラ・リゾート&ホテル」ができました。

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カジノ の収益は子どもたちの教育福祉、社会的弱者の救済に

使われているそうです。

なるほど、そういうやり方もあるのだなあと思いました。

 

 

世界のお金持ちがたくさんヨットでやってきて、

カジノ で遊んで、たくさんのお金を落としてくれたら、

食べることのできない子どもら達の給食を

もっと充実させることもできるかもしれません。

 


でも、きっと、横浜市は騙されて、外資企業ばかりが儲かって、

税金はスイスあたりの銀行に行ってしまうのではないかしら…

などと思ってしまいました。

 


なんでも使いこなせなければ意味はありません。

横浜市がIRを持つには相当な覚悟と知恵が必要です。

奴隷のように振り回されず、主人にならないといけません。

覚悟も知恵もないなら、無駄な支出を抑えて、

今あるものをフルに活用して、

慎ましく、身の丈にあった暮らしをするようにしたが無難でしょう。

 


ところで、この説明会、若い人に参加出来るような

時間と場所を考えて欲しいと思いました。

若い彼らの時代のことです。

若い彼らなら、ジ・オリジナル・カジノ ・ヨコハマ を

作れるかもしれない…

そんな希望を持ちました。

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NO. 161 しぇあひるずクリスマスコンサート


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アドヴェントに入った12月6日金曜日の夜、
しぇあひるずヨコハマの小さなサロンでクリスマスコンサートを開催しました。
小堀英郎さんのピアノと奥様でソプラノ歌手の平田葉子さんを
お迎えしての、アットホームなコンサートでした。

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いつも暮らしているお部屋を片付け、お掃除し、椅子を並べ始め、

懇親会に出すお料理の手配や、お迎えまで、

一人でコツコツやっていく準備をしていくことも、とても楽しい事です。
「待つ楽しさ、準備する楽しみ」を十分に味わって、
18時半に開場、19時に開演しました。

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小堀さんとは8年くらい前に出会いました。
キラキラ輝く光、さらさら流れる水、スーと頬を撫でていく風を感じる

ピアノの演奏に心惹かれて、ファンになりました。


「シェアハウスを作って、そこにピアノを置きます。
小さなサロンコンサートをしたいです。小堀さんいらしていただけますか?」


出会いから数年経って、私は恐る恐る小堀さんにお伺いしました。
たった20人しか入らないコンサート、あまりに失礼な申し出かしら…と思いましたが、

小堀さんはすぐに快諾してくださいました。


そしてさらに2年が過ぎ、去年いよいよ実現しました。
夢のような素敵なコンサートでした。
そして「来年もコンサートをしましょう」と約束をし、
今年は奥様の葉子さんも一緒にいらしてくださいました。

 

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小堀さんは貴公子のような素敵な方で、みんな一目惚れしてしまうイケメンです。
パリ・エコールノルマル音楽院でピアノを学び、国内外でのコンクールでキャリアを積まれ、

韓国、アメリカ、ヨーロッパを定期的に巡り、演奏活動を展開され、

さらにハンガーゼロ(日本国際飢餓対策機構)の親善大使を務めるなど、

国際的に活躍されています。

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小堀さんのお人柄はそのまま演奏に反映されていますが、

その原点は『信仰』です。
そして、その『信仰の原点』は『神様から愛されている』ことを知ったことです。


小堀さんはコンサートで演奏合間のMCで『証し』をされます。
『証し』とは信仰に導かれた経験と主イエスの十字架と復活について語ることです。

生い立ちや経験話と似ているようで、全く違うものです。


少しご紹介します。
小学校6年生の夏、ご両親が離婚され、

寂しい思いを打ち明ける人も場所もない生活となりました。
高校2年生の夏、お父様がクリスチャンの女性と再婚し、

初めてキリスト教会に行く機会を得ました。
礼拝に参加した教会で温かく迎えられ、居場所ができ、

聖書を深く学ぶようになり、

そのクリスマス、イエス・キリストを救い主と信じました。
音大でピアノを専攻していた3年生の時に、

オートバイによる交通事故に遭い、

左手首を砕く大怪我を負ってしまいます。
医師から「ピアノは諦めた方が良いのでは」という宣告を受けました。
ギブスで左手を固定され、絶望感に苛まれている時、聖書を開き、
ヨハネ福音書を読みました。

 

 

 

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。
神を信じ、またわたしを信じなさい。
…わたしはあなたがたに平安を残します。
わたしの平安を与えます」(ヨハネによる福音書14章 1〜27節)

 

エスの力強い言葉に希望を持ちました。
それから、不思議なことに、医学的にも理解できない出来事が起こりました。
接合不能とされていた骨が完全に繋がったのです。
小堀さんは自身に起こった奇跡と癒しを体験し、心に誓いました。
「この手はもはや自分のものではない!神の恵みを奏でる手として生涯捧げます!」と。

 

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この体験は終わりではなく、始まりです。
人生いろいろあり、絶望の中で、倒れ込んでしまうこともあります。

でも、復活のイエスがいてくれる…これは私も確信しています。


16歳の11月26日に母を失くした私はもはや笑顔でクリスマスは迎えられないと思いました。
そのクリスマス、スウェーデン宣教師宅のクリスマスディナーに招かれた時、

夫人は私を抱きしめて言いました。
「お母さんをなくして、悲しいですね。辛いですね。
真っ暗ですね。でもね、イエス様はね、あなたのために生まれたのよ」

私のためにイエス様はお生まれくださった!

これまでのクリスマスと全く違った喜びに溢れました。


クリスマスは美味しいお料理やケーキを食べて、

プレゼントを交換したり、

楽しいひと時を過ごす時…?

確かにそうですね。

 

だれもいない、一人ぽっちのクリスマス、最低……
そんな寂しいあなたと共に生きてくれるためにイエス様はこの世に生まれてくださった…

この大きな喜びは
何にも勝る大きなプレゼントです。


この本当のクリスマスの喜びを知っている小堀さんの奏でるピアノと、
クリスチャン家庭で生まれ育った奥様の葉子さんの賛美は
来てくださったひとの心にあかりを灯してくれました。

 

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感謝のクリスマスコンサートでした。

NO.160 『ツナグ』想い人の心得 母の命日に

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2012年に映画化され、大ヒットした辻村深月さんの

小説『ツナグ 想い人の心得』を読みました。

生きている人がもう一度会いたい死者を呼び出し再会させる

仲介人“ツナグ”の祖母から引き継いだ高校生、歩美を主人公として、

様々な人間ドラマを描いた感動作で、

映画では歩美を松坂桃李さん、祖母で先代の“ツナグ”を樹木希林さんが演じ、

小説の味をよく表現した良い映画です。

 

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今回、待望の続編が刊行されました。

前作から7年の時が流れ、祖母は他界し、

高校生だった歩美も社会人となり、成長した姿を見せてくれます。

 


誰でも大切な家族や友の亡くなってしまった人への

後悔や誰にも言えない想いを持っていると思います。

その思いが募り、特別な縁を持って満月の夜、

一夜だけこの世に再び戻してくれる人がいたら、どうでしょうか…

 


「想い人心得」には以下の短編小説が収められています。

  プロポーズの心得

  歴史研究の心得

  母の心得

  一人娘の心得

  想い人の心得

 

 

ネタバレになるので、ここでは内容には触れませんが、

辻村深月さんが成長して、一作目より深い、温かな視点で人生を描いていることが、

心に深く留まり、何度も、泣いてしまいました。

 


今日11月26日は母の47回目の命日です。

その日、16歳だった私も還暦を超えてしまいました。

心の奥底は母が亡くなった瞬間に凍ってしまった感情があり、

毎年、この時期は苦しくなっていました。

 


母は高血圧でいつ倒れるか不安でしたので、

母の望む真面目な良い子にならなければと常に思っていました。

私は16歳、母の思いより自分の意思を持っていこうと決心した途端、

44歳でくも膜下出血で亡くなりました。

私が母の「良い子」をやめようしたから、母は亡くなってしまった。

私が良い子を続けていたら母は死ななかったかもしれない。

私は自分を責めました。

 


お気に入りのノートには節目節目の日記が綴られています。

涙の跡が残るその時の日記を読み返してみると、

母の最後を思い出します。

感情的な思春期にありながら、必死に冷静でいなければと思って

一所懸命書いたもので、今でも、息が詰まります。

この先、どうやって生きていけば良いのかとわからなくなりました。

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あの夜、
目尻に涙を浮かべて、伝えようとする母の手をさすり、私は

「明日になれば、病院行けば大丈夫」と言い続けていました。

なんですぐに救急車を呼ばなかったのか、悔いは残りました。

 

翌日、救急車で横浜市立大学病院に搬送され、

緊急治療室で息を引き取りました。

 

小学校6年生の弟はブラスバンドの本番に出ていて

死に目に立ち会えず、

帰宅して、冷たくなった母を一目見て、

自室に篭ったまま、出てきませんでした。

この先、どうやって私たちは生きていけばよいの?

弟と一緒に泣くことも出来ず、

茫然としていました。

 


「ママは何を言いたかったの?」

 


亡くなった後も、何度も思いました。

 


「ママは何を言いたかったの?」

 


『ツナグ』を読む途中、私は心に問いました。

もし、縁あって、仲介人を見つけられたら、私はママに会って、

あの時何を言いたかったの?と聞いてみたいかしら…と。

 


答えは 否…

 


母もプロテスタント信者でしたので、位牌はなく、

納骨するまでは遺影の前に聖書と花を置いていました。

2週間ほど経た時、花を取り替えようとしたときに、

聖書の脇に封筒を見つけました。

 


その封筒には母の字で私と弟の名前に続いて、こう書いてありました。

「これは私の信仰告白です。

 正しい、心の清い人になってください。

 天国からいつも見守っています」

 


いつ、誰が置いたのか、わかりません。

母は死を覚悟した時、信仰告白を遺言としたのでしょう。

 


遺言通り、母はいつも見守っていてくれました。

困難な時、いつも不思議に守護天使のように助っ人が現れて、

私を支えてくれました。

 


『ツナグ』を読み終えた時、実に爽やかな気がしました。

人は人へと命がつながっていくのです。

それは血によって繋がれていくだけではないのです。

思いは繋がれていくのです。

 


「大丈夫よ。私は安心して見てるわよ。

まだまだ、そっちにいなさいよ。

私の分まで楽しんでよ。

孫たちといっぱい遊びなさいよ。」

 


懐かしい母の声が聞こえてきます。

 


ママ、うん、わかったと!と私。

 


その時

 


「おばあちゃん!」という2歳の孫の呼ぶ声。

 

 


そう、ママの思いは私へ、孫へ、そしてひ孫へ…

繋がっていく…

 


47年経って、凍りついていた感情が穏やかに溶けていくのを感じました。

 

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NO.159 《ブラザーサン シスタームーン 》

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カトリック教会第266代ローマ教皇フランシスコがい本日、いよいよ来日されます。

アルゼンチン出身の82歳のフランシスコ教皇様が広島・長崎を訪問され、

何を語られるか、興味が尽きません。

まさにこの時、ツタヤディスカスから 

『ブラザーサン シスタームーン』のDVDが届きました。


アッシジのフランチェスコの若き日を描いた

1972年製作のイタリア・イギリスの合作映画で、

私は多感な高校2年生で映画館で観ました。

 

この映画が描く修道士がアッシジのフランチェスコだとも知らずに、

ドノヴァンの音楽に酔いしれ、フランチェスコを演じるグレアム・フォークナーに恋をし、

クレア役のジュディ・バウカーのようなロングヘアに憧れていました。

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監督は『ロミオとジュリエット』のフランコ・ゼフィレッリです。

綺麗な映像の青春映画ともいえます。

 


今回、改めて良く映画を観て、思う事がたくさんありました。


あらすじです。

イタリア アッシジに住む商人ピエトロとピカの一人息子フランチェスコ

陽気で悪戯っ子で、仲良しの4人組で青春を謳歌していました。

18歳の時、ペルシアとの戦争が起こり、彼らは意気揚々と戦場に向かいますが、

凄惨な戦いぬ敗れ、フランチェスコは熱病に冒されながも、

なんとか家に戻ってきました。

数週間、生死をさまよった末、ある朝、窓辺の小鳥の声に目を覚ましたフランチェスコに、

大きな変化が起きていました。

自然の美しさ、素晴らしさに目を向け、

次第に周囲の貧困に中で働く者達、老いた人、障害を持つ人、病に苦しむ人たちの多さに

裕福な家庭に育ち、何も知らず、考えずに生きてきたフランチェスコは衝撃を受けます。

父の店にある高価な布を窓から投げ、施し、

挙句に自分が着ている服を脱ぎ、両親に返し、

「もうあなたの息子ではありません。大切なものは富ではなく、心です。

これからはキリストのように生きます」と宣言し、裸で城門を出ていきます。

 

f:id:tw101:20191123090730j:image フランチェスコの両親 

 

 

そして、荒野にある廃墟になったサン・ダミアン教会に住み、

社会の弱者と共に教会再建を目指します。

十字軍に参加して戻ってきた英雄となった親友も、

昔の友人もフランチェスコの勇気ある姿に心を打たれ、協力を申し出、

フランチェスコを慕う貴族の娘クレアも髪を切って仲間に加わります。

 

f:id:tw101:20191123090918j:image 美しいシスタークレア

 

ところが、彼らのする事に反感を持っている司教の陰謀により、

サン・ダミアン教会は焼きうちにあい、仲間の一人が殺されるに及び、

フランチェスコは自分のしていることの是非を問いにローマ法廷に請願に行くのです。

ローマ教皇インノケンティウス3世に謁見を許されます。

 

 

ボロを纏う集団に司教たちは目をひそめます。

エスのように清貧に生きる彼の姿にいたく心を打たれた教皇は跪き、

フランチェスコの足に口づけします。

 

f:id:tw101:20191123090904j:image 名優アレックス・ギネスの教皇

フランチェスコは故郷に戻り、鳥が歌い、

小川がささやくアッシジで貧しくとも心豊かな修道の生活をして、

聖人と呼ばれるようになっていきました。

 

フランチェスコは小さき兄弟団を作り、隠遁するのではなく、

例えばハンセン病患者の世話をするなどの社会へに働きかけを進めていきました。

彼の思想を良く表したものに、死の床で歌ったとされる「被造物の賛歌」があります。

そこでは太陽・月・風・水・火・空気・大地を「兄弟姉妹」として主への讃美に参加させ、

死までも「姉妹なる死」と迎えました。


フランチェスコ自身の中で清貧と自由と神の摂理は固く結びつき、

三者が調和してこそ、簡素で自然で純朴な、

明るい生活を営むことができると考えていたのです。

日本人の私たちには、良くわかる思想ですが、

西洋人としては珍しく自然と一体化した聖人です。

人類すべてのみならず、天地の森羅万象ことごとく、兄弟姉妹なのです。


この映画の 『ブラザーサン・シスタームーン』のタイトルが示すのは、

まさにこの思想です。

 

最近、前にもまして、空を見上げるようになってきました。

朝焼けの美しさ、青い空に流れる白い雲、

星々の煌めき、をゆっくり観ていると心が和みます。

 

すべてみな、神の創造物なのだなあと思うことが多くなりました。

 


今日、来日されるフランシスコ教皇(日本ではイタリア語のフランチェスコでなく、

フランス語フランシスコでお呼びしています)はご自分で『フランシスコ』をお選びになりました。

意味深いと思います。


さて、有名な《フランシスコの平和の祈り》は

実はフランチェスコ本人に作ではなく、

1912年にフランス語で書かれたものだそうですが、

博愛と寛容の精神を逆説で説く内容はフランチェスコの精神をよく表現されていて、

映画の中でも引用されています。

 

 

        …フランシスコの平和の祈り…
 主よ、わたしを平和の器とならせてください。

  憎しみがあるところに愛を、

  争いがあるところに赦しを、

  分裂があるところに一致を、

  疑いのあるところに信仰を、

  誤りがあるところに真理を、

  絶望があるところに希望を、

  闇あるところに光を、

  悲しみあるところに喜びを。


 ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。

  理解されるよりも理解する者に、

  愛されるよりも愛する者に。

  それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、

  許すことによって赦され、

  自分のからだをささげて死ぬことによって

  とこしえの命を得ることができるからです。…


美しいイタリアの景色を見るだけでも、楽しめる映画です。

オススメです。

 

NO.158 「作家が自作を語る」〜作家の本音 

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日本ペンクラブ女性作家委員会主催の文学イベント
第6回「作家が自作を語る」が
神田神保町東京堂ホールで開催されました。
今回は篠田節子さんと諸田玲子さんがゲストで、
司会進行は女性作家委員会長の松本侑子さんです。

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篠田節子さんは東京生まれの64歳。
東京学芸大学卒で八王子市役所に勤める傍ら、小説家を目指して、
1990年『絹の変容』で第3回小説すばる新人賞を受賞したのを皮切りに、

次々と文学賞を獲得し、ホラー、SFから宗教、

社会派まで幅広い分野の主題に取り組まれていらっしゃる実力派小説家です。
今回は最新刊『肖像彫刻家』を取り上げられました。

f:id:tw101:20191118120650j:image 集英社ウェブより

 

 

 

 


『肖像彫刻家』というタイトルでは絶対に売れない!
中身がわかるようなタイトルに変えるようにと出版間近まで揉めたという

エピソードからお話しは始まりました。
このやりとりは作家対文芸担当でなく、販売サイドからの強い要望だったそうです。
なぜかというと、「『肖像彫刻家』では字が読めない!漢字だけでは固すぎ、

内容が伝わらないと売れない!」というわけでした。
しかしながら、作家として妥協をしたくないという固い信念で、

本題で決定し、出版されましたが、案の定、さっぱり売れないそうです。
さて、内容は…

ローマで本格的に肖像彫刻を学んだが、

今は売れないしがないアーティストの主人公が、

ヒョンなことから頼まれて作った肖像に魂が宿り、動きだし、人間愛憎を繰り広げ、
そのことで大評判になっていく、奇想天外な物語だというのです。

なぜこの小説を書いたのかといえば、

学芸大の生徒だった時にたまたま彫刻の学生から頼まれてモデルをしていた時期があり、

そのときの写真を雑誌に掲載したところ、

今はローマで法王の肖像も手がける立派な肖像彫刻家になっている奥村さんから連絡が入り、

彼が三越個展をした際に対談しました。
ローマンワックス型の肖像はまるで生きているようで、

生命が宿りそう…と思い、小説の題材にしました。
主人公は華々しい経歴を持った成功者ではつまらないので、

中途半端な実力とそこそこの才能を持つバツイチの中年男になりました。
芸術を描くファンタジーの舞台はどこにする?
ところが、認知症のお母様の介護をしている篠田さん、どこにも取材行くこともできません。
そこで、舞台は自分の住む八王子近く、山梨の農村となりました。


親戚、地元の町会などの付き合いを濃密にするようになり、

目眩がするほど保守的で、昭和の人間関係が色濃く残る農村に

ドップリ浸かって生活した時期に創作エネルギーは奪われてましたが、
全く違う要素が加わり、ファンタジーをマッチングさせた小説が出来上がったのです。


マイナスをプラスにしてしまう、しなやかな感性と強靭な精神はさすがです。
まだ1000部しか売れていないということで、ぜひ読んでくださいと篠田さん。

はい、ぜひ読ませていただきます。

 

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諸田玲子さんは『今ひとたびの、和泉式部』を語ってくださいました。

諸田さんは静岡生まれ、かの清水の次郎長の養女がお婆様のお婆様だったそうで、

歴史に対する視点が違うのは、そういう環境もあるのかと思いました。
上智大学卒。2003年『其の一日』で第21回吉川英治文学新人賞受賞。

今ひとたびの、和泉式部』で第10回親鸞賞を受賞され、

平安朝から昭和までを舞台とした歴史小説の著者多数です。

f:id:tw101:20191118120724j:imageHPより


お父上が古典の先生で幼い頃から、歴史小説をみて育った諸田さんは、

沢田研二さん演じる光源氏のテレビ番組のノベライズをお父様の代わりに書いたのが始まりで、

橋田寿賀子さんや向田邦子さんのドラマのノベライズをされていました。


杉本苑子さんの「源氏物語」を読み、共感し、

自分も現代の感覚で平安朝を描きたいと思うようになりました。
当時は身分制度が明確なピラミッド社会、今と同じく忖度もあり、

金持ちは馬を使って地位を買う不埒な輩も多く、
人々はバタバタとは死んでいき、不安な将来を案じ、

占いや似非宗教にすがる暗い時代でした。
人の世はちっとも変わっていないようです。


和泉式部はそんな時代に生きました。

橘道貞の妻となり、和泉国に入り、和泉式部と名乗るようになりました。

この結婚は破綻し、間もなく冷泉天皇の第三皇子為尊親王と熱愛し、

親から勘当されますが、愛しい親王は亡くなってしまいます。
親王の死後、今度は同母弟の敦道親王が式部を愛してしまい、

彼女を邸に迎えようとし、正妃は家出してしまいます。
親王の召人として一子・永覚を生みますが、敦道親王も早世してしまい、

一条天皇中宮藤原彰子に女房として出仕します。
その後、藤原保昌と再婚し、丹後に降ります。

ところが、最初の夫との間にもうけた娘古式部内儀も死去する悲劇に見舞われます。
晩年の動静は不明とされています。


同じ中宮に仕えた同僚の紫式部から

「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と批評された和泉式部

不埒な女とも呼ばれた和泉式部
この既成概念を潰したいと諸田さんは考えます。
誰かが誰かから聞いたことを一行書いたものが、

まことしやかに流布され、あたかも真実のように評価されてしまう!
そんなことないんじゃないの?
和泉式部は誰を一番愛していたのか…
女は愛にしか動かない!
男にだらしないと言われた和泉式部は、

ただ恋を歌っていたのではなく、愛する者が皆死んでしまう中で、

生と死を描きつづけたのではないかと諸田さんは思いを深めます。
いつ自分を焼く煙を見るのだろうか…


諸田さんは、離婚を経験し、父を亡くし、母を看取り、

自分にはもう何もないと思った時に、和泉式部を書けると思ったそうです。


和泉式部の死後、式部を偲ぶ女性の視点を通して
式部の謎の部分を解き明かす流れ、
式部が生身の人間として生きる生活を描く流れ、
この二つの流れが時折交差しながら物語は進みます。
そして後半はミステリー仕立て…


読まねば!と思います。
ものの哀れがわかる年頃になってきた私、
俄然、和泉式部に興味を持ちました。


くらきより くらき道にぞ入りぬべき
 はるかに照らせ 山の端の月(和泉式部)

 

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最後に松本侑子さん「赤毛のアン」翻訳物語をお話しくださいました。

村岡花子訳で何ども繰り返して読んだというお二人も

初めて聞く事実に興味深々の様子です。

赤毛のアン」については以前も書きましたので、

今回は触れませんが、興味深いお話しでした。

小説家ってすごいなあとつくづく感心した時間でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

NO.157 久布白落実の生涯(2) 落実の青春

f:id:tw101:20191114100923j:image1920 年頃の女子学院

共愛女子校でミス・バーリーに「英語は好きですか」と聞かれ即座に

「嫌いです。義務だから習います。」と答え、

後のガントレット恒子女史に「笑わない可愛くない女学生」と呼ばれた落実は、

明治29年開けて早々、母に女子学院に連れてこられました。

数え15歳、12月生まれなので満13歳の時でした。

応接間で待っている落実の前に現れたのは被布を着て眼鏡をかけ、

靴をはいた婦人でした。母の大叔母、矢嶋揖子との最初の出会いです。

矢島女史は落実を眼鏡越しにじっくり見て、

「この人はあまり気量がよくないからつづくでしょう」と独り言のように言いました。

矢嶋揖子も笑わない、無愛想なおばあさんだったようで、

もしかすると、この時、落実を気に入ったかもしれません。

落実は式用、教会用、普段着の3枚の着物しか持たされず、

柳ごうりにシーツをかぶせて机にしました。

当時、良家のお嬢様が多い女子学院の中で、

脇目もふらず勉強し、信仰に目覚め、自ら信仰告白をして、

教会に通うようになり、聖書を本気で読み、

生涯献身の生活を送りたいという願いを持つようになりました。

女子学院で英語を日本語と同じ時間をかけて仕上げ、

なんとか女性でも独り立ちして生きる事ができるようにと、

校長矢嶋揖子は様々な批判にびくともせず、学び舎を守りました。

そして、自治教育を徹底しました。

「あなた方は聖書を持っていられる。何も規則で縛る必要はありますまい」

そして何も不都合は起こらず、生徒を信用する堅い教育方針の中で落実も学び、

生涯、矢嶋揖子を人生の目標としました。

休みの日は東京に暮らす叔父の家へ遊びに行ったり、充実した学校生活を送りました。

f:id:tw101:20191114100008j:image矢嶋揖子女史


教会は自らの足で立たないといけないと考えていた真次郎に再び試練が訪れます。

可愛い盛りの長男真太郎が腸カタルで呆気なく逝ってしまったのです。

その悲しみを越えて、音羽と二人、独立教会樹立のために心血を注ぎました。

誰に相談するでもなく、日本人移民の精神的な指導をするため、

ハワイに渡ることを決め、簡単ではない海外伝道の道を切り拓いていきました。


1903年(明治36年)日露戦争前に落実は女子学院高等全科を卒業しました。

矢嶋揖子からは女子学院に残り、矯風会の仕事を手伝ってほしいと勧められますが、

落実は両親のいるホノルルに行く決意をしました。

 

f:id:tw101:20191114101307j:image明治32年頃 ホノルルについた日本人移民


明治元年からポツポツ渡航が始まり、

この頃には日本人はすでに10数万に上っていました。

多くはサトウキビ畑で働いていました。

真次郎はホノルルの日本人教会に迎えられ協力牧師となっていました。

当時は人々教会に対し、

「英語を教えてもらい、ただでお茶を飲ませてもらい、

就職口を世話してもらうところ」とう認識しか持ってなかったようで、

真次郎は「この教会は乞食製造所だ。

キリストの教会は犠牲献身の実践場であるはずだ」という考えを持ち、

1年もたたないうちに辞表を出して、全会員の意見を問いました。

教会は沸き立ち、独立教会を支持することになり、

はじめて、キリスト者としての誇りに目覚めた信徒たちによって、

教会は変わっていきました。

ハワイでの1年の間、落実はハワイの幼稚園に勤め、

日本語の家庭教師をするなど、アルバイトもして、過ごしましたが、

体を張って神に頼り、宣教にあたった両親の姿から、

キリスト教の真剣さを肌で学ぶという経験をしました。


ようやくここからという時に、

今度はオークランドに教会を作る招きに応じたと発表した真次郎に誰もが驚きました。

牧師は私たちを見捨てるのかという信者の声もありましたが、

連日、懇談をして、最後は一同納得し、本土行きを承諾しました。


21歳の落実はバークレー進学校に入学し、夜は父の英語夜学校で教え、

英語が得意でない父母の通訳や買い物と忙しい日を送ります。

このオークランド時代に、落実はその後の人生を決定するような出来事に出会いました。


1906年4月、サンフランシスコ大地震が起き、

対岸オークランドへも避難民が押し寄せてきました。

さすがアメリカ、救済の手はすぐに届きはじめ、

それぞれ落ち着いてきたころのことです。

ある朝、オークランドの著名なブラウン牧師が落実に通訳をして欲しいと頼みました。

その頃、オークランドにはサンフランシスコから流れてきた博打小屋や売春宿ができていました。

落実はブラウン牧師と警察署長のピーターソンと3人で視察に出かけて行きました。

日本人町の粗末なバラック建の家には、たくさんの日本人女性がいました。

ブラウン牧師はなんとか彼女たちを劣悪な環境から救いたいと、本人の意思を確かめにきたのです。

自由意思でなければ、米国の法律で保護して解放することができたのです。

ブラウン牧師は聞きました。

「米国では一切の奴隷を禁止している。

あなたが自由意思で働いているなら仕方ないが、もし、この家にいたくないなら、

私が面倒みてあげるが、どうか?」

「私は自分が好きでしています。ご心配はいりません」

どの娘も同じ答えをして、救いの手を拒んでしまいました。

業者の手がまわっていて、脅かされた娘たちはそう答える他はなかったと思いますが、

現場で通訳していた落実は日本の女性として恥ずかしい思いをしました。

落実の気持ちもわからない訳ではありません。

同じくらいの年の娘が白人相手に好きで売春をしている事実に大きな衝撃を受けます。

「身を切るような苦しさ」が落実に一つの使命感を生み、

このことが60年あまりの売春婦解放運動の原動力となりました。


そして、この年、もう一つ大きな出来事がありました。

74歳になる矢嶋揖子女史が単身渡米してきました。

オークランドの大久保家に二カ月滞在し、全米旅行に出ました。

目的はボストンで開かれる第7回矯風会世界大会に出席することと、

ルーズベルト大統領に会って、日露戦争講和のため感謝を伝えることでした。


23歳の落実は矢島女史の通訳者として、

ボストン目抜き通りの大ホールで繰り広げられる世界大会に参加しました。

矢島女史はトレードマーケットの長い被布に頭巾姿で壇中央に、

落実は一張羅の茶のスーツで側にたちました。並んで挨拶をした後、

女史は「長い間、皆さまのお世話になってありがとう」と言ってお辞儀をし、

「話はこの娘が申し上げます」と言ってすわってしまったのです。

仕方なく、落実は声を張り上げ過去20年に渡る礼を述べ、

先生の要請として、二人の人を送ってほしい、

一人は若い人、一人は年配の人、どうぞお頼みします!と言って席につきました。


大会後にオークランドに戻り、女史は矯風会を立ち上げる段取りをして帰国していき、

落実はあとを引き受けて、母音羽と協力して、矯風会を設立、婦人の指導にあたりました。

この時代に早くも性教育の必要に目覚め、

日本の公娼制度廃止のために戦わなければならないと心の奥深く、

情熱の火が灯されました。

この火は生涯、消えることはありませんでした。

 

「落実の結婚と生涯の仕事」に続きます。


〜落実を支え続けた聖書の箇所〜

   フィリピの信徒への手紙 4章4節〜7節

 

 《主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。

 あなたがたの広い心がすべての人に知られるようにしなさい。

 主はすぐ近くにおられます。

 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。

 何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、

 求めているものを神に打ち明けなさい。

 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、

 あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。》

NO.156 久布白落実の生涯 (1) 幼い落実

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「クボシロオチミって知ってる?」

叔父がそう尋ねてた時、私は漢字すら思いつかず、「知りません」と答えました。

「ちょっと調べてごらん、ひさしい、ぬの、しろって書いて久布白、

おちるみで落実」

すぐに調べてみると「久布白落実」さんのWikipediaが出てきました。

矯風会会頭、売春禁止法制定の立役者となった方とわかりました。


「僕はね、久布白さんの鞄持ちをして旅したことがあるんだよ」

33歳でアメリカに渡り、数年に一度帰国するだけの、

今年78歳の叔父は

日本ではプロテスタント牧師をしていました。

20代でいわき市の教会の副牧師をしていた時、

その教会の女性牧師と共に矯風会の大会に鞄持ちとして旅をしていたようです。


「朝ね、先生のお部屋に鞄を受け取りに行った時、

ドアが少し開いているから、ノックしてみると、

小さな背中が見えたんで、声をかけると、

振り向いて

『わたしね、毎朝、日本語の他に4ヵ国語で聖書を読むのが

日課なのよ』

っておっしゃった。テーブルの上には7冊の聖書が置いてあったさ。

落実さんって実が落ちて結ぶようにっていう名前なのさ」


帰り際の短い時間になぜこの話題になったのか、

よく覚えていませんが、台風19号上陸の10月12日アメリカに帰国予定だったはずが

14日に延期されて、「嵐を呼ぶ男」が去ったあと、

久布白落実さんのことが頭から離れず、女子学院卒業生のお友達に訊ね、

著作「廃娼ひとすじ」をAmazonに頼みました。

その本が手元に届いた日 10月23日は先生の47回目の命日でした。


前置きが長くなってしまいましたが、

どうして久布白落実さんを知り得たのかは

どうして書いておかないといけないと思いました。


【生い立ち】


落実さんは明治15年(1882年)熊本県生まれで、

父大久保真次郎、母音羽の長女として生まれました。


父の真次郎は熊本バンドの一員として医学を学び、東京帝大の前身、

東京医学専門学校へ送られた4人の一人でしたが、

この中で業を上げたのは、北里柴三郎一人でした。

f:id:tw101:20191112174759j:image徳富蘇峰

 

f:id:tw101:20191112174814j:image徳富蘆花

 


母 音羽は殖産興業の要とする養蚕、製紙の道に進む、時代の先端を生きる女性でした。

徳富蘇峰徳富蘆花音羽の弟で、蘇峰は姉を真次郎に紹介して、二人は結婚に至ります。

音羽の写真はありませんが、イケメンの蘇峰、蘆花の姉なので、

美人だったのではと推測できます。


真次郎は経済的に行き詰まり、医者になることを諦め、

同志社新島襄を頼りながら、あっちへふらふら、こっちへふらふらと、

放浪生活を続け、なかなか足が地につかないのですが、

しっかり者の音羽は真次郎の家の盛り立てに全力を尽くし、

家事はもとより、養蚕、機織り、糸より、畑仕事にいたるまで

まっしぐらに働き出し、雨が降れば裁縫、

子どもたちの勉強の下見までこなすスーパーお嫁さんとなりました。

 

そして二人は女の子を授かり、「落実」と名付けます。

私が名前の由来を「落ちて実が結ぶ…」と聞いていたのは間違いでした。

自分が落ち目のときに生まれたので、娘に「落実」と名付けられたのです。

のちに新島先生に「子どもにそんなことをしてはいけない」と

怒られたのを落実さん本人が覚えています。


生来働き者の音羽も子育ては手こずったようで、

川に捨ててしまおうかと思ったというのです。

家を出て丸三年になる夫の真次郎をなんとか引き戻さねばと決意し

落実共々洗礼を受け、説得しようと真次郎の住む尾道へと両親も連れて出立したのです。

さすが徳富家の娘、やると決めたらまっしぐらです。


尾道での生活は老いた両親には過酷で、加えてコレラが流行りだしたこともあり、

老いた二人は故郷に帰ります。

ここで初めて、真剣な夫婦生活、親子生活が始まり、

お互いが向き合い、根本的な生活の立て直しが必要となりました。

しかし、酒に溺れ、海運業の仕事もままならない夫に

さすがの音羽も望みも尽き果て、娘を連れて海辺を彷徨い、

身投げしようとしたときに、「祈り」を思い出し、

一心に祈ることで自殺を思い留まりました。

妻と娘が「お父さんがお酒をやめますように」と

暗がりで祈る姿を見た真次郎は思うところがあったのでしょうか。

年の改まった1886年正月、三日酒びたりに過ごしたあと、4日目に

「もうおれは酒は飲まぬ。お前の聖書を貸せ。昼飯は要らぬ」と言って、

三階に上がったきり、三日三晩聖書を読み続け、

そして「おれが悪かった。断然あらためる」と音羽に謝り、

キッパリと酒もタバコもやめてしまい、すぐに京都の新島襄に手紙を書きました。

「お父さんはあれっきり酒もタバコも手になさらん。

あんなに立派にやめた人も見たことがない」と後になって母は娘に言ったそうです。

新島襄は放蕩息子を受けいるかのように真次郎を迎え、

すぐに伝道を始められるようにと、金品を送ってくれました。

 

音羽と3歳の落実の祈りが聞き届けられ、父真次郎が酒から立ち直ったという体験が、

のちに禁酒を目指す矯風会の会頭となっていく基になったのかもしれません。

真次郎は起死回生の年に生まれた娘を「起実」と名付けました。

一家は希望もって尾道での伝道を始めました。

6歳の頃の落実を叔父の徳富蘆花

「おかっぱ頭で赤ん坊(妹)をおぶり、父によくにた腕白に光る小さな眼をしていた」

と作品の中で描いています。


同志社を卒業した父の最初の赴任先は埼玉秩父大宮でした。

この地で落実は母から人生の基礎の大切なことを学びました。

1、告げ口をしない

2、しかけたことは必ず続ける

3、自分で自分を奮起させる

ということでした。

伝道者として大きな試練に出会っている両親の苦しみ、悲しみをつぶさに見て、

落実は試練に強い信仰を学び収めていきます。

母の病気、5歳になった起実の死、新島襄の死と不幸が襲います。

しかし、一連の試練が終わりを告げたころ、待望男の子真太郎が与えられ、

1893年に藤岡教会に招聘されますが、なかなか思うようにならず、

2年余りで、高崎教会に転任しました。

落実は前橋にある共愛女子校に入りましたが、

西洋人宣教師ミス・バーミリーともおりが合わず、

「この娘はここでは少しはみ出すようだ。も少し大きいところへやった方がよい」と忠告され、

母方の祖母徳富久子の妹である矢嶋揖子が校長をつとめる東京の女子学院へ行くことになったのです。

ここで落実は人生の大きな岐路を越えていきました。

お話は次回へ続きます。